塩と光 ウイリアム・モーア

◆地の塩、世の光(マタイによる福音書5章)

13:「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その 塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、 外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

14:あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

15:また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

16:そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、 あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

チャーリーとペパーミント

ある日、ピーナッツと言う漫画の主人公チャーリー・ブラウンは自分の友人ペパーミント・パテイーにこのように言われました。「チャーリー、今日は新学年の始めの日なのに、あなたの為に私は校長先生の世話になってしまった。」びっくりしたチャーリー・ブラウンは、「私の為?学校が違うからそんなことはないはずよ。どうして全てが私の為といつも言うの」と言い返しました。すると、ペパーミントは返事しました。「チャーリー、私たちは昔からの友人でしょう。友人だったら、あなたは私にもっと良い影響を与えるべきだったのよ。」

また、ある牧師が家の庭で犬小屋を建てる最中に近所の坊やがやって来てその作業をじっと見つめていました。長い間何も言わずに坊やはただ牧師の姿と犬小屋を面白そうに見学していました。自分の月曜大工(日本では日曜大工)としての腕前が良いと思った牧師は坊やが興味深いのは賛嘆と受け取り、このように話しかけました。「犬小屋の建て方を教えようか。君も自分の犬の為にきっと建てられるよ。」そうすると、坊やは言いました。「家には犬がいないから、犬小屋を作る必要はないよ。実は、牧師先生が親指をハンマーで打つと、どんな言葉が出て来るかと思って待っているだけなの。」

「あなたがたは地の塩である」

「あなたがたは地の塩である」と主は言われました。主はいったいどうして塩をこのようなシンボールとして用いられましたか。つまり、私たちはどう言うふうにしてこの世で塩のような役割りを果たすのでしょうか。

現在塩は安いし、すぐに手に入る物ですから、その大事さにあんまり気付きません。しかし、イエスの時代、誰でも塩の大事な役割りをよく知っていました。何故かと言えば、塩は高価な物でした。ある古代社会には塩は金よりも値打ちがありました。イエスの国イスラエルはローマ帝国によって支配されていました。そして、ローマ軍は兵士の給料を塩で支払いました。実は、サラリーマンのサラリーと言う単語はラチン語で「塩」の意味があります。現在は技術が進んで、塩の生産は能率的になって、塩はどこでも安く買えますが、昔は宝のように大事に使われていました。

塩の役割りは数え切れないんですが、間違いなく主イエスは少なくとも、塩をシンボールとして用いた時、三つのことを考えたと思います。その三つの役割りは現在でもとても重要です。

塩の役割1:塩は健康を保つ

先ず、塩は健康を保つ力があります。つまり、塩を食べないと、体が段々弱って来て、遂に死んでしまいます。特に、イスラエルのような暑い国に住む人々には、塩は絶対に必要な物でした。何故なら、汗をかく程、体が塩を失います。そして、その塩分をすぐに満たさなければなりません。皆がこの健康と塩の関係が分って、出来るだけ塩を十分取りました。塩は第一に人間の健康を保ちます。
ですから、主は「あなたがたは地の塩である」と私達におっしゃいますと、健康に与える私たちの役割りを考えたと思います。そして、「あなたがたは地の塩である」の「地」は周りの人々、あるいは、社会の事です。つまり、「あなたがたは周りの者の為に塩のような役割りを果たす」と言う意味なのです。しかし、私たちは周りの者にどのようにして健康を与えられるのでしょうか。主イエスはこの世を歩んだ間、憐れんで人々の肉体的病気をよく癒されました。新約聖書にはイエスの癒しの業が沢山記されています。癒しの力を持っておられましたので大勢の人々が町を出てイエスを見に来ました。ですから、主イエスの働きを続ける為にキリスト教会とキリスト者は医療に携わっています。医療を通して苦しんでいる者に神の愛を伝える事はとても大事な働きなのです。

ノーベル平和賞を受けたアルベール・シュヴァイツアーが長い間アフリカで医療と伝道に献身しました。ある日、病気で死に掛かっている男の人がシュヴァイツアー先生の病院に運ばれました。希望があんまりなかったけれども先生が手術して、患者の命が助かりました。後で彼はシュヴァイツアー先生にこのように聞きました。「知りたい事があります。先生はいったいどうして、あなたの国を捨てて、このジャングルに住む私達のところに来て下さいましたか。」シュヴァイツアー先生は飾らずにこのように返事しました。「主イエスが私をここに送りましたから、ここに来ました。」地の塩としてキリスト者とキリスト教会は医療を通して周りの者の健康を守ります。

しかし、健康はもちろん肉体的な事に限られていません。地の塩である私たちは周りの者に霊的な健康の道を示す大事な使命も与えられています。肉体的な癒しは重要ですが、人はキリストの愛を通して神に帰るまで、霊的には病気です。私たちは主イエスの贖い死によって罪の赦しを受け、神と和解しています。神との平和が与えられています。ですから、この世で霊的にも豊に生るし、この世の歩みが終わっても、永遠に主と共にいられます。

地の塩である私たちはこの比べる事が出来ない程の恵みを周りの者に分かち合う特権が与えられました。霊的な健康に至るのはこの道のみですから、キリスト者は自分の毎日の生活と言葉によって神の愛と救いを表す喜びを頂きました。このように塩は人間の健康を保つ役割りがあります。

塩の役割2:塩は腐敗を防ぐ力がある

また塩は保存力もあります。主イエスの時代、もちろん冷蔵庫がまだありませんでした。ですから、食べ物を保存するには塩が必要でした。例えば、その時代、今もそうですが魚を塩漬けにして保存しました。そのまま置くと、すぐ腐敗して食べられません。食べたら食中毒を起こしてしまいます。主イエスの当時の人々は刈り入れ時、色々な食料品を塩漬けにして、食べ物に乏しい冬の準備をしました。そうしないと飢え死にする恐れがありました。このように、食物の腐敗を防ぐ力がありましたので、塩の役割りは大変大事でありました。

神によって地の塩にされた私たちは社会に大事な役割りを果たすべきです。それは社会の中の腐敗と不正を防ぐ事です。つまり、主イエスによって恵みと祝福をもたらす生き方が教えられ、私たちは周りの者にその模範的な振る舞いを示さなければなりません。
覚えていると思いますが、この前、山上の説教の八福を学びました。主イエスの八福は本当の幸せな生き方を教えて下さいます。「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受けつぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである。その人たちは、神を見る。平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。義の為に迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と書いてあります。私たちは何よりも八福の「さいわい」な人々の模範を示すと地の塩の役割りをはたします。。大きな影響を社会に与え、色々な腐敗を防止する事が出来ます。

塩の役割3:塩はおいしく味付ける

最後に、塩の塩気(しおけ)は食べ物の味を引き出します。塩がなければほとんど全ての食べ物は食べ難くなります。塩気がないと肉と野菜は本当につまらない味ですね。塩は不思議に食べ物の持つその味を生かして、美味しくさせます。

神の大きな恵みの故にイエス・キリストを信じる者の生活は美味しくなります。つまり、私たちは希望と喜びと本当に意味のある命が与えられました。神の救いを味わっている私たちは真に幸いです。主は私たちのすぐ側にいらして、我々の味方になりました。勇気と知恵と力を豊に授けて下さいます。また更に、御自分の最も大事な働きをさせて下さいます。ですから、キリスト者の生活は面白くて楽しいはずです。

実は、主イエスが与えて下さった生き方は本当にエキサイテイングであり面白いです。味があります。キリスト者は地の塩として、自分の生活を通して、その事実を自然に周りの者に伝えるはずです。与えられた喜びと希望と生き甲斐を押さえてはいけません。

13節の後半を見ますとこの主の警告の言葉が記されています。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」イエス・キリストは味のある生き方を下さいましたので、周りの者にその喜びと希望が伝わります。

「あなたがたは世の光である」

最後に、14節を見ますと今朝の御言葉に於ける第二のシンボールがあります。「あなたがたは世の光である」と主イエスが私たちに宣言します。言うまでもなく、光はとても大事で私たち人間にはなくてならない物です。私たちの生活に数えきれない程の役割りを果たします。実は、光がなかったら、この世での生命が不可能になります。ですから、豊なシンボールとして光は色々な意味があります。しかし、恐らくここで主イエスはおもに一つの事を考えたと思います。何故かと言えば、ヨハネによる福音書9章5節に、主イエスのこの御言葉が記されています。「私は、世にいる間、世の光である。」実に、私たちだけではなくて、主イエスこそ世の光であります。キリスト者は主イエスの光を受けて、その光を周りの皆に反映します。イエス・キリストは私たちに「あなたがたは世の光である」といわれたのは光に導く力を考えたと思います。イエス・キリストを除けば私たちは光ではありません。却って、暗闇です。しかし、主イエスを救い主として受け入れると主御自身の光を受けて、自然にその主の光を人々に反映します。つまり、私たちは人々をイエスに導く光になります。

光を輝かす

今日の御言葉の14節の後半から主イエスは更にこのようにおっしゃいました。「山の上にある町は、隠れる事が出来ない。また、ともし火をともして、升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる為である。」

人々を導く為に主イエスの光を与えられた私たちは、その光を隠すはずがありません。頂いた光を輝かしなさい。そして、記された通りに「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる為である。」それは、光を受けたのは私たち信者の誉れの為ではありません。全ては神の栄光と隣人の益の為なのです。

「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と主は宣言されました。つまり、私たちはもうすでにそう言う使命と役割りを頂きました。どうか、私たちは地の塩、世の光である事を覚え、周りの者の為にその素晴らしい役割を果たすように神の助けを祈りましょう。

祈り

私たちに地の塩と世の光と言う役割りをさせて下さった天のお父様、心から感謝します。弱くて罪深いあなたのしもべをそのように用いてくださりありがとうございます。どうか、毎日の生活に塩と光のように、周りの者の為に模範と祝福になりますように力つけ、助けて下さい。そして、何よりも私たちの証を通して、人々があなたを崇めますように。

2005年10月02日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

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