心からの義II ウイリアム・モーア

マタイ5章27-48

【律法を完成する者】

先週、主イエス・キリストが教えて下さった「心からの義」を一緒に学びました。今日も引き続き「心からの義II」を学びたいと思います。さて、覚えておられると思いますが、主は山上の説教でこのような意味深い宣言をしました。「私が来たのは律法や預言者を廃止する為だと思ってはならない。廃止する為ではなく、完成する為である。」つまり、主イエスによりますと、神の掟をただ表面的に守るのは不十分であり、神を喜ばせる事が出来ません。なぜなら、神と隣人に対して、愛のない、また心が曲がった人でも表面的に十分律法に従えます。実は、主は私達に心からの義を求めておられます。すなわち、神は掟の本当の目的とスピリットを守ろうとする精神を私達の中に見たいのです。主は私達の表面だけを見るのではなく、私達一人一人の心の奥そこまで見られます。何故なら、私達の態度と動機は神には大事であるからです。

【神の恵みを頂くのに相応しい態度】

しかし、神はどうしてそんなに私達の態度と動機に対して関心を持たれるのでしょうか。表面的でも、人間が御自身の掟を守るだけで十分ではありませんか。私達の思いまでも監督するのはちょっと求め過ぎだと思われる人がいるかも知れません。実は、神は私達一人一人を愛して下さいますので、正しい態度と動機を望んでおられるのです。つまり、主の豊な祝福を受けるように、特に霊的な祝福を受ける為に、相応しい態度と動機が必要であります。神が授けて下さった掟は神御自身の益の為ではありません。却って、それは私達個人と、社会全体の幸福の為に定められました。そして、それを喜んで心から守ると、主の祝福を豊に経験出来ます。その反面、心からではなく、ただ掟の表面的な要求だけに従うと、その祝福は余り分らなくなります。

【私達の幸福のために律法はある】

考えて見ますと、人間同士の関係に似ていると思います。例えば、子供が両親のルールをただ仕方がなく、表面的に、あるいは良くない気持ちで守ると、きっと親子の関係はうまく行くはずがありません。ついには壊れてしまいます。ルールは子供の安全と成長の為に親によって作られたものです。子供がその事に対する理解がなく、また親の愛を認めず、ただ最低限のルールに従っていたら、ルールの恩恵はあんまり受けられなくなります。人間の親と同じように神は私達の積極的な、心からの服従を求めておられます。それは何よりも私達の幸福の道となるからです。

旧約聖書の預言者エレミヤは主イエス・キリストが提供するこの「心からの義」を待ち望んでいました。エレミヤは神の御言葉をこのように語りました。

エレミヤ書31章31--33節「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼等の先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時に結んだものではない。私が彼等の主人であったにもかかわらず、彼等はこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼等の胸の中に授け、彼等の心にそれを記す。私は彼等の神となり、彼等は私の民となる」と神はエレミヤを通してお語りになりました。

「私の律法を彼等の胸の中に授け、彼等の心にそれを記す」と神は約束されました。実は、主イエスが教えられた「心からの義」はその約束を実現されたのです。おっしゃられた通りに、イエス・キリストは律法や預言者を完成する為に父なる神によってこの世に遣されたのです。

【腹を立てるな】

山上の説教に主イエスは具体的に「心からの義」を説明して下さいました。そして、その教えによって律法が完成されました。先週マタイによる福音書5章21節と22節にあるこの主の教えを学びました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と主が宣言されました。

主イエスによりますと、ただ外面的な行動、すなわち殺人を遠慮する事は不十分であります。私達の心にある殺人の種である怒りと憎しみも神の御心ではありません。その事も自分の心から取り除かなければなりません。怒りと憎しみを抱くと第一自分が惨じめになって、心の平安どころか、神の恵みも経験し難くなります。

【姦淫するな】

今日の個所の27節を見ますと、更にこの主イエスの御言葉が記されています。「あなたがたも聞いている通り、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである」と主イエスは宣言されました。姦淫その行動は十戒に禁じられていました。しかし、十戒は姦淫の種、つまり「みだらな思い」は扱いませんでした。主イエスによりますと、私達の心を見る神にとっては、みだらな思いもいけない事です。それは姦淫の原因と動機になりますので、止めた方が良いと強く勧めておられます。その思いがなければ、もちろん行動も伴いません。更に、みだらな思いで人の妻か人の夫を見ると、心が汚れて来て、神との関係を邪魔します。山上の説教の八福を覚えていると思います。その中の一つは、「心の清い人々は、幸いである。その人達は神を見る」のであります。(マタイ5:8) みだらな思いに夢中になると、神を見るどころか、却って心を見られる神を避ける気持ちが生じます。言うまでもなく、神の交わりを避けると主イエスが提供して下さる霊的な豊かな命を経験するのは難しいです。

【誘惑を遠ざける】

29節に主イエスはこの驚くべきお話しをされました。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」とおっしゃいました。ここでイエスは文字通りに目をえぐり出して捨てる事と、手を切り取って捨てる事を勧めていないと思います。主は具体的な表現を用いて躓きから遠ざかる必要性を強調しています。もし何かが私達に罪を犯す誘惑になるのなら、そのものから逃げた方が良いと言う意味なのです。この事は常識に思えますが、弱い私達は余にも忘れがちです。

皆さんはもう既に知っていると思いますが、私は食べ過ぎる傾向があります。特に甘いものと健康にあまり良くない物が好きです。ですから、出来るだけそう言う物を家の中に持ち込まないようにと決心しました。買って家に置いておくと、誘惑に負けて、われ知らずすぐ食べてしまいます。ここで大げさな表現を通して主イエスは、誘惑になる物から遠ざける必要性を力強くて教えられます。

【離縁】

次に主イエスはこのように言われました。31節を見て下さい。「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、私は言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者は誰でも、その女に姦通の罪を犯させる事になる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯す事になる。」

旧約聖書の律法は決して離婚をよしとは認めませんでしたが、ただその存在を認知して、離婚制度を認めました。しかし、主イエスはここで離婚の事よりも、結婚に対する神の意思を述べました。マタイによる福音書19章に主イエスはその神の意思をはっきりと伝えられました。「ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、『何か理由があれば、夫が妻を離縁する事は、律法に適っているでしょうか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだ事がないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない。』」それは結婚に対する神の御心です。ですから、出来るだけ結婚の関係を守らなければなりません。だだ離縁状を渡せば簡単に結婚を終わらせると思う事は私達を思いやられる神の御心ではありません。しかし、罪と弱さの故に、ある場合に離婚は必要となりますが、いくら言っても、それは最後の手段として選ぶべきです。

【偽りの誓いを立てるな】

続いて33節を見て下さい。『「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓った事は、必ず果たせ』と命じられている。しかし、私は言っておく。一切誓いを立ててはならない。(37節に飛ぶ)あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上の事は、悪い者から出るのである」』と主は言われました。

イエスの時代、約束する時、人々は色々な言葉を用いて誓いを立てる習慣がありました。そして、ある人は約束の時、もし誓いを言わなかったら、その約束を守る必要がないと言う態度を取りました。また、誓ってない場合、偽りを言ってもかまわないと思う人もいました。ですから、人間の間で真実を守る為に、主イエスは「一切誓いを立ててはならない」と言われました。つまり、私達はいつも本当の事を言って、また約束を守るのは神の御旨です。真実と忠実があれば、誓いが必要ではないと主は教えられました。

【復讐は神のなさる事】

今度はイエスはこの驚くべき事を言われました。38節を見て下さい。『「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰ががあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。誰がが、一ミリオン行くようにしいるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」』

復讐してはならない。それは私達を思いやられる神の御心です。復讐は神のする事ですから、その事を神に任せるべきです。私達は復讐すると、復讐にまた復讐とエスカレートして、大変な状態になってしまいます。ですから、悪循環を防ぐ為、復讐はしてはならない事です。

【強制する人に】

主イエスの当時、ローマ軍は民間人を無理に働かせる事がよくありました。例えば、報いなしで荷物を強制的に運ばせました。その事に対してイエスは「誰かが、一ミリオン行くようにしいるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」と教えられました。一ミリオンは二キロ弱の距離になります。ですから、命令された二キロではなく、自分から進んで、四キロまで軍人の荷物を運びなさいと主が言われました。何故でしょうか。やはり、自分の中に軍人に対して恨みをいだくよりも、二倍の奉仕をする事によって強制する人に自分の自由を見せられると言う事です。恨みをいだく事は自滅的な行為ですけれども、自分の自由を見せられるのは解放的です。

【完全な天の父の子となる】

最後に主イエスは敵に対する愛を教えられました.43節の所を見て下さい。『「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい。あなたがたの天の父の子となる為である。」』

覚えていると思いますが、主イエスが説いた愛は暖かい感情よりも、人に対する善い行動であります。そして、敵に善い事をするとき、私達は神の行動を手本とします。それは「あなたがたの天の父の子となる」と言う意味なのです。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」から、私達も敵に善い事をしなければなりません。更に、敵は私達の愛を受けると、変わる可能性があります。使徒パウロがその事を覚えてこのように書きました。『「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、かわいていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積む事になる。」悪に負ける事なく、善をもって悪に勝ちなさい。』」(ローマ12:20)

主イエスは今日の個所をこのように閉じます。46節を見てください。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じ事をしているでなないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れた事をした事になろうか。異邦人でさえ、同じ事をしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と主は私達に言われます。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」ここで主イエスは不可能な事を私達に要求しているようですね。この世にいる限り私達は神のように完全な者にならないと思います。しかし、主イエス・キリストの愛と助けによって、それは私達の目標です。神様どうか、私達一人一人の心を造り変えて、あなたの義を授けて下さいと祈りましょう。

2005年10月16日 | カテゴリー: エレミヤ書 , マタイによる福音書 , ローマの信徒への手紙 , 新約聖書 , 旧約聖書

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