霊的な革命 ウイリアム・モーア

聖書:マタイによる福音書5章

1:イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 2:そこで、イエスは口を開き、教えられた。

◆八福

3:「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのもので

ある。

4:悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。

5:柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。

6:義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

7:憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。

8:心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。

9:平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。

10:義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

11:わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

12:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

幸せになりたい
私たちは誰でも幸福になりたいです。幸福の追求は人間に生まれながらの本能ではないかと思います。もし誰かが「私は幸せに暮したくない」と言ったら、その人の精神状態を疑う理由が十分あります。誰でも重要な目標として「幸せになりたい」と言う事を心に抱いていると思います。

大きくなると何になりたい?

私は毎年神戸中華教会付属幼稚園の卒園祝辞を述べます。我々のミッションがその教会と幼稚園を創立しましたので、その特権が与えられています。式では卒園生一人ずつが前に出て、卒園証書を園長先生から貰います。そして、先生に「大きくなると何になりたいですか」と聞かれています。色々な答えが返って来るんですが、今年は女の子の大半数が「ケーキ屋さんになりたいです」と答えました。また、男の子の殆ど皆は「サッカー選手になりたい」と大きい声で返事しました。やはり、小さい女の子には毎日、美味しいケーキを作って、それを食べ放題いただけるのは最高の幸福だと思うのでしょう。また、男の子には毎日会社へ行くよりも、外で遊んで選手の栄えのある生活は一番楽しい生活であると思ったんですね。

幼い子供さえも幸福を求め、何よりもハッピーになりたいのです。
間違いなく、幸福は私たち皆の大事な目標になります。もし幸福を持ってない場合はそれを探し求め、そして、持っていると、しっかり掴んで放さない傾向が強いのです。

アメリカ独立宣言

アメリカの英国に対する独立宣言にはこの言葉が記されています。

「我らは以下の諸事実を自明なものと見なす。すべての人間は平等につくられている。
創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている。」

この言葉を起草したトマス・ジェファソンにとって、幸福の追求は生存と自由とともに大事な権利になりました。その権利は造り主である唯一の神のみによって授けられ、絶対に人から取り上げてはいけない事です。
幸福は私たち人間にとって重要なものである事は皆が大賛成すると思いますが、幸福の定義と幸福をどのようにして達するのは別の問題です。

今日、先週に始まったイエス・キリストの山上の説教の学びを続けたいと思います。

そして今朝、与えられた聖句は主イエス・キリストの八福と言われる御言葉です。主イエスはこの御言葉で真の幸福への道を啓示して下さいました。先程読まして頂いた八福はよく知られていると思います。

「心の貧しい人々は幸いである。悲しむ人々は、幸いである。柔和な人々は、幸いである」などは聞いた事があるかも知れません。ここでの「幸い」と言う表現は本当の幸福とハッピーの意味です。ですから八福は私たち一人一人の為、幸福の処方箋のようになります。つまり、八福の中で神の御子イエス・キリストは真の幸福がどう言う事であるかを教え、そして、また、その幸福に達する道も案内して下さいます。


この世の幸福

言うまでもありませんが、イエス・キリスト以外にも幸福を教えようとする声が沢山あります。例えば、私たちの周りの社会はその点について何を言っていますか。

その1・富

それは本当に幸福になりたかったら、富が必要です。もし経済的な心配がなければ、自由になり、喜ぶ物が何でも手に入ります。立派な家に住み、高級車に乗り、海外旅行が出来、奇麗な洋服を着られるときっと幸せになると教えています。

マス・コミで見るハッピーな人はおもにそのような者だと思います。しかし、大金持ちの中には惨じめな者が大勢おります。富は幸福を買うよりも多くの人に不満と空しさと滅びをもたらします。

その2・名声

またある人は名声を通して幸福を掴もうとします。しかし、名声は決して幸福を保証出来ません。ボールテールと言うフランス人の作家は18世紀にヨーロッパの最も有名な文化人でした。皆に憧れ、最高な人生を歩んだような人物でした。死に掛かっていた時、掛かり付け医師にこのように叫びました。「私は神にも人間にも見捨てられた者だ。私の寿命を6ヶ月だけを伸ばしてくれたら全財産半分を譲ります」といったそうです。

その3・芸能人(タレント)

現代の社会は有名人を拝みます。特に芸能人に憧れる者が多いです。もし有名な芸能人になって、数え切れない程のファンの賞賛を得たら、自分がとても幸せだと思うでしょう。しかし、芸能人の中では目茶苦茶な人生を送っている者は珍しくはありません。却ってそれが普通のようです。名声は幸福を導くよりも幸福の障害になってしまいます。

その4・権力者

更に、周りの社会をみると、権力には幸福が伴います。しかし、そうではないと思います。世界一権力者と言われるアメリカのブッシュ大統領を見て下さい。色んな過ちや問題や批判の為に、それ程幸せに見えません。大きな責任の故に頭がとても痛く、却って自分の寿命も縮めるかも知れません。もし可能だったら多分彼は喜んで前の生活に戻りたい事でしょう。

真の幸福とは

生涯、真の幸福を経験したいならば、私たちはこの世的な文化の代わりにイエス・キリストからその道を教われなければなりません。実に、主イエスは革命的な道を教えて下さいます。この世が進める道とは全く逆の方法です。

富と名声と権力の代わりに主イエスが教える幸福の道は心の貧しさと、悲しむ事と、柔和と、憐れみと、心の清さと、平和をもたらしたい心と、迫害からさえも来るものです。この思いがけない道のみが本当の消えない幸福を提供出来るからなのです。

主イエス・キリストの幸いなご生涯

実に、主イエス・キリストこそはこの道を歩んで、幸福な生涯を過ごしたのです。主イエスは自信と平安と喜びと満足を溢れるように経験され、人間として完璧な生涯をおくりました。イエスの幸福は周りの事情に頼らず、神のみから来た賜物なのです。この世で私たちと共にいらした間、主は様々なチャレンジや問題や迫害などに向かわれましたが、最もハッピーな人生でありました。そして、人間となったイエスが神に頼ってそのように暮せたのならば、私たち一人一人も神に頼って真に幸福な人生を歩めます。

イエス・キリストがこの世に使わされたのは私達が「命を受ける為、しかも豊に受けるためであ」ります。(ヨハネ10:10)そして、その豊な命の重要な一部は、豊かな命からくる幸福です。

主イエスが与える幸い(八福)

その1

さて、主イエスの私たちの為の幸福の処方箋、八福を学びましょう。マタイによる福音書5:3の所を見て下さい。[心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」ここでの「心の貧しい人々」とはどう言う人々でしょうか。その人々は神と隣人に対して自分の罪と弱さを心から認め、主の憐れみと救いが絶対に必要である事を自覚し求める者であります。その救いがなければ、駄目になって滅びるしか期待出来ないと言う認識なのです。そのような謙遜な人々のみがイエス・キリストが提供する救いを求め、神に受け入れられ赦された子供になります。

すなわち、神からの永遠の命を授けられています。その変わらない救いを受け入れると、周りにどんな事が起こっても、喜びを感じます。

神の国に入れられましたので、安心と大きな希望が与えられています。それは幸福の一番大事な条件です。

その2

4節を見ますと、この不思議な御言葉が記されています。「悲しむ人々は、幸いである。その人達は慰められる。」悲しむ人々はパッピーですか。悲しむ事と幸せな気分は全く逆の事ですから、主イエスはどうしてその約束が出来ましたか。この世では全く無感情な人だけが悲しみを避けられます。しかし、それ以外の人には悲しみがきっとあります。そして、嘆く事によってその悲しみを乗り越え、慰めが与えられています。逆に嘆かないと、つまり、その悲しみを自分の中に押さえこんでしまう者は、悲しみをなかなか放す事が出来ません。ですから、悲しい事があったら、悲しまなければなりません。それが慰めと回復への道なのです。

恐らくイエスはここでもう一つの意味を語られました。特に、自分の罪を悲しむ人は神の慰めを受けられると言う意味があるのです。犯した罪を心から嘆き、神の赦しを祈ると、間違いなく主イエスの贖いによって罪が赦されます。そして、その赦しだけが慰める力を持っています。赦しと救いの喜びを持っている私たちは本当にハッピーです。

その3

続いて、5節に「柔和な人々は幸いである、その人達は地を受け継ぐ」と書いてあります。大低、柔和な人々の場合、地を受け継ぐ事よりも、自分の地が取られてしまいます。イエスの時代そう言う傾向がよくありました。しかし、ここでの「柔和」はおもに神に対する私達が取るべき態度です。聖書に於ける柔和は神を信じ信頼る事です。また、常に神に従属する態度です。そのような人々は「地を受け継ぐ」と書いてあります。しかし、ここでの約束は財産を沢山貰える保証ではないと思います。実は、柔和な人は神様から頂いた豊な恵みを知り、その豊かさによって満たされるのです。

使徒パウロがそう言う模範でありました。彼は物質的な物は殆ど持っていませんでしたが、自分について「全てのものを所有しています」(コリント二6:10)と書きました。つまり、全能の神は全ての物を造りましたので、全ての物は主の物になります。そして、神の子として、父の物が私達の物になります。ですから、私達は美術館へ行ったり、美しい景色を見たり、旅行を楽しんだりすると、その全ては私の物という気分になります。そして、私の為にそれらの物を手入れしてくれる人々には大変感謝します。柔和な人々は本当にパッピーです。

その4

「義に飢え渇く人々は幸いである、その人達は満たされる」と次の6節に記されています。ここでの「義」は広い意味がありますけれども、恐らく一番分りやすいのは「良い行い」だと思います。つまり、「人の為に、何よりも良い行いをしたい人は幸福である」という意味です。自分自身ばかりに集中する人は大低惨じめです。自分の益や、自分の悩みや、また自分のニーズばかり考えると、不満を感じ鬱(うつ)になりやすいと思います。しかし、人の助けに集中する程、満たされます。何故なら、その行いを通して神の愛が実行されるから、自分の存在が大きな意味になり、真の生き甲斐で主によって満たされます。「義に飢え渇く人々は幸いであ」ります。

その5

「憐れみ深い人々は幸いである、その人達は憐れみを受ける」と7節に書いてあります。神は私たち一人一人を憐れんで、主イエスの贖い死のゆえに罪を赦して下さいました。その大きな赦しを頂いた私たちは周りの者に赦しを表すべきです。そうしないと、恐らく自分の為の神の莫大な赦しがまだ分かっていないことになります。常識ですけれども、自分が人を憐れんだら、お互いに、人から憐れみを受けます。その上、自分が受けた神の赦しをよりもっと覚えることが出来ます。憐れみ深い人々は本当に幸いであります。

その6

主イエスの次の教えは8節「心の清い人々は幸いである、その人達は神を見る」です。心の清い人々は誰ですか。聖人、あるいは特別に善い人でしょうか。実は、心を清める力を持つ者は主イエス・キリストのみです。そして、主イエスを心から信じ、自分の救い主として受け入れる人皆は、神の目には「心の清い人」になります。それはどんなに大きな喜びでしょうか。唯一の神が私達の味方になって、清い人として受け入れて下さるのは本当の幸福の条件になります。そして、「その人達は神を見る」と書いてあります。主イエスが言われました。「私を見た者は、父(すなわち、父なる神)を見たのだ。」(ヨハネ14:9)ですから、私たちは主イエスの教えを学んで、主と共に歩む事によって神はどんな神か分かって来ます。そして、将来に天国で神を直接に見る事が出来ます。心の清い人々はハッピーです。

その7

「平和を実現する人々は幸いである、その人達は神の子と呼ばれる」と主イエスが次の9節に約束します。「平和の君」と名つけられたイエス・キリストは子なる神であります。そして、もし私たちは平和の為に努めると、神の子と呼ばれます。言うまでもなく、人と神の間、人と人の間、また国と国の間などに平和を実現する人々は必要であります。その最も大事な神の働きに参加すると、神の子と呼ばれます。それ以上の喜びがないと思います。

その8

最後に、10節「義の為に迫害される人々は幸いである、天の国はその人達のものである」と書かれています。迫害を受けると言う事はどうして幸いな事になりますか。それは「義の為」、すなわちイエス・キリストの為になると、幸いな事になります。決して全ての迫害は祝福に伴いません。イエスは単に「迫害される人々は幸いである」とは教えられませんでした。「義の為に迫害される人々は幸いである」とおっしゃいました。つまり、自分の過ちの為、また神の御心に外れた目的の為に迫害されるときは祝福がないと思います。

しかし、主イエスの為だったら、迫害さえも幸いな事になります。何故なら、迫害を受けて信仰の故にしっかり立つ者は、迫害を避ける為信仰を忘れる者より遥かにハッピーです。自分の信仰を確かめられる、また主イエスの苦難に参加出来るからです。「義の為に迫害される人々は幸いであ」ります。

愛する兄弟姉妹達、ぜひ神の助けによって自分の生活に主イエスの八福を確かめて見て下さい。そうしますと、主イエスの約束通りに消える事のない真の幸福は自分のものになります。(おわり)

2005年09月18日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

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