神の祝福である私たちの子供 ウイリアム・モーア

箴言22章6:若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこから離れることがないであろう。

マタイによる福音書18章1-4

1:そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。 2:そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、 3:言われた。「はっきりいっておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。4:自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。



マタイによる福音書19章13-15

13:そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。 14:しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」15:そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

2005年9月4日子供達

【子供の頃】
子供の頃のどんな思い出が残っていますか。よく考えて見たら色々な思い出が溢れるように出て来ると思います。楽しい思い出、辛い思い出、沢山あるでしょう。幼い頃の思い出の一つとして父と一緒に町ヘ出掛けることでした。町に用事がある時、父は「私と町に行きたい人はいるか」と聞きました。もしいれば、車に乗せて用事の所へ一緒に連れてってくれました。私はいつも喜んで、すぐ父と行きました。色々な店や役所があって、郊外に住むわたしにとって、町はすごく面白かったです。私にとっては町に行く事は楽しい冒険になりました。でも父が側にいるからいつも安全な冒険でした。ほかにも色々な楽しい思い出が沢山あります。

言うまでもありませんが、幼い時は一生の中の一番大切な時期であります。心理学者によると、人間は4歳になる前に性格が根本的に形成されると言います。小さい頃に教えられた事と自分の経験、そして親子と兄弟との関係は大いに影響します。例えば、小さい時にあんまり愛されなかった子供は大人になっても人を愛する事はなかなか難しいそうです。同じように、子供の頃に信頼の出来ない親がいれば、大きくなると人をなかなか信頼出来ません。


【教会と子供】
私たちの集会にも幼い子供がいますので、今日子供の事について一緒に考えたいと思います。子供はただ親に連れられているからここに来ているのではなくて、子供も教会の大切な一部です。大人と同じように子供も教会から得るばかりではなく、寄与する事も沢山あります。

今朝、聖書における子供についての教えを一緒に学びたいと思います。

「子供」と言う言葉は聖書によく見られます。実は、原文を見ると「子供」が1300個所以上も使われています。聖書を学ぶと一つの事がすぐ分かります。聖書によると、子供は何よりも神の素晴らしい恵みです。

【子供は神の恵み】
詩編第127編にこのように書いてあります。

「見よ、子供達は神から賜った嗣業(しぎょう)であり、胎の実は報いの賜物である。壮年の時の子供は、勇士の手にある矢のようだ。矢の満ちた矢づつを持つ人は幸いである。」

そして、世界で最初の女・エバは長男カインをもうけた時、このように言いました。

「私は主によって、一人の人を得た」。

子供はただ親が作ったと言うよりは、神が全世界の創造主として重題な役割りを演じて下さいます。もちろん両親の役割りは必要ですけれども子供を造るのは、はるかに神の創造的力によっての事であります。と言うのは、妊娠の間、お母さんは何をするのですか。ただ自分の健康を守り、栄養のある物を十分に取るように勤めます。残りは神がして下さいます。子供を儲けた時、私達もエバのように「主によって、一人の人を得た」としか言えないと思います。

【聖書における不妊の女たち】
その反面、聖書における人物の悩みでも、大変辛いのは子供が出来ない事です。

旧約聖書の人物ラケルは自分の夫ヤコブに子供を産む事が出来ないとき、ヤコブに言いました。「私に子供を下さい。さもないと私は死にます。」(創世記30)。

ハンナも長い間子供が出来ないから泣いて食べる事もしませんでした。神にこう祈りました。「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、私を覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜りますなら、私はその子を一生の間、主に捧げ、かみそりをその頭にあてません。」ハンナはようやく子供を賜りました。そして、約束とおりにその子サムエルを喜んで主に捧げ、サムエルは大きくなるとイスラエルの預言者になりました。

日々、子供を育てるのはやさしい事ではありません。子供の面倒を見て疲れる事が沢山あります。子供の病気や教育や行儀について心配する事も結構あるのです。そして、子供が独立するまで、子供一人を育てるのはどのぐらいの体力と費用がかかる事でしょうか。

私は、三日前にロサンジェルスから帰りました。これで二度目ですが、次男のポールが今度大学へ入学しましたのでその為に行きました。必要な物を準備してやり、寮に入ることになりました。ポールは18歳ですが、まだまだ親としての責任が残っていると感じました。

確かに色々な面で子供を一人前にさせる事は思い責任です。その責任を特に感じる時、私たちは子供の祝福を忘れ、文句を言いたくなりやすいですね。

しかし、子供が出来ない夫婦と話したら、子供があるのはどんなに素晴らしい事が直ぐ分かって来ると思います。


【子供のない悩み】
以前アメリカの色々な教会を訪ねたとき、たいていは信徒の家に泊って、その家と交わりとおもてなしを受けました。私が訪ねたある家で30代の夫婦がいました。彼等と少し話し始めると、自分の悩みを訴えました。実は、彼らは何よりも子供がほしいけれども、なかなか出来ませんでした。数年前から沢山の検査を受けて、手術も受けました。一番進んた治療を受ける為に二万ドル程掛けたそうです。しかし、それは何も役に立たなくて、結局妊娠する事が出来ませんでした。その夫婦は何よりも赤ちゃんを欲しがっていました。

もし可能だったら赤ちゃんを得る為に喜んで財産を全部払うと言いました。その夫婦を通して神は私自身がどんなに恵まれているかを教えて下さいました。そして、子供達が煩くなる時、その夫婦の悩みを思いますと何も文句が言えません。むしろ、子供に恵まれている事を神に心から感謝し、御名を賛美します。


【親の務め】
覚えて頂きたい事がまたあります。当然の事だと思いますが、私達は親として、子供に沢山の事を教えなければなりません。今日の旧約聖書のテキストを読んでその理由が分かると思います。「若者を歩むべき道に教育せよ。年老いてもそこからそれる事がないであろう。」

始めに言いましたように、幼い時は一生の一番大切な時期です。小さい時、子供の頭はスポンジのように沢山の事を吸収します。色々な人から影響を受けるけれども、何と言っても、両親の影響が一番強いです。兄弟や友達や学校やテレビなどの影響があっても、両親の影響はどれより遥かに大切です。

小さい時、親に教えられた事は生涯に影響を及ぼします。だからこそ、神様に託された子供をちゃんと教えなければなりません。特に愛する神の事を教えなければなりません。親からではなかったら、神の事を何処で習うのでしょうか。学校ですか。テレビからですか。友達からでしょうか。違います。もし神の事を学ぶのなら、第一に親から学ぶ必要があると思います。

教会の日曜学校は大切ですけれども、それもただの週一回の事です。小さいうちに子供に聖書のお話を読んで聞かせ、そして神の事を説明して見て下さい。もちろん親の見本も大切です。もし親の生活に神が大切であればそれは子供にも伝わって来ます。

もし親が神に信頼を置くならその子供はそれが十分分かります。そして親の信仰が誠実だったら子供はその同じ信仰を持つようになると思います。


キリスト教信仰はどう言うふうに次の世代に伝わっていくのでしょうか。それはおもに親の責任です。私たちは信仰の恵みを私たちの親や教会の先輩を通して受けました。そして私たちの喜ばしい責任は子供にその同じ信仰を伝える事です。伝道は家族以外の働きだけではなく、子たちに最も近く影響の強い、わたしたち親に一番大切な責任があります。

【親の愛を表わす】
もう一つの事を覚えて頂きたいと思います。それはだれもが分かっていても、実際に行うのは大変難しいです。それは、子供に愛を十分に表わすことです。子供の失敗に対して批判するのは誰でもすぐ出来るけれども、親の愛を表すのは努力と忍耐を必要とします。

始めに言いましたが、もし子供が親の愛をあまり経験出来なかったら、大きくなると他の人を愛したり、そして人の愛を受けるのは難しいです。確かにそれは悲しい状態です。しかも、それだけでなく、そのような人は神の愛も経験し理解するのが難しくなります。

例えばもし小さい時に父親が子供を無視したら、その子供が大人になると神を[愛する天のお父さん]として理解するのは本当に難しいです。言うまでもなく、私たち皆は子供を愛していると思います。しかし、その愛をもう少し十分に表すのは必要ではありませんか。

【子供から受ける恵み・・謙遜】マタイによる福音書18章1-4

確かに親の責任が大きいですね。そしてその責任を果たすのはやさしい事ではありません。時間や力や忍耐や愛などが山のように必要です。しかし、親子関係は一方的関係ばっかりではありません。親は子供の方から素晴らしい恵みを貰います。親は子供に教えるべき事がありますが、子供に教えられる事も結構あります。その一つの事は今朝の新約聖書のテキストにも書いてあります。ある日、イエスの弟子達が神の国が来ると、仲間の中で誰が一番偉いかとお互いに議論していました。そして、どうしてもその議論を穏やかに決められなかったので主イエスに判断を頼みました。

イエスは弟子達の愚かな願いを直接答える代わりに、一人の幼い子供を呼んで、その子を弟子達の真ん中に立たせました。そしてこのように言われました。

「はっきり言っておく。心をいれかえて子供のようにならなければ、決して天の国に入る事は出来ない。自分を低くしてこの子供のようになる人が天の国で一番偉いのだ。」

弟子達はこのお話を聞くとどんな気持ちでしたか。多分驚いた事でしょう。イエスの偉い十二弟子はまさか子供から学ぶ事があるとは思わなかったでしょう。イエスの重点は、私たち大人は子供から謙遜という事を覚えるということです。

幼い子供は生まれながらに謙遜です。つまり、名誉は全く欲しがらないし、相手より偉くなることを考えません。

私たちキリスト者は子供のように謙遜にならなければなりません。自分を偉いと思う人はなかなか神に近ずく事は出来ません。むしろ、神の目から見たら一番謙遜な人が一番偉いのです。イエスはこう言われました。

「あとの者は先になる、先の者はあとになるであろう。」(マタイ20:16)

私たちはこれから子供を良く見て、その謙遜をまねた方が良いと思います。そうすれば神の国に入る事が出来、そして神の目から見ると、私たちが偉くなります。それだけではなくて、人間関係もきっと良くなる事でしょう。

【子供から受ける恵み・・信頼】マタイによる福音書19章13-15

先程のような事件がもう一つありました。それはイエスの祝福を受ける為に、子供達がイエスの側に連れられました。やかましい子供が迷惑にならないように弟子達はその子の両親を叱りました。弟子達は別に子供が嫌い訳ではなく、ただイエスが教えられる時、子供がすぐ側にいるのは邪魔になると思いました。とにかく主イエスは弟子にこのように言われました。

「子供たちを来させなさい。私の所に来るのを妨げてなならない。天の国はこのような者たちのものである。」

いったい何の意味ですか。小さい子供達は何も出来ないから全ての支えは両親から期待します。そして完全に両親に頼りますので何も心配しません。同じように私達は天の父なる神に信頼しなければなりません。そうすると心配がなくなって、イエスに連れられた子供のように、神の恵みを豊に受けられます。

親としての重要な責任を感じる時、しばしば自分が足りなさを思います。私たちは自分に正直なら、毎日、親として間違いを犯す事を認めねばなりません。確かに立派な親になるには神の助けが常に必要です。毎日、神から子供の恵みを覚え、そして、良い親になるように愛する神に頼って主の知恵と忍耐と愛を祈り願いましょう。

2005年09月04日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 創世記 , 新約聖書 , 旧約聖書

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