「生きることの意味」神戸改革派神学校校長・牧田吉和先生(要約・文責近藤)

2005年8月7日 神戸改革派神学校校長・牧田吉和先生


聖 書:創世記第5章1-32節

はじめに

今日は、初めて皆様の西谷聖書集会にお招きを受け、説教奉仕を許されて心から感謝します。

今自分が一番考えさせらていることとは何かといいますと、"人生"、"生きること"についてです。私は、年令的に還暦を少し過ぎました。私の年令は、昔で言えば一通りの人生を終えたことを意味する年令になると思います。さらに、個人的なことになりますが、母親の死んだ年令(59歳)をわずかに超え、母親の死とも重ねあわせ、自分の死についても考えさせられ、「人生とは、生きるとは何か」という問いを最近深く考えさせられています。

長寿は生命の賛歌?

この聖書の個所を読んで、恐らく誰が読んでも第一に目に入るのは、ここに出てくる人たちの年齢の長さでしょう。天文学的数字です。「5:5 アダムは全部で930年生きた。こうして彼は死んだ。」、「5:8 セツの一生は912年であった。こうして彼は死んだ。」、「5:14 ケナンの一生は910年であった。こうして彼は死んだ。」 何百何十年という人生の長さに、多くの方々がこのような天文学的数字をどう理解したらよいか疑問に思われることでしょう。聖書の学問的研究では色々の考え方があります。しかし、聖書の語ろうとすることを読み取る上では、素朴に個人の歴史が記されていると理解して読むときに、語ろうとすることを的確に読み取ることができます。

このような驚くべき人生の長さを前にして、ある人たちは、ここに神によって創造された人間の溢れるほどの生命力、子孫繁栄の湧き立つ様な喜びを見出します。生命の賛歌、人間の素晴らしく幸せな姿を読み取ろうとします。そのような幸せな時代があったというわけです。宗教改革者のルターも「それはまことの黄金時代であり、これに比べればわれわれ自身の時代は塵あくたとさえ呼び得ない」とまで言い放ちました。この聖書の個所にやはり人間の幸せについての聖書のメッセージ聞き取ろうとしたわけです。

 しかし"本当にそうだろうか?"と私は思います。もしそうだとすれば、それの裏返しを生きた、またそのように今生きている人の人生は、否定されることになります。若くして、青年で、あるいは子供のままでこの世の生を終えなければならない人がいます。生命力を謳歌できない、重い病いで苦しむ人もいます。肉体的・精神的障害のゆえに活力に満ちて動くことのできない人もいます。あるいは願いながら様々な事情で結婚に至らない人や、結婚しても生涯子供が与えられない人もいます。その人たちは、この幸せのリストから名前が消されることになるでしょう。

 またそれが聖書のメッセージであるならば、「皆さん!聖書の神を信じてください。そうすれば長生きができます。子供にも恵まれます。病気もなく、幸せになりますよ。...」、と言うことになります。わたしたちは、そのように宣伝文句を実はあちこちで聞かされているはずです。聖書もそれと同じなのでしょうか。

そして死んだ:生きることの空しさ

 私はこの聖書の個所がそのようなことを教えているとは思いません。聖書を読んですぐに気づくことがあります。例えば、6-8節「5:6 セツは105生きて、エノシュを生んだ。

5:7 セツはエノシュを生んで後、807年生き、息子、娘たちを生んだ。5:8 セツの一生は912年であった。こうして彼は死んだ。」とあります。その形式が、つまり「誰々は子を生んで、何年生き、そして死んだ」という繰り返しが続きます。声に出して朗読すると数字の大きさと共に、「そして死んだ」という言葉が耳に響くことが感じ取れます。ここには、912年とか、895年とか、777年とか年単位まで正確に記してあります。この事実は、一人一人の人物の固有で、かけがいのない人生であることをを示しているように思います。しかし、その人たちの人生の具体的な内容はいっさい記されていません。ただそれぞれの人生で最後に残った結末は、「死んだ」という事実だけということです。

レメクの子ノア(慰め)

一人一人の人生の具体的な内容は分からないのですが、どの人の人生にも共通するものがあったことは確かです。28節以下で「5:28 レメクは182年生きて、ひとりの男の子を生んだ。5:29 彼はその子をノアと名づけて言った。『主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。』 5:30 レメクはノアを生んで後、595年生き、息子、娘たちを生んだ。5:31 レメクの一生は777年であった。こうして彼は死んだ。」とあります。レメクは182歳のときに、男の子をもうけます。そして、「主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。」と言って、その子をノア(慰め)と名付けたのです。

レメクは777才生きたわけですから、182才はまだ青年です。命が溢れた、青春を謳歌する年令です。しかし、彼は、もう生きることに疲れ果てて、慰めを求め、自分の子を「ノア(慰め)」と名づけているのです。長生きは決っして幸いというわけではありません。むしろ、生きることの苦悩がその長い人生には秘められていることがわかります。そしてその結末は「死だ」という動かすことのできない事実を突きつけているのです。

 これは同時に神の厳粛な裁きをも意味するものでした。聖書によれば、神がご自分に似せて人間を創造されたとき、死はありませんでした。死は罪の結果であり、罪の支払う報酬です。アダムの罪の結果、人間に死がもたらされました。それだけではなく、地も呪われ、人間は顔に汗して労苦して働き、食べ物を得、そして終には土に帰るという定めを持つ者になったのです(創3:17-19)。実はその通りのことがここで起こっているのです。ここにはただうら寂しいというレベルを超えた、神の厳粛な裁きの事実が示されているのです。

 この聖書の個所を読みますと、人生を考える時、「足し算」でものを考えさせようとしているわけではないことがわかります。"聖書の神を信じると、長生きしますよ。子孫繁栄ですよ。病気も治りますよ。" このような意味での、足し算ではないと思います。むしろ、「引き算」でものを考えることを教えていると思います。一つ一つ削り取って行くのです。そして残るものは何か。深く問い詰めて行くならば、残るものは、最後に「そして死ぬ」という事実だけです。それが生きることの実体だということです。

どんなに長く生き、どんなに生命力を謳歌し、どんなに繁栄し、名声を得て、大成功の人生だとしても、やがて死ぬ。これは悲観的な物の見方ではなく、人生の実体です。

聖書の中に、「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても得るところは労苦と災いに過ぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去るのです。」(詩90:10)と語っている通りです。

エノク:神とともに歩んだ人 

 しかし、ただ単に聖書はこのところで問いを投げかけているだけかというと、そうではありません。このところを読んでいて気づくもう一つのことがあります。つまり、「何百何十年生きた。そして死んだ。」というリズムが崩れるところがあるということです。

 それは21節以下です。「5:21 エノクは65年生きて、メトシェラを生んだ。5:22 エノクはメトシェラを生んで後、300年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。5:23 エノクの一生は365年であった。5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」 "死んだ...、死んだ...、死んだ..."と、黒く塗りつぶしていって、一個所だけ光が当たっている個所があるということです。死んだのではなく「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」(5:24)と書いてあるからです。明らかに聖書はここに私たちの注意をひきつけたいのです。新約聖書のヘブル11:5では次のように言っています。「信仰によって、エノクは死を見ることのないように、移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、神に喜ばれていることが。あかしされていました。」 

  ただこの個所だけ、エノクは、死んだのではなく、神が取られたのだ、と表現することによって、エノクは神の御国に入れられたのだ、と言っています。彼の人生は永遠の御国おいて神に覚えられ、受け入れられ、永遠の意味を持つのだと。ここにこの聖書の力強いメッセージがあります。神と共に生きることに、生きることの意味があります。

神を信じ、神と共に生きるとはイエス・キリストを見つめること

神の前に何が喜ばれ、神の前に何をなすべきかを考え続ける歩み、それは人生の長さや健康の度合い、あるいは繁栄か失敗か、挫折か成功かに関係せず、どのように神の前に自らを整え、自らのなすべきことを見据え、それを日々着実になして行くかが問題になるのです。あるいはどんなにつつましく小さなことであっても、人の目に見えなくとも生涯それをやり抜く歩みです。

私たちがこの歩みへと歩み出す勇気を与えられるのは、イエス・キリストを思い起こすときです。スポットライトの光の中にエノクの姿と重なってイエス・キリストを見つめることができるように思います。イエス・キリストは文字通り神と共に歩まれたお方です。

しかし、イエス・キリストは人々にさげすまれ、唾され、終には十字架にかかって死なれたお方です。人々の目からは挫折した人生、惨めな人生でした。しかし、イエス・キリストは、十字架の死が神から自分に託された使命としてそれを受け入れ、十字架の死に至るまで従順を尽くし、神の前に歩み抜かれたのです。その結果、神はこのキリストを甦らせ、高く挙げられ、すべての名に勝る名を与え、キリストは今も生きて支配しておられるのです。クリスチャンはこのキリストを信じ、このキリストの愛の中に支配されていることを知っている者です。ですから、そのイエス・キリストを信じ、神と共に歩むならば、私たち自身も永遠の命を与えられ、私たちの人生も無意味ではなく、永遠の意味を持つと信じることができるのです。自分のなしていることを神が見ていてくださり、永遠の意味をもつと信じることができる人生は、生きがい感をも与えるものです。

結 び

 私はエノクのことを人々は"どのように思ったのかなあ"と想像します。確かに"神が彼を取られた"と聖書は語っているのですが、同時に人々もエノクがいなくなったとき"神が彼を取られた"と感じたのではないかと思います。彼がいなくなったとき、エノクのことを思うと、人々の心に光が差し込み、彼らもまた神を仰がしめられ、神に従って生きる人生へと導かれたのではないかと思います。すでに召された人たちの中で、私自身が思い起こす人たちは、結局のところ、地位が高い人とか、長生きした人とか、成功した人ではないように思います。名もない人でも神と共に歩んだ人、その人が去ってみると、その場所に光が差し込んでいる。その光は天を指している。それによって、私自身も天へと思いを向けさせられるのです。

 真に生きるべき人生とはそのような人生ではないでしょうか。どうぞ皆様がイエス・キリストを信じ、最も深いところで神と共に歩み、神に喜ばれる人生を生きていただきたいと思います。その人生は永遠の意味をもつ人生です。        (文責:近藤春樹)

2005年08月07日 | カテゴリー: 創世記 , 旧約聖書

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