川の方が良い ウイリアム・モーア

聖書:詩編46篇

【四万十川】
先々週、木曜日と土曜日に、四国で二つの学校の理事会がありました。その間の金曜日が暇になりましたので、高知県の四万十川を私のゴム・カヤックで下りました。実は、去年から、「日本の最後の清流」と呼ばれる四万十川を下りたかったのです。去年の秋、会議の帰りに一度川を調べに行きました。山の奥の源流から河口(かこう)までの196キロの全長を車で辿りました。そうすると、四万十川の美しさが分かりました。工場や大きな町がない田舎の田舎ですから、大自然が奇麗に残されています。しかも、川は山地を流れているので、景色はすごく美しいです。その時から、私の気持ちは近いうちに四万十川を下ろうと強くなりました。

ですから、先日やっとボートで川に乗り出した時、興奮しました。実は、あんまりエキサイテイングだったので、一番重要な物、救命ジャケットを車に置いたまま出発しました。数キロ川を下った時、救命ジャケットがない事に気が付き、びっくりしましたけれども、流れが結構速い為、川上の車の所に戻れませんでした。とにかく、川を下るのは大変面白く楽しかったです。梅雨のお陰で、水流が普通より速く、パドルを少し漕いでステアリングが出来、奇麗な景色を見ながら川なりに流れて行きました。ある所はちょっとした波があったんですが、ほとんど川はおだやかでした。そして、河口に着くと、すぐにでも、もう一度下りたい気持ちが強かったのです。
しかし、河口をすぎて、太平洋に入るのは興味がちっともありませんでした。実は、私は海があんまり好きではありません。何故かと言えば、川と比べると海の方が危ないからです。嵐と大波にのまれる恐れがあるし、深いから溺れる可能性もあります。また、海の場合、陸が見えなくなって迷う事があるし、鮫のような恐いものが海に住んでいます。海水浴場でちょっと遊ぶのは良いんですけれども、外洋へ出るのは抵抗があります。私には川の方が安心で好きです。

【ヨナ:恐ろしい海】
古代のイスラエル民族も同じ気持ちでした。彼等には海は恐ろしい所でした。隣のフェニキア人はよく地中海に出て、外国と活発に貿易を行いましたが、イスラエルは陸から離れられない民族でした。神は海とその中にある物を創造したと信じても、イスラエル人は出来るだけ海を避けたのでした。特にヨナ書はこの態度を代表します。ヨナは神から逃れようと外国の船に乗って遠い所へ逃げるつもりでしたが、「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった」と書いてあります。そして、ヨナはその嵐は自分が原因と分かって、皆の命を救う為、自分の手足を捕らえて海にほうり込むようにと言いました。そして、海にほうり込まれると、神は巨大な魚に命じて、ヨナを飲み込ませられました。彼は三日三晩魚の腹の中にいましたが、主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出したと記されています。ヨナの命が助けられましたが、言うまでもなく、海の体験は大変でした。


【神は私達の避けどころ、私達の砦】


今日の御言葉、詩編第46編もイスラエル民族の海に対するイメージをよく反映します。詩編第46編の2節から4節を見て下さい。


「神は私達の避けどころ、私達の砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる。私達は決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」


天地万物の造り主、全能の神の力と助けは一番恐ろしい事、すなわち地震と海上の台風よりも遥かに強いのですと書いてあります。その最も恐い天災が起こっても、神が私達と共にいますし、助けて下さいますから、「私達は決して恐れない」と記されています。どんなに大変な事が襲って来ても、「神は私達の避けどころ、私達の砦」になります。


【ローマの信徒への手紙8章】
使徒パウロも他の言葉で同じ事を宣言しました。私は新約聖書のローマの信徒への手紙のこの聖句を何度も言及した事がありますけれども、繰り返すに耐えるものと思います。

「もし神が私達の味方であるならば、だれが私達に敵対できますか。私達全ての為に、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私達に賜らないはずがありましょうか。ノだれがキリストの愛から私達を引き離す事が出来ましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。ノしかし、これら全ての事において、私達は、私達を愛して下さる方によって輝かしい勝利をおさめています。私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私達を引き離す事は出来ないのです。」

神の助けと神の愛がいつも私達を伴って下さる事はどんなに大きな力と慰めになるでしょう。それは旧約聖書、また新約聖書の明確な証です。
イスラエル民族は海を恐れ、避けたのですが、川は好んでいたので、川は神の恵みの重要なシンボルになりました。四万十川の体験を通して私は聖書に於ける川のシンボルの理解が前より少し豊になったと思います。


【川は神の御臨在を示す】
今朝の詩編第46編5節の所を見て下さい。

「大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。」

イスラエル民族にとって川は大事な喜びを与える賜物です。パレスチナは日本と違って雨があまり降らない国です。海がありましたけれども、もちろんその水は飲めないし、作物と家畜にやれません。ですから川の水は貴重な物である、生命に絶対に必要です。その水が沢山あると、皆が喜びますが、乏しくなる場合、苦難が伴ってしまいました。ですから、川とその水は愛する神の私達と共にいらっしゃる御臨在のシンボルになりました。

神の御臨在は豊な祝福と喜びを与えて下さいます。主が共にいますとき、主の助けと救いを経験出来ます。主は私達の祈りを聞いて、叶えて下さいます。そして、御自分の民として相応しく生きる為、希望と信仰と愛を豊に与えて下さいます。

【主イエスが与える水】
川のように神の御臨在は私達を満たして、喜びと平安と永遠の命を賜ります。主イエスも真水をシンボルとして用い、サマリアの女にこのように約束しました。「私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と言われました。(ヨハネ4:14)

四万十川を下った私は川の豊かさを本当に感じました。清流のお陰で色々な生き物が盛んに繁殖し、その辺の農業も良く出来ていました。その川は愛する天の父なる神の豊な恵みのように思いました。


【ヨルダン川】
更に、川は清める力があります。全ての汚い物をその流れに運んで、海に消えてしまいます。私は川を下ってから、その奇麗な水に入って体を洗いました。汗と汚れ(よごれ)が水に溶け、とても良い気持ちでした。洗礼と言う礼典は神の浄化する力を表します。ですから、洗礼者ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けました。主イエス・キリストは私達の汚れ、つまり私達の罪を御自分の身に取ってしまい、私達は全ての不義から清められます。主イエスは十字架で私達が支払うべき罰を私達に代って受けて下さったので、私たちは神の赦しによって奇麗にされて神の子供になります。
「大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に」と記されています。イエス・キリストの清めによって私達は神の「聖所」になり、その救いの喜びを与えられます。


【川は安全で平安を与える】
川を下るには迷う恐れが全然ありません。と言うのは、両方の川岸が堺になります。そして、川なりに進むと、必ず到着地に着きます。聖書を通して神は正しい生き方と救いへの道を教えて下さいます。ですから、私達は善と悪を区別が出来、私達の為の主の御旨も分かって、やがて到着地、すなわち天国に達成(たっせい)します。6節にこの御言葉があります。「神はその中にいますし、都は揺らぐ事がない。」主イエスの救いを心から受け入れ、主の掟に従ったら、神は私達と共にいて、喜びと祝福と本当の生き甲斐の道に導いて下さいます。川と違って海は広すぎ、境を見られません。しかも、海の水が騒ぎ、沸き返ります。海の波に溺れないように、川の堺の中に留まりましょう。


川は平安の所です。不思議ですけれども、この間、私は川を下った時、恐れが全然ありませんでした。独りで下っても、とても平安な気持ちでした。神が共にいて下さると同じ状態です。「神は私達の避けどころ、私達の砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けて下さる。私達は決して恐れない」と記された通りです。川、つまり神の愛と御心に留まる時、主イエス・キリストの平安を経験します。どんな事が起こっても、主の助けと慰めがあるから、大丈夫です。


【川の終着点】
川は流れと終点がありますので、目的があります。つまり、川は何処かへ向かっています。今朝の詩編の10節を見ますと神は「地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き、槍(やり)を折り、盾を焼き払われる。」全能の神も目的があります。その目的は救いと平和を全て人々に提供する事です。神の民として私達はその目的を果たす為の大事な役割があります。それゆえに神は私達一人一人を用いて御自分の目的を成就(じょうじゅ)します。そして、私達の最高の喜びは主の目的に参加する事です。


【神の川への招き】
最後に川は招きのある所でもあります。川を見ると人々は自然にその水に引き寄せられています。自分の足をさわやかな流れに入れ、川のそよ風を楽しむのは当たり前の事です。ただ遠くから川を眺(なが)めるだけは非常にもったいないです。どうか私達皆は神の川への招きを心から受け、その清流によって清められ、主の全ての恵みを受け、喜びと勝利する私達の生涯になりますようにお祈りします。

2005年07月17日 | カテゴリー: ローマの信徒への手紙 , 旧約聖書 , 詩篇

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/27