ヤイロの娘は父に何を見ましたか ウイリアム・モーア宣教師【父の日】

◆ヤイロの娘【ルカによる福音書8章】

40:イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。人々は皆、イエスを待っていたからである。 41:そこへ、ヤイロという人が来た。この人は会堂長であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来てくださるようにと願った。

42:十二歳ぐらいの一人娘がいたが、死にかけていたのである。イエスがそこに行かれる途中、群衆が周りに押し寄せて来た。・・・・・・

49:イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」 50:イエスは、これを聞いて会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」

51:イエスはその家に着くと、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、それに娘の父母のほかには、だれも一緒に入ることをお許しにならなかった。 52:人々は皆、娘のために泣き悲しんでいた。そこで、イエスは言われた。「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ。」

53:人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑った。 54:イエスは娘の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた。 55:すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。イエスは、娘に食べ物を与えるように指図をされた。

56:娘の両親は非常に驚いた。イエスは、この出来事をだれにも話さないようにとお命じになった。

【パパ。ママの嫌いな事をする人:子育てはママの仕事ですか?】

電車の中のお話ですが、お母さんと4歳ぐらいの子供が一緒に乗っていました。その4歳の子供はじっと座っていられなくて、座ったり立ったり、窓を叩いたりしていました。それを見ていたお母さんは止めさせようと何度か連れ戻して、横に座らせましたが、坊やはまた逃げて行ってドアの方に立っていたのです。お母さんは呼び戻そうとこう叫びました。「ママの嫌いな事をする人って誰かしら?」するとその息子は思わず「パパ。ママの嫌いな事をする人はパパだ」と言ったそうです。
今の社会でパパ、お父さんと言う存在はどう映っているのでしょうか。また、この話の中のパパはどんな人でしょうか。ママにとって、坊やのパパがする嫌いな事は分かりません。色々な嫌いな事を想像出来ますが、恐らくこのパパは子供の養育にあんまり関心がなかった為、ママの反感をいだかせたかも知れません.現在の社会ではどこの国でもそれは大きな問題になっています。お父さんは仕事とお付き合いとレージャで忙しく、子供の為の時間が僅かになります。また、お父さんは子育てはママの仕事だと思い込んで、子供の事なら、ほとんど全てをお母さんに任せるケースが多いようです。ですからお父さんは家族には幽霊のような存在であります。先日、息子ポールの卒業式であるお父さんに初めて会いました。そのお母さんには何度か会った事があります。しかし、そのお父さんは12年間この卒業式の際に始めて学校に来たそうです。最後の機会になりましたが、卒業式に来ました。

【父親の存在】
私は日本の現状は詳しく分かりませんが、アメリカの場合、この幽霊親爺現象は社会に色々な悪影響を与えています。専門家によりますと家庭に父親的存在が欠けると社会問題が増えて来ます。例えば、 30年前と比べると暴力犯罪率が5倍増加しました。
そして、私生児(しせいじ)の増加も400%でした。さらに、現在、少年院の世話になる子供の8割程は父親的存在が欠ける家族から来ます。ですから、社会の為と子供の為、父親の役割りは重要であり、掛替えのない存在です。
 先月の第二の主の日に母の日をお祝いました。そして、今日は父の日です。母の日にイエス・キリストの母親マリヤの模範から学びました。マリヤの信仰と愛と深い理解は主イエスには大きな影響と支えになりました。ある意味では、その母の犠牲的愛を経験されましたので、イエスは私達の為に御自分を犠牲する事が出来たのです。

【会堂長ヤイロ】
今日、父の日に際し、また聖書の人物から模範を見て学びたいと思います。この人物は特に父親に対し模範を示しますが、私達皆にとっても教えられる事があります。今日の聖書の朗読にはヤイロと言う人物が紹介されています。彼は独り娘の父親でした。今日、ヤイロの娘は父に何を見たかと言う事を一緒に学びたいと思います。そして、ヤイロを通して親の役割り、特に父親の役割りを学びましょう。
今日の朗読の41節によりますと、ヤイロは会堂長と言う役を勤めました。つまり、カファルナウムと言う町のユダヤ教会堂、すなわちシナゴーグの一番偉い長老でした。シナゴーグの管理と礼拝の司会の責任があって、カファルナウムの町中で、誰よりも良く知られて、社会的地位が高かったのです。間違いなく、ヤイロ会堂長は皆によって尊敬され、財産も結構あったはずです。
しかし、その地位と名声と富があっても、絶体絶命(ぜったいぜつめい)の問題があったのです。彼の12歳ぐらい最愛の独り娘は病気で死にかけていました。多分ヤイロはもうすでにその町の医師を呼んで色々な治療をやって見ましたが、全ては駄目でありました。恐らく、「お嬢さんの為には何も出来ない」と告知して、医師達は帰って行きました。
私達はヤイロの気持ちが少しでも分かると思います。子供が重体であっても、何も出来ない事は本当に辛い事だと思います。自分の目の前で独り娘がだんだん弱っていき、死にそうな状態を見るのは耐えられない事でしょう。しかし、ヤイロは諦めませんでした。医師から見込みがないと告知を受けても最愛の娘の為、さらに最善を尽くしたかったのです。
ですから、ヤイロはイエス様を探し求めに行きました。

【ヤイロの娘は謙遜な父親を見ました】
41節の後半を見ますと、このように記されています。「彼はイエスの足もとにひれ伏して、自分の家に来て下さるようにと願った」と書いてあります。ヤイロは会堂長として相当なプライドがあったと思います。人の足もとにひれ伏す経験がほとんどなかったはずです。特に、イエスのような貧しい巡回伝道師の足もとにひれ伏す経験がなかったと思います。しかし、イエスの奇跡的力を聞いて、娘の救いがあれば、イエスのみにあると信じました。ですから、ヤイロは自分のプライドを捨て、主を探して助けを謙遜に願いました。普通はヤイロのような高い地位のある者は目下の人を呼び込む時は家来か自分の奥さんに行って貰います。しかし、ヤイロは彼自身がイエスの所へ行って、助けを請い求めました。

【ヤイロの娘はイエス・キリストを求める父を見ました】
周りの皆はその光景を見ると、びっくりしました。会堂長が自分をそんなに低くする事はめったにないからです。けれども、ヤイロはイエスを探し求める事は恥と思わなかったのです。そして、ヤイロの娘はきっと全ての父親がそうする事を見ました。
両親、特に父親が主イエスを求めて信じると、その子供は同じ道に歩むようになります。箴言に記されているように「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれる事がないであろう。」(22:6)子供達は何よりも両親の手本から信仰のような大事な事を学びます。私達は忠実に主イエスを求め従うと、子供はその事を見て信仰の道を歩むようになります。私達がキリストの福音を恥と思わなかったら、子供もその福音を大事にします。ヤイロの娘は父にイエス・キリストを求める事を見ました。

【ヤイロの娘はイエス・キリストを家に歓迎する父を見ました】
そして、その娘が更に見たのは、父がイエスを自分の家に歓迎した事です。実は、ヤイロは「自分の家に来て下さるようにと願った」と記されています。その当時、イエスはユダヤ教の指導達から批判を受けていました。イエスは罪人を救う為に彼等と交際しましたので、「罪人の友」と責められました。また、イエスは奇跡を「悪魔の力で」行うと告発されました。ですから、会堂長ヤイロはイエスを自分の家に迎える事は勇気がいる事でした。しかし、イエスのみは自分の娘を救う事が分かって、心から主を自分の家に歓迎しました。
私達もヤイロのようにイエス・キリストを自宅に歓迎すべきです。イエス・キリストのみは私達の家族の一番大事な二ーズに答える事が出来ます。主イエスを家に迎え入れたら、救いと愛と希望と祝福を豊かに頂きます。それはヤイロの経験でした。そして、ヤイロの経験は私達の経験になります。

【ヤイロの娘は主イエス・キリストを信仰する父を見た】
旧約聖書の預言者ヨシュアが「私と私の家は主に仕えます」と公に宣言しました。神の恵みを頂くように今の私たち父親もその勇気と信仰と決心を現さなければなりません。主イエス・キリストは今あなたの家におられますか。自分の子供達はあなたの信仰をはっきりと見ますか。ヤイロの娘はきっと自分の父に信仰を見たと思います。

イエスはヤイロの願いを受け入れ、さっそくその家に出掛けました。しかし、途中で他の人の病気を治す為、ちょっと遅くなりました。すると、大変悲しいニュースが届かれました。49節を見て下さい。「イエスがまだ話しておられる時に、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩(わずら)わす事はありません。』イエスはこれを聞いて会堂長に言われた。『恐れる事はない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。』
その最も悲しい届け「お嬢さんは亡くなりました」を聞きますとヤイロはどうしましたか。常識だったら、失望する事でしょう。死んだ人は生き返らないので、イエスさえも何も出来ないと思っていても、ちっとも可笑しくないと思います。しかし、ヤイロは主イエスとその力を信じ、娘を主に委ねました。

【すべてを主イエスの御手に委ねるなら】
ヤイロの家に着くと嘆きの音が聞こえました。親戚と近所の者が娘の死をもうすでに悲しみ始めました。しかし、イエスは「泣くな。死んだのではない。眠っているのだ」と彼等に言われたのです。そして、弟子達三人と、ヤイロとその奥さんと一緒に娘のいる所に入りました。主は彼女の手を取り、「娘よ、起きなさい」と呼びかけました。そして、55節に書いてあるように、「娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった」と記されています。
ヤイロは主イエスを信じて自分の娘を御手に委ねました。そうすると素晴らしい結果をもたらしました。娘はすっかり元気になったのです。
私達も子供を主に委ねる必要があります。何故かと言えば、神の御子、主イエスのみが子供の成長と幸福と永遠の命を保証出来るからです。そして、子供も信仰の賜物を頂けるように、子供と一緒に祈って、共に礼拝を守るべきです。

今日の箇所以上に、ヤイロの娘については何も教えられていません。彼女の名前さえも分かりません。しかし、彼女は確実に一つの事を忘れる事が出来ませんでした。それは、自分の命は父の愛と信仰、また、イエス・キリストの力のお陰である事です。
ヤイロの娘は父に何を見ましたか。第一に、父はイエス・キリストを探し求める事は恥と思わなかった事を見ました。そした、第二に、父はイエス・キリストを自分の家に心から歓迎した事を見ました。更に、父が自分の娘をイエスの御手に委ねた事を見たのです。どうか、私達の子供も私達にその同じ事を見る事が出来るように願い祈ります。

2005年06月19日 | カテゴリー: ルカによる福音書 , 新約聖書

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