恐れることはない。イエス・キリストは復活なさったのだ ウイリアム・モーア宣教師

2004年12月19日ウイリアム・モーア宣教師 

◆復活する
1:さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方にマグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
2:すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
3:その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
4:番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
5:天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
6:あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
7:それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
8:婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
9:すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
10:イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

【イエス・キリストは復活された】
 今日はイースター、すなわち復活祭です。この日に私達は世界の全てのキリスト者と共にイエス・キリストの栄えある復活を祝って、死から主イエスを蘇らせた愛する天の父なる神を賛美し、心から褒め讃えます。
間違いなく、イエス・キリストの復活は我々の信仰の中心的出来事になります。何故かと言いますと、もし主イエスがただ死んでしまった優れた人物であるならば、ずっと前に忘れられていた事でしょう。実は、世界の歴史の中で優れた人物は大勢いましたが、ほとんど皆はやがて忘れられてしまいました。しかし、イエスが現在まで世界中の人々に覚えられた理由は、確かに、主は唯一の全能の神の力によって蘇られて、今、生きておられるからです。ですから、今日、生きておられるイエス・キリストを祝っています。

使徒パウロは主イエスの復活についてこのようにコリントにある教会に書きました、「最も大切な事として私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り私達の罪の為に死んだ事、葬られた事、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活した事、ケファに現れ、その後十二人に現れた事です。次いで、五百人以上もの兄弟達に同時に現れました。」(コリント第一15:3~6a、)
使徒パウロが伝えた通りです。確かに、イエス・キリストの復活は「最も大切な事」です。特に、その当時、蘇られたイエスを目撃した弟子達には最も大切な事になりました。

【十字架は悲劇でなく勝利になった】
実は、イエスの十字架の死で彼等の夢と希望が全部壊されてしまいました。弟子達はイスラエルを救うのはイエスだと望みをかけていました。ですから、主が亡くなると彼等の生き甲斐もなくなりました。弟子達はイエスが失敗してしまったと思いました。主はよく「神の国は近づいている」と説きましたが、十字架の悲劇に伴って、それはただのお話だけにしか思えませんでした。しかし、蘇られたイエス・キリストに出会うと全てが変わりました。死の力が壊され、十字架の悲劇は神の勝利になりました。深い悲しみが全部消え、喜びが溢れました。そして、彼等は生きておられる救い主イエス・キリストを確かめてから、力強く主の良いお知らせを遠い国までも伝えに行きました。
しかし、いくら素晴らしくてもそれは随分前の出来事ではないですか。イースターは古い歴史です。昔の事はいくら素晴らしくても、今、私達の生活と何の関わりがあるのでしょうかと思いがちです。イエス・キリストの復活は今の私達の現実を実際に変える事が出来ますか。すなわち、イエス・キリストの復活は使徒パウロが主張したように、今、私達にも「最も大切な事」になりますか。

【恐れる事はない】
今日の御言葉に、ある大切な表現は二度も載ってあります。それは「恐れる事はない」です。主イエスが十字架で処刑されたのは金曜日で、すぐその日、お墓に納められました。そして、次の日曜日の朝、早くに二人の女の弟子達はお墓参りをしました。お墓に着くと驚くべき事が起こりました。2節を見ますとこの事が記されています。

「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵達は、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は夫人達に言った。『恐れる事はない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。』」

そして、仲間にイエスについての喜ばしい事を知らせる為、その二人の女は早速墓地を出ました。すると、今日の聖句によりますと、
「イエスが行く手に立って、『おはよう』と言われたので、夫人達は近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れる事はない。行って、私の兄弟達にガリラヤへ行くように言いなさい。そこで私に会う事になる。』」

「恐れる事はない。恐れる事はない。」何よりもこれこそが私達の為のイースター・メセージだと思います。イエス・キリストは神の力によって復活なさったので、この世に住む私達は何者をも怖がらなくて良いのです。
ちょっと認め難い事ですが、恐れは私達皆に関わります.ある調査によりますと、大低の人は次のような事を恐れているそうです。第一は自分の健康を損(そこ)なう事。また、職場と収入を失う事。死ぬ事。除け者にされて独りぼっちになる事。失敗した人になる事。自分に腹を立てる事。また、地震と癌と大きな音と飛行機を乗る事などが多くの人には結構恐ろしいそうです。

【将来にたいする恐れ】
もちろん、怖がる事は人によって違います。ある学校の先生は一年生になったばかりの自分の生徒達にリンカン大統領の勇気について教える事にしました。そして、生徒達にこの質問をしました。もしリンカン大統領に一つの質問だけが聞けるとしたら、その質問は何ですか.一人の生徒が手を上げてこのように答えました。「僕はリンカン大統領にこの質問をします。『大統領も一年生になったばかりの時、恐かったですか。』」

恐れは人によって違いがありますが、誰でも持っていると思います。ある人は恐れを感じすぎて、精神的にも肉体的にも病気になります。そして、恐れは私達から生きる喜びを奪うので、生き甲斐を感じなくしてしまいます。また、恐れる事はかなりのエネルギーがいりますので、恐れていると私たちは疲れのため自分の毎日の仕事が積極的に出来なくなります。ある場合は私達を無力にしてしまいます。
言うまでもありませんが、恐れにも一定の効能があります。恐れは私達を興奮させ、危機の時、その危機の扱いに集中出来る本能なのです。ある時は必要ですけれども、度々その状態だったら、絶対に害になります。

愛する皆さん、イエス・キリストの復活は私達の無駄な恐れを取り除いて下さいます。何故なら、主の復活は私達の将来を保証しますからです。主イエスを信じる者は将来の事を心配しなくても良いのです。

【最大の恐れ】
恐らく、人間は将来の事の中で死ぬ事は一番脅す力があるかもしれません。考える以上に、死の恐れは私達の行動と考えに影響します。何故なら、多くの人には、死後の状態が全く未知であります。そして、その状態はあんまり望ましくはない可能性があるから、心配になります。しかし、イエス・キリストの復活は死の恐れを征服して下さいます。愛する全能の神は主イエスを死から蘇らさせました。そして、主イエスが約束した通り、その同じ力で神は御自分の御子を信じる者も永遠の命に復活させて下さいます。死は新しい命の門になります。そして、その死後の命は思いもよらない素晴らしい存在です。私達の造り主、愛の神の直接の御前に出て、私達は主によって完全にさせられ、大変恵まれた状態です。

【復活の主と共に】
病気や悲しみや恐れなどが全くない永遠の楽しい生活です。イエス・キリストを信じる者には死は待ち望んでいる永遠の命の入り口になりますので、恐れません。使徒パウロが書いた通りです。「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬ事は利益なのです。」(フィリピ1:21)

あるキリスト者は飛行機を乗るのはあんまり好きではありません。特に彼は揺れる事が恐いです。ですから飛行機に乗る度に自分にこの質問を問い掛けます。「飛行機に乗ったら最悪のシナリオは何ですか。」その答えはもちろん「飛行機が空から落ちて、陸に衝突し、皆が死にます。」それから、彼まもう一つの質問を自分に聞くのです。それは「あなたは死ぬ覚悟が出来ていますか。」答えは「死んだら行き先を知っています。イエス・キリストは御自分の復活によって私の為に死の力を壊して下さいましたので、必ず約束通りに天国に行きます。」そう言う事を思い出すと大きな平安が与えられるとその人は言います。
私たちは主イエスの復活のお陰で将来の事を恐れなくても良いのです。蘇られた主イエスは私たちと共にいて、死の力さえも壊してくださいました。

【過去の不安も】
愛する兄弟姉妹、私たちイエス・キリストを信じる者は将来の事だけではなく、過去の事も恐れる必要がありません。自分が過去に行った事が心配になりませんか。
恥ずかしい事、人から隠したい失敗の事、また犯した罪の事をいまだに気にしていますか。その事があって、神の愛と赦しは自分自身まで届く力がないと疑ってはいないですか。実は、そう言う恐れを持つ人が大勢いるのです。

しかし、その恐れに対してもイースターはとても良いを知らせです。神様は主イエスの復活を通して、御子の私達の為の贖い死を承認して下さいました。罪のないイエスは私たちの罪の為に支払うべき罰を十字架で御自分の身に受けたのです。イエスは私とあなたの身代わりになりましたので、私たちは全ての罪から神によって赦されています。「イエスを信じる者は誰でもその名によって罪の赦しが受けられる」と聖書に約束されています。(使徒言行緑10:43) また、イザヤ書に記されているように、「主は言われる。たとえ、お前達の罪が緋のようでも、雪のように白くなる事が出来る。たとえ、紅(べに)のようであっても、羊の毛のようになる事が出来る。(1:18)」

心から罪を悔い改め、イエスを信じる者には神の赦しが本当にあります。どんな罪を犯しても神は主イエスの購いの為、その罪を赦してくださいます。さらに、神はイエスの復活を通してその事実を承認して下さいました。それこそが私達の為のイースターの良いお知らせなのです.

【主イエスはご自身の聖霊を残してくださった】
最後に、主の復活のお陰で私達は恐れなく現在に向かう事が出来ます。何故なら、蘇られた主イエスは私達を助ける御自分の霊を残して下さいました。ヨハネによる福音書にこの事が記されています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子達はユダヤ人を恐れて、自分達のいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわきばらとをお見せになった。弟子達は、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼等に息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。』」(ヨハネ20:19~23)
前もってイエスは聖霊の働きを弟子達にこのように説明しました。「弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたに全ての事を教え、私が話した事をことごとく思い起こさせて下さる。」(ヨハネ14:26)私たちと共にいて主イエスの霊は必要な勇気と知恵と力を与えて下さいます。現在の事はどんなに難しくても主イエスの霊が私達を支えて見守って下さいます。その故に恐れなく現在を向かう事が出来ます。
愛する皆さん、主イエス・キリストの復活のお陰で私達は将来の事も過去の事も、また現在の事も怖がらなくても良いのです。ですから、我々は大きな勇気と平安を持って生きられます。「恐れる事はない。恐れる事はない。」何よりもこれこそが私たちの為のイースターのメセージであります。

2005年03月27日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

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