神への献身ーダビデ王に見る感謝・喜び・希望の人生ー 市川康則 神戸改革派神学校教授

◆神殿建築のための寄贈     歴代誌上29章1~9節
1:ダビデ王は全会衆を前にして言った。「わが子ソロモンを神はただ一人お選びになったが、まだ若くて力弱く、この工事は大きい。この宮は人のためではなく神なる主のためのものだからである。
2:わたしは、わたしの神の神殿のために力を尽くして準備してきた。金のために金を、銀のために銀を、青銅のために青銅を、鉄のために鉄を、木材のために木材を、縞めのうの石、象眼用の飾り石、淡い色の石、色彩豊かな石などあらゆる種類の宝石と大量の大理石を調えた。
3:更にわたしは、わたしの神の神殿に対するあつい思いのゆえに、わたし個人の財産である金銀を、聖所のために準備したこれらすべてに加えて、わたしの神の神殿のために寄贈する。4:建物の壁を覆うためにオフィル産の金を三千キカル、精錬された銀を七千キカル寄贈す。
5:金は金製品のため、銀は銀製品のためであり、職人の手によるすべての作業に用いられる。今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。」 6:すると、家系の長たち、イスラエル諸部族の部族長たち、千人隊と百人隊の長たち、それに王の執務に携わる高官たちは、自ら進んで、7:神殿に奉仕するために金五千キカル一万ダリク、銀一万キカル、青銅一万八千キカル、鉄十万キカルを寄贈した。
8:宝石を持つ者は、それをゲルション一族のエヒエルの手に託して主の神殿の宝物庫に寄贈した。
9:民は彼らが自ら進んでささげたことを喜んだ。彼らが全き心をもって自ら進んで主にささげたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。


【Ⅰ.王としてのダビデの願い―神殿建立】
 
歴代誌上29章1‐20節は、ダビデ王による神殿建立の準備と、その直後のダビデの祈りを記しています。これは、神に対するダビデの熱心さと献身振りがよく現われた言動です。しかし、このダビデの言動は単に熱心な献身振り、あるいは民への良き模範ということだけではなく、実に、神の前における王たる者の謙遜で従順な行為です。ここに記されるダビデの神殿建設に向けた大いなる寄進には背景があります。それは、全会衆とソロモンとに対するダビデの説明の言葉に明らかですが(28:1‐10)、その元の出来事は17章1‐15節に記されています。ダビデは元々、神殿を建てること自体を発願しました(17:1以下)。これは王であるダビデにとって重要であり、また当然でした。
 古代国家は押し並べて祭政一致国家でした。特に異教国では王が神格化されることが多く、また宗教家が政治に関与することも普通でした。たとえ実際には政治権力者と宗教従事者が異なっていても、しばしば、そのいずれかがもう一方の領域にも関与し、あるいはは支配していました。イスラエルではもちろん、王は直接に宗教祭儀に従事しませんでしたが、しかし、政治であれ、宗教であれ、他の何であれ、すべては主なる神の統一的支配の下に置かれていました。
 
イスラエルの民はダビデ王の時代に初めて、国内統一および外国との和平が成りました。既に移動遊牧社会から農耕を主とした定住社会を形成し、政治体制もその時代に適合して、隣接列強諸国のそれと相俟って、王朝国家となりました。この国には確かに真の神がいますということを、時代状況にふさわしい方で表現することが必要でした。もちろん、生けるまことの神は天地の創造者であり、万物を超越しておられますから、幕屋であろうが、神殿であろうが、神の臨在と働きには何の変わりもありません。幕屋から神殿に変わったところで、神の救いの効果に違いが生じる訳ではありません。しかし、諸国民の只中にいるイスラエルにとっては、神殿と幕屋とでは、その政治的、社会的、心理的影響は大きく異なります。
神殿は、イスラエルにおける主なる神の臨在と救いの、旧約時代における最も典型的な象徴でした。したがって、神の救いの歴史的進展という観点からも、統一王国の成立にとって、神の臨在と救いの象徴形態が幕屋から神殿に変わることはふさわしいことでした。それゆえ、ダビデは王としての権限と責任から、神殿建立を目指した訳です。

【Ⅱ.神の「否」の答え―ダビデの応答と結果】
 
しかし、ダビデの願いに反して、神はそれを許されませんでした。ダビデの神殿建設の願いと神の不許可はサムエル記にも記されますが(サムエル記下7:1以下)、この歴代誌の箇所では「わたしのために住むべき家を建てるのはあなたではない」(4節、強調表現)という主の意志が明確に記されています。これは、歴代誌がダビデ王朝とユダ王国の正統性を弁明する「正史」であることを考えると不思議です。
 ところが、ダビデは神の「否」を聞いたとき、即座にそれを受け入れ、それに従いました。彼の祈り(歴代誌上17:16‐27)はそのことを明らかに物語ります。彼はそのとき、神の器としての自分の「分」をわきまえたのです。神は歴史の中でイスラエルと共に長く歩んでくださり、イスラエルの救いのために働いてくださいます。しかし、ダビデは―他の誰でも―神の救いの歴史の中の、またそのための僅かな一コマに過ぎません。
実に、主なる神だけがイスラエルのまことの王であり、ダビデはその方の地上の器に他なりません。この真摯な態度が神殿建築準備の後の祈りによく表われています(29:15)。神の器にも限界があります。それを見極め、受け入れるのが、本当の神の人です。
 
かのモーセも神の大いなる器、神の救いの歴史において一つの時代を画した人です。しかし、イスラエルの民をエジプトからシナイ山にまで導き、神の契約授与の仲保者となったモーセでさえ、約束の地には入れませんでした―彼の意に反して! ピスガの頂で遥か眼前にそれを眺望するに終わったのです(申命記34:1‐4)。神の人と言われたモーセもまた、神の永遠の臨在と支配に比べた人間の命の短さを告白しました。これを知ることが知恵の初めです(詩編90:1、2、4‐6、9‐10、12)。
 神の前での真のへりくだりと従順とは、神のみ業の器としての自分の召し、その特権と責任の限界を受け入れることです。ダビデは神の「否」を受けて、神のみ業の進展における自分の位置と使命を正しく知り、それを引き受けたのです。それが、神殿建築自体ではなく、ここに記されるように、そのための資材の準備・寄進と、家臣への率先垂範なのです。神殿建設は、神が我が子ソロモンに与えられた特権と責任である―ダビデはこれを率直に受け入れたのです。
 
ダビデに対して「否」を発せられた神は、しかし、その後で、ダビデの子たちの中から彼の後継ぎを起こし、その後継ぎの王国を確立してくださることを、そして、その後継ぎたる者が神のために家を建てるということを明言し、約束されました(歴代誌上17:10以下)。イスラエル統一王国の祖となる光栄に浴したほどのダビデですが、そのダビデがここで学ばなければならなかったことは、彼が神のために家を建てるのではなく、反対に、神ご自身が救いの歴史の中でダビデとその王国を永遠に確立してくださるということでした。
 しかし、それなら、ダビデは何もしなくてもよく、ただ神様任せでよいのかというと、決してそうではありません。神の救いの歴史の中で彼が果たすべき分、すなわち、神がご自身のみ業の遂行において彼を用いられる部分もちゃんとあります。

それが、神殿建立のための準備、資材の奉献でした。ここに記されるダビデの膨大な量の捧げ物は、まさにダビデの献身の証です。しかも、ダビデも家来も、多くを捧げたことについて大いに喜びました(9節)。しかし、彼らが自分たちの捧げものを大いに喜び得たのは、ダビデが神の「否」に対して率直に、謙遜に服従したことの実りでした。
 29章は歴代誌では、ダビデの生涯と事跡を記す最後の箇所ですが、ここに見るのは、神に対するダビデの感謝と喜びと希望の祈り(10‐20節)です。イスラエル正統王朝の祖、ダビデの生涯は、主への謙遜と献身、そこから来る感謝と喜びと希望で閉じられました。まことに幸いな神の人でした。神の「否」を信仰によって受け止め、自分自身の立場・使命を的確に知り、それにふさわしく生きた人でした。

【Ⅲ.ダビデの子、イエス・キリスト―神の約束とダビデの願いの成就】
 
神がダビデの子孫から真の後継ぎを起こし、その者が神のために家を建てるという神の約束は、時至ってイエス・キリストによって実現しました。「この神殿を壊しなさい。そしたら、三日でそれを立て直す(起こす)」(ヨハネ2:19)と言われたダビデの子、イエス・キリストによって、神の約束は成就したのです。実に、イエス・キリストこそ、神がその民と共におられること―インマヌエル!―を歴史的に現実化、具体化された方です(マタイ1:23)。神はその民に、キリストにおいてご自身を最高度に、真実に、人格的な仕方で啓示し、提供されました(ヘブライ1:2、3)。キリストはその地上生涯において、罪人のすべての罪を担い、それに対する神の刑罰を受けてくださり、罪の赦しの基を据えられました。そして、死者の中から復活し、信じる者にその復活の命を与えて、神の前に、神と共に真に生きることができるようにしてくださいました。キリストは神と罪人の仲保者となって、人が神に立ち返り、神が人と共におられる現実を造り出してくださいました。キリストはまさに、神殿が象徴し約束していたものを成就されたのです。
 しかし、ダビデがそうであったように、キリストもまた、神の救いの歴史の中で一定の限界・制約を担われたのです。キリストは確かにすべての罪人のために一回的に真の贖いを果たされましたが、しかし、その贖いが歴史の中で現実に実を結ぶのは、すなわち、個々の罪人が実際に、確実に贖われるのは、御霊の神がキリストの弟子たちの宣教を用いて働かれることによってでした。キリストのみ業なしには、救いはあり得ませんが、しかし、弟子たちの宣教を通した聖霊の働きなしには、キリストのみ業は実を結びません。キリストは地上在世中に弟子たちに、彼らがご自身よりもっと大きな業をすることを予告、約束されました(ヨハネ14:12)。こうして、キリストは父なる神が委ねられた務めを過不足なく知り、実行されたのです。すなわち、神の救いの歴史の中でのご自身の位置・役割を的確に認識し、引き受けられたのです。
 
私たちはキリストのみ業ゆえに救われ、生かされています。そして、キリストの弟子、神の器たらんとしています。私たちに必要なことは、キリストが教会において、また教会のために働かれる中で、自分がどのような位置にあるのか、自分に今何ができるのか、何が求められているのかを絶えず問い、主に祈り、主から示され、それを受け入れるということです。献身とは、独り善がりの決心と熱心さのことではりません。神の御旨を受け入れ、それに自分を適合させること、すなわち、自分に対する神の召しの内容・範囲・程度・限界を誠実に受け止め、それを実行することに他なりません。私たちは自分の"目の黒いうちに"何もかもすることはできません。いつ何を、今何をなすべきか・なし得るかを知り、そして実行できるように、主の助けと導きを求めましょう。

2005年02月27日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 歴代誌上

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/21