罪と弱さの中にも神の恵みが!―名将ダビデの人口調査令― 市川康則神戸改革派神学校教授

2004年7月11日市川康則神戸改革派神学校教授


◆ダビデの人口調査          歴代誌上21章
1:サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。 2:ダビデはヨアブと民の将軍たちに命じた。「出かけて行って、ベエル・シェバからダンに及ぶイスラエル人の数を数え、その結果をわたしに報告せよ。その数を知りたい。」 3:ヨアブは言った。「主がその民を百倍にも増やしてくださいますように。主君、王よ、彼らは皆主君の僕ではありませんか。主君はなぜ、このようなことをお望みになるのですか。どうしてイスラエルを罪のあるものとなさるのですか。」 4:しかし、ヨアブに対する王の命令は厳しかったので、ヨアブは退き、イスラエルをくまなく巡ってエルサレムに帰還した。 5:ヨアブは調べた民の数をダビデに報告した。全イスラエルには剣を取りうる男子が百十万、ユダには剣を取りうる男子が四十七万であ った。
6:ヨアブにとって王の命令は忌まわしいものであったので、彼はその際レビ人とベニヤミンの調査はしなかった。 7:神はこのことを悪と見なされ、イスラエルを撃たれた。 8:ダビデは神に言った。「わたしはこのようなことを行って重い罪を犯しました。どうか僕の悪をお見逃しください。大変愚かなことをしました。」
9:主はダビデの先見者ガドに告げられた。 10:「行ってダビデに告げよ。主はこう言われる。『わたしはあなたに三つの事を示す。その一つを選ぶがよい。わたしはそれを実行する』 と。」
11:ガドはダビデのもとに来て告げた。「主はこう言われる。『いずれかを受け取るがよい。 12:三年間の飢饉か、三か月間敵に蹂躙され、仇の剣に攻められること か、三日間この国に主の剣、疫病が起こり、主の御使いによってイスラエル全土に破滅がもたらされることか。』わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」 13:ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」 14:主はそこでイスラエルに疫病をもたらされ、イスラエル人のうち七万人が倒れた。 15:神は御使いをエルサレムに遣わし、これを滅ぼしてしまおうとされたが、御使いが滅ぼそうとするのを主は御覧になり、この災いを思い返され、滅ぼそうとする御使いに言われた。「もう十分だ。その 手を下ろせ。」主の御使いはエブス人オルナンの麦打ち場に立っていた。
16:ダビデが目を凝らすと主の御使いが地と天の間に立ち、剣を抜いて手に持ち、エルサレムに向けているのが見えた。粗布に身を包んでいたダビデと長老たちは地に顔をつけて伏した。 17:ダビデは神に言った。「民を数えることを命じたのはわたしではありませんか。罪を犯し、悪を行ったのはこのわたしです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。わたしの神、主よ、どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように。あなたの民を災難に遭わせないでください。」

【はじめに】
 歴代誌上21章にはダビデ王による人口調査令とその結果が記されます。不思議なことに、これはダビデの生涯における最大の罪の一つです。この罪に対する処罰として、7万人ものイスラエル人が倒されました。ここには神の怒りの大きさが反映しています。それにしても、なぜ人口調査が罪なのでしょうか。何が問題となっているのでしょうか。

【Ⅰ.家臣の忠言を退け、王命を強制するダビデ】
 将軍ヨアブは、ダビデ王の命令が神に対する罪と察知し、ダビデにその実行を思い止まらせようとしました(3節)。しかし、ダビデはその言葉も厳しく(4節)、王の権威をもってそれを退けました。大喝一声「重ねて申するな。予の命じゃ!」とでも言ったのでしょうか。なぜ人口調査が罪なのかは明らかではありません。調査自体が罪である訳ではないでしょう。神はかつてそれをモーセに命じられたこともあります(民数記1:2以下)。人口調査は徴税・徴兵などの基になります。国勢・国力(軍事力、経済力)の把握・確認は、王の当然の任務であります。ダビデ王朝は徐々にその基礎が築かれつつあるとは言え、なお、確立していません。王位がダビデの息子たちに継承されていってこそ、ダビデ王朝の確立・安泰と言い得ます。それゆえ、人口調査はダビデにとって当然のことでした。
 
ダビデが家来の言葉に聞き従った例を見ますと、サムエル記下19章1節以下に記される記事で、ダビデはヨアブの諫(いさ)めの言葉に聴き従いました。
息子アブサロムの謀反に際し、家来たちの大きな働きによる自軍の勝利にもかかわらず、ダビデはそれを喜ばず、敗北した敵軍の大将、我が子アブサロムの死を悼んで号泣し、取り乱します。彼は私情に振り回されて、王として今なすべきことを自覚していません。このままでは、民心はダビデを離れ、彼を中心とする王国が乱れることは必定。ヨアブはこれを由々しきことと見て、王に諫言しました。ダビデも自分の言動が不適切であることを知っていたがゆえに、ヨアブの言葉に従いました。

また、ダビデはかつて自分の家来ウリヤの妻に邪恋を抱き、姦淫に及びます。そして、その発覚を恐れて隠蔽工作をしますが、それが失敗すると、計略をもってその家来ウリヤを戦死させます。このおぞましい罪のため、ダビデは預言者ナタンを通して厳しく叱責され、神の処罰を受けることになります(サムエル記下12章)。このとき、ダビデは自分の愚かさを認め、罪を告白しました。戦勝に際しての号泣も、姦淫・戦死も、王としてあるまじき言動であることをダビデはよく分かっていたので、ヨアブやナタンから非難されても抗弁できず、それに応じる以外にはなかったのです。
 
しかし、人口調査はそうではありません。人口調査は王としての当然の権能行使であるという認識から、ダビデはその命令を強行し、ヨアブも抵抗できませんでした。しかしながら―結果的に知り得たのですが―それはヨアブの洞察のとおり、神への罪でした。
 この度の人口調査で本当に問題になっているのは、イスラエルの民の真の王は誰かという、イスラエルにとって最も本質的な事柄でしょう。それは言うまでもなく、主なる神です。けれども、ダビデはこのことをどれほど自覚していたでしょうか。

人口調査令の記事はサムエル記下24章にも記されるが、この歴代誌では、それがサタンの誘惑の結果であると明記されています(1節)。これは、人口調査令が―この脈絡では―神に対する重大な罪であることを最大級に強調するものです。ダビデ自身の意識においては、自分が出した人口調査命令がサタンの誘惑の展開であるなどとは、全く思いも寄りません。しかし、物語の読者には初めから、これが神への敵対行為、すなわち罪であることが明らかにされているのです。
 サタンとは、堕落した天使の頭です。したがって、サタンはその存在自体が神への敵対・反逆という性質を持っています。それゆえ、神に従うべき人間を誘惑、攻撃して、神に不従順にさせ、そうして神の最初の計画を失敗させようと目論(もくろ)むのです。代表的な事例を挙げますと、例えば、アダムとエバが禁断の木の実を食べたこと、ユダがキリストを裏切り、ペトロが否んだこと―これらは正にあってはならない大罪です。それぞれ、当事者たちの責任は免れませんが、しかし、それらの罪がサタンによって引き起こされたと記して(創世記3:4、5、ルカ3、31)、その由々しさを最大級に示しています。
 
さて、ダビデの人口調査がサタンの誘惑によるとは、言い換えますと、無意識のうちにイスラエルの真の、究極的の王であると、ダビデに錯覚させたということです!この後、王位はダビデの子孫により世々継承されていきますが、しかし、その全過程で真の王は主なる神だけです!イスラエルの歴代諸王は、真の王なる神の地上的器に過ぎません。主はその王的支配を彼らの政治を通して遂行なさいますが、しかし、決してその王権を彼らに委譲されるのではありません。ダビデもこのことにおいて例外ではないのです。ダビデはそのことを徹底して知らなければなりませんでした。

サタンの誘惑の中心は、人間が神に背くこと、言い換えると、真の神ではなく、この自分が王であると思い込ませることによって、神に不従順にならせることです。それは当然、神への罪です。

【Ⅱ.怒りを発しつつも、恵みを確保される神】
 人口調査の罪の結果、神の裁きによってイスラエルの中で7万人が倒れ、ダビデの犠牲となりました(7節)。人口や国力に満足、安心したであろうダビデに対して、神は多大の被害・損失を与えられました。ダビデの出鼻を挫かれたのです。このとき、ダビデは自分の行なったことが本当に神への不信仰、神に対する罪であったことを痛感します(8節)。しかし、主なる神はダビデの罪に対して大いに怒る中で、なお、彼が神に対して信仰的判断・決断をなし得るように、恵み深く導かれます。ダビデは主の怒りを被る中で、預言者ガドを通じて主との対話に導かれ、自己の罪を悟り、悔い改めることができました。
 
神は先見者ガドを通じて、ダビデに対する刑罰として、3種類の中から一つを彼自身に選ばせられました。大罪を犯したダビデに対して、神は決して一方的に、すなわち選択の余地なき仕方で罰を与えられませんでした―そうすることも当然、おできになったはずなのに!神はなおもダビデに判断・選択の余地を確保して、彼がその限られた条件・状況下にあって、最大限の信仰を発揮できるようにされたのです。これはまさしく神の憐れみ以外の何ものでもありません。それで、ダビデも神の憐れみを最も感じ取れるものを選択したのであります。
 
3年間の飢饉、3ヶ月間の敵の蹂躙、3日間の疫病はいずれも、神の刑罰です。ダビデは人の手にかかるよりも神の御手に陥るほうが良いと言って、3日間の疫病を選びました(13節)。これは、疫病が神の手で、飢饉と蹂躙が人の手ということではないでしょう。どれを選んでも、神の怒りであり、極めて厳しいものです―3日間の疫病ですら「主の御使いによってイスラエル全土に破滅がもたらされる」(12節)と言われるほどであります。3日間の疫病を選んだのは、疫病そのものが他の二つよりも好ましいからではなく、おそらく、神の裁きが最短期間だったからでしょう。
 
神の刑罰を選択する際のダビデの言葉は、神の怒りに直面しているその只中で、なお、大胆に神に近づき、神に寄り縋(すが)ろうとする信仰の姿勢を示します。すなわち、神は怒りにあってもなお、ご自身の民に対して慈しみ深くあられるという信仰です。これは、先に神を忘れ、人間的力に依り頼んだ人口調査の行為とは正反対です。

【Ⅲ.神の怒りに直面して罪を悔い改めるダビデ】
 ダビデは罪に対する神の裁きの宣告を受けても、正にその只中で、神の憐れみを信じ、それに寄り頼んで、罪の真実な悔い改めへと導かれます。罪の深い自覚と真実な悔い改めは、神の刑罰が自分(と自分の家)にだけ下り、民には臨まないように懇願して、民のために執り成していることに証しされます。これもまた、王としての権威を家臣に強制した人口調査の行為とは対照的に、国民を代表し、国民に代わって、罪とその悲惨の責任を引き受けようとする、まことに神の民イスラエルの王にふさわしい自覚と言動であります。
 
さらに、ダビデの悔い改めの真実性・真剣さは、ガドを通じて与えられた主の(御使いの)命令に従い、エブス人、オルナンの麦打ち場を高額で買い求めたことに示されます(24、25節)。もちろん、ダビデは金を支払って―自分の側で犠牲を払って―神の赦しと憐れみを買い取ろうとしたのではありません。ダビデとイスラエルへの赦しは、あくまでも主なる神ご自身の主権的、先行的な憐れみによるのであって(15節)、決してダビデの償いの大きさなどによるのではありません。しかし、神による罪の完全な赦しは決して、安っぽい恵み(チープ・グレイス)ではありません。神の赦しの恵みは、それを受け取るのにふさわしい人格的関わり―感謝と献身―を求めるのです。オルナンはダビデに対して、王の要求するものをすべて献上すると申し出ましたが、しかし、ダビデはそれに甘んじることなく、その時の状況の中で最善を尽くして、主の求めたもうたものを入手したのです。これもまた、人口調査令のように、王権を濫用したのとは対照的に、謙遜で自己犠牲的な姿勢です。

【Ⅳ.神の赦しを信じて、祭壇を築くダビデ】
 人口調査を軸とした神とダビデの関わりの物語(21:1‐22:1)は、歴代誌におけるダビデの生涯と事績の記述の最後を成しており、この後は、神殿建立関連の記事が集中的に記されます(22‐29章)。そして、神殿建立準備の完了をもって本書上巻は閉じられ、ソロモン以下、歴代諸王の事績を記す下巻へと続いていきます。
 
今学んでいる箇所では、人口調査の大罪の赦しと、犠牲奉献のための場所の獲得、祭壇造営、および実際の犠牲奉献とが結び付けられています(18節以下)。実は、ダビデが購入した場所は、後にエルサレム神殿建立の場所となりました(22:1)。エルサレム神殿こそは、主なる神のイスラエルにおける確かなご臨在と、彼らの真の贖(あがな)いとを意味し確証するものです。

かつて、主なる神はモーセを通してイスラエルに、将来必ずご自身の名を置くべき所を選ばれるがゆえに、そこで神を礼拝するように命じられましたが(申命記12:5、11、14、18、26)、今、その約束の実現に向けて、具体的な大きな一歩が踏み出されようとしています。その場所はまた、後にソロモンが、罪を犯したイスラエルが悔い改めて神に祈り、神に赦されるべき所となりますようにと祈る、そのような場所であります(歴代誌下6:20他)。
 
神はダビデの罪を処罰すると共に、それを全く赦し、その赦しの手段として祭壇造営と犠牲奉献を求め、かつそれを可能にされました。ダビデは自ら赦されましたが、そのとき彼は神の民を代表して立っています。そして、彼は自らの罪の責任を引き受け、イスラエルが神の罰から守られるように執り成しました。こうした一連のダビデの言動とダビデを巡る出来事は、遠い将来「ダビデの子」(サムエル記下7:12)として来たりたもう真の救い主、イエス・キリストを、私たち、新約聖書時代の読者に予期させて余りあります。
 
キリストこそ、自分の命を犠牲にして、私たちの身代わりに神の刑罰を受けてくださり、私たちの真の救いを実現してくださったのです(ルカ23:34)。神は、サタンに誘惑され、神に背いたすべての人間を、キリストによって救ってくださるのであります。私たちはあらゆる状況において、神の大きな憐れみの御手に寄り頼むことができるのです。そして、このキリストを我々に与えられたのは、実に神ご自身なのであります。

【Ⅴ.ダビデ王の犯した罪からの教訓・応用】
 例えば、教会における牧師と長老たちの対立や、教会内での役員と会員の対立は珍しくないことです。聖書に反しているとか、私情が絡んでいるということが誰にも明らかな場合は、他の人々の諫言に聴き従う以外にありません。しかし、事柄がすぐに聖書的であるか否かが明らかでないとき、むしろ、それ自体は正当なことであると思われるとき、特に自分の職務に忠実であろうとして、また教会のために良いことであると信じ切って、意見を主張し、政策を提案しているときは、他人の言葉は耳に入りません。とりわけ、自他共に(問題となっている事柄の)"プロ"と認める人は、他人の"素人"意見を受け入れることができない場合が多いのです。しかし、結果的に主の御旨に適(かな)わず、教会にとって弊害となるということは珍しくありません。

最善を尽くしている(と思っている)ときでも―そのようなときにこそ!―、本当に主を畏(おそ)れ賢(かしこ)み、主に寄り頼もうとしているのか、あるいは、単に自分の職務上の権能を行使しようとしているのか、自分の心を深く探ることが必要です。そのような謙遜と忍耐が不可欠です。自分の領域とその権利においても、神がその領域と権利の本当の所有者・行使者であることを忘れてはなりません。主はこの自分の働きを通してご自身の働きをなさいますが、しかし、その権利を私に委譲された訳ではありません。人の言葉が耳に入らないときは―人口調査を強制したダビデのように―間違いなく、自分が王に―神に―なっているのです。

2004年08月08日 | カテゴリー: 旧約聖書 , 歴代誌上

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/18