「新しい教会へのメッセージ・パートⅡ」
グラハム・スミスCMS宣教師KGK主事

◆テサロニケでのパウロの宣教      1テサロニケ2章1-16 1:兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。 2:無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。 3:わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。 4:わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。 5:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。 6:また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。 7:わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、 8:わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。 9:兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。 10:あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。 11:あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に 12:呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧め たのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。 13:このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 14:兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦 しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。 15:ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、 16:異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。 しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。

【倣うもの】
有名な聖書のことばを紹介します。


「わたしがキリストに倣うものであるように、あなたがたもこの私に倣うものとなりなさい。」(1コリント11:1)

これは使徒パウロという初代教会の宣教師が言ったことばです。私に倣うものとなりなさいと。
別の箇所で、パウロはテモテという福音の働き人にこう言いました、


「信じる人々の模範になりなさい。」(1テモテ4:12)

一人の弟子であるペテロも、キリストの苦しみを模範とすることを勧めました(1ペテロ2:22)。模範を示すことや倣う者になることは、人間の成長のために重要な方法です。異文化の生活に慣れるために回りの人がやっていることを注意深く見て、同じように行動することは大切なのです。 (例え)

【変えられたテサロニケの人々】6~7節
今日は前回の学びの続きとして、テサロニケ人への手紙を読んでいます。この手紙にはテサロニケの教会とパウロの模範が示されています。1章には変えられたテサロニケの人たちの経験が書かれています。パウロはテサロニケというギリシャの町に行き、イエス・キリストについての福音を語りました。そして何人かのテサロニケの人々は、その福音を信じ、偶像から離れて、真の生ける神に立ち帰りました。考え方と生き方は180°転換しました。テサロニケに起こった出来事、すなわち彼等の回心は、地域に伝えられました。テサロニケの人々は御言葉を受け入れる模範になりました。6―7節「。。。」

【地域の模範となったテサロニケの教会】
西谷聖書集会はテサロニケの教会に似ています。始まったばかりの集会です。ここに集まっている方が主に倣う者となり、この地域の模範になったらいいなーという思いで1章を学びました。

同じ思いで、2章を学んでみたいと思います。パウロの働きの模範と、テサロニケの人々の応答の模範から学びます。パウロと主イエスキリストに倣う者になることと、テサロニケの教会を模範とすることを願っています。

<パウロの働きの模範>
まず、パウロの働きの模範を見ましょう。2点あります。福音を伝える模範と、生活において愛する模範があります。8節にはその2点がまとめられています。
8節:「わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んであたえたいと願ったほどです。あなたがたは私たちにとって愛する者となったからです。」パウロにとって福音を伝えることと愛することは深い関係がありました。

1. 福音を伝える模範
1節―2節。
パウロは何をしたでしょうか。「神の福音を語った」その最初の働きは使徒言行録17章に書かれています。パウロは3週間にわたって、聖書から、キリストについて、特に十字架と復活について、説明し、論証し、語りました。
迫害のなかで語りました。大胆に語りました。

パウロは福音を語る責任があるということを信じて、どうしても語るべきだと思いました。4節「福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。」
これは強い言い方ですね。皆さんはどうですか。パウロとおなじように言えますか。あなたにとって福音はどんなものですか。ゆだねられたものですか。ゆだねられたものというのは、用いることが期待されている、という意味が含まれています。福音をどのように用いているでしょうか。イエスキリストはそのことについて例え話を話されました。私の説明よりも、そのストーリーそのままを聞いてほしいと思います。どうぞお聞きください。


◆「タラントン」のたとえ         マタイ25:14―30。
14:「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15:それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16:五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17:同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
18:しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
19:さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
20:まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』 21:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 22:次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』 23:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』 24:ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、 あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25:恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』 26:主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。 27:それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。 28:さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。 29:だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 30:この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

インパクトがある話ですね。クリスチャンであるなら、パウロと同じように福音という「タラント」がゆだねられています。ゆだねられた福音は自分のものだけではなく、分かち合うものです。どんどん分かち合いましょう。

注意すること:責任について
ここでちょっと注意をする必要があります。日本の文化では、責任と言われると義務感と結びつけてしまいがちです。義理人情という世界でしょうか。たとえば、神さまは私を愛して下さっているから、救って下さったから、義理があるので福音を語ろうとします。そうするとプレッシャーを感じて、いやな気持ちで福音を伝えようとします。また、福音を語っていない場合、このような説教を聞くと、罪悪感を感じてがっかりさせられます。確かに福音を語る責任がありますが、福音は喜びのメッセージです。ゆだねられているものは、神との平和の関係、神の愛、神をほめたたえるものです。その福音のすばらしさを思いおこすと義務からではなく、喜びをもって、神を喜んで伝えたくなります。3―6節で、パウロは彼自身の語る動機について話しています。神に認められた者として、純粋に語ろうとしています。キリスト教は他の一般の宗教と違い、ルールを守るべき、良い行いをするべきものではなく、恵み、自由、赦し、神と人格的に交わるものです。

まとめますと、パウロの働きの中心は福音を語ることでした。私が働いているところ、KGK、キリスト者学生会では、それは「言葉による証し」と言われます。口で、イエス・キリストについて分かち合うことです。

2..生活において愛する模範 パウロの働きにはもう一つの点がありました。それは「生活による証し」と言います。生活のおいて神の愛を紹介する。パウロは振る舞い、行動によって福音の模範となりました。
パウロはテサロニケの人たちと、どのような関わり方をしたでしょうか。

*神に認められた関わり方。
パウロは神の前に存在し、神の前で働いているという強い意識がありました。これは人間関係のために役にたつことです。すべての行動は神の前にあると意識すれば、神を喜ばせようとすれば、嘘をつけないでしょう、悪口を言わないでしょう、子どもを怒らせないでしょう、妻を批判しないでしょう、お金をむだに使わないでしょう。改革派教会の伝統では「神の御前」、ラテン語でコラムデイオ、という姿勢を重んじています。パウロからとったものでしょう。模範を示すためにまず神の前でします。それができなかったら、人の前では無理でしょう。

ここで、もう一度注意する必要があります。神の前という意識を強めた結果、恐れてしまうことは良くありません。べつな意味では、神の前というのは安心感を与えるものです。神に認められているということは、神の主権の下でやっているという意識です。神の愛の中に生きているという意味です。

*仕える関わり方
次に、パウロは権威があったにもかかわらず、それを主張しませんでした。これは特にリーダーが聞くべきことです。聖書的なリーダシップはこの世のものと違い、支配するよりも、仕えることです。パウロの模範はキリストの模範に従って仕える模範でした。テサロニケの手紙にはその仕える姿勢は明らかです。彼は言葉使いに注意しながら、自慢せず、優しく、親切に、愛をこめて関わりました。その愛は具体的に実際生活の中で示されました。
例えば、パウロは最初、テサロニケの人々に負担をかけないため、サポートを受けずに、別な時に仕事をました。今日の日本におきかえると、パウロは夜にバイトをした、ということです。KGKでは、何人かの卒業生がパウロと同じようにバイトをしながら学内伝道を手伝っています。その姿を見ると励まされます。将来に対する不安があるでしょう。でも、神さまにゆだねて、若うちにできる奉仕をしています。退職してからもこのような「負担をかけない」奉仕ができます。伊丹教会のメンバーでギデオンの聖書を配っている人がいます。感謝です。ほかの可能性もあると思います。福音の働きは牧師や宣教師だけの働きではありません。教会の成長のために皆がキリストの体の一部として神の愛を示す役割があります。私の働きのひとつはクリスチャンの学生を訓練するということです。4―5月に6回シリーズのキリスト者の成長とケアの学びを担当しています。学生が求めていることはフォローのためのやり方です。どうしたら、学内グループのメンバーを励ます事ができるでしょうか。マニュアルか手引きが欲しいようです。でもクリスチャンのケアは手引きに従うことでなくて、姿勢においてやることです。ですから、パウロはテサロニケの人々に、敬虔に、正しく、非難されることのないように振る舞いました。ある時は母親のように、ある時は父親のように関わりました。神の御心にそって歩むように、ふさわしい模範を示しました。

8節のことばをもう一度見ましょう。「わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んであたえたいとねがったほどです。あなたがたは私たちにとって愛する者となったからです。」自分の命さ与えたいほど。すごいですね。もちろん、パウロは死んだわけではありませんが、生活のすべての面においてテサロニケの人々に仕えました。福音というメッセージを宣言することは何よりも大切ですが、生活において神の愛を示すことも大事です。

*いのちをかけるもの
KGKの活動を通して、クリスチャンになった学生の救いの証しを聞くと、信じる決心のきっかけは「交わりのなかで神の愛を実感した」という証しが多いです。すなわち、日常生活のなかで、クリスチャンと接して、学内グループやキャンプや教会の交わりに受け入れられて、その環境のなかで福音を聞いて信じたくなるということです。神の愛を伝えるために、クリスチャンはパウロのように命を与える程、ノンクリスチャンの友人と関わる必要があります。この難しさはわかります。時間的に無理な場合もあります。態度の問題です。伊丹教会では、来週特別伝道集会が行われます。私は近所のお父さんたちをさそいたいと思っています。何人かの知り合いがいます。案内をポストに入れることは簡単ですが、彼等の世界に入って、信頼関係を築いて、そのなかで彼等の課題を用いて福音を紹介することはもっと難しいです。命をかけるものです。

宣教師は偉いと思われますが。違います。皆さんが自分が遣わされたところ:学校や家庭や職場のなかで目立つほど、クリスチャンとして神の価値観にもとづく生活をして、そして定期的に、口でキリストについて証しすることはもっと偉いです。

*目立つほどの関わり方
パウロの関わり方は目立つほどでした。それは次の表現からわかります。1節「あなた方自身が知っているように」と2節「知ってのとおり」5節「あなたがたが知っているとおり」9節「私たちの労苦と骨折りを覚えているでしょう」10節「私たちが・・・ふるまったか証しし」11節「あなたがたが知っているとおり」
このような言い方から教えられる事は、パウロのこのような生き方は、すべてのクリスチャンにふさわしいものだということです。パウロの模範は例外ではなくて、普通です。

【すべての教会に当てはまりま】
14節によると、テサロニケの教会は諸教会に倣う者となりました。パウロが勧めているものはすべての教会に当てはまります。当時の地域の教会やテサロニケの教会だけではなく、西谷集会も含まれています。

<テサロニケの教会の模範>
パウロの模範を見ましたが、最後にテサロニケの教会の模範を見たいと思います。福音に対する応答の模範です。13節を見て下さい。パウロは祈りのなかでテサロニケの人々のために感謝を捧げています。なぜなら、彼等が聞いた福音は神の言葉として受け入れられたからです。そして、彼等が受け入れた福音は心のなかで働いているからです。

*福音の意味
パウロは普通の人間としてテサロニケに行き、普通の言葉を使ってキリストについて語りました。語られたものは福音と言います。福音とは大切な宣言という意味です。当時の王様が国と戦って、治めるようになる時、勝利の宣言をしました。その宣言は福音と呼ばれています。聖書の使い方に当てはめると、福音は王様である神様から出る宣言です。神の権威と支配を示すものです。実は、その宣言は命を与えるものです。罪の奴隷の状態から解放してくださる宣言です。人生を変える力があるものです。救いを得させるものです。テサロニケの人たちはその180°転換させる福音を信じて、偶像から真の生ける神に立ち返りました。考え方と生き方が変わりました。皆さんが信じている福音、あるいは信じたい福音はどんなものでしょうか。神の言葉として信じますか。それとも人間の言葉としてだけですか。この判断によって人生が変わります。神の言葉として信じるなら従おうとします。時間をとって聖書を読み、神が語る意味を考えて、自分の生活に適用します。聖書の権威の下で生活します。

聖書は人間の言葉だけだとしたら、読まなくてもいいでしょう。理性や経験や社会や教会のルールにそって生活するだけで充分です。その立場は、聖書は役に立つ知恵があるものとして認めますが、人生の基盤までは許さないのです。結局自分勝手な生き方の選択です。
もう一つの結果があります。福音を神の言葉として受け入れると、神との人格的な交わりにあずかり、そのすばらしさを他の人に分かち合いたくなります。福音による神との出会いは証しの出発点です。受け入れた福音を語りたくなります。それはパウロの経験でした、テサロニケのクリスチャンたちの経験でした、そして私自身の経験です。(証し?)

【福音と迫害】
福音を神の言葉として受け入れることを勧めていますが、その難しさも分かります。14―15節を読むと、テサロニケのクリスチャンたちが受けた激しい迫害が書かれています。聖書の価値観に基づく生活をしようとすると、回りの人とぶつかる時がくるでしょう。神の道を選ぶと迫害を受ける可能性があります。別な箇所ではパウロはこう言いました、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(2テモテ3:12)パウロの模範は、苦しみの中で福音を語ることです。苦しみのなかで愛することです。テサロニケのクリスチャンの模範は、苦しみの中で、福音を受け入れることです。

<あなたの返事>
今日の聖書箇所は手紙の一部です。パウロからクリスチャンになったばかりのテサロニケにある人たちへの手紙です。日本の文化に従うと、(オーストラリアもかもしれません)、手紙をもらうと、礼儀ただしく、返事を書いた方がいいと思われています。あなたがこの手紙をうけとったとしたら、どんな返事を書くでしょうか。しばらく黙祷のときをもって、数分後、祈ります。

2004年05月09日 | カテゴリー: コリントの信徒への手紙一 , テサロニケの信徒への手紙一 , テモテへの手紙一 , マタイによる福音書 , 新約聖書

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