【新しい教会へのメッセージ】グラハム・スミス 

2004年3月7日グラハム・スミス氏

【聖書】1テサロニケ1:1ー10
◆挨拶
1:パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
◆主に倣う者
2:わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
3:あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐しているこ とを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。
4:神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
5:わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけに よらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
6:そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
7:マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。
8:主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
9:彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
10:更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。

【話しかけてくださる神様】(聖書の大切さ)
西谷集会に招かれていることを心から感謝を申し上げます。ひさしぶりという感じがしています。ここで、このように、毎週、礼拝のために集まることはすばらしい事です。今日、この交わりの喜びに預かることを感謝しています。今日の聖書箇所を見る前に、一つの問いをかけたいのです。どうして、礼拝の中心は聖書の話しですか。不思議と思いませんか。今日学ぶ箇所は2000年ほど前のギリシャの町の話しです。歴史の研究会なら納得できますが、どうしてクリスチャンたちは古い本からメッセージを聴くでしょうか。答えには二つのことが言えます。まず、その聖書は神様、すべてをお造りになった、すべてを支配しておられる、いのちを与える、生きる道を示す神様からのメッセージだからです。そして、もう一つの答えは、すべての聖書箇所には現代にあてはまるところがあるからです。特に、今日の箇所はテサロニケの教会への手紙ですが、ちょっと調べると、その教会とここに集まっている西谷集会の事情が良く似ているということが分かります。あとで説明しますが、共通点が多いです。このことを考えると、この手紙は古くて、別な地域の話しにも関わらず、今日の私たちに神様からのメッセージとして、受け取る事が出来ます。必要とされているのは、このメッセージを聴こうとする姿勢です。もう一度、神様が語って下さるメッセージを聴くことができるように祈りましょう。

【テサロニケの教会】
当時のテサロニケの町について別な本から調べられますが、この箇所からテサロニケの教会についてどんなことが分かりますか。聖書箇所を見ながら、調べましょう。

1. テサロニケの教会は父である神と主イエス・キリストと結ばれている人たちです。
1節にはこの教会は「父である神と主イエス・キリストと結ばれている」と書いてあります。この言葉には教会の本質が現されています。父なる神と主イエス・キリストと結ばれている民です。建物ではありません。生きているものです。結びあうかたちです。その神は曖昧な神ではなくて、父なる神、すなわち、人格的な関係を持つ事ができる神、親ほど私たちと関心がある神です。または、そのような関係はイエス・キリストを主として告白することによって実現します。教会というのは神を父と呼ぶ、イエス・キリストを主と告白して集まっている人たちです。この手紙はテサロニケにある神を父と呼ぶ、イエス・キリストを主と告白する人たちに送れたものです。同じ神を信じている人たちや同じ主を告白をしている人たちもそのメッセージを受ける事ができます。皆さんは神を「父」と呼ぶことができますか。イエス・キリストを主と告白することができますか。出来るなら、神の教会の一人です。この手紙のメッセージはあなたのためです!。

2. テサロニケの教会は変えられた人たちです。
* 方向性(9ー10節)に於いて
テサロニケの教会はどういうものでしたか。特徴はなんでしたでしょうか。皆さんがこの箇所を読んでどんな印象が響きましたか。私は最初に読んだ時、テサロニケのクリスチャンは変えられた人たちだという印象を受けました。特に最後のところ、9ー10節の言葉です。彼等は「偶像から離れて、神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった」。テサロニケの人たちは転換の体験をしました。改宗をしました。180°の方針転換でした。偶像から離れました。全く違う意味の神に立ち帰ました。(ヒッチハイクの例え・・高速道路で目的地に向かう車線の反対側でヒッチハイクしていた・・)

当時の偶像はその地域の神様を現わすものでしたが、象徴的な意味もあります。偶像とは、神の代わりに頼るものです。お金、地位、会社、能力、自分自身などが含まれています。 オーストラリア人はこの箇所を読むと日本で見られている、形がある象などを考えます。しかし自分の心の偶像を考えないのです。ここに集まっている人たちの中では自分の家に仏壇や神棚があるという人もいるかもおしれません。聖書の文化は日本の文化に似ています。様々な神々が存在している文化です。聖書は偶像礼拝の問題をよくとりあげています。どうしてでしょうか。大きいなテーマですが、基本となる問題は本当の神を否定するということです。本当の神様、すなわち、神々の神は栄光を受けるにふさわしい方です。創造者ですから、主権者ですから、救い主ですから、聖なる裁き主ですから、礼拝されることはふさわしいことです。 本当の神様以外のものに栄光を与えるなら、それは本当の神様に失礼なことです。よくないのです。例えを考えましょう。

ここのクリニックは近藤先生のおかげで出来たものですね。先生の働きによって患者さんは医療のサービスをもらっています。患者さんは受けた治療を感謝してお礼を捧げたいなら誰に言うでしょうか。近藤先生に言うですね。先生に感謝を言うことはふさわしいことです。もし、ある患者さんは間違って近藤先生でなくて、他の人に感謝の言葉を言ってしまいました。近藤先生の前で言われたら、失礼なことですね。偶像礼拝(本当の神以外のものに頼ること)は本当の神を否定することです。礼拝はふさわしい方に、まことの生ける神に捧げるべきです。

テサロニケの人たちは偶像から離れて、神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになった。私は日本語がまだ不十分ですが、「立ち帰り」という字を見ると「帰り」の部分は気になります。家に戻るという意味が含まれているでしょうか。帰国すると同じ意味で、国に戻る。神に帰るという表現にはもともとの状態に戻るという意味ですね。私たちはもともと神の家のものでした。神といい交わりの関係でした。でも罪によって神と神との交わりから離れてしまいました。もちろん日本でクリスチャンになると宗教の転換になる場合がありますが、ある意味では一つの宗教から、別な宗教に入るということよりも、迷ったところから、原点に戻るということです。

宗教の歴史は長いです。仏教、キリスト教、イスラム教、日本の新宗教、わかりにくいですね。ですから、源にもどりましょう。そすると、どこに行きますか。創造の時までですね。本当の神をしるために、創造までいかなければなりません。聖書はその創造の神を紹介していますから、そこまで立ち帰りましょう。テサロニケ人たちはそこまで帰りました。

*生活の転換(3、8-9節)
テサロニケのクリスチャンの転換は方針だけでなくて、生活の転換もありいました。彼等は神に仕えるようになった。神に立ち帰ることは生活に実現しました。
3節を見て下さい。「。。。」
ここでよく言われているキリスト教の三本柱、信仰、愛と希望がでてきます。神様に対する応答のまとめです。信仰は現在の信頼、希望は将来に対する信頼、愛は信頼の動機と姿勢です。そしてその愛と信仰と希望の応答は実際的な生活を示すものです。それは彼等の働きや労苦や忍耐によって示されました。
テサロニケのクリスチャンたちの信仰生活は目立つものでした。具体的なことが書かれていませんが、良い行いによって彼らが変えられたということは明らかでした。

7ー8節を見て下さい。彼等の変えられた信仰生活はまわりの地域の模範になりました。モデル教会になりました。テサロニケの教会から信仰の証しは広がりました。

【立派な教会になる】
この教会はどのようにしてこの状態になりましたか。テサロニケ人たちはどうして変えられたでしょうか。3つの答えがあります:

1。神様の働き
まず、テサロニケの人たちの転換は神様の働きです。それはすでに見た1節の挨拶からわかります。テサロニケの教会は父なる神と結ばれものです。そして、2節にはパウロは祈りのなかで、彼らの信仰が神から与えられているもので、神に感謝をしています。4節には神の働きは明らかです。「。。。」
人間の姿を考えて下さい。自分の経験を思い起こしてください。自分の意識で、自分の力で神に立ち帰ることができると思いますか。やってみてください。むりです。神ぬきの世界では私が間違っている方向に向かっていることはぜんぜん気がつきません。(ヒッチハイクの話しードラーバーが止まってくれなかったら、そして道を教えてくれなかったら私はまだ高速道路の反対側に立ってまっているかも!)
神の働きは父なる神と言う意味ですが、この箇所では聖霊の働きも大切です。5節では聖霊の御言葉を照らす役割、そして6節では聖霊の喜びと御言葉を受け入れ道を開く役割が書かれています。
このように神様の働きによってテサロニケの人たちが変えられました。

2。パウロの働き
次に、歴史的な視点から考ましょう。テサロニケの教会はパウロという一世紀の宣教師の働きによって生まれたものだとも言えます。その働きは使徒言行禄17:1ー3に記録されています。(・・・)
パウロの基本的な働きはキリストを宣べ伝えることでしたが、一緒に生活をしながら主にならうものとなり、個人的ににも分かち合ったでしょう。
手紙1:5「・・・」すなわち、パウロは献身的に働きました。2章にはこの働きがもっと明らかです。テサロニケの人たちはパウロの働きによって変えられました。

3。福音の働き
最後に福音の働きを見ましょう。もうすでに言いましたが、パウロの働きの中心は福音を語ることでした。まことの神に立ち帰ることは福音のメッセージに聴き従うことによって行います。9ー10節をもう一度見て下さい。神に立ち帰ることを説明しましたが、もう一つの変化が書かれています。それは御子イエスキリストに対する信仰の変化です。彼らは死なれたが、復活され、再び天からこられる、神の裁きから救って下さるイエスキリストを信じるようになりました。10節の言葉は信仰の告白の内容のまとめのようです。教理の基礎が書かれています。意味深いことはイエスの来臨が強調されています。最近の説教ではそのことがあまり聴かないですね。でも迫害を受けているクリスチャンにとって、その真理は慰めであり、希望であり、励ましになります。テサロニケのクリスチャンはパウロから聞いた福音を通して、イエス様に出会いました。最初の弟子達のように体を持つイエス様との出会いではなかったですが、御言葉によって最初の弟子達と同じ経験をしました。悔い改めて、イエス様を信じて、神の国に入ることができました。

【西谷集会】 
テサロニケの教会を見てきました。ここで話しを終わると、面白いか面白くない話にすぎません。この聖書箇所は私たちとどんな関係があるでしょうか。
西谷集会とどんな関係があるでしょうか。

* 一つの共通点を紹介したいと思います。テサロニケの教会と西谷集会は両方とも新しい教会です。パウロはテサロニケの教会を励ますためにこの手紙を送りました。テサロニケの信徒への手紙はおそらくパウロの最初に書かれて送られた手紙だと思われています。開拓したばかりの教会に送られた手紙だと理解していいと思います。距離的に離れたパウロは彼等の信仰の状態が気になって、しかし、訪問できなくて、代わりにテモテを送って、そしてこの手紙を書きました。

* 西谷集会はパウロの宣教活動によってはじまったわけではありませんが、神の働きによってこのように集まっていると信じています。テサロニケに伝えられた福音はここでも語られています。近藤先生をはじめ、何人かのクリスチャンは全生活を通してイエスの証しをしました。先生は近所で医者として長く働きつづけて、そして数年前に住むようになって、そしてやがって、クリニックで定期的な集会を持つようになりました。モーア先生や他の先生方は聖書のメッセージを語って、聖霊の働きによって神に立ち帰る人々が起こされました。私は普段伊丹教会に行っていますが、西谷で行われていることがしばしば報告されます。特に、昨年のクリスマスにバプテスマを受けた森田御夫妻の話しを受けた時本当に喜びました。西谷集会に集まっている一人一人の事情がわかりませんが、御言葉によって養われて、変えられるように祈っています。テサロニケの教会のように地域での証しが祝福されるように祈っています。

聖書箇所から一つ忘れたところがありました、6節のことです。テサロニケの人たちは「ひどい苦しみの中で」御言葉を受けました。西谷でも、苦しみがあったと思います。今でもあると思います。この箇所で、でてくる偶像の話しはこの伝統的な地域で受け入れ辛いと思います。信仰を持つ者は誤解される可能性があります。信者として生きようとしたら、確かに戦うところもあると思います。その時に神様から忍耐が与えられるように、祈り求めて下さい。

テサロニケの教会と西谷集会と似ているところを見い出しましたでしょうか。この御言葉に対する応答を考えて終わりたいのです。

* まず、注意することは、テサロニケはモデル教会のようです。開拓伝道の成功の例と言えるかもしれません。西谷と比較しすぎるとがっかりするかもしれません。参考だけにしてください。西谷集会へのメッセージと個人個人のメッセージがあると思います。

* 3つのレスポンスを紹介したいのです。
1.感謝
福音による恵みを覚えて、西谷集会の歴史を振り替えて感謝を捧げましょう。神さまは確かに働いて下さっています。

2.確認する
今の自分はどこに立ているのか確認して下さい。まだ、神から離れている状態にいるのか、迷っているのか、それとも、神に戻っているか。パウロは福音のエッセンスを思い起こしました:十字架で死なれて、よみがえられて、天から来るイエス様をもう一度向かってください。立ち帰る必要があるなら、祈って下さい。

3.証し人になりなさい
西谷集会はいいスタートをしました。感謝ばかりです。テサロニケの教会もいいスタートでした。でも手紙ののこりを見るとパウロのメッセージはますます。。。ここからイエスの証しが広がるように祈りましょう。

2004年03月07日 | カテゴリー: テサロニケの信徒への手紙一 , 新約聖書

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