【私は何の為に生きていますか】ウイリアム・モーア

◆「タラントン」のたとえ マタイ25:14~30 14:「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。 15:それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。早速、 16:五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。 17:同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。 18:しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。

19:さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。
20:まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』
21:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
22:次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』
23:主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

24:ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25:恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』

26:主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
27:それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。
28:さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。

29:だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
30:この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

【空を打つゴルフ】
ずっと前の出来事で、あまりゴルフが今のように盛んでない時ですが、あるスコットランド人は自分の国の新しく出来たスポーツ、ゴルフをアメリカのグラント大統領に紹介する事になりました。彼はホワイトハウスに招かれ、そのお庭でゴルフを大統領に教える事になりました。これ程偉い人に会わせられたのは始めてで、急に大変神経質になってしまいました。しかし、せっかくホワイトハウスに招かれましたから、ここで止める訳にはいきませんでした。手が震えてきたんですがゴルフボールを慎重にテイーに乗せて、一生懸命にスウィングをしました。しかし、残念ながらクラブはボールから外れ、代わりに芝生を強く打って大統領に土を浴びせてしまいました。大変恥ずかしくなった彼はもう一度スウィングをしましたけれども今回もミスをしました。そして、必死に何回もボールを打とうとしましたが、ボールには一つも当たらず、全部失敗になりました。

グラント大統領はじっとその光景を見てこのように批評しました。「この新しいスポーツは結構良い運動になりそうですが、何でその小さいボールをそこに置くのか。ボールの目的はちょっと分からないなあ」と言いました。

このストーリは一度聞くと笑い話に聞こえますが、人生について大事な真理を示していると思います。実は多くの人々は一所懸命に、まじめに生きようとしています。よく「頑張って下さい」とか「頑張ってね」と私達はお互いに言います。それは一所懸命にすると言う事でもありますね。しかし、一所懸命にしたら何でも良いのでしょうか。実は、多くの人々は人生の本当の目的を悟らずに生涯を送ってしまいます。

私達人間誰でも「私は何の為に生きているか」、「私の人生の目的は何か」のような質問を自分に問いかけるのは当然です。人間は動物と違って自分の存在について考える事が出来ます。人生の目的をも調べる事が出来ます。全能の唯一の神が私達人間をそのように特別にお造りになりましたからです。

【私は何の為に生きていますか】
今朝、御言葉を通して人生の目的を一緒に学びたいと思います。「私は何の為に生きていますか」と言う大事な質問に、神の御言葉に聞いて、その答えを発見したいです。しかし、この課題はいったいどうして大事でしょうか。このままあんまり考えないで、生きていてもかまわないのではないかと思われる事でしょう。しかし、知っていようが、いまいが、私達皆はこの課題について仮定を立て、生活を送る訳です。そして、毎日の生活の中の私達の選択、私達の価値観と生き方は、おもに人生の目的についての私の仮定で決められています。ですから、あんまり考えないで、ただうっかり自分の人生の目的を立てるのは望ましくはありません。この世での一つしかない一生を大事にする人には「私は何の為に生きている」という事について考えるはずです。

ある人は人生の目的について調べて、別に目的がないと結論を出します。偶然に生まれ育てられ、学校へ行って、就職して、そして死ぬ。それっきりです。自分の生涯には目的と意味が全くないという事です。短い生涯が死で終わると、存在がすっかり消えてしまいます。それだけです。つまり、人間の生涯は蝿の命と同じように無意味で価値のないものだと言うのです。シェイクスピアがマクベスでこの立場を良く表現しました。「人生はただ歩く陰、下手な俳優のように一時舞台で誇らしげに歩いてから、すぐ忘れられ、やかましいばかが語る作り話のように全く無意味だ。」

その反面、またある人は人生の意味を認めるけれども、その意味は始めから終わりまでその個人個人によって決められるのです。それは私達一人一人は自分の為にその意味を探し、自分の生涯にその意味を与える訳です。例えば、権力と名声を得る事や、富や、楽しい事をする事や、隣人に仕える事や、美術や、自分の子供を成功させる事などは自分にとって一番大事な目標になって人生に意味を与えます。実は、人生の意味と目的を見出す為に人々は色々な事に一身を捧げた事があります。

【創造主を忘れて人生の目的はない】
その多くのものは良い事ですが、基本的に人生の意味の問題には答えていません。いくら良い目標であっても、私達はただ良い生活を得る為や、子供を養育する為などでこの世に生まれたのではありません。何故なら、その全てのものの出発は人間からです。私達それぞれ自分が勝手に決めたものです。こう言う人々は「人間が全て」だと思います。天地万物の創造主、私達をお造りになり生きる目的まで下さった愛する神を忘れているので、「私は何の為にいきていますか」と言う質問に答えていません。ですから、この事を考えると、人間からではなくて、全能の唯一の神から出発すべきです。つまり、御言葉に記されている神の声を聞いてみましょう。
詩編にこのお話が書いてあります。「主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。」(33:11)また箴言に次の御言葉が記されています。「主は、御旨にそって全ての事をされる。」(16:4a)

私達人間はもちろん宇宙もこの世さえも創造しませんでした。また、言うまでもないが、私達自身は自分を計画して造りませんでした。神御自身は、私達を含めて全てを計画し、お造りになりました。ですから神のみが御自分の被造物の目的を決める権利がある訳です。「天にある物も地にある物も、見える物も見えない物も、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子の為に造られました」とコロサイの信徒への手紙に書いたとおりです。(1:16)

神は私達を大事に計画し、わざわざお造りになりましたから、人間の最大の目標は私達の為に立てて下さった神の目的を知り、その目的を果たす事ではないかと思います。そうです。そうすると本当の平安と満ち足りた人生を送る事が出来ます。他には道がありません。

【わたしたちは神の選び定められた者】
「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」とエフェソの信徒への手紙1:4、11に書いてあります。

また、詩編にこの御言葉があります。「秘められた所で私は造られ、深い地の底で織りなされた。あなたには、私の骨も隠されてはいない。胎児であった私をあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書に全て記されている。また、その一日も造られないうちから。」(139:15、16)
他の言葉で言えば、あなたの存在はただの偶然ではありません。どんな状況であってもあなたの生まれは間違いのないものです。神は永遠からあなたの生まれを楽しみに待って、私達一人一人の為に大事な計画を立てて下さいました。そして、愛する神はその計画を進めるつもりです。

私達一人一人は神によって造られ、主は私達の為に御計画を立てて下さいました。ですから、私達の使命はその御計画を知り、そのうちに生きるのです。
しかし、それが真実であったとしても、どうして神様の計画に従わなければなりませんかと言いながらも結局、多くの人々はその事さえもあんまり考えなくても、この世の歩みを最後まで何とか過ごす事が出来ます。

【この世の歩みが全てか?】
しかし、この世の歩みが全ての最後ではありません。この世での生涯は70年、80年、長くても100年まで続きますけれども、その後は永遠に向かいます。今の命は一時的ですが、これからの死後の存在は永久のものです。

そして、この世での信仰と生き方はこれからの死後の永遠の状態とは大きな関係があります。この世で愛する神を信じ、御自分の目的を果たし、主との交わりを持つのであるなら、イエスキリストの恵みによって、喜びを持ち永遠に神の御前に生きられるのです。今の「あっと言う間」の生涯の生き方はこれからの永遠の命に決定的な影響があるから、造り主である神を知り、あなたの為の御自分の目的を考えた方が賢明です。

実は、この世での生涯は私達のものではなくて、神によって託せられたものです。ですから、ただ好きな通りに、自己中心的に生きてはいけません。主イエスはその大事な真理を教えるように「タラントン」のたとえを語って下さいました。
ところで、1タラントンは大きなお金でした。労働者の20年間の収入になりました。
もう一度聞いて下さい。(マタイによる福音書25:14~30前褐)

やはり、私達に与えられている全てのものは神様から頂いたものです。
愛する皆さん、私達は何の為に生きていますか。実は、神の者として主の為に生きています。私達はこの世に主の御旨を行う為に造られた者です。つまり、私達の人生を通して回りの人々に主の愛と救いを表す事です。それは私達の生き甲斐と最高の喜びです。

【ハーバーランドに行ったのは?】
この前の週末の事ですが、神戸のハ-バランドに出かけました。すごい人込みで車を駐車するのは大変でした。
ある人のお話ですが、週末にショピングモールに出かけましたが、やはり車を駐車出来なくて何回もくるくる回って、一時間程していました。そして、やっと一つの所が見つかりました。その所は最もすばらしい所で、すぐエレベータの前の所で、出口も目の前の所でした。彼はとても喜んで車を止めてショピングモールに入り、買い物をしました。そして、帰ろうとしましたが、一時間もかけて見つけた素晴らしい駐車スポットがあまりにももったいないと思い始めたあまり、自分の車をその場所に駐車したままにして、タクシーで家に帰ったそうです。彼は買い物の為にショッピングモールに行きましたか。それとも、彼は駐車する為に行ったのでしょうか。
どうか私達は人生の本当の目的から外れないように主イエスキリストに従いましょう。

2004年01月18日 | カテゴリー: マタイによる福音書 , 新約聖書

コメントする

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.nishitani-church.jp/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/8