今井献のブログ「カナン」

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今井献のブログ「カナン」

礼拝説教の要旨などをブログ形式で公開しています

仙台カナン教会の牧師 今井献によるブログ。毎週日曜日に行われる礼拝説教の要旨やキリスト教に関する解説などを掲載しています。

これまでの記事 一覧

信仰と希望

キリストを信じるとは、キリストの死と復活という過去の出来事にわたしたちを救う神の愛を認めることです。また、キリスト復活にあずかって今自分が生きていることに、神の恵みを認めることです。 過去と現在に神の深い愛を知る者はまことの希望を持つことができます。希望とは過去と現在を手掛かりにして将来を望み見るものだからです。神の愛が将来わたしたちを裏切ることはありません。

アダムの罪

「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるようにそそのかしていた。」(3:6)とあるように、見た目で判断して禁じられた実を食べてしまいました。 食べたとたん、二人の間にいちじくの葉という邪魔ものが入り込むとともに、神を避けて隠れるというように、対人、対神関係が歪み、生き生きした関係が失われてしまいました。

神と世界とわたしたち

世界観と世界像の区別を理解するなら、神が世界を創造したとする世界観と、人類が英知を結集して今ある世界を解明しようとすることとは矛盾しません。地動説は、世界観ではなく、世界像の問題でした。この区別がわかれば、ガテンがいくはずです。

人の子イエス

一連のできごとを前にして、ペトロはイエスと無関係であると主張して、3度イエスを否定しました。大祭司の手の内でみじめな扱いを受けるイエスの末路は明白であり、その一味と見られることが恐ろしかったのでしょう。ただし、十字架の死が救いのみ業であると分かったとき、イエスの弟子であることを誇りとする者に変わりました。

お前はメシアか

大祭司はイエスを処刑するための審問をはじめました。しかし、イエスを死刑にするため、わざと不利な証言や偽証までも集めたが有罪にできるものは無かったとあります。この点はとても重要で、大祭司でさえイエスには罪がないことを暗に認めざるをえなかったのです。

イエス逮捕

思いがけない展開となった理由は、「時が来た」(41)とあるとおり、神が定めた時に向かってすべてが進んでいたからです。また「これは聖書の言葉が実現するため」(49)であったからです。イエスは「世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)であり、その死は「キリストが、わたしたちの過越の子羊としてほふられた」(Ⅰコリ5:7)と記されているとおり、過越祭における犠牲(身代り)の子羊としての死です。それゆえ、この過越の日に逮捕・十字架刑にされ、わたしたちの身代りとなって死ぬことが神の定め(聖書の言葉)であったからです。

死ぬばかりに悲しい

祈りを3度も重ねたとは、自分自身との戦いがいかに激しかったかを表しています。しかし、父に祈ることで恐れを克服することができました。わたしたちも、すました祈りではなく、父なる神を呼び出してすべてを打ち明けて祈ることも必要です。

わたしはつまずかない

神の救いはイエスの十字架の前にわたしたちを立たせることです。イエスの十字架は、ペトロをはじめとする弟子たちの自信をくじき、自分たちの無力さを思い知らされることになりました。しかし、それによって、復活のイエスに従う弟子になれたといえます。

今や、惠の時

古い自分ではなく、救い出されて新しくされた自分であることを思い起こし、今を大切にして生きる1年にしましょう。

大きな喜び

キリストは、高みからわたしたちを見るのでなく、弱く貧しいわたしたちを救うために低き人となった救い主です。

救い主の誕生

天の軍勢が「地には平和」(2:14)と讃美した平和とは、神が与える平安のことです。権力欲から出た皇帝の命令の中に神の救い(平安)が厳かに実現したように、地上が罪・欲望・争いに満ちていようと、神がわたしたちに与える真の平安は揺らぐことがありません。

マリアの信仰

マリアは若く貧しい少女でしたが、信仰によって神をわたしの主、わたしの最も大切な方とすることで、「神の前に豊か」であった(ルカ12:21)ということができます。財産は持っていなかったかもしれませんが、神を握りしめていたという点で大変な資産家であったといえます。

これはわたしの体

パンと杯は十字架のキリストをあらわすだけでなく、体をもって復活したキリストをも意味します。それゆえ、パンと杯を食する者は十字架のあがないにあずかっていることと、復活 して天におられるキリストにあって生きていることを体感することができます。

イエスを裏切る

弟子たちは、十字架のできごとは神によって既に準備されていたことを、このできごとをとおして後に理解したことでしょう。 

埋葬の準備

女性は自分の行為の本当の意味を知りませんでしたが、イエスこそキリスト(油注がれた者)であることを示したこの行為は、間違いなく世界中で記念として語られにふさわしいものです。

その時は誰も知らない

終末の前兆はありません。しかし、死んで復活したイエスが天におられることが、救いの完成をもたらす終末のしるしです。 毎週日曜日は礼拝の日 仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。 日曜日 朝の礼拝 午前10時30分~12時00分 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。 水曜日 祈祷会 14時00分から15時30分 こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。 お気軽にお問い合わせを 「一度礼拝に出席してみたい。」 「教会に行ってみたい。」 「でもどうしたらよいかわからない。」 そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。

宗教改革4

宗教改革は、教会内の孤立した出来事ではなく、社会全体が発展する中で起こったことです。

ここにメシアが

神殿に神の救いはないので頼るな、捨てよ、逃げて助かれとは、死と復活によって神殿を不要にするイエスがいいえた教えです。

終末のしるしは

解釈の規準は「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」(13:32)です。その時は誰にもわからないというのですから、終末の前兆としてのしるしはありえません。

宗教改革3

宗教改革は、聖書の再発見と同時に起こったできごとです。

宗教改革2

アウグスティヌスの伝統にある西方教会は、キリスト教の救済を罪の償いとしてとらえます。キリストの十字架は全人類の罪を償う唯一の犠牲であり、復活は永遠の命です。このキリストの償いと永遠の命にあずかることで信者は罪のゆるしと永遠の命を受けることになります。

宗教改革1

プロテスタントは、カトリックから出てきた西方伝統の教会であり、カトリック教会との関係で自己を確立してきました。

高価なささげもの

神殿制度は全面的に腐敗しており、枯れたいちじくの木のように(11:14,20)捨てられることになるのですが、その神殿の中でやもめの信仰が成立しています。信仰は器(神殿制度)に左右されません。

一番大切なおきて

申命記6:4はイスラエル民族が最も重んじていた聖句ですが、これとレビ19:18を組み合わせることで、神と隣人を愛することを同一のこととした点にイエスの教えの新しさがあります。

皇帝への税金

皇帝に税を納めるのは当たり前のことであるとした点は、皇帝の支配を否定したい当時のイスラエルにあって、画期的です。

政治と宗教4

問題になっているのは、良心と財産を収奪して、当人と家族の生活を破綻に追い込むことは、宗教行為ではなく反社会的な行為ではないかという点です。

神の不思議な御業

 神の救いは、人が見るところ、考えるところとは全く異なります。そこに腹を立てるか、希望を見出すか、運命の分かれ道です。

イエスの権威

 死と復活をとおして神の国(支配)を樹立する方がイエスです。ヨハネ10:16には、イエスのもとにすべての羊(神の民)が集められ、一つの群れ(教会)となるとあり、これがイエスの権威です。神殿にかわってイエスのもとに神の民が集められます。こうして神殿は廃止されます。

政治と宗教3

宗教の側が、宗教の政治的活動は憲法で禁じられていないと発言することがありますが、そもそも憲法は権力を制限するためのものであって、宗教活動の規範にはなりません。憲法の使い方が間違っています。

枯れたいちじく

いちじくの木が根元から枯れていますとの弟子の声は、イエスにとって「神殿が崩壊しています」と同じです。そこでイエスは応えました。「神を信じなさい」(11:22)。今では当たり前のことですが、神を信じることが聖書信仰の中心であり、神殿という施設や動物犠牲を神にささげる儀式は信仰があってのことであり、無くてもよいものです。簡潔ですが、神殿の必要ではなく、信仰こそが必要であると教えたのです。

宗教と政治2

「自律した個人の自由な判断」にもとづく政治が原理的に確立したことで、宗教が支配する前近代の政治は排除されたはずです。

イエスの怒り

いちじくの木はエルサレムの運命を暗示しています。茂った葉で期待を持たせても、実際に近寄ってみると何もないというのはのはエルサレムと同じです。

政治と宗教1

政治と宗教は、妥協や絶対性を基準に考えるなら対極に位置します。

子ロバに乗るイエス

このイエス入城は、まことの神礼拝がこのエルサレムにおいていよいよ始まることを示すできごとです。

ダビデの子イエス

神の国は貧しい者のためにあるのですが(ルカ6:20)、貧しさとは財産のないことではなく、バルティマイのあり方を指します。

イエスの飲む杯

本当の自由人になるには、イエスの弟子になるしかありません。

金持ちと神の国

神の国に入ることは、なぜ子供にはたやすく、金持ちにはむつかしいのでしょうか。

子供と神の国

キリスト者は「神の子」と呼ばれます。神を父と呼んで、神の救いに信頼することが神の国を受け入れるということです。

命にあずかる幸い

永遠の命にあずかるためには身を切るほどの覚悟が必要であるということです。

信仰のない時代

弟子たちの失敗は信仰の問題です。また我が子の救いを求めてきた父親にも「信じる者には何でもできる」と語って、信仰を問うています。

わたしの愛する子

下山途中、イエスは「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と語ります。ここでも、ご自身の死と復活に言及しています。「わたしの愛する子」が殺され、復活することの意味が分かるまで語るなとの注意です。死者からの復活が栄光に満ちたメシアのわざであることは、まだ弟子たちには理解できません。

イエスに従う

死の意味を受け入れたとき、ペトロはイエスの真の弟子となりました。わたしたちもイエスの死の本当の意味を受け入れる時、自分の十字架を背負ってイエスに従うことができます。

あなたはキリスト

人がイエスを偉人、知恵者、宗教家、革命家など、たとえ好意的に理解するとしても、わたしたちはイエスを救い主キリストとして受け入れる以外にありません。人がイエスに当てはめる歴史的価値ではなく、聖書が教える永遠的価値ゆえにイエス・キリストを受け入れます。

悪しきパン種

今分かっていることはわずかでも、イエスによって目が開かれて、神の救いがはっきり見える時が必ずきます。

同じことを行って

イエスが神の民であるユダヤ人にとってのまことの牧者であるだけでなく、旧約において排除されていたように見える異邦人にとっても同じくまことの牧者であることを示しています。

あなたがたに平和

復活の主にお会いするとは、神の救いを見たということです。

心は燃えていた

教会は復活の主と会い、その教えによって誕生しました。それゆえ教会は復活の主の目撃証人です。

この人は正しい人であった

4月10説教の要約です。

十字架のイエス

文字どおり十字架の上で罪人に、わたしのいるところにあなたを連れて行くぞ、と語った姿ほどイエスの救いの意味を明らかにするものはないといえます。

罪なき死

人の気づかないところで神の救いのみ業がイエスにおいて成就していきます。それゆえ、人の歴史には救い主イエスが出てこないのです。聖書という神の啓示だけがこの救いの奥義を教えています。

女中の視線、イエスの眼差し

女中の視線によりペトロは自分自身を見失い、イエスの眼差しがペトロを立ち直らせました。

父よ、御心のとおりに

闇が力を振るっているように見えても、神の御心だけがかたく立つことを忘れてはなりません。

耳が開いて

異邦人の救いにおいてイザヤ書の救いの預言が成就したことは、異邦人とユダヤ人の救いに区別がないことを教えており、とても重要です。

母の願い

救いを勝ち取る熱心に、異邦人とイスラエル人の区別はありません。わたしたちの救いについても、人の間にいかなる区別もありません。イエスの救いが必要だとの願いが真実なものであればよいだけです。

人間の心

イエスは群衆を呼び寄せて、外から人の中に入るものが人を汚すことはなく、人の中からでてくるものが人を汚すと教えました。

昔の人々の言い伝え

旧約聖書を、独善的な言い伝えで読む(理解する)か、キリストの福音をとおして読むのか、という違いが今日の聖書箇所の本当の問題であるといえます。

通り過ぎるイエス

イエスが弟子たちの「そばを通り過ぎようとされた」とは、イエスが神として弟子たちに現れたということです。  

5千人給食

弟子たちが空腹を心配してイエスに進言すると、イエスは食べ物の意味を霊的糧に変えて、弟子たちを教育する機会として用いたというできごとです。

まことの悔い改め

結論的には、まことの悔い改めとは、嘆くことではなく、神とともに喜んで生きるという、生き方の転換のことです。

コロナ後を考える

コロナ後を考えることは、今おこなう大切なことです。

献金感謝祈祷

公的礼拝における公的祈祷は、個人的な内容の祈りではなく、会衆一同が思いを一つにしてアーメンといえるものであることが求められます。そのために、『式文』にある祈祷を用いることは有益です。

神は我々と共に

今年のカナン教会の年間聖句は「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)です。

イエスと羊飼い

赤子イエスの誕生が天使によって最初に知らされたのは、野宿をしていた羊飼いたちでした。しかも、「今日・・・お生まれになった」とあるので、時をおかずに伝えられました。また、イエスと羊飼いは特別な関係として描かれています。

神が目を留めて

聖霊に満たされたエリサベトの託宣を聞いて、天使ガブリエルのことばが本当であることを深く理解したうえで、「わたしの魂は主をあがめ」と賛美しています。自らを神にささげることを心からよろこぶ姿が見て取れます。

歴史的な信仰

キリスト教にふれたばかりの方は、旧約の世界を前提にしてキリストとその救いを知るのはわかりづらいし面倒くさいと思うかもしれません。そう思うのも無理のないことなのですが、このことはキリスト教が歴史的で確かな信仰であることの証しでもあります。

信仰 5

今回は、聖書が教える父・子・聖霊である神(三位一体の神)について考えます。

信仰 4

キリスト教は啓示の宗教です。

信仰 3

わたしは救われる必要がある

信仰 2

復活したキリストを信じる。

信仰 1

「信じて」、礼拝・讃美・祈りをささげる。

クリスマス礼拝に向けて

今年は11月28日がアドベント(待降節)第一週、12月19日がクリスマス記念礼拝となります。

信仰・希望・愛 (2)

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

信仰・希望・愛

教会の看板の表には「日本キリスト改革派 仙台カナン教会」、裏には「信仰・希望・愛」と大きく記されています。

ウェストミンスター小教理問答 問1

本日の礼拝からウェストミンスター小教理問答を用います。

仙台市で教会をお探しですか?

仙台市でキリスト教会をお探しでしたら、日本キリスト改革派 仙台カナン教会へどうぞ。日本キリスト改革派は設立以来50年以上の歴史を持つ正統なプロテスタント教会です。仙台カナン教会では毎週日曜日に神様へ祈りと感謝をささげる礼拝を開いています。興味のある方は自由にご参加ください。