命にあずかる幸い

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命にあずかる幸い

永遠の命にあずかるためには身を切るほどの覚悟が必要であるということです。

命にあずかる幸い   マルコ10-50

 本日の聖書箇所は、つまずかせる者・ものについて、イエスの大変厳しいことばが記されています。理由は、33節以下の結論でもあるからです。

 書き出しの「わたしを信じるこれらの小さな者」とは、「子供」(9:36)すなわち、人から無価値であると軽んじられている者、「わたしたちにしたがわない」者(38)、「一杯の水を飲ませてくれる者」(41)などです。

 このときの弟子たちのように「誰がいちばん偉いか」(34)と競い合ったり、「わたしたちに従わない」ので止めさせようとするなどの排他的な姿勢や心もちでは、小さな者たちをつまずかせることは明らかでした。つまずかせるとは、キリストの救いに失望させたり、救いから引き離すなどということです。
イエスの十字架を無意味にするような弟子たちの振る舞いを前にして、厳しく注意する必要があったのでしょう。

 そのような弟子は「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42)。そのような者は文字どおり海に投げ込めというのではなく、それほど重大な過ちであるということです。

 小さい者をつまずかせる、あるいは自分自身をつまずかせる原因が、自分の片方の手、片足、片目にあるのであれば、切り捨ててしまいなさい。これも文字どおりのことを命じるのではなく、誇張的表現です。ただし、「片足になっても命にあずかるほうがよい」(46)、「一つの目になっても神の国に入る方がよい」(47)は、真に迫ってきます。永遠の命にあずかるためには身を切るほどの覚悟が必要であるということです。命、神の国はイエスの死と復活によって地上にもたらされた救いを指し示しています。

「人は皆、火で塩味を付けられる」(49)。火は、苦難・試練という意味です。塩味はイエスの弟子にふさわしいあり方のことです。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)とあるように、苦難はイエスの弟子として成長するうえで避けることはできません。

毎週日曜日は礼拝の日

仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時30分~12時00分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
水曜日 祈祷会
14時00分から15時30分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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