毎週日曜日は礼拝の日
仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。
- 日曜日 朝の礼拝
- 午前10時30分~12時00分
- 必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
- 水曜日 祈祷会
- 14時00分から15時30分
- こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。
「死にて」は、イエス・キリストの十字架の死を指しています。キリストは、マリアから生まれて、わたしたちとまったく同じく人として成長したお方です。それゆえ、人であるキリストの死なのですが、わたしたちの死と違うのは、神の前における人類の代表としての死であることです。
創世記第2章には、神の戒めを破ることが死を刑罰として禁じられています。新約聖書でも「罪の支払う報酬は死です」(ロマ6:23)と記されています。この刑罰としての死を、キリストはわたしたちの身代わりとして受けてくださいました。
また、キリストは人であると同時に、神の永遠のひとり子であり、死は神のみ子の死でもあります。父なる神、聖霊なる神と同じ永遠の神であるお方の死ほど貴く、価値のある死はありません。人類の罪を償いえる死は、神のみ子であるキリストの死以外にはありませんでした。それゆえ、罪無き完全な人であり、神の永遠のみ子であるキリストだけがわたしたちの救い主です。
ハイデルベルク信仰問答が以下のように書いています。
問40なぜキリストは「死」を苦しまなければならなかったのですか。
答 なぜなら、神の愛と真実のゆえに、神のみ子の死による以外には、わたしたちの罪を償うことができなかったからです。
わたしたちも必ず死なねばならない身ですが、キリストを信じる者にとっての死は、罪に対する刑罰ではなく、永遠の命への入り口としての死です。この信仰的確信を持って、死に臨むことができるのは、キリスト者の特権です。
「葬られ」は、キリストが本当に死んだことを証ししています。わたしたちも死んで体は墓に葬られますが、その墓はキリストが葬られたところであり、キリストは墓においても共にいてくださいます。信者は死のとき、その体は、キリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。
ウェストミンスター小教理
問35 信仰者は死のとき、キリストからどのような恩恵を受けますか。
答 ・・・信仰者の体は、なおキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。