通り過ぎるイエス

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通り過ぎるイエス

イエスが弟子たちの「そばを通り過ぎようとされた」とは、イエスが神として弟子たちに現れたということです。  

聖書は、決まりごとのように特定の場所や表現を使うことがあります。今日の箇所はそれが目立っています。「山」、「舟」、「そばを通り過ぎる」、「わたしだ」には、特別な意味があり、それらが組み合わさって、イエスとは何者かが教えられています。

「山」は、イエスが12弟子を選び(3:13-19)、エリヤとモーセと語り合う(9:2-8)ところ。旧約において、神はシナイ山でイスラエルに顕現するなど、山は神との関係で神聖なところでもあります。ここにイエスが祈るために登りました。特別なことが起こる予兆です。

「舟」の中は、マルコに3度出てくるのですが(4:35-41、8:14-21)、いつでも弟子たちの無理解・失敗が露呈する場面になっています。

「そばを通り過ぎる」は、旧約において、神が特別に現れたことを記す特殊な表現です。出エジプト33:18-23には、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからだ」と書いた直後、それゆえ、わたしの栄光が、またわたし自身がかたわらを「通り過ぎる」と続きます。顔は見せないが、かたわらを通り過ぎることで、神が共にいることがわかる、というのです。

預言者エリヤが絶望の淵に立たされた時、もう命をとってくださいと祈りました。すると「見よ、その時主が通り過ぎて行かれた」(列王上19:11)ということが起こり、神がエリヤと共にいることが教えられます。そばを通り過ぎるとは、特別な意味を持つ表現です。


イエスが弟子たちの「そばを通り過ぎようとされた」とは、イエスが神として弟子たちに現れたということです。

「わたしだ」とイエスが弟子たちに語りました。「わたしだ」とは英語でI am。 すなわち、「わたしである」、「わたしはある」です。出エジプト3:14でモーセに神が自分の名前を「わたしはある、わたしはある、というものだ」と教えましたが、その神の名前をイエスは語ったのです。

パンの奇跡の後、イエスは神としての姿を弟子に現し、弟子は幽霊がでたと恐れました。パンの出来事の真意・深意がわからなかったのです。

毎週日曜日は礼拝の日

仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時30分~12時00分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
水曜日 祈祷会
14時00分から15時30分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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