罪なき死

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罪なき死

人の気づかないところで神の救いのみ業がイエスにおいて成就していきます。それゆえ、人の歴史には救い主イエスが出てこないのです。聖書という神の啓示だけがこの救いの奥義を教えています。

今日はピラトとヘロデによるイエス取り調べと死刑決定の場面です。

ピラトとヘロデの両方ともがイエスには罪がないと判断したことが繰り返し記されています。「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」(23:4)、「わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった」(14,15)、「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」(22)。

イエスには罪がなかったこと、それゆえに罪人に代わって十字架にて罪の償いを果たすことができたことは、キリスト教教理の根幹です。このことは、ハイデルベルク問40と問12-18にて簡潔明瞭に教えられています。これらのピラトの言葉は、イエスが罪なく十字架につけられたことを証言しています。

もちろんピラト自身は自分のこの証言の重大性について知るよしもないのですが、あたかも神のしもべか預言者のように、十字架のできごとにおいて重要な役割を演じました。救いを実現する神の摂理のみ業であると言えます。

ピラトはイエスを釈放しようと考え、祭りのときに誰か一人を釈放(恩赦)する習慣を持ち出して、イエスかバラバかと問いました。すると人々はバラバを釈放し、イエスを十字架につけよと叫び続けました。ピラトは抗しきれず、バラバを釈放し、イエスを十字架刑とする決定を下します。

罪人(わたしたち)の身代わりとして、キリストが苦難を受けることで罪の償いを果たすという救いの奥義は、バラバとイエスの交換において象徴的に表明されています。これも、ピラトや群衆のまったくあずかり知らないことでした。

人の気づかないところで神の救いのみ業がイエスにおいて成就していきます。それゆえ、人の歴史には救い主イエスが出てこないのです。聖書という神の啓示だけがこの救いの奥義を教えています。

毎週日曜日は礼拝の日

仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時30分~12時00分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
水曜日 祈祷会
14時00分から15時30分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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