死ぬばかりに悲しい

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死ぬばかりに悲しい

祈りを3度も重ねたとは、自分自身との戦いがいかに激しかったかを表しています。しかし、父に祈ることで恐れを克服することができました。わたしたちも、すました祈りではなく、父なる神を呼び出してすべてを打ち明けて祈ることも必要です。

死ぬばかりに悲しい        マルコ14:32-42

イエスは十字架への道をゆるがぬ決意を持って進んできたように思えます。「これはわたしの体である」(14:22)、「これは、…わたしの血、契約の血である」(24)と十字架の死を前庭にして聖餐式を制定するなど、何の迷いもないようでした。

 しかし、逮捕直前の今日の聖書箇所で、イエスは激しく動揺しています。「わたしは死ぬばかりに悲しい」(34)、「アッバ、父よ。…この杯をわたしから取りのけてください」(36)は、これから起こることを恐れ、できれば避けたい、やめさせて欲しいとの父への願いであり、祈りです。

 神の永遠のみ子が人となったのがイエスであり、神であり人である方です。十字架の死は、わたしたち罪人の身代わりとしての死ですから、人として死ぬことです。しかも信ずるすべての者の罪を背負って受ける神の刑罰としての死ですから、わたしたちの想像を超える恐れと苦悩の中にありました。

 「この杯をわたしから取りのけてください」(36)は使命の拒否であり、不信仰なのでしょうか。大切なことは、「アッバ、父よ」と呼んで神に祈っていることです。偽らざる心境を吐露しながら、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との祈りは、神を前にして自分自身と格闘している姿であるといえます。

この祈りを3度も重ねたとは、自分自身との戦いがいかに激しかったかを表しています。しかし、父に祈ることで恐れを克服することができました。わたしたちも、すました祈りではなく、父なる神を呼び出してすべてを打ち明けて祈ることも必要です。

眠り込んでいる弟子の姿は、自分自身と格闘するイエスとは対照的です。ペトロたちは、「わたしはつまずかない」との自信に満ちていましたから、恐れおののく弱い自分と格闘することがなく、祈るべき時に祈ることができませんでした。イエスを捨てるのも当然の結果です。

イエスは、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(38)とわたしたちに語っています。弱い自分に負けないために。

毎週日曜日は礼拝の日

仙台カナン教会では毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで日曜日の都合がつかない方は、毎週水曜日に行われる祈祷会(きとうかい=お祈りの会)がおすすめです。

日曜日 朝の礼拝
午前10時30分~12時00分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
水曜日 祈祷会
14時00分から15時30分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

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