宇都宮教会からのメッセージ

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宇都宮教会からのメッセージ

宇都宮教会からのメッセージ。不定期更新です。

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伝道礼拝 11月27日(日) am10:30

伝道礼拝 11月27日(日) am10:30

'   伝道礼拝のご案内' 自分の力だけで解決できないとき、人は、思わず神さまに救いを求めることがあり ます。 病や事故、災害のとき、あるいは人間関係で思い悩むとき、そのような経験をさ れたことはありませんか。 そのような苦しみや悲しみ、そして言い表せないほどの喜びのとき、神さまはあ なたと共にいて下さいます。イエス・キリストは、そのような私たちをこよなく 愛して下さっています。 聖書では、イエス・キリストがどのように語り、人々をごらんになられている か、確かめてはみませんか。毎週日曜日の礼拝のとき、教会でお待ちしていま す。 2022年11月27日(日)午前10時30分~12時 「イエス・キリストとは誰なのか」 聖書:マタイによる福音書1章1節~17節 金田 知朗 牧師 ★新型コロナウィルス感染症対策(マスク着用・消毒・検温、換気)を実施しています。 ★普段着のままで来られても大丈夫です。当日は、扉を開き、お待ちしています。 日本キリスト改革派 宇都宮教会 〒322-0002 鹿沼市千渡1256-3 電話 0289-63-5499 最寄り駅 東武日光線ー新鹿沼駅から15分 千渡駅下車+徒歩8分 JR鹿沼駅から車で7分程

迷子の羊

 ある羊飼いは100匹の羊を飼っていました。夕方になったので羊飼いは、名前を呼びなが ら100匹の羊をかぞえてみるとどうしても1匹足りません。羊飼いは、迷子の羊の名を呼び ながら探しましたが見つかりませんでした。岩陰のほうに行って、何度も羊の名前を呼び ましたがいません。羊飼いは少し遠くの岩陰のほうに行って探すことにしました。何度か 名前を呼んでいると、かすかに迷子の羊の声がしたので羊飼いは、迷子の羊を肩に担い で羊の群れに戻ることができました。  いなくなった羊は、草を食べることに夢中になり羊飼いのもとから迷い出てしまったの でしょうか。わたしたち人間も何かに夢中になってしまうと自分の居場所が分からなくな る時があります。地図ならGPS(ナビゲーション)で自分の居場所を調べることが来ますが、 人生の悩みや人間関係などの問題にどうしたらよいか、解決することができないときがあ ります。  ところでイエス・キリストの宣教の第一声は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と    言 われました。天国に入るためには、悔い改めなれけばならないというのです。なぜなら、 わたしたち人間は生まれながらにしてすべての人が罪を持って生まれてきます。これは神 様と人間との関係が壊れてしまい、人に罪が入り人間としての本来の姿を失ってしまった ところにあるのです。イエス・キリストは人間の魂を正しく導くGPS(ナビゲーション)です。人が生きる限り、失敗苦労・迷い・不可解なことなどたくさんありますが、「すべて、疲 れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ま せてあげます。」(マタイ11:28)とイエス・キリストのもとには安らぎがあることを教えて くださいます。あなたも迷うことのない、正しい道を歩んでみませんか。  宇都宮教会では、毎週礼拝をとおして神の言葉である聖書から現代に生きる私たちに与 えられた神様からのメッセージを聴いています。 あなたのお越しをお待ちしています。  日本キリスト改革派宇都宮教会の礼拝時間 毎週日曜日 10時30分より。 〒 322-0002 栃木県鹿沼市千渡1256-3       ホームページhttp://www.rcj.gr.jp/utsunomiya/      e-mail rcj-utsunomiya@kfy.biglobe.ne.jp             ☎ 0289-63-5499 牧 師   金 田 知 朗

99匹の羊

聖書には、イエスキリストの愛を、羊飼いと羊に例えた物語があります。  100匹の羊を飼っていたある羊飼いは、夕方になったので名前を呼びながら数えてみると、どうしても一匹足りません。そこで羊飼いは、99匹を置いていなくなった1匹を見つかるまで必死に探しました。羊という動物は、とても臆病で迷いやすく、決して1匹では生きていくことが出来ません。羊飼いのもとで群れをなして生きているのです。  イエス・キリストの愛も、この羊飼いのように人間をこよなく愛し、1人1人に愛の眼差しを向けておられ、ご自分を求めて来る人を探し続け、大きな手を広げて待っておられるのです。私たち人間も、ひとりでは生きていくことが出来ません。1匹の羊のように迷い出て、生きる意味・目的を見失った人生は、そこに真の幸福はなく、名声・冨・自分自身・プライドに固執することは、この世だけの虚しい人生ではないでしょうか。  神は人を母の胎のうちで組み立てられ、この世に生を受けて歩んでいる今も尚、創造主である神(イエス・キリスト)と共に歩むことが幸いな人生であると聖書は教えておられます。イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちの全ての罪からの赦しと解放、さらに永遠の命(天国)が約束されていることは、なんと幸いなことでしょう。  宇都宮教会では、毎週日曜日の礼拝を通して、神に礼拝をささげ、讃美歌を歌い、牧師の語る聖書のメッセージを聴くことが出来ます。  ぜひ教会の礼拝にいらしてみませんか。(無理に勧誘することはありません) あなたのおいでを心より歓迎します。 礼拝: 毎週日曜日 10時30分~11時45分     聖書クラス 第一・第三金曜日 10時30分~11時30分                  日本キリスト改革派宇都宮教会               〒322-0002 栃木県鹿沼市千渡1256-3               ℡ 0289-63-5499               ホームページ http://www.rcj.gr.jp/utsunomiya/

神と共に歩むクリスチャンの人生観・死生観

イエス・キリストを信じて歩む人生を選択した時、この世の欲に眼を奪 われることなく、心と魂に平安が与えられ、社会を力強く生きるように変 えられます。同時に、死は恐怖ではなく、人間のゴールでもありません。 むしろ、罪を赦された者として、死は完成の喜びであり、凱旋であるとい えます。    神と共に歩むクリスチャンの人生観・死生観   ―神・隣人・教会・企業・社会・世界に仕える信仰ー                         2021 年 2 月 28 日                              豊川修司  1. はじめに 長いクリスチャン人生の中で、一番願ってきたことは、一人でも多くの方々が教会に導かれて、主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けて欲しいということです。(教会ではこの方々を求道者と呼んでいます) この小さな文章は、わたしの歩みを紹介しつつ、求道者の方々に読んでいただきたいと願い執筆しました。でも、求道者の方だけでなく、既に洗礼を受けているクリスチャンの方々にも読んでいただき、求道者の救いに心を向けて頂きたいと願っています。 今、世界・日本は新型コロナウイルス感染拡大の最中にいます。教会は礼拝を持つのが精一杯な状況ですが、このような社会にあっても信仰を求めている方が多くいます。その方々に心を向けて、Zoom(ズーム)で求道者会が可能です。是非、教会で試行することをお薦めします。 教会はあなたのために、いつも門戸を開放しています。 2.企業時代 わたしの生き方は、母のキリスト教信仰の影響が大でした。工業高校3 年の時洗礼を受け、KDDに就職のため仙台から上京してきました。最初の配属先である「上福岡受信所」に勤務したとき、その町に新しくできたプロテスタント教会(現在の日本キリスト改革派上福岡教会)に通い始めました。これが企業と教会生活の始まりです。 (※KDD:国際電信電話KK、現在のKDDIの前身) その後、50 歳ころ、会社は通信の自由化で合併を余儀なくされました。定年まで会社に残るべきか、あるいは、依願退職して牧師の道を選択すべきかを考えましたが、それまで心に描いていた牧師の道を選択しました。 KDDに 34 年間勤務した最後の職場は、社員 6,000 人の総括で業務系といわれる学卒者(法科・経済)のポストである本社総務人事本部総務グループ・プロジェクト・マネージャー(上級管理職)を務めさせていただきました。この部署は業務系学卒者の憧れのポストでした。 こうして 34 年間 52 才で、大好きなKDDを依願退職しました。企業には何一つ不満はなく、工業高校卒の者をここまで高く引き上げてくださった会社に感謝しています。 3.企業人生から牧師の道へ わたしの人生を大きく成長させてくれたのは、初めて配属された職場 (国際短波通信業務:福岡受信所)でした。都市化のあおりで廃局が決まり、5 年間、残務整理要員でしたが、上司はわたしを励まし、人生について多くのアドバイスをしてくれました。上司はクリスチャンではありませんでしたが、いつもわたしに配慮し、人間に対する興味を高めてくれました。 残務整理を終えて、東京大手町にある国際通信回線の関門局に異動しました。この職場は、日本と世界の国々を結ぶ重要なところで、若い技術者たちが世界の技術者と英語で話し、24 時間体制で働いていました。 「ここは凄い職場だ。これまでの残務整理の日々から、社内で一番活気のある職場に配置してくださったのだ。諦めずに忍耐してよかった。神様ありがとう」 そのような中、わたしの職場に、体調を崩した社員が異動になりました。表情をみる限り、顔は青白く、具合が悪そうでした。どう対応してよいか わかりませんでしたが、彼に自信をもたせようと、皆で話し合ったことを 覚えています。一人の人間を救うこと(生きる自信や希望を与えること) は、結果的に職場を活性化し、生産性を高めることに気付きました。「企 業は人なり」といいますが、まさしくそうです。 一方、教会では牧師が青年をよく指導し、聖書に対する興味を高めてくれました。こうして企業の上司にも、教会の牧師にも恵まれ、18 才から 52 才まで実に 34 年間、社会人経験を沢山積んできました。 この間、何一つ無駄なことはなく、牧師になるための準備だったと思います。このように、会社と退職前の教会を振り返ると、双方ともに「人」を大切にしていたと思います。会社はわたしを 3 度人事部に異動させたこともこの姿勢の表れだったのかもしれません。 4.聖書に基づく人間の状態 聖書は、人間の生き方(自由意思)について 4 つの状態を示していま す。(ウエストミンスター信仰告白第 9 章「人間の自由意思」) (1)神に創造された時点での人間の状態 聖書によれば、神は人間を土からお造りになりました。しかも神に似て造られたとあります(創世記1:27)。似るとは、神の性質である正 義や愛を持った人間です(コロサイ3:10)。 神と共にエデンの園で生活していた人間は、神の前で全く自由を与え られていました。それは、神に創造された人間には罪が無かったからです。 (2)約束を破って罪と悲惨にある状態 神に似て創造された人間(アダムとエバ)は、エデンの園という「神の国」で生活をしていました。神は、人間に完全な服従として、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」 (創世記 2:16、17)という約束を与えました。しかし、人間は蛇(サタン:ヨハネ黙示録 12:9)にそそのかされて、約束を破り、善悪の木の実を食べてしまったのです。 このとき以来、人間は神の前に罪人(神の約束を破ること)になり、アダムだけでなく、アダムの子孫(全人類)が罪を背負って生まれることになったのです(人間の歴史、世界の歴史を見ても、人間が犯す罪は数え切れません)。誰かが教えるわけでもないのに、人間は罪を犯します。以下は、聖書が述べる罪の内容です。(ローマ1:29~30)。 ※「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」 人間が罪の状態から救われるためには、罪を持たず罪を犯したことがないお方が、罪を赦してくださる以外に罪から解放される道はありません。では、どうしたら罪から救われるのでしょうか。その答えは、神の独り子(ひとりご)であるイエス・キリストを知り、信じることです。 (3)イエス・キリストの贖いによる罪の救いの状態 聖書は、人間が罪から救われるためには、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストの福音を信じるように勧めています。 罪が赦されるとは、①神の独り子がわたしたちの罪のために十字架におかかりになり、罪の身代わりになったこと、②死んで墓に 3 日間葬られたこと、③その後三日目に死人から復活されたことを信じることです。 (コリント一 15:1~8) そのしるしとして洗礼を受けます。まさに自分の人生を、もはや自分自身のために生きるのではなく、イエス・キリストに造り変えられた者として新しく生きるのです。普通、人間は自分自身のため、あるいは自分中心 に生きますが、キリストを信じて生きる者は、もはや自分のためではなく、神のために、隣人のために生きるのです。 (4)完全に救われた状態 では、今の時代、イエス・キリストが生まれてからこの 2000 年をどのように考えるのでしょうか。聖書は、この世の終わりには、イエス・キリストが再びこの地上に来られると言います(キリストの再臨という)。 再臨の時、既に地上生涯を終えて、神の国に入った者や信仰を持たずし て地上を去った者たちは全員復活して、キリストの前で審判を受けます。この時、信仰を持って地上生涯を終えた者たちは、完全な罪の赦しが与 えられ、神と共に永遠に生きることができるように、救いの完成に導いてくれます。一方、信仰を拒否し続けてきた者たちは、神から永遠の裁きの審判がくだされます。主イエス・キリストは、そうならないように、教会の門戸を開き、一人でも多くの方々がイエス・キリストを信じるように待っているのです。(ペテロ二 3:9) 5.教会とは それでは教会とは何でしょうか。教会はなぜ必要なのでしょうか。 聖書は、教会を「キリストの体」(コロサイ1:24)と呼んでいます。教会では、牧師が神のみ言葉を解き明かし、人間の罪を自覚させ、悔い改めに導き、聖霊によってイエス・キリストを信じるように改心させてくださいます。これは御言葉と聖霊なる神の働きによるのです。(コリント一12:3) また、信じた者が信仰を持って、地上生涯を送ることができるように、日曜日ごとの礼拝でみ言葉を聞き、魂の栄養をいただくのです。 人間には肉体の保持や体の維持のために食事が必要です。同様に、人間の心には栄養が必要です。その栄養は神の御言葉、聖書です。日々食事をいただくように、御言葉の食事も同様に重要です。聖書には有名な御言葉があります。 ※「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4:4) 6.クリスチャンの生き方 これまで述べてきたクリスチャン人生は、神・イエス・キリスト・聖霊・人間、人間同士の 5 者の関係が相互に関係して生きています。クリスチャンは、自分自身のために生きるのではなく、神と教会と隣人(となりび と)のために生きることになります。 (1)神の栄光を現す生き方 この生き方を示した御言葉は下記の箇所です。 ※「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(コリント一 10:31) この御言葉は、わたしたちに与えられた人生の全時間を、どのように用いるかを示唆しています。職業において、勉学において、生活において、病の中にあっても、神に造られた人間として、最善を尽くすことです。 企業時代の仕事の原点はここにありました。神の前に誠実に生きること、すなわち神が与えたもう上司に仕え、最大の能力を発揮するという生き方です。それゆえ、入社当初の廃局残務整理5年間や国際デジタル回線の急増の時も、若い技術者たちが乗り切れたのは、クリスチャン社員が先頭に立って、生き生きと仕事をしていたからではないかと思います。 (2)神と隣人に仕える生き方 聖書の中に、ある律法学者がイエス・キリストを試そうとして質問をした箇所があります。 ※「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ 22:36~40) 律法全体と予言者とは、聖書全体 66 巻(旧約聖書 39 巻と新約聖書 27 巻)のことです。聖書は、①神を愛することと、②自分を愛するように隣人を愛することを勧めています。 では、愛とは具体的にどのようなことでしょうか。コリント一 13 章に愛の内容が示されています。長い引用ですが書き留めます。 (3)愛を持って歩む生き方 愛についての教えは、コリント信徒の手紙一13章が有名です。その一部を掲載します。 ※「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼 を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。・・・それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント一 13: 4~7、13) 愛を持って人生を生きたら、目の前にある小さなことに目を注がず、隣人に謙虚に対応できるのではないでしょうか。神と共に生きる人生は、わたしたちの心の目を近視眼的ではなく、視野を広げさせ、永遠の方に心を向けてくださるのです。教会においても、社会においても、人間の持つべき資質は、人に対する思いやりと愛です。 7.結論 ―クリスチャンの人生観・死生観― イエス・キリストを信じて歩む人生を選択した時、この世の欲に眼を奪われることなく、心と魂に平安が与えられ、社会を力強く生きるように変えられます。同時に、死は恐怖ではなく、人間のゴールでもありません。むしろ、罪を赦された者として、死は完成の喜びであり、凱旋であるといえます。 聖書は、クリスチャンの本国(国籍)は天にあると語り(フィリピ 3: 18~20)、地上生活は一時の仮住まいで、この世では寄留者であり、旅人であると語っています。また、その場所はヨハネ黙示録 21:3~4 に示されています。 ※「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ 3:18~20) すなわち、ハイデルベルグ信仰問答書問1に次の言葉があります。 問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めはなんですか」答 「わたしが自分のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、 わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」 わたしたちの体は、自分自身のものではなく、代価を払って買い取られたのです。自分の人生を自分の楽しみにだけに使うとは、何と視野の狭い生き方なのでしょうか。そうではなく、罪赦された者として、精一杯、社 会を生きてください。そしてあなたの人生のギアを一段引き上げてください。 わたしは人生 70 年後半に入ってきました。これから生きたとしてもせ いぜい 10 年くらいです。ですから、残された人生を、神のために、キリストのために、教会のために、隣人のために、社会のために、明日に希望を持てない人々のために、将来を背負う若い人たちのために時間・体・経済・賜物などを惜しみなく提供したいと思います。 そうする時に、主は、最もふさわしい時にわたしの地上生涯を終わらせ、永遠の御国へと招いてくださると信じています。 どうか、一人でも多くの方々が教会に来て、御言葉を聞き、救いに入り、洗礼を受けることができるように祈っています。                   日本キリスト改革派教会引退教師                   宇都宮教会代理牧師、上福岡教会員                                     以上

聖書の御言葉4(2020年7月19日)

いなくなったのに見つかった → →          → →        → →            豊川修司 先生 ルカによる福音書15章1節から32節には、「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子のたとえ」の「三無しのたとえ」と呼ばれる有名な譬え話があります。三つの話の共通点は、見失ったとか、無くしたとか、いなくなったという点です。神様からみて存在そのものが無くなってしまったということです。 失った羊、無くした銀貨を一生懸命探すのは、持ち主である主イエス・キリストです。 聖書は、わたしたち人間が、神様から離れて、見失ってしまったように描いています。ですから主イエス・キリストは私たちを探し、見つけ、救い、神様の元へと立ち返らせます。ここにわたしたちの喜び以上に、神様ご自身の大きな愛と大きな喜びがあります。 1.見失った羊と無くした銀貨 100匹の羊のうち1匹が集団から離れて見失ってしまいました。羊飼いは99匹を野原に置いて1匹を探しに出かけます。見失うとは、存在そのものがなくなることです。羊飼いは羊を一所懸命探し、ようやく見つけ出します。そして羊を肩に担いで、牧場に帰り、近所の人たちを呼び集めて「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と喜びをかくせません。99匹とはキリストのもとに来ない人たちのことです。 無くした銀貨のたとえ話も見失った羊と同じ流れです。一生懸命、探した結果、ようやく銀貨が見つけます。これこそ天にある大きな喜びなのです。 2.羊飼いの役目。 羊飼いは羊を探し連れて帰ります。羊とは人間を譬えているので、主イエス・キリストは人間を神の喜びの場に差し出します。ここで大切なことは、羊である人間が悔い改めることです。悔い改めとは、方向転換することです。今までの自分の生き方・考え方、自己中心的な生き方を、聖書が示す生き方に転換することです。悔い改めは、主イエスキ・キリストの十字架と復活を信じて生きる、新しい生き方です。 3.神を喜ぶという意味  3番目の「放蕩息子のたとえ」は、「見失った羊」と「無くした銀貨」の結論です。 二人の兄弟がいて、弟がお父さんに財産の分割を要求します。弟は財産を換金して旅に出ます。弟はお金を全て使い果たし、豚の餌まで食べるほど身を滅ぼしてしまい、親のもとへ帰る決心をします。本来なら叱られるところですが、父は遠くに弟を見つけるや否や、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻したのです。兄は、弟に対する父の対応は納得できず、兄の怒りは当然です。父は異常なほどの喜びでこうまで語ります。 「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』神様の喜びは、「いなくなったに見つかった」者に対する大いなる喜びです。それはわたしたち一人一人のことです。教会は、今日もあなたを探し続けています。是非、教会においでください。

聖書の御言葉2(2020年6月14日) わたしが与える水を飲む者は決して渇かない......... 豊川修司 先生

宇都宮教会の礼拝には、信仰者と共に数名の求道者が出席しています。けれどもコロナウイルス禍でインターネット礼拝に切替えているので、教会でお会いできません。そこで、少しでも求道者の方々に福音を届けたいという一心から、ショート・メッセージを送ることにしました。今日も主イエスが与える命のパン(聖書の御言葉)を頂きながら、もう一つ大切な御言葉「決して渇かない水」を考えます。果たしてそんな水ありますか。 1.何よりも生きることが大事 主イエスの12人の弟子のうち、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人は、主イエスのお話をそれぞれの視点で書きました。それが「福音書」と呼ばれる書物で、当時の人たちだけでなく、今の私たちにも当てはまる内容です。先月の命のパンに続いて、主イエスは水の話を取り上げました。この場面は、主イエスがサマリヤという地方で、井戸に水をくみに来た女性と交わした会話です。女性は暑い昼の真っ盛り、人目を忍んで水を汲みにきました。水は生活に欠かすことの出来ない大切な飲み物です。彼女には過去の自分を言えない事情がありました。主イエスは彼女の心を見抜き、ヨハネによる福音書4章13、14節の言葉を与えます。 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 2.主イエスの水は、泉のごとく湧き出る。 彼女が汲む水と主イエスが与える水の違いは何でしょうか。彼女の汲む水は日常生活に大変重要であり、水が無ければ生きることができません。水は命を維持するために必要です。食事に含まれる水分も含めて、人間は一日2ℓの水が必用と言われています。 一方、主イエスは水を譬えで話します。主イエスの語る水とは、心と魂に入る神と主イエスの御言葉のことです。「命のパン」と同じように、水も「命の水」と言われ、命を維持するために必要です。しかも命の水は、心の中で泉のようになって、永遠に命に至り、神と主イエスを知るように向かわせます(ヨハネ17:3)。まるで有名な富士山の地下水「忍野八海」(おしのはっかい)の湧き水を思い出します。女性は、「渇くことのない、汲みに来なくてもいい、その水をください」と主イエスに懇願しました。これが信仰です。 3.主イエスの話は実に躍動的 主イエスの話は決して難しものではなく、日常生活を通して救いに必要な言葉を提供しています。しかも話の内容は、弟子たちや聴衆に精神的な心の活力を与える特徴があります。御言葉を聞いて心が躍り、勇気が湧き、慰めを受け、チャレンジする心へと変えられ、わたしたちの心と魂を揺さぶります。渇きは喉の渇きだけでなく、苦悩、苦痛、迫害、困難、労苦に叫ぶ時も心の飢えです。サマリヤの女はまさに心の渇きだったのです。主イエスが与える水は、主イエスを知る信仰へと向かわせる心の躍動です。

「命のパン」を食べてください

聖書の御言葉1―ショートメッセージー 「命のパン」を食べてください ! 豊川修司 代理牧師 私たちが生きている社会では、自分の力だけでは生きていくことがままならぬことが多くあります。そのような時、聖書には「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」という有名な言葉があります。食べ物は人の体を形成する上で重要です。食べなければ死んでしまいます。けれども聖書は、食べ物だけでなく、いきるために心の食べ物であるパン、即ち、聖書の言葉が必要であると言っています。コロナ禍で困難なことを沢山経験し、今も続いています。その困難な心と魂に聖書の御言葉を受けれて生きるならば、神はあなたに生きる力と希望を与えてくださいます。さあ、聖書を開き、御言葉に耳を傾けましょう。主は今日もあなたと共にいます。 1.旧約聖書時代のパンとは(旧約聖書 申命記8章3節 p294) 「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」この御言葉の背景は次のとおりです。神の民と言われたイスラエル民族は、エジプト滞在430年の長い間、奴隷状態におかれていました。神は彼らの叫びを聞き、モーセを指導者に立てて、エジプトから荒野を経由して約束の土地カナンへ導きます。しかし、彼らは荒野で食べ物、飲み物がないとモーセに不平不満を言います。神は彼らに天からマナ(ウエハーのようなもの)を与え、彼らの旅路を守りました。そこで「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるため」に、生きるためのパン(食べ物)と共に、神を知るための心のパン(御言葉)を与えたのです。 2.新約聖書時代のパンとは(新約聖書マタイによる福音書4章4節 p4) 「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」この御言葉の背景は次のとおりです。主イエスは福音宣教の働きを始める時、荒野で40日間断食した後、空腹の中でサタンの誘惑を受けました。サタンは「神の子ならこの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑します。主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と語り、サタンを退けました。主イエスを信じる者は、多くの誘惑に打ち勝つ力と知恵が与えられます。 3.命のパンを食べるということ新型コロナウイルス感染で亡くなられた方々の死は、家族も立ち会えず辛いですね。 (1)この命は、志村けんさんや岡江久美子さんのように国民的アイドルで代表されます。一方、聖書の命は、勿論、肉体的物理的死の他に、心の死まで滅びないように語っています。 命のパンを食べている者は、死の恐怖を怖れではなく「死んでも生きる」と、今を精一杯生きる者に変えら れます。それが「命のパン」聖書です。 (2)命のパンを食べることよって、この地上に固執しない新しい命に代えられます。命を落しても後悔することがないように、主イエスを見上げて今を生きましょう。 (聖書の御言葉―ショートメッセージーは2周に一度くらいの間隔で配信します。) 以上

新型コロナウイルス感染症拡大防止に関する考察と提言

新型コロナウイルス感染が拡大しています。教会とて、いよいよ舵取りが難しい段階に入ってきました。このような状況下で教会の牧師・長老・執事のリーダーシップが求められます。  感染拡大防止の聖書的基本は、①「自分が感染しないように。感染したら相手を感染させない」という隣人愛の実践であり、②行動の自粛は「良心の制限的自由」(相手をつまずかせないために自分の自由を制限する)であると考えています。ウイルス感染拡大の終息を祈りつつ。

宇都宮教会の新型コロナウイルス感染拡大防止策

現在、新型コロナウイルスによる感染は急速に拡大し、今や新型コロナウィルスの感染者は世界的に急増し(パンデミック)、特に日本の首都圏、大阪地区は急激な増加です。このような状況下で、「爆発的感染(オーヴァーシュート)」の懸念があり、「封鎖(ロックダウン)」や「非常事態宣言」が発出っされてもおかしくない状態になっています。そこで、宇都宮教会小会は、礼拝でクラスターが発生しないように、礼拝方式を会堂から個人・家庭礼拝に切替えることを柱とする「新型コロナウイルス感染拡大防止策」を定めました。ご協力をお願いいたします。 宇都宮教会の新型コロナウイルス感染拡大防止策 Ⅱ 2020年3月1日 改訂2020年4月4日 宇都宮教会 小会・執事会合同役員会   現在、新型コロナウイルスによる感染は急速に拡大し、今や新型コロナウィルスの感染者は世界的に急増し(パンデミック)、特に日本の首都圏、大阪地区は急激な増加です。このような状況下で、「爆発的感染(オーヴァーシュート)」の懸念があり、「封鎖(ロックダウン)」や「非常事態宣言」が発出っされてもおかしくない状態になっています。そこで、宇都宮教会小会は、礼拝でクラスターが発生しないように、礼拝方式を会堂から個人・家庭礼拝に切替えることを柱とする「新型コロナウイルス感染拡大防止策」を定めました。ご協力をお願いいたします。 1.新型コロナウイルス感染対策班  宇都宮教会は、コロナウイルス感染拡大防止のため新型コロナウイルス対策班を設置します。 (1)構成:省略 (2)役割:①家庭礼拝が円滑に行われるように、確実に週報を送り届ける。     ②会員・求道者の霊性を保つため、牧会的配慮を行う(牧会ニュースの発行など)     ③大会・中会の諸情報を周知し、改革派教会としての節度ある行動を喚起する。     ④新型コロナウイルス感染者が発生した場合の適切なアドバイスを行う。(個人)     ⑤礼拝方式の切替え期間中の会計を把握する。 2.感染防止の具体的施策 (1)主日礼拝方式を会堂の礼拝から個人・家庭礼拝に切替える    ①期間は3月29日~5月3日まで(それ以降については、別途周知します)    ②礼拝方法は予め各人に配布された週報(個人礼拝用)で行います。    ③説教は宇都宮教会ホームページにアップした説教を聞きます。    ④献金は通常の献金のようにします。予め献金封筒を用意して入れます。    ⑤礼拝時間は10時半ですが、都合のつかない方は生活に合わせて行って下さい。 (2)聖餐式の中止     礼拝が個人・家庭礼拝に切替わったことにより、この間の聖餐式を中止します。 (3)全ての集会を、主日礼拝に合わせて中止します。    ①金曜日聖書研究・祈祷会    ②イースター愛餐会、花見イベントなど 3.週報の配布とHPへの接続 (1)週報の配布は、土曜日にメールまたはファックスで各自に送りします。 (2)説教は、宇都宮教会のホームページにあります。HPの開け方は次の手順です    ①CTRLを押しながらホームページ http://www.rcj.gr.jp/utsunomiya/をクリック    ②メニューから「礼拝説教」をクリック    ③「日曜朝の礼拝」をクリック    ④2020年3月29日(日)日曜礼拝「神は霊である、義なる方」をクリック、    ⑤音声のスタートボタン▶をクリック 説教が流れます。(全時間数が表示されます) 4.献金の備え (1)礼拝方式の切替え期間中の献金は、以下のように行います。    ①礼拝の前に、予め礼拝献金用の袋(封筒など)を用意し、週報の献金の時に、捧げて     ください。袋には礼拝日と献金額を書いていただきくと会計整理上、助かります。    ②維持献金(月定献金)も、毎月の維持献金袋に入れておいてください。    ③厳しい環境にあっても、主に支えられていことを感謝して献金をささげましょう。 5.家庭礼拝期間中の牧会的配慮  家庭礼拝期間中の大切なことは、羊飼いである牧師が羊である会員・求道者をしっかり  牧会的ケアをすることです。そこで、牧師と定住伝道者は、SNS、Eメール、電話、FAX  などを駆使して、御言葉による魂の平安を与えます。 6.大会から教会・伝道所への注意喚起文など  以下の文書は、大会・中会・宇都宮教会から皆様に送った大切な文章です。 発行日時 宛先 内容 発行元 2月28日 教会・伝道所 新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起(二) 大会執事活動委員会 3月6日 小会・執事会 伝道所委員 新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起(三) 大会執事活動委 大会常任書記団 3月20日 全教会員 ウイルス渦についての神学的考察   神戸神学校長 吉田隆教師 4月3日 全教会員 新型コロナウイルス感染対策に伴う  「信仰的指針」について 大会執事活動委西牧夫教師 4月2日 教会・伝道所 感染症流行下における葬儀のために 牧会に関する委員会橋谷教師 3月1日 教会員 宇都宮教会の新型コロナウイルス感染拡大防止策 宇都宮教会小会・執事会 4月5日 教会員 宇都宮教会の新型コロナウイルス感染拡大防止策(改訂版) 宇都宮教会小会・執事会 2月16日 教会員 宇都宮教会月報 2020年2月号(巻頭言) 豊川代理牧師 3月15日 教会員 宇都宮教会月報 2020年3月号(巻頭言) 豊川代理牧師 以上 (参考) 新型コロナウイルス感染に関する資料 (1)気をつける点  ①日常生活の管理、手洗い、うがい等の公衆衛生に気をつけること。  ②朝、起床時に体温を計ること。  ③不要不急の外出(移動)を避けること。外出時にはマスクを着用のこと。  ④教会全体に、牧会的配慮をもって、感染症の予防と対応を伝えておくこと。  (もし感染の疑いがあった場合は、速やかに代理牧師又は定住伝道者にご連絡ください) (2)新型コロナウイルスの感染拡大の原因は二通りあると言われています。  ①飛沫感染(ひまつかんせん)   感染者のくしゃみ・咳・つばと一緒にウイルスが放出され、そのウイルスを口や鼻から   吸い込んで感染します。 ※感染を注意すべき場面:屋内などでお互いの距離が十分に確保できない状況の時。一定の距離を確保すること。最低でも1メートル。  具体例:懇親会、お食事会、飲み会、狭い部屋で長時間会議など  ②接触感染(せっしょくかんせん)   感染者がくしゃみ・咳などを手で押さえた後、自らの手で回りの物に触れると感染者の   ウイルスが付着します。   未感染者がその部分に接触すると、そのウイルスが未感染者の手に付着し、感染者と直   接接触しなくても感染します。感染場所の例:電車やバスのつり革、ドアノブ、エスカ   レーターの手摺、スイッチなど。 (3)クラスター(集団感染)の回避   省略

突然ですが、あなたは「命について」考えたことがありますか?

突然ですが、あなたは「命について」考えたことがありますか? 「命なんて、死んだら終わり」とお思いですか。もしそうであるなら、人生はなんと空しいことでしょう。人が生きる目的は、喜び、楽しみ、富、地位、満足感、達成感を得るためだけでしょうか。  今現在も世界のベストセラーと言われる「聖書」を読まれたこと、手にされたことが一度はあるかも知れません。その「聖書」が、命は永遠に続くと証言しています。一般的に「死ぬ」とは、肉体が朽ち果てることです。しかし、私たちの内に宿る魂はなお生き続けるのです。全ての人は、永遠の命の源である方、イエス・キリストを信じることによって、無償で「永遠の命」をいただくことができると聖書に書かれているのです。それはまさに福音(良き訪れ)です。 その「聖書」があなたに「すべて疲れた人、重荷を負っている人は私のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 また、「私が道であり、真理でありいのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとにくることはありません。」と大切なあなたに呼びかけています。 あなたもイエス・キリストが与えてくださる本当の「命について」一緒に考えてみませんか・・。教会はいつでも全ての人に開かれています。

砂の上の足跡

ある晩、男が夢をみていた。 夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。 そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。 どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。 ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。 人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。 すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。 しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。 すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。 「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。 しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。 私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」 神は答えられた。 「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。 あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」 (作者不詳)

あなたは、何のために生きるかを考えたことがありますか。

あなたは何のために生きるかを考えたことがありますか。聖書は、人間の第一の最高の目的について「人間の第一の、最高の目的は、神の栄光を現し、神を永遠に、この上なく喜ぶことです。」と教えています。 あなたは、何のために生きるかを考えたことがありますか。 仕事にある程度の成功をおさめること、子供たちができるだけ立派に育つことや世の中に何らかの貢献をすることなど、個人的に、家庭的に、また社会的に、何らかの目的を持っています。  聖書は、人間の第一の、最高の目的について、「人間の第一の、最高の目的は、神の栄光を現し、神を永遠に、この上なく喜ぶことです。」と教えています。 (『ウェストミンスター大教理問答』 宮崎彌男訳 教文館)  また、聖書には「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と記されています。 聖書の言葉は私たちを変え、新しく生まれさせることが出来ます。それに加えて、聖書の言葉は、内的にも外的にも困難の中にある時、私たちに回復を与えて、喜びを取り戻してくれます。(『ウェストミンスター小教理問答案内』 鈴木英明著 つのぶえ社 一部引用)  聖書を通して、生けるまことの神と本当の生きる目的について考えてみませんか。

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」

「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」ヨハネ15:13 賀川豊彦というキリスト教の伝道者であり社会運動家の親友に、松崎里彦という伝道者がいました。松崎先生は元救世軍の伝道者でしたけれども、後に救世軍を辞めて、和歌山県の南部というところで一人で開拓伝道を始めました。伝道のかたわら、農村の青年を集めて聖書を教え、共に労働をし、塾のようなものを始めたのです。それに労祷学園、労働の「労」に祈祷の「祷」、「労祷学園」と名付けました。共に祈り、共に労働をするという意味です。  ところが松崎先生はごもくた先生、つまりごみため先生といわれる程の人で、先生の周りに集まってくる青年には問題児は少なくなかったのです。そのうち山本忠一という知恵遅れの少年が、行くところがなくて松崎先生の元に身を寄せるようになりました。彼は幼い頃、脳膜炎を患い、孤児になったのです。初めの頃、親類の者が世話をしていたのですが、大飯食らいで寝小便をする、そのことのために愛相を尽かされて捨てられ、そして、物乞いをしていました。その時に松崎先生に拾われたのです。  その少年がやってきてすぐ労祷学園の門柱に「アホ学園」と近所の人々が落書きをいたしました。そのことがすっかり南部地方の名物になったです。松崎先生は山本忠一に一生懸命に教育をいたしました。しかし、結局彼が覚えたのは讃美歌214番「北の果てなる氷の山」という歌だけで、山本忠一はいつも可愛らしい声でその歌を歌っていたそうです。しかし、アホ学園と近所の人々から馬鹿にされ始めましたので、他の青年たちは我慢が出来なくなって7人で松崎先生のところにやって参りまして、「あほチュウを追い出すか、さもなくば自分たちが出ていく」そのように談判をいたしました。有為の7人の青年と1人の知恵遅れの青年のどちらをとるか詰め寄られまして、松崎先生は本当に困りましたけれども、聖書のことばによって決断をいたしました。  「丈夫な人に医者はいらない、いるのは病人である。ある人に100匹の羊があり、その中の1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を探しに出かけないであろうか。」その聖書の言葉にたって山本忠一を選ぶ決断をしたのです。7人の青年達は勿論、労祷学園を去って行きました。そのことがあって山本忠一は労祷学園を去って行きました。数年後、風の便りに彼は機帆船に拾われて働いていることを松崎先生は聞きました。  そんなある日、昭和十五年のことです。一人の紳士が松崎先生を訪ねてまいりました。「あなたは何年か前に山本忠一という子供をお世話くださった松崎先生ではありませんか。」と尋ねました。「おお、あなたは忠やんの消息をご存じですか。今どうしていますか。機帆船に乗っていると聞いていましたが」。でその紳士は、「実はその忠やんが立派な働きをして死にました。これが忠やんの形見です。」と言って差し出したのは、船の舵輪でした。その紳士は実は船長でした。彼の機帆船「幸重丸」は荷物を満載して紀州尾鷲を出たのです。ところが出帆間もなく海が時化だしてきて新宮沖に差しかかった時にはどうしても船が意のままに動かないで、ついに暗礁に船底をぶつけて浸水を始めたのです。「もうだめだ」と思っていると破れた船底から「親方、親方、船を、船を」という声がして行ってみますと、山本忠一が腰まで水に浸かりながら叫んでいます。不思議なことに水は少しも増えていません。船員が急いで水を掻い出してみますと、なんと驚いたことに山本忠一が船底の破れた穴に自分の太股をグッと突っ込んで、そして必死にもがきながら「船を、船を、早く、早く、陸に上げろ」と苦しく、狂おしく叫んでいるのです。船員たちは九死に一生を得ましたけれども、忠一はかわいそうに右大腿部をもぎ取られて出血多量のために、上陸するまでに息を引き取りました。  ヨハネによる福音書の第十五章十三節に「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」とあります。現在、労祷学園の屋根の一番上に山本忠一を記念して幸重丸の舵輪が飾られています。山本忠一は、寝小便をするような自分を抱きしめて一緒に同じ布団で寝てくれた松崎先生の心の温かさに触れて「松崎先生に喜ばれたい」そういう思いで一命を投じたのでしょう。キリストの愛の温かさが分ると「神様に喜ばれる生き方をしよう」という思いになります。私達は本当の愛に触れるときに「人を愛して生きよう」という力が湧き出てくるのです。 「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」 ヨハネ15:13 「心の発見」よりラジオ福島から昭和63年3月1日放送したものを抜粋しました。