2025年05月11日「城壁の奉献 성벽 봉헌」

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城壁の奉献 성벽 봉헌

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ネヘミヤ記 12章1節~43節

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聖句のアイコン聖書の言葉

12:1シェアルティエルの子ゼルバベルとイエシュアと共に上って来た祭司とレビ人は、次のとおりである。セラヤ、イルメヤ、エズラ、
12:2アマルヤ、マルク、ハトシュ、
12:3アマルヤ、マルク、ハトシュ、
12:4イド、ギネトイ、アビヤ、
12:5ミヤミン、マアドヤ、ビルガ、
12:6シェマヤ、ヨヤリブ、エダヤ、
12:7サル、アモク、ヒルキヤ、エダヤ。以上、イエシュア時代の祭司長とその仲間である。
12:8レビ人では、イエシュア、ビヌイ、カドミエル、シェレブヤ、ユダ、マタンヤ。この彼とその仲間が賛歌の責任を負い、
12:9レビ人では、イエシュア、ビヌイ、カドミエル、シェレブヤ、ユダ、マタンヤ。この彼とその仲間が賛歌の責任を負い、
12:10イエシュアにはヨヤキムが生まれ、ヨヤキムにはエルヤシブが生まれ、エルヤシブにはヨヤダが生まれ、
12:11ヨヤダにはヨナタンが生まれ、ヨナタンにはヤドアが生まれた。
12:12ヨヤキム時代に祭司で家長であった者は、セラヤ家のメラヤ、イルメヤ家のハナンヤ、
12:13エズラ家のメシュラム、アマルヤ家のヨハナン、
12:14メリク家のヨナタン、シェバンヤ家のヨセフ、
12:15ハリム家のアドナ、メラヨト家のヘルカイ、
12:16イド家のゼカリヤ、ギネトン家のメシュラム、
12:17アビヤ家のジクリ、ミンヤミン家、モアドヤ家のピルタイ、
12:18ビルガ家のシャムア、シェマヤ家のヨナタン、
12:19ヨヤリブ家のマテナイ、エダヤ家のウジ、
12:20サライ家のカライ、アモク家のエベル、
12:21ヒルキヤ家のハシャブヤ、エダヤ家のネタンエル。
12:22エルヤシブ、ヨヤダ、ヨハナン、ヤドアの時代にレビ人は、その家長が祭司と共にペルシアの王ダレイオスの治世まで記録された。
12:23レビ人の家長は、エルヤシブの子ヨハナンの時代まで、年代記に記録された。
12:24レビ人の頭はハシャブヤ、シェレブヤ、カドミエルの子イエシュアと、その前に立って神の人ダビデが命じたように、交替で賛美と感謝を唱えた仲間たち、
12:25マタンヤ、バクブクヤ、オバドヤ、メシュラム、タルモン、アクブ。彼らは城門にある倉庫の警備に当たる門衛たちである。
12:26以上の人々は、ヨツァダクの孫でイエシュアの子であるヨヤキムの時代、長官ネヘミヤと祭司であり書記官であるエズラの時代に奉仕した。
12:27エルサレムの城壁の奉献に際して、人々は、あらゆる所からレビ人を求め、エルサレムに来させて、感謝の祈りと、シンバルや竪琴や琴に合わせた歌をもって、奉献式と祝典を行おうとした。
12:28-29詠唱者たちは、それぞれエルサレム周辺の盆地、ネトファ人の村々、ベト・ギルガルおよびゲバやアズマベトの田舎などから集まって来た。詠唱者たちは、エルサレムの周辺に村を作って住んでいた。
12:30祭司とレビ人は身を清めたうえで、民と城門と城壁を清めた。
12:31わたしは、ユダの長たちを城壁に上らせ、二つの大きな合唱隊を編成した。一隊は城壁の上を右へ、糞の門に向かって進んだ。
12:32その後ろに、ホシャヤおよびユダの長たちの半数が続き、
12:33またアザルヤ、エズラ、メシュラム、
12:34ユダ、ビンヤミン、シェマヤ、イルメヤ、
12:35ラッパを持った祭司たち、次にゼカルヤが続いた。その父はヨナタン、祖父はシェマヤ、更にマタンヤ、ミカヤ、ザクル、アサフとさかのぼる。
12:36更に彼の仲間シェマヤ、アザルエル、ミラライ、ギラライ、マアイ、ネタンエル、ユダ、ハナニが、神の人ダビデの楽器を持って行進に続いた。書記官エズラは彼らの前を行った。
12:37泉の門に来ると、彼らはその前にあるダビデの町への上り坂を上がり、城壁に上って、ダビデの家の上を過ぎて東の水の門に来た。
12:38他の一隊は左に向かった。わたしは他の半数の人々と共に彼らに続いた。一行は城壁の上を行き、炉の塔から広壁、
12:39エフライムの門から古い門、魚の門、ハナンエルの塔、ハンメアの塔から羊の門まで進み、警備の門で止まった。
12:40こうして二隊は、神殿の中に立ち、わたしも役人の半数と共にそこにいた。
12:41ラッパを手にした祭司はエルヤキム、マアセヤ、ミンヤミン、ミカヤ、エルヨエナイ、ゼカルヤ、ハナンヤ。
12:42更にマアセヤ、シェマヤ、エルアザル、ウジ、ヨハナン、マルキヤ、エラム、エゼルは詠唱者として歌い、イズラフヤが彼らの監督であった。
12:43その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ネヘミヤ記 12章1節~43節

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【序】

本日のネヘミヤ記12章は、エズラ・ネヘミヤ記のクライマックスと言っていいかもしれません。城壁の奉献を通してエズラ・ネヘミヤ記は佳境を迎える訳ですが、私たちがイースター記念礼拝の時に、耳を傾けました1コリント15章を見ますと、やはり天の都のクライマックス、佳境について書かれていました。それは、イエス・キリストがこの世に再臨され、最後の審判を下された後に、神の国を御父に引き渡されるという場面です。その時、新しい天と新しい地が天から臨み、神がすべてにおいてすべてになられ、万物の創造の目的が成就されるという内容でした。本日のネヘミヤ記12章もまさに聖なる都の神様への奉献が書かれているのです。従いまして、次週、見ることになります13章は、エピローグのような位置づけとなります。本日も私たちはネヘミヤ記12章の御言葉を通して共に恵みに与りたいと願います。

【1】. アロンの系図

1節から26節まで、祭司とレビ人の名簿が記されています。この名簿が一体何を意味するのか、解明するのは困難であり、学者によってさまざまな解釈がなされてきました。もしかしたら、写本を書き写す際に誤りが起きたのかもしれません。ただ、12:10~11節と12:26節には大祭司の系図が出てきますので、この系図に少し注目してみたいと思います。最初に12:10~11節をご覧ください。

“イエシュアにはヨヤキムが生まれ、ヨヤキムにはエルヤシブが生まれ、エルヤシブにはヨヤダが生まれ、ヨヤダにはヨナタンが生まれ、ヨナタンにはヤドアが生まれた。”

ここには、ゼルバベルと共に帰還した大祭司イエシュアの家系について書かれています。そうしますと、ネヘミヤの城壁再建当時の大祭司は誰だったのかとなと考えると思われますが、ネヘ3:1によれば、大祭司はエリヤシブだと書かれています。逆にイエシュアの先代の大祭司は誰なのか、そんな疑問が出てくると思います。12:26節に、イエシュアの父親について記述されています。ご覧ください。

“以上の人々は、ヨツァダクの孫でイエシュアの子であるヨヤキムの時代、長官ネヘミヤと祭司であり書記官であるエズラの時代に奉仕した。”

ここを見ますと、大祭司ヨヤキムもエズラとネヘミヤの時代に奉仕したと書かれています。そしてイエシュアの父はヨツァダクとあります。実はこの大祭司ヨツァダクは、バビロンに連行された時の大祭司と考えられていますので、歴代誌の大祭司の系図につながってくる訳です。歴代誌上5:29-40の系図を調べてみましょう。

“アムラムの子らはアロン、モーセ、ミリアム。アロンの子らはナダブ、アビフ、エルアザル、イタマル。エルアザルはピネハスをもうけ、ピネハスはアビシュアをもうけ、アビシュアはブキをもうけ、ブキはウジをもうけ、ウジはゼラフヤをもうけ、ゼラフヤはメラヨトをもうけ、メラヨトはアマルヤをもうけ、アマルヤはアヒトブをもうけ、アヒトブはツァドクをもうけ、ツァドクはアヒマアツをもうけ、アヒマアツはアザルヤをもうけ、アザルヤはヨハナンをもうけ、ヨハナンはアザルヤをもうけた。ソロモンがエルサレムに建てた神殿で祭司として仕えたのは、このアザルヤである。アザルヤはアマルヤをもうけ、アマルヤはアヒトブをもうけ、アヒトブはツァドクをもうけ、ツァドクはシャルムをもうけ、シャルムはヒルキヤをもうけ、ヒルキヤはアザルヤをもうけ、アザルヤはセラヤをもうけ、セラヤはヨツァダクをもうけた。”

系図を注意深く読み進めていきますと、大祭司のアロンの系図が、捕囚を体験してもなお保たれたということが分かります。国が滅び、神殿は完全に破壊されましたが、それにも拘わらず大祭司の命脈は守られ、今や新しく建てられた第二神殿において、アロンの子孫が大祭司の職務を引き受けているのです。聖書に出てくる他の系図の例に従って、この系図にも何人かの人物が抜け落ちている可能性は十分に考えられますが、それでもイスラエルの年代記を書くときに、王が不在の場合、大祭司によって、大雑把な年代を把握することができました。12:12節と、26節を見ますと「ヨヤキムの時代」という言葉が出てきますね。これは大祭司ヨヤキムのことです。大祭司ヨヤキムという名前によって、この時代がいつ頃なのかを大雑把ではありますが、把握することが出来るのです。そして、先ほども言いましたが、このヨヤキムからエリヤシブにかけて、書記官エズラと長官ネヘミヤが活躍していたということが分かってくるのです。それから、少し余談になりますが、26節の「長官」という言葉にも注目してください。この言葉は、ヘブライ語の「ペハפחה」という言葉の翻訳です。新共同訳では長官と訳されていますが、新改訳聖書を見ますと「総督」と翻訳されています。ところがゼルバベルや、ユーフラテス川西側州のタテナイにも同じくペハと呼ばれていて(ハガイ1:1、エズラ5:3)そこでは「総督」と訳されています。新共同訳聖書は少し一貫性がないということが分かります。ですから、「ペハ」という言葉の翻訳については、総督として統一した方がいいのではと私は思います。

【2】.聖なる都の奉献

さて、27節からは、城壁の奉献について書かれています。神殿の奉献については、以前エズラ記6章において見てまいりましたが、本日の城壁の奉献の中で強調されているのは、詠唱者たちや合唱隊への言及です。「シンバルや竪琴や琴」というのは、ダビデの時代に組織された奏楽チームでありました。つまり賛美チームが編成され、礼拝に讃美が回復され、神様に感謝の応答を喜んで捧げることが出来るようになった。そのことが強調されているのです。27~30節をご覧ください。

“エルサレムの城壁の奉献に際して、人々は、あらゆる所からレビ人を求め、エルサレムに来させて、感謝の祈りと、シンバルや竪琴や琴に合わせた歌をもって、奉献式と祝典を行おうとした。詠唱者たちは、それぞれエルサレム周辺の盆地、ネトファ人の村々、ベト・ギルガルおよびゲバやアズマベトの田舎などから集まって来た。詠唱者たちは、エルサレムの周辺に村を作って住んでいた。祭司とレビ人は身を清めたうえで、民と城門と城壁を清めた。”

この奉献式の発起人は誰でしょうか。27節を見ますと、一人の指導者が計画したというよりも、民とレビ人たちと詠唱者と祭司と役人が皆で計画したと読み取ることができます。12:31節に「わたし(ネヘミヤ)」という視点が出てきますが、これは決してネヘミヤがリーダーとして共同体を導いているというのではなく、ネヘミヤはあくまで傍観者の立場に終始しています。むしろ各地方に居住しているレビ人たちが奉献式を計画し、これに呼応して詠唱者たちは、それぞれの村々からエルサレムに集まり始めました。集まってきた人々の顔には、喜びと感謝が満ちあふれていたに違いありません。また、24節と36節において、「神の人ダビデ」という言葉に注目してください。神の人とは、普通モーセや預言者たちにつけられる言葉ですが、なぜここで突然ダビデ王に対し、「神の人」という言葉がつけられたのでしょうか。おそらく、モーセが律法を通して礼拝の規定を定めた人であるのに対し、ダビデが讃美の規定を定めた人であるという理由から、神の人という言葉が付けられたと考えられます。モーセの律法の中で定められている礼拝規定は大切ですけれども、それと同様に、ダビデ王が定めた賛美の規定も大切であるということが「神の人」という言葉から伝わってきます。

いよいよ奉献式を捧げることになり、祭司とレビ人が自分たちの身を清めました。次に民と城門と城壁を清めました。民と城門と城壁が一括りに書かれています。因みにエルサレムを「聖なる都」と呼ぶ風習は、バビロン捕囚以前には全く見られませんでした。しかし、捕囚後の文献や捕囚後の預言書からは、エルサレムを「聖なる都」と呼ぶようになりました。それは、この城壁の奉献式と大いに関係があると思われます。と言いますのは、ソロモンの時代の神殿奉献式では、主の御名を置くための選ばれた場所として、神殿にスポットが当てられていましたけれども、今回の城壁の奉献式は、エルサレムの都市全体を神様に献げ、エルサレムを「聖なる都」として献げているというふうに考えられるからです。バビロン捕囚以降、帰還民たちは、エルサレムを聖なる都と呼ぶようになり、それが新約聖書の中にも同じように出てくるのです。続いて31節をご覧ください。

“わたしは、ユダの長たちを城壁に上らせ、二つの大きな合唱隊を編成した。一隊は城壁の上を右へ、糞の門に向かって進んだ。”

次に二つの行列を作り、第一の行列は城壁の上を反時計周りに、第二の行列は城壁の上を時計周りに回り始めました。第一の行列にはエズラが随行し、第二の行列にはネヘミヤが随行しました。行列の先頭には合唱隊が編成されています。合唱隊の次にラッパを持った祭司たちが続き、さらに奏楽者が続きました。行進しながら合唱隊が先頭で讃美し、その後ろからラッパやシンバルや竪琴や琴が演奏してエルサレムの都を囲むようにして練り歩いたのであります。恐らく人々は目を見張って、二つの行列の姿を眺め、子供たちは喜んで、大はしゃぎしたに違いありません。

行列の出発地点が、どこだったのかはっきりと書かれていませんが、以前ネヘミヤが夜中に偵察した時の出発地点である、「谷の門」からだと考えられます。週報の地図を参照してください。左下に谷の門を確認できるでしょうか。ここを起点にして、第一の行列は、谷の門から南の糞の門に向かい、そこから旋回して泉の門、水の門に至りました。一方、第二の行列は、谷の門からエフライムの門を通り、古い門、魚の門をハナンエルの塔を通って羊の門に至りました。警備の門がどこにあるのかはっきりしませんが、ある学者はミフカドの門を指していると主張しています。いずれにせよ、第一と第二の二つの行列はそれぞれ最終的に到着した門から神殿の中に入っていき、神殿の中で二つの行列が相まみえることになったようです。ボルテージは上がり、奉献式はいよいよ一心同体となって進行していきました。40~43節をご覧ください。

“こうして二隊は、神殿の中に立ち、わたしも役人の半数と共にそこにいた。ラッパを手にした祭司はエルヤキム、マアセヤ、ミンヤミン、ミカヤ、エルヨエナイ、ゼカルヤ、ハナンヤ。更にマアセヤ、シェマヤ、エルアザル、ウジ、ヨハナン、マルキヤ、エラム、エゼルは詠唱者として歌い、イズラフヤが彼らの監督であった。その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。”

この奉献式に参加した者たちは男たちだけではありません。子供たちも女たちも含め、全イスラエルが参加しました。最後には祝宴がもたれています。エズラ記でも、エズラが律法を朗読した際、女性と、そして律法を理解できる子供たちが参加したとありましたが、今回もやはり、女たち、子どもたちが参加したと書かれています。この点は、エズラ・ネヘミヤ記において、際立った特徴であると言えるでしょう。天国もこのように、大人たちだけではなく、子供たちも一緒にいることでしょう。43節には「喜び」という言葉が4回も出てきます。子供から大人まで、一つになって聖なる都が神様に捧げられる姿を喜び祝い、祝宴をあげ、賛美を捧げているのです。この喜びは、まさに神によるイスラエルの回復が、完成された喜びでありました。詩編48編はこの奉献式と関係づけられて読まれてきましたので、少し調べてみたいと思います。48編13~15節をご覧ください。

“シオンの周りをひと巡りして見よ。塔の数をかぞえ 城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ。後の代に語り伝えよ この神は世々限りなくわたしたちの神/死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。”

詩編48編が讃美しているのは、単に地理的な場所としてのエルサレムのことを賛美しているのではなく、神の住まいとしてのシオンを賛美していることが分かります。聖書において「シオン」と「エルサレム」は、ほぼ同じ意味で語られていますが、しばしば、シオンとは、とりわけ神が臨在される住まいであり、神の民、神を信じる共同体を指しています。詩編48編は、エルサレムの立地条件や神殿の構造については何も語られず、神の住まいであるシオンと神の栄光についてのみ語られています。ネヘミヤ記の城壁の奉献式も、単に城壁の奉献を喜んでいるのではなく、聖なる都が、神の住まいである贖われた共同体が、神様に捧げらていること、そのことを喜んでいると読むべきでしょう。それはまさに1コリント15章に描かれている、イエス・キリストが神の国を父なる神に引き渡されるという場面と重なってまいります。1コリント15:24をご覧ください。

“次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。”

キリストがこの世に再臨し、神の国を御父に引き渡される時、その時、キリストによる回復の御業がすべて完成し、新しい天と新しい地が天から臨んで、神がすべてにおいてすべてとなられ、万物の創造の目的が成就されるでしょう。その時、シオンは大いなる喜びで満たされるのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。ネヘミヤ12章は、城壁の奉献を通して、エズラ・ネヘミヤ記のクライマックスを迎えました。城壁の奉献とは、聖なる都エルサレムの奉献であり、それは、やがて神によって贖われたシオンが、イエス・キリストによって御父に捧げられ、回復の御業が完成されることを指し示していました。私たちは現在、この世において、様々な問題を抱えています。学校や仕事場での問題、ご近所との問題、家庭内での問題など、いずれも解決の難しい問題ばかりでありますが、私たちは、イエス・キリストによって御父に渡されるその日が来ることを覚え、歩んでまいりましょう。その日、神の民に大いなる喜びを与えてくださるからです。

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성벽 봉헌

2025년5월 11일 주일설교 카와에 토모아키 목사

느헤미야 12장 1~43절

서론

오늘 느헤미야 12장은 에스라 ・느헤미야서의 클라이막스라고 할 수 있습니다. 성벽 봉헌을 통해 에스라・느헤미야서는 절정을 맞이하게 되는데, 우리가 부활절 기념예배 때 들었던 고린도전서 15장을 보면 역시 천국 도성의 절정, 점입가경에 대해 기록되어 있습니다. 그것은 예수 그리스도께서 이 세상에 재림하셔서 최후의 심판을 내리신 후 하나님 나라를 아버지께 바쳐 드리는 장면입니다. 그 때, 새 하늘과 새 땅이 하늘에서 내려와, 하나님의 다스리심이 이 땅에 완전히 임하는, 만물의 창조 목적이 성취된다는 내용이었습니다. 오늘 읽은 느헤미야 12장도 바로 거룩한 성을 하나님께 봉헌하는 내용이 담겨 있습니다. 따라서 다음 주에 살펴 보게 될 13장은 에필로그와 같은 위치에 있습니다. 오늘도 우리는 느헤미야 12장의 말씀을 통해 함께 은혜 받기를 소망합니다.

(1) 아론의 계보

1절부터 26절까지 제사장과 레위인의 명단이 기록되어 있습니다. 이 명단이 도대체 무엇을 의미하는지 밝혀내기가 어려워 학자들에 따라 다양한 해석이 나오고 있었습니다. 어쩌면 사본을 필사할 때 오류가 발생했을 수도 있습니다. 다만 12:10~11절과 12:26절에는 대제사장의 계보가 나오는데, 이 계보에 조금 주목해 보고자 합니다. 먼저 12:10~11절을 보겠습니다.

10 예수아는 요야김을 낳고 요야김은 엘리아십을 낳고 엘리아십은 요야다를 낳고

11 요야다는 요나단을 낳고 요나단은 얏두아를 낳았느니라

여기에는 스룹바벨과 함께 귀환한 대제사장 예수아의 가계가 기록되어 있습니다. 그러면 느헤미야 성벽 재건 당시의 대제사장이 누구였을까 생각하게 되는데, 느헤미야 3:1절에 보면 대제사장은 엘리아십이라고 기록되어 있습니다. 반대로 예수아의 선대 대제사장은 누구인가, 그런 의문이 생길 것 같은데 12:16절에 예수아의 아버지에 대한 설명이 나옵니다. 보시기 바랍니다.

이상의 모든 사람들은 요사닥의 손자 예수아의 아들 요야김과 총독 느헤미야와 제사장 겸 학사 에스라 때에 있었느니라

여기를 보면 대제사장 요아김도 에스라와 느헤미야 시대에 봉사했다고 기록되어 있습니다. 그리고 예수아의 아버지는 요사닥이라고 되어 있습니다. 사실 이 대제사장 요사닥은 바벨론에 끌려갔을 때의 대제사장으로 여겨지기 때문에 역대기 대제사장의 계보와 연결되는 것입니다. 역대기상 6:3~14의 계보를 살펴보겠습니다.

3 아므람의 자녀는 아론과 모세와 미리암이요 아론의 자녀는 나답과 아비후와 엘르아살과 이다말이며

4 엘르아살은 비느하스를 낳고 비느하스는 아비수아를 낳고

5 아비수아는 북기를 낳고 북기는 웃시를 낳고

6 웃시는 스라히야를 낳고 스라히야는 므라욧을 낳고

7 므라욧은 아마랴를 낳고 아마랴는 아히둡을 낳고

8 아히둡은 사독을 낳고 사독은 아히마아스를 낳고

9 아히마아스는 아사랴를 낳고 아사랴는 요하난을 낳고

10 요하난은 아사랴를 낳았으니 이 아사랴는 솔로몬이 예루살렘에 세운 성전에서 제사장의 직분을 행한 자이며

11 아사랴는 아마랴를 낳고 아마랴는 아히둡을 낳고

12 아히둡은 사독을 낳고 사독은 살룸을 낳고

13 살룸은 힐기야를 낳고 힐기야는 아사랴를 낳고

14 아사랴는 스라야를 낳고 스라야는 여호사닥(느헤미야 12:16절의 요사닥과 동일인물로 추정)을 낳았으며

계보를 주의 깊게 읽어보면 대제사장 아론의 계보가, 포로 생활 중에도 유지되었음을 알 수 있습니다. 나라가 망하고 성전은 완전히 파괴되었지만, 그럼에도 불구하고 대제사장의 명맥은 유지되었고, 이제 새로 지어진 제 2성전에서 아론의 후손들이 대제사장의 직무를 수행하고 있습니다. 성경에 나오는 다른 계보의 예에 따라, 이 계보에도 몇몇 인물이 빠졌을 가능성은 충분히 생각할 수 있지만, 그래도 이스라엘의 연대기를 쓸 때 왕이 부재한 경우 대제사장을 통해 대략적인 연대를 파악할 수 있었는데요, 12:12절과 26절을 보면「요아김 때에」라는 단어가 나옵니다. 이것은 대제사장 요아김을 가리킵니다. 대제사장 요아김이라는 이름을 통해 이 시대가 언제쯤인지 대략적으로나마 파악할 수 있습니다. 그리고 아까도 말씀드렸지만, 이 대제사장 요아김에서 엘리아십에 이르기까지 학사 에스라와 총독 느헤미야가 활약했다는 것을 알 수 있습니다.

(2) 거룩한 성의 봉헌

이제 27절부터는 성벽 봉헌에 대한 내용이 나옵니다. 성전 봉헌에 대해서는 앞서 에스라6장에서 살펴봤는데, 오늘 성벽 봉헌에서 강조되고 있는 것은, 노래하는 자들과 찬송하는 자들에 대한 언급입니다.「제금과 비파와 수금」은 다윗 시대부터 도입된 악기였습니다. 즉 찬양팀이 조직되어 예배에 찬양이 회복되어 하나님께 감사의 응답을 기쁘게 드릴 수 있게 되었다는 뜻입니다. 그 점이 강조되어 있습니다. 27~30을 보시기 바랍니다.

27 예루살렘 성벽을 봉헌하게 되니 각처에서 레위 사람들을 찾아 예루살렘으로 데려다가 감사하며 노래하며 제금을 치며 비파와 수금을 타며 즐거이 봉헌식을 행하려 하매

28 이에 노래하는 자들이 예루살렘 사방 들과 느도바 사람의 마을에서 모여들고

29 또 벧길갈과 게바와 아스마웻 들에서 모여들었으니 이 노래하는 자들은 자기들을 위하여 예루살렘 사방에 마을들을 이루었음이라

30 제사장들과 레위 사람들이 몸을 정결하게 하고 또 백성과 성문과 성벽을 정결하게 하니라

이 봉헌식의 발기인은 누구일까요? 27절을 보면 한 지도자가 계획했다기보다는 백성들과 레위인들과 노래하는 자들과 제사장들과 관리들이 함께 계획한 것으로 읽혀집니다. 12:31에「내가(느헤미야)」라는 관점이 나오는데, 이는 결코 느헤미야가 리더로서 공동체를 이끌고 있다는 것이 아니라, 느헤미야는 어디까지나 방관자의 입장에 머물러 있습니다. 오히려 각 지역에 거주하는 레위인들이 봉헌식을 계획하고, 이에 호흥하여 노래하는 자들이 각각의 마을에서 예루살렘으로 모여들기 시작했습니다. 모인 사람들의 얼굴에는 기쁨과 감사가 넘쳐났음에 틀림이 없습니다. 또한 24절과 36절에서 「하나님의 사람 다윗」이라는 단어에 주목해 보시기 바랍니다. 하나님의 사람이라는 말은 보통 모세나 선지자들에게 붙이는 말인데, 왜 여기서 갑자기 다윗 왕에게 「하나님의 사람」이라는 말을 붙인 것일까요? 아마도 모세는 율법을 통해 예배의 규정을 정한 사람인 반면, 다윗은 찬양의 규정을 정한 사람이라는 이유로 하나님의 사람이라는 말이 붙었을 것으로 생각됩니다. 모세의 율법에서 정한 예배 규정도 중요하지만, 그에 못지않게 다윗 왕이 정한 찬양 규정도 중요하다는 것을 「하나님의 사람」이라는 말에서 알 수 있습니다.

드디어 봉헌식을 드리기로 하고, 제사장과 레위인이 자신들의 몸을 정결케 했습니다. 다음으로 백성과 성문과 성벽을 정결케 했습니다. 백성, 성문, 성벽이 한꺼번에 기록되어 있습니다. 참고로 예루살렘을「거룩한 성」이라고 부르는 풍습은 바빌론 포로 이전에는 전혀 찾아볼 수 없었습니다. 그러나 포로 후의 문헌이나 포로 후의 예언서에서 예루살렘을 「거룩한 성」이라고 부르게 되었습니다. 그것은 이 성벽의 봉헌식과 큰 관련이 있는 것으로 보입니다. 왜냐하면 솔로몬 시대의 성전 봉헌식에서는 여호와의 이름을 두기 위해 선택된 장소로서 성전에만 주목했지만, 이번 성벽 봉헌식은 예루살렘 도시 전체를 하나님께 바쳐 예루살렘을 「거룩한 성」으로 헌납하는 것으로 볼 수 있기 때문입니다. 바빌론 포로 이후 귀환한 백성들은 예루살렘을 거룩한 성이라고 부르게 되었고, 그것이 신약성경에도 동일하게 나옵니다. 이어서 31절을 보시겠습니다.

이에 내가 유다의 방백들을 성벽 위에 오르게 하고 또 감사 찬송하는 자의 큰 무리를 둘로 나우어 성벽 위로 대오를 지어 가게 하였는데 한 무리는 오른쪽으로 분문을 향하여 가게 하니

그 다음 두 개의 행렬을 만들고, 첫 번째 행렬은 성벽 위를 반시계 방향으로, 두 번째 행렬은 성벽 위를 시계 방향으로 돌기 시작했습니다. 첫 번째 행렬은 에스라가, 두 번째 행렬은 느헤미야가 동행했습니다. 행렬의 선두에는 감사 찬송하는 자가 편성되어 있습니다. 감사 찬송하는 자 다음에는 나팔을 든 제사장들이, 그 다음에는 악기를 연주하는 자들이 뒤를 따랐습니다. 행진하면서 감사 찬송하는 자가 선두에서 찬양하고 그 뒤에서 나팔을 잡고 제금을 치며 비파와 수금을 타며 예루살렘 성을 둘러싸고 행진했습니다. 아마도 사람들은 눈을 크게 뜨고 두 행렬의 모습을 바라보았을 것이고, 어린 아이들은 기뻐서 어쩔 줄 몰라 했을 것입니다.

행렬의 출발 지점이, 어디였는지는 분명하게 기록되어 있지 않지만, 이전에 느헤미야가 한밤중에 정찰할 때 출발했던「골짜기 문」에서 출발한 것으로 추정됩니다. 주보의 지도를 참고해 보시기 바랍니다. 왼쪽 하단에 「골짜기 문」을 확인할 수 있으실까요? 이곳을 기점으로 첫 번째 행렬은 「골짜기의 문」에서 남쪽의 「분문」으로 향했고, 거기서 선회하여 「샘문」, 「수문」에 이르렀다고 합니다. 반면 두 번째 행렬은 「골짜기 문」에서 「에브라임 문」을 지나 「옛 문」, 「어문」을 거쳐 「하나넬 망대」를 지나 「양문」에 이르렀습니다. 「감옥 문」이 어디에 있는지는 확실하지 않지만, 어떤 학자는 「함밉갓 문」을 가리킨다고 주장합니다. 어쨌든 첫 번째와 두 번째 두 행렬은 각각 최종적으로 도착한 문을 통해 성전 안으로 들어갔고, 성전 안에서 두 행렬이 서로 만나게 된 것으로 보입니다. 분위기가 고조되고 봉헌식이 드디어 한마음 한뜻으로 진행되었습니다. 40~43절을 보시겠습니다.

40 이에 감사 찬송하는 두 무리가 하나님의 전에 섰고 또 나와 민장의 절반도 함께 하였고

41 제사장 엘리아김과 마아세야와 미냐민과 미가야와 엘료에내와 스가랴와 하나냐는 다 나팔을 잡았고

42 또 마아세야와 스마야와 엘르아살과 웃시와 여호하난과 말기야와 엘람과 에셀이 함께 있으며 노래하는 자는 크게 찬송하였는데 그 감독은 예스라히야라

43 이 날에 무리가 큰 제사를 드리고 심히 즐거워하였으니 이는 하나님이 크게 즐거워하게 하셨음이라 부녀와 어린 아이도 즐거워하였으므로 예루살렘이 즐거워하는 소리가 멀리 들렸느니라

이 봉헌식에 참여한 사람들은 남자들만 참여한 것이 아닙니다. 아이들과 여자들을 포함한 모든 이스라엘 사람들이 참여했습니다. 마지막에는 잔치가 벌어졌습니다. 에스라서에도 에스라가 율법을 낭독할 때 남자나 여자나 알아들을 만한 모든 사람들이 참여했다고 했는데, 이번에도 역시 여자와 어린 아이들도 참여했다고 기록되어 있습니다. 이 점은 에스라・ 느헤미아서에서 두드러진 특징이라고 할 수 있습니다. 천국도 이처럼 어른들뿐만 아니라 어린 아이들도 함께 있을 것입니다. 43절에는「즐거워하다」라는 단어가 4번이나 나옵니다. 어린 아이부터 어른까지 하나가 되어 거룩한 성이 하나님께 바쳐지는 모습을 즐거워하며 축하하고, 잔치를 베풀고, 찬양을 드리고 있는 것입니다. 이 기쁨은 바로 하나님에 의한 이스라엘의 회복이, 완성된 기쁨이었습니다. 시편 48편은 이 봉헌식과 연관지어 읽혀져 왔기 때문에 조금 살펴보겠습니다. 48편 12~14를 보시겠습니다.

12 너희는 시온을 돌면서 그 곳을 둘러보고 그 망대들을 세어 보라

13 그의 성벽을 자세히 보고 그의 궁전을 살펴서 후대에 전하라

14 이 하나님은 영원히 우리 하나님이시니 그가 우리를 죽을 때까지 인도하시리로다

시편48편이 찬양하는 것은, 단지 지리적 장소로서의 예루살렘을 찬양하는 것이 아니라 하나님의 거처로서의 시온을 찬양하고 있음을 알 수 있습니다. 성경에서「시온」과 「예루살렘」 은 거의 같은 의미로 사용되지만, 종종 시온은 특히 하나님이 임재하시는 거처이자 하나님의 백성, 하나님을 믿는 공동체를 가리키는 경우가 많습니다. 시편 48편은 예루살렘의 입지 조건이나 성전 구조에 대해서는 전혀 언급하지 않고, 오직 하나님의 거처인 시온과 하나님의 영광에 대해서만 언급하고 있습니다. 느헤미야서의 성벽 봉헌식도, 단순히 성벽 봉헌을 기뻐하는 것이 아니라, 거룩한 성이 하나님의 거처인 구속받은 공동체가 하나님께 바쳐진 것, 그것을 기뻐하는 것으로 읽어야 할 것입니다. 그것은 바로 고전 15장에 묘사된 예수 그리스도께서 하나님 나라를 아버지께 바치시는 장면과 겹쳐집니다. 고전 15:24를 보시겠습니다.

그 후에는 마지막이니 그가 모든 통치와 모든 권세와 능력을 멸하시고 나라를 아버지 하나님께 바칠 때라

그리스도께서 이 세상에 다시 오셔서, 하나님 나라를 아버지께 바치실 때, 그때 그리스도에 의한 회복의 역사가 모두 완성되고, 새 하늘과 새 땅이 하늘로부터 내려와, 하나님의 다스리심이 이 땅에 완전히 임하는, 만물의 창조 목적이 성취될 것입니다. 그때 시온은 큰 기쁨으로 충만하게 될 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 느헤미야 12장은 성벽 봉헌을 통해, 에스라・느헤미야서의 클라이막스를 맞이했습니다. 성벽 봉헌은 거룩한 성 예루살렘의 봉헌을 의미하며, 이는 하나님께서 구속하신 시온이, 장차 예수 그리스도로 말미암아 아버지께 봉헌되어 회복의 역사가 완성될 것을 가리키고 있습니다. 우리는 현재, 이 세상에서 다양한 문제를 안고 살아가고 있습니다. 학교와 직장에서의 문제, 이웃과의 문제, 가정 내의 문제 등 모두 해결하기 어려운 문제들이지만, 우리는 예수 그리스도로 인해 아버지께 바쳐질 그날이 온다는 것을 기억하며 걸어갑시다. 그 날, 하나님의 백성에게 큰 기쁨을 주실 것이기 때문입니다.

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