2025年04月06日「偉大な告白 위대한 고백」

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偉大な告白 위대한 고백

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ネヘミヤ記 9章1節~37節

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聖句のアイコン聖書の言葉

9:1その月の二十四日に、イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけた。
9:2イスラエルの血筋の者は異民族との関係を一切断ち、進み出て、自分たちの罪科と先祖の罪悪を告白した。
9:3彼らは自分の立場に立ち、その日の四分の一の時間は、彼らの神、主の律法の書を朗読して過ごし、他の四分の一の時間は、彼らの神、主の前に向かって罪を告白し、ひれ伏していた。
9:4イエシュア、バニ、カドミエル、シェバンヤ、ブンニ、シェレブヤ、バニ、ケナニは、レビ人のための台に立ち、神なる主に向かって大きな叫び声をあげた。
9:5レビ人イエシュア、カドミエル、バニ、ハシャブネヤ、シェレブヤ、ホディヤ、シェバンヤ、ペタフヤは言った。「立って、あなたたちの神、主を賛美せよ。とこしえより、とこしえにいたるまで/栄光ある御名が賛美されますように。いかなる賛美も称賛も及ばないその御名が。
9:6あなたのみが主。天とその高き極みを/そのすべての軍勢を/地とその上にあるすべてのものを/海とその中にあるすべてのものを/あなたは創造された。あなたは万物に命をお与えになる方。天の軍勢はあなたを伏し拝む。
9:7あなたこそ、主なる神。アブラムを選んでカルデアのウルから導き出し/名をアブラハムとされた。
9:8あなたに対して忠実なその心を認め/彼と契約を結び/子孫に土地を与えると約束された。カナン人、ヘト人、アモリ人/ペリジ人、エブス人、ギルガシ人の土地を。あなたは約束を果たされた。まことにあなたは正しい方。
9:9わたしたちの先祖がエジプトで苦しんでいるのを見/葦の海で叫び声をあげるのを聞き
9:10ファラオとその家来/その国民すべてに対して/あなたは数々の不思議と奇跡を行われた。彼らがわたしたちの先祖に対して/傲慢にふるまったことを/まことにあなたは知っておられた。こうしてかちえられたあなたの名声は/今日も衰えることを知らない。
9:11あなたは先祖の目の前で海を二つに裂き/海の中の乾いた地を通らせ/追い迫る敵をあたかも石のように/荒れ狂う水の深みに投げ込まれた。
9:12昼は雲の柱、夜は火の柱をもって/わたしたちの先祖を導き/その進み行く道を照らされた。
9:13あなたは天からシナイの山に降って彼らと語り/正しい法、真実の律法/優れた掟と戒めを授け
9:14あなたの聖なる安息日を布告し/僕モーセによって/戒めと掟と律法を授けられた。
9:15彼らが飢えれば、天からパンを恵み/渇けば、岩から水を湧き出させ/必ず与えると誓われた土地に行って/それを所有せよと命じられた。
9:16ところが、わたしたちの先祖は傲慢にふるまい/かたくなになり、戒めに従わなかった。
9:17聞き従うことを拒み/彼らに示された驚くべき御業を忘れ/かたくなになり/エジプトの苦役に戻ろうと考えた。しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに溢れ/先祖を見捨てることはなさらなかった。
9:18彼らが牛の像を鋳て造り/エジプトから救ってくれた神だと称し/背信の大罪を犯したときも
9:19まことに憐れみ深いあなたは/彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった。昼は雲の柱を取り去ることなく行く手を示し/夜は火の柱を取り去ることなく/行く道を照らされた。
9:20あなたの優れた霊を授けて彼らに悟りを与え/口からマナを取り上げることなく/渇けば水を与えられた。
9:21四十年間、あなたが支えられたので/彼らは荒れ野にあっても不足することなく/着物は朽ち果てず、足もはれることがなかった。
9:22諸国、諸民族を彼らの支配下に置き/分け与えて国境に住まわせられた。ヘシュボンの王シホンの国も/バシャンの王オグの国も彼らの所有となった。
9:23その子らの数を天の星のように増やし/行って所有せよと先祖に約束された土地に/彼らを導き入れられた。
9:24その子らはその地に入り、これを所有した。あなたはその地の先住民カナン人を服従させ/彼らの支配下に置かれた。その地にいた諸民族とその王たちを/彼らは思いのままにあしらった。
9:25堅固な町々、肥沃な土地を奪い/すべての良きものに満ちた家/貯水池、ぶどう畑、オリーブと果樹の園を/数多く手に入れた。彼らは食べて飽き、太り/大きな恵みを受け、満足して暮らした。
9:26しかし、彼らはあなたに背き、反逆し/あなたの律法を捨てて顧みず/回心を説くあなたの預言者たちを殺し/背信の大罪を犯した。
9:27あなたは彼らを敵の手に渡し/彼らを苦しめられた。彼らが苦難の中から叫び声をあげると/あなたは天にあってそれを聞き/豊かな憐れみをもって、次々と救い手を送り/苦しめる者の手から救い出してくださった。
9:28しかし、平穏になると/彼らは再び御前に悪を行ったので/あなたは彼らを敵の手に任せ/その支配下に落とされた。彼らが再び叫び声をあげると/あなたは天にあってそれを聞き/豊かな憐れみをもって彼らを救い出された。
9:29律法に立ち帰るようにと/あなたは彼らに勧められたが/彼らは傲慢になり、御命令に耳を貸さず/あなたの法に背いた。これを守って命を得るはずであったが/彼らは背を向け、かたくなになり/聞き従おうとしなかった。
9:30長い年月、あなたは忍耐し/あなたの霊を送り/預言者によって勧められたが/彼らは耳を貸さなかったので/諸国の民の手に彼らを渡された。
9:31しかし、まことに憐れみ深いあなたは/彼らを滅ぼし尽くそうとはなさらず/見捨てようとはなさらなかった。まことにあなたは恵みに満ち、憐れみ深い神。
9:32今この時/わたしたちの神よ/偉大にして力強く畏るべき神よ/忠実に契約を守られる神よ/アッシリアの王の時代から今日に至るまで/わたしたちが被った苦難のすべてを/王も高官も祭司も預言者もわたしたちの先祖も/あなたの民の皆が被ったその苦難のすべてを/取るに足らないことと見なさないでください。このすべては起こるべくして起こったのです。
9:33あなたは正しく行動されました。あなたは忠実に行動されました。しかし、わたしたちはあなたに背いてしまいました。
9:34王も高官も、祭司もわたしたちの先祖も/あなたの律法に従わず/度重なる命令にも戒めにも/耳を貸しませんでした。
9:35あなたがお与えになった/国と豊かな恵みの中にありながら/あなたがお与えになった/広く肥沃な土地にありながら/彼らはあなたに仕えようとはせず/不正と悪行を改めようとはしませんでした。
9:36御覧ください、今日/わたしたちは奴隷にされています。先祖に与えられたこの土地/その実りと恵みを楽しむように/与えられたこの土地にあって/御覧ください/わたしたちは奴隷にされています。
9:37この土地の豊かな産物も/あなたがわたしたちの罪のためにお立てになった/諸国の王のものとなり/わたしたち自身も、家畜も/この支配者たちの意のままに/あしらわれているのです。わたしたちは大いなる苦境の中にあるのです。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ネヘミヤ記 9章1節~37節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

エズラ記とネヘミヤ記は、旧約聖書の中で、歴代誌の後に続いており、旧約聖書全体では真ん中あたりか、やや前半に位置します。そのため私たちは少し錯覚しがちですが、実はエズラ記とネヘミヤ記の時代背景は、旧約の歴史の中で最後の方になります。中間時代と呼ばれている、神の預言が途絶える400年がありましたが、その中間時代に入る少し前の出来事であります。本日の9章において、イスラエルの歴史に総括が与えられ、イスラエルの贖いの希望が告白され、そして万物の贖い・新天新地への希望が告白されています。その意味で、これは聖霊によって導かれたに違いありませんが、イスラエルの共同体による偉大なる告白が、ここでなされている訳です。本日もネヘミヤ記を通して共に御言葉の恵みに与りたいと願います。

少し余談にはなりますが、ネヘミヤ記の9章は、前の8章と雰囲気がずいぶんと異なるため、神学者の中で議論を呼んでいます。9:1に「断食」という言葉がいきなり出てきますが、祭りの後に断食が来るのは、予想外の事でした。また仮庵の祭りの最中に、8:11でレビ人は民に対して「悲しんではならない」と命じていました。その点からも、8章と9章のつながりが、どこかしっくりこないのであります。最近の注解書を見ますと、ネヘミヤ記8、9、10章は、ネヘミヤ記の編集者によって挿入された文章であり、8、9、10章の年代的な背景は、それぞれ独自の背景を持っているに違いないと主張します。もし、そのように考えるなら、時を示している9:1の「その月の二十四日」という日付も、必ずしも城壁が完成したBC.445年の第七の月という年代ではない可能性もあります。しかし、私たちは、ネヘミヤ記9章がこの場所でどのような機能を果たしているのかを調べ、そして、ネヘミヤ記8~10章が、どのように結び合わされているのかを着目しながら、読み進めていきたいと思います。

9章は、悔い改めの告白について書かれていますが、以前の説教で触れましたように「律法の朗読」と「悔い改め」については、既に8章において出てまいりました。8:9で、人々は律法を理解した時、泣き崩れたと書かれています。しかし、その8章において、律法を朗読し、泣いたというその事実だけが言及されていて、具体的な内容が書かれていません。ですから9章において、何を、どのように悔い改めたのか、そして10章において、律法の朗読をどのように理解し適用したのかが、具体的に展開されていると解釈することができるのです。従いまして私たちは、8章の要素が9章と10章において拡大されていると文学的に解釈しながら、読み進めていきたいと思います。

【1】. かたくなな民

9:1節でイスラエルのある人々が、断食し、粗布をまとい、土をその身に振りかけ、悔い改めを呼びかけました。すると、全イスラエルはそれに応答しました。2節冒頭に「イスラエルの血筋の者」とありますが、これは直訳しますと「イスラエルの子孫は」という意味です。全イスラエルを指しています。この反応は、かつてのイスラエルには見られないものでした。預言者ヨエルが、ヨエル書2:12-13において、

“今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。”

と民に悔い改めを呼びかけましたが、誰も応答する者はいませんでした。また、預言者アモスが、イスラエルとその指導者に対し、アモス書5:21-24において、

“わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても/穀物の献げ物をささげても/わたしは受け入れず/肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように/恵みの業を大河のように/尽きることなく流れさせよ。”

このように言って民に呼びかけましたが、誰も応答する者はいませんでした。ところが、今、バビロンの地から帰ってきたイスラエルの共同体は、呼びかけに応じ、悔い改め、自分たちの罪と先祖たちの罪を告白しているのです。2節に描かれている状況は、これまでとは全く異なる、新しく変えられたイスラエルの姿であります。民は1/4の時間を、律法の朗読のため、1/4の時間を、罪を告白し、ひれ伏すために過ごしました。当時の人々は日中の12時間を4つに区分しましたので、朝6時~9時までの時間に律法の朗読をし、9時~12時までの時間に罪の告白をしたということになります。午前中いっぱいをかけて律法の朗読と悔い改めをしたということです。告白は、天地創造から始まり、イスラエルの歴史を過去からネヘミヤの時代に至るまで一連の物語のようにして語られました。早速内容を見て行きましょう。

まず、天地創造において語られている重要なポイントは、6節で「あなたは万物に命をお与えになる方」として告白されている点です。主ヤハウェは、単に創造の神様というだけにとどまらず、命をお与えになる方であり、生命の源であることが告白されています。そして主の支配は天にまで及ぶと告白されています。当時、天の万象である、夜空に輝く星々は、神々として考えられていました。この世界を創造された神が、主ヤハウェであったとしても、その支配が、天の神々の領域にまで及ぶということを異邦の民は誰も想像できなかったでしょう。しかしイスラエルの民の信仰は、主ヤハウェが天の万象より優れたお方であることを告白しているのです。次に主なる神は、アブラムを選び、イスラエル民族をご自身の民として選ばれました。主ヤハウェのイスラエルとの関わりというのは、イスラエルが主にとって何か、魅力的だったから、心惹かれたから、興味をそそられたからではありません。イスラエルが他の民族に比べて心の優しい民だったから、品行方正な民だったからではなく、ただ、御自身の御名のためであり、主の御名の栄光と名声のためにイスラエルを選ばれたのです。主は、イスラエルの民をエジプトの奴隷から贖い出し、葦の海を二つに裂いて渡らせ、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らの進みゆく道を照らしました。さらに、荒れ野において、イスラエルの民に律法を授け、聖なる安息日を布告し、天からのマナを降らせ、約束の地を所有させようと導かれました。ところがイスラエルの民は、これほどの恩を頂いたのに、その恩を仇で返すかのような傲慢な行動をとりました。カデシュバルネアの地で、カナンの地に偵察隊を送った後、「自分たちがイナゴのように小さく見えた」と言い、もう一度エジプトに帰り、奴隷に戻ろうと言い出したのです。それにも拘わらず主は、反逆するイスラエルを見捨てることはありませんでした。9:17をご覧ください。

“聞き従うことを拒み/彼らに示された驚くべき御業を忘れ/かたくなになり/エジプトの苦役に戻ろうと考えた。しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに溢れ/先祖を見捨てることはなさらなかった。”

「あなたは、恵みに満ち、憐み深い赦しの神」と告白されています。「怒るに遅く、慈しみに富む方である」と告白されています。背信の罪を犯したイスラエルであったにも拘わらず、主なる神は、荒れ野での40年間、民と共にいてくださいました。そのためイスラエルの民の着物は朽ち果てず、足もはれることなく、世代が代わって彼らの子どもたちが、ついにカナンの地を占有するようにしてくださったのです。

【2】. 再び罪を

カナンの地を占有するようになった民は、食べて飽き、太り、大きな恵みを受け、満足して暮らすようになりました。幸せな日々を送っていたことでしょう。しかし、ほどなくして民は主に反逆し、背信の罪を犯します。主はイスラエルを敵の手に渡し、苦しめ、そしてイスラエルの民が苦難の中から主に叫び求めると、救い出してくださいました。ところがイスラエルの民は平穏になると、再び御前に悪を行い、主を怒らせます。主は再度、敵の手に渡し、彼らが再度、叫び声をあげると、豊かな憐れみを持ってそこから救い出してくださいました。士師時代が終わり王国時代に入っても、ダビデのように律法に従う王は少数で、多くの王たちは律法に背きました。律法に立ち返るよう、民を説得しますが、聞く耳を持つことはありませんでした。預言者たちは迫害され、殺害されました。そのような中で、ついにアッシリア捕囚によって北イスラエルが滅ぼされ、バビロン捕囚によって南ユダが滅ぼされたのであります。しかし、それにも拘わらず、主なる神はイスラエルを完全に放棄し、捨てることはありませんでした。9:31節をご覧ください。

“しかし、まことに憐れみ深いあなたは/彼らを滅ぼし尽くそうとはなさらず/見捨てようとはなさらなかった。まことにあなたは恵みに満ち、憐れみ深い神。”

先ほどの17節と同じ告白です。「あなたは恵みに満ち、憐み深い神であり、イスラエルの民を完全には滅ぼし尽くそうとはされず、見捨てることはありませんでした」と告白されています。歴史を通して、イスラエルの民は同じような仕方で、繰り返し失敗しているのを見て取ることができます。そこには何の進化も見られません。恐らく未来においてもイスラエルは罪に傾きやすい性質を持っているということは変わらないでしょう。それなのに、イスラエルの民がバビロン捕囚後も完全に滅ぼし尽くされていないという事実、見捨てられていないという事実は、一体何を意味するのでしょうか。33節~35節は、自分たちが神様によって裁かれたのですが、その神様の裁きの業に対し、なんと、讃美が語られています。ご覧ください。

“あなたは正しく行動されました。あなたは忠実に行動されました。しかし、わたしたちはあなたに背いてしまいました。王も高官も、祭司もわたしたちの先祖も/あなたの律法に従わず/度重なる命令にも戒めにも/耳を貸しませんでした。あなたがお与えになった/国と豊かな恵みの中にありながら/あなたがお与えになった/広く肥沃な土地にありながら/彼らはあなたに仕えようとはせず/不正と悪行を改めようとはしませんでした。”

33節冒頭に「あなたは義しいお方です」「あなたは信実なお方です」と告白され、讃美されています。主なる神が、義なるお方、真理の光であるがゆえに、その光に照らされて、自分たちは罪の中に生まれた者たちであり、骨の髄まで全的に堕落しているということを悟ったのです。そのようにして、民の側から罪の告白が出て来ました。しかし、彼らの罪の告白の中には、希望が内に秘められていました。主がイスラエルをお選びになったのが、全くの恵みによることが判明されたからです。ただ、御自身の御名の栄光が崇められるために、御自身の名に懸けて、一方的な上からの恵みによる選びであることが明らかにされたからです。イスラエルの選びは、イスラエルの贖いは、イスラエルの側の行いやイスラエルの側の功労を根拠があるのではなく、神の側の義しさ、神の側の信実さに、その根拠が置かれているのです。

【3】. 贖いの希望

続きまして36~37節には、将来の贖いの希望について告白されています。義なるお方、信実なるお方が、アブラハムに約束してくださった土地を占有する約束を必ず成就してくださるという希望です。もっと言えば、王である主御自身が、民のためにその地を治めてくださるという希望です。

“御覧ください、今日/わたしたちは奴隷にされています。先祖に与えられたこの土地/その実りと恵みを楽しむように/与えられたこの土地にあって/御覧ください/わたしたちは奴隷にされています。この土地の豊かな産物も/あなたがわたしたちの罪のためにお立てになった/諸国の王のものとなり/わたしたち自身も、家畜も/この支配者たちの意のままに/あしらわれているのです。わたしたちは大いなる苦境の中にあるのです。”

イスラエルの民はエルサレムに帰還が許されました。約束の地、カナンの地に住むことが許されました。しかし、依然としてその土地にあって、ペルシアの支配に置かれていて、税をペルシアに支払う義務を負っていました。彼らは依然として奴隷状態にあり、依然として苦境の中に置かれていて、アブラハムに与えてくださった土地を完全に占有するその恵みには与ってはいませんでした。「御覧ください」という言葉は、決して恨み節や、文句の言葉ではございません。やがて、この苦境から贖われることを期待しながら「御覧ください」と語っているのです。やがては、自分たちに土地を占有する約束が成就され、完全な恵みに与ることができる、そんな期待です。これはまるで、新約聖書に出て来る、使徒パウロの告白を思い起こさせます。ローマ書8:22~23をご覧ください。

“被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。”

ネロ皇帝の激しい迫害の中、パウロは、今自分が置かれている苦境について、体が贖われるための産みの苦しみだと語りました。パウロの希望とは、体の贖いであり、万物の贖いであり、自然界の再創造であります。この希望は、イスラエルの民が仮庵の祭りで、将来に約束された、まだ見ぬ天の栄光と祝福を覚えながら、仮庵で過ごしたあの希望と同じであります。つまり、ネヘミヤの時代のイスラエルの民と、使徒パウロは、全く同じ希望を告白しているのです。もちろんこの偉大な告白は、聖霊の臨在の中で、律法を正しく理解することによって初めて出た告白だと思いますが、恵みに満ち、憐み深い、義なる神、怒るに遅く、慈しみに富む方である主をはっきり知るようになった民は、現在、苦境の中に置かれていながらも「贖い主を待ち望みます」という、使徒パウロと同じ希望に立っているのです。この希望に私たちも立つように促されているのです。

【結論】

本日の内容をまとめます。現代に生きる私たちにおいても、日々自分の置かれている苦難や困難に耐えているという現実があります。世界中から聞こえてくる戦争や貧困や疫病や地震などのニュースで、心の不安を感じることもあるでしょう。自分が奴隷のような人生を生きていると感じておられる人もいるのではないでしょうか。しかし、キリストによって贖わた、キリストの体である私たち教会は、終わりの日の体の贖いと、約束の地を占有する希望に立って歩み続けることが許されているのです。主は信実なるお方、義なるお方、御自身の名前に懸けて必ずこの約束を成就してくださるという恵みに立ちながら、私たちは新しい一週間をも希望の中で歩む者たちとならせていただきましょう。

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위대한 고백

2025년 4월6일 센겐다이교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

느헤미야 9장 1~37절

서론

에스라서와 느헤미야서는 구약성경에서 역대기 다음으로 이어지며, 구약성경 전체에서 보면 중간 정도, 혹은 다소 앞부분에 위치합니다. 그래서 우리는 조금 착각하기 쉽지만, 사실 에스라서와 느헤미야서의 시대적 배경은 구약의 역사에서 가장 마지막에 해당합니다. 중간기라고 불리는 하나님의 예언이 끊어지는 400년의 기간이 있었는데, 그 중간기에 들어가기 조금 전의 사건입니다. 오늘 살펴 볼 9장에서는 이스라엘의 역사에 대한 총론이 주어지고, 이스라엘의 속량의 소망이 고백되고, 그리고 만물의 속량과 새 하늘과 새 땅에 대한 소망이 고백되고 있습니다. 그런 의미에서 이 고백은 성령의 인도하심에 의한 것임에 틀림없기에, 이스라엘 공동체의 위대한 고백이 여기서 이루어지고 있는 것입니다. 오늘도 느헤미야서를 통해 함께 말씀의 은혜를 받기를 소망합니다.

조금 여담이지만, 느헤미야서 9장은 앞의 8장과는 분위기가 많이 달라서 신학자들 사이에서 논쟁을 불러일으키고 있는데, 9;1에 갑자기「금식」이라는 단어가 나오는데, 축제 후에 금식을 한다는 것은 예상치 못한 일이었습니다. 또한 초막절 중에 8;11에서 레위 사람들은 백성들에게 「근심하지 말라」고 명령했습니다. 그런 점에서도 8장과 9장의 연결이 어딘지 모르게 어색합니다. 최근의 주석서를 보면, 느헤미야 8,9,10장은 느헤미야서 편집자에 의해 삽입된 글이며 8,9,10장의 연대적 배경은 각각 독자적인 배경을 가지고 있을 것이라고 주장합니다. 그렇게 생각한다면, 시간을 나타내는 9;1의 「그 달 스무나흘 날에」이라는 날짜도 반드시 성벽이 완성된 BC.455년 일곱째 달이라는 연대가 아닐 가능성도 있습니다. 그러나 우리는 느헤미야 9장이 이 부분에서 어떤 기능을 하고 있는지 살펴보고, 그리고 느헤미야 8~10장이 어떻게 연결되어 있는지에 주목하면서 읽어보고자 합니다.

9장은 회개의 고백에 대한 내용인데, 이전 설교에서 언급했듯이「율법 낭독」과 「회개」에 대해서는 이미 8장에서 말씀드렸습니다. 8:9에서 사람들이 율법을 다 깨달았을 때 울었다고 기록되어 있습니다. 그러나 그 8장에서는 율법을 낭독하고 울었다는 그 사실만 언급되어 있을 뿐 구체적인 내용은 언급되어 있지 않습니다. 그래서 9장에서 무엇을, 어떻게 회개했는지, 그리고 10장에서 율법 낭독을 어떻게 이해하고 적용했는지가 구체적으로 전개되고 있다고 해석할 수 있습니다. 따라서 우리는 8장의 요소가 9장과 10장에서 확대되고 있다고 문학적으로 해석하면서 읽어나가고자 합니다.

(1) 강퍅한 백성

9:1에서 이스라엘의 자손이 다 모여 금식하고 굵은 베 옷을 입고 티끌을 무릅쓰며 허물을 자복했습니다. 온 이스라엘이 응답했는데, 이 반응은 과거 이스라엘에서는 볼 수 없는 것이었습니다. 선지자 요엘이 요엘 2:12~13에서,

12 여호와의 말씀에 너희는 이제라도 금식하고 울며 애통하고 마음을 다하여 내게로 돌아오라 하셨나니

13 너희는 옷을 찢지 말고 마음을 찢고 너희 하나님 여호와께로 돌아올지어다 그는 은혜로우시며 자비로우시며 노하기를 더디하시며 인애가 크시사 뜻을 돌이켜 재앙을 내리지 아니하시나니

하고 백성들에게 회개를 호소했지만 아무도 응답하는 사람은 없었습니다. 또한 선지자 아모스가 이스라엘과 그 지도자에게 아모스5:21~24에서,

21 내가 너희 절기들을 미워하여 멸시하며 너희 성회들을 기뻐하지 아니하나니

22 너희가 내게 번제나 소재를 드릴지라도 내가 받지 아니할 것이요 너희의 살진 희생의 화목제도 내가 돌아보지 아니하리라

23 네 노랫소리를 내 앞에서 그칠지어다 네 비파 소리도 내가 듣지 아니하리라

24 오직 정의를 물 같이, 공의를 마르지 않는 강 같이 흐르게 할지어다

이렇게 말씀하시며 백성들을 부르셨지만 아무도 응답하는 사람이 없었습니다. 그런데 이제 바벨론 땅에서 돌아온 이스라엘 공동체는 그 부르심에 응답하여 회개하고 자신들의 죄와 조상들의 죄를 고백하고 있습니다. 2절에 묘사된 상황은, 이전과는 전혀 다른, 새롭게 변화된 이스라엘의 모습니다. 백성들은 1/4의 시간을, 율법 낭독을 위해, 1/4의 시간을 죄를 고백하고 엎드려 절하는 데 사용했습니다. 당시 사람들은 낮 12시간을 네가지의 시간으로 구분했으니, 아침 6시부터 9시까지 율법 낭독을 하고 9시뿌터 12까지 죄를 고백하는 시간을 가졌다는 뜻입니다. 오전 내내 율법 낭독과 회개를 했다는 뜻입니다. 고백은 천지창조부터 시작해서 이스라엘의 역사를 과거부터 느헤미야 시대까지 일련의 이야기처럼 이야기했습니다. 그럼 지금부터 그 내용을 살펴보겠습니다.

먼저 천지창조에 대해서 말하는 중요 포인트는 6절에서「모든 것을 지으시고」라고 고백하고 있다는 점입니다. 주 여호와는 단순히 창조의 하나님에 그치지 않고, 생명을 주시는 분이며 생명의 근원이심을 고백하고 있습니다. 그리고 주님의 통치는 하늘에까지 미친다고 고백하고 있습니다. 당시에는 하늘의 만상인, 밤하늘에 빛나는 별들은, 신으로 여겨졌습니다. 이 세상을 창조하신 하나님이 여호와 하나님이시라 할지라도 그 통치가 하늘의 만상의 영역까지 미친다는 것을 이방인들은 아무도 상상할 수 없었을 것입니다. 그러나 이스라엘 백성의 신앙은 여호와께서 하늘의 만상보다 더 뛰어난 분이심을 고백하고 있는 것입니다. 다음으로 주 하나님께서는 아브라함을 택하시고 이스라엘 민족을 당신의 백성으로 선택하셨습니다. 주 여호와께서 이스라엘과 관계를 맺으시는 것은 이스라엘이 주님께 어떤 매력이 있어서, 마음이 끌려서, 흥미를 느껴서 그런 것이 아닙니다. 이스라엘이 다른 민족에 비해 마음이 착한 민족이라서, 품행이 단정한 민족이라서 그런 것이 아니라, 오직 주님의 이름을 위해서, 주님의 영광과 명성을 위해서 이스라엘을 선택하신 것입니다. 주님은 이스라엘 백성을 애굽의 종살이에서 건져내시고, 홍해 바다를 두 갈래로 갈라 건너게 하셨으며, 낮에는 구름기둥, 밤에는 불기둥으로 그들의 가는 길을 비추셨습니다. 또한 광야에서 이스라엘 백성에게 율법을 주시고, 거룩한 안식일을 선포하시고, 하늘에서 만나를 내려 약속의 땅을 소유하도록 인도하셨습니다. 그러나 이스라엘 백성들은 이토록 큰 은혜를 받았음에도 불구하고 그 은혜를 원수로 갚듯이 오만한 행동을 했습니다. 가데스 바네아 땅에서 가나안 땅에 정찰대를 보낸 후「우리는 스스로 보기에도 메뚜기 같으니」라며 다시 종 되었던 애굽으로 돌아가자고 했습니다. 그럼에도 불구하고 주님은 반역하는 이스라엘을 버리지 않으셨습니다. 9:17을 보시기 바랍니다.

거역하며 주께서 그들 가운데에서 행하신 기사를 기억하지 아니하고 목을 굳게 하며 패역하여 스스로 한 우두머리를 세우고 종 되었던 땅으로 돌아가고자 하였나이다. 그러나 주께서는 용서하시는 하나님이시라 은혜로우시며 긍휼히 여기시며 더디 노하시며 인자가 풍부하시므로 그들을 버리지 아니하셨도다

「주께서는 은혜로우시며 긍휼히 여기시며 용서하시는 하나님」이라고 고백하고 있습니다. 「더디 노하시며 인자가 풍부하신 하나님」이라고 고백하고 있습니다. 배신의 죄를 범한 이스라엘이었음에도 불구하고, 주 하나님은 광야 40년 동안 백성들과 함께 하셨습니다. 그래서 이스라엘 백성의 옷이 헤어지지 않고, 발이 부르트지 않고, 세대를 이어 그들의 자녀들이 마침내 가나안 땅을 차지할 수 있도록 해주셨습니다.

(2) 다시 죄를

가나안 땅을 차지하게 된 백성들은 배불리 먹고, 살찌고 큰 은혜를 받고 만족하며 살게 되었습니다. 행복한 나날을 보냈을 것입니다. 그러나 얼마 지나지 않아 백성들은 주님을 반역하고 배신하는 죄를 범합니다. 주님은 이스라엘을 원수의 손에 넘겨주셔서 고통을 받게 하셨고, 이스라엘 백성이 고난 속에서 주님께 부르짖어 구하면 구출해 주셨습니다. 그러나 이스라엘 백성은 평안해지면 다시 주님 앞에 악을 행하여 주님을 노엽게 합니다. 주님은 다시 원수의 손에 넘겨 주셨고, 그들이 다시 부르짖자 크신 긍휼로 거기서 건져내셨습니다. 사사시대가 끝나고 왕정시대로 접어들어도 다윗처럼 율법을 따르는 왕은 소수에 불과했고, 많은 왕들이 율법을 거역했습니다. 백성들에게 율법으로 돌아오라고 설득했지만 귀를 기울이지 않았습니다. 선지자들은 박해를 받고 살해당했습니다. 그런 가운데 마침내 북이스라엘은 앗수르에 포로로 끌려가고 남유다는 바벨론에게 끌려가고 말았습니다. 그러나 그럼에도 불구하고 주 하나님께서는 이스라엘을 완전히 포기하고 버리지 않으셨습니다. 9:31을 보시기 바랍니다.

주의 크신 긍휼로 그들을 아주 멸하지 아니하시며 버리지도 아니하셨사오니 주는 은혜로우시고 불쌍히 여기시는 하나님이심이니이다

앞서 17절과 같은 고백입니다. 「주의 크신 긍휼로 그들을 아주 멸하지 아니하시며 버리지도 아니하셨사오니 주는 은혜로우시고 불쌍히 여기시는 하나님이심이니이다」라고 고백하고 있습니다. 역사를 통해 이스라엘 백성들은 비슷한 방식으로 반복적으로 실패하는 모습을 볼 수 있습니다. 거기에는 아무런 진화가 보이지 않습니다. 아마도 미래에도 이스라엘이 죄에 빠지기 쉬운 본성을 가지고 있다는 것은 변하지 않을 것입니다. 그런데도 이스라엘 백성이 바벨론 포로 이후에도 완전히 멸망하지 않았다는 사실, 버림받지 않았다는 사실은 도대체 무엇을 의미할까요? 33~35절은 자신들이 하나님의 심판을 받았지만, 그 하나님의 심판의 역사에 대해 얼마나 찬양을 드리고 있는지 모릅니다. 읽어보겠습니다.

33 그러나 우리가 당한 모든 일에 주는 공의로우시니 우리는 악을 행하였사오나 주께선 진실하게 행하셨음이니이다

34 우리 왕들과 방백들과 제사장들과 조상들이 주의 율법을 지키지 아니하며 주의 명령과 주께서 그들에게 경계하신 말씀을 순종하지 아니하고

35 그들이 그 나라와 주께서 그들에게 베푸신 큰 복과 자기 앞에 주신 넓고 기름진 땅을 누리면서도 주를 섬기지 아니하며 악행을 그치지 아니하였으므로

33절 첫머리에 「주는 공의로우시니」「주께선 진실하게 행하셨음이니이다」라고 고백하며 찬양하고 있습니다. 주 하나님은 의로우신 분, 진리의 빛이시기에 그 빛에 비추어 자신들의 죄 가운데서 태어난 자들이며, 뼛속까지 전적으로 타락한 존재임을 깨닫게 된 것입니다. 그렇게 백성들 편에서 죄의 고백이 나왔습니다. 그러나 그들의 죄의 고백 속에는 소망이 숨겨져 있었습니다. 주님께서 이스라엘을 선택하신 것이 전적인 은혜로 인한 것임이 밝혀졌기 때문입니다. 다만 자신의 이름이 영광을 받으시기 위해, 자신의 이름을 걸고 일방적으로 위로부터의 은혜로 선택하신 것임이 드러났기 때문입니다. 이스라엘의 선택은, 이스라엘의 구속은 이스라엘의 행위나 이스라엘의 공로에 근거한 것이 아니라 하나님의 의로움, 하나님의 신실하심에 그 근거를 두고 있는 것입니다.

(3) 구속의 소망

이어서 36~37에는 미래의 속량에 대한 소망을 고백하고 있습니다. 의로우신 분, 신실하신 분이 아브라함에게 약속하신 땅을 차지하게 하시겠다는 약속을 반드시 이루실 것이라는 소망입니다. 더 나아가 왕이신 주님께서 친히 백성을 위해 그 땅을 다스리실 것이라는 희망입니다.

36우리가 오늘날 종이 되었는데 곧 주께서 우리 조상들에게 주사 그것의 열매를 먹고 그것의 아름다운 소산을 누리게 하신 땅에서 우리가 종이 되었나이다

37 우리의 죄로 말미암아 주께서 우리 위에 세우신 이방 왕들이 이 땅의 많은 소산을 얻고 그들이 우리의 몸과 가축을 임의로 관할하오니 우리의 곤란이 심하오며

이스라엘 백성들은 예루살렘으로의 귀환이 허용되었습니다. 약속의 땅, 가나안 땅에 거주하는 것이 허락되었습니다. 그러나 여전히 그 땅에 있으면서도 페르시아의 지배를 받고 있었고, 페르시아에 세금을 내야 하는 의무를 지고 있었습니다. 그들은 여전히 노예 상태였고 여전히 곤궁한 처지에 놓여 있었으며, 아브라함에게 주신 땅을 온전히 차지할 수 있는 그 은혜를 누리지 못했습니다. 「우리가 오늘날 종이 되었는데」라는 말은 결코 원망이나 불평의 말이 아닙니다. 언젠가 이 곤경에서 구원해 주실 것을 기대하면서 말하는 것입니다. 언젠가는 땅을 차지 한다는 약속이 성취되어 온전한 은혜를 누릴 것이라는 기대입니다. 이는 마치 신약성경에 나오는 사도 바울의 고백을 떠올리게 합니다. 로마서 8:22~23을 참고하시기 바랍니다.

22 피조물이 다 이제까지 함께 탄식하며 함께 고통을 겪고 있는 것을 우리가 아느니라

23 그뿐 아니라 또한 우리 곧 성령의 처음 익은 열매를 받은 우리까지도 속으로 탄식하여 양자 될 것 곧 우리 몸의 속량을 기다리느니라

네로 황제의 극심한 박해 속에서, 바울은 자신이 처한 고난을 몸의 속량을 위한 산고의 고통이라고 말했습니다. 바울의 소망은 몸의 속량이요 만물의 속량이요, 자연계의 재창조입니다. 이 소망은 이스라엘 백성들이 초막절에서 미래에 약속된 아직 보지 못한 하늘의 영광과 축복을 기억하며 초막에서 지냈던 그 소망과 동일합니다. 즉, 느헤미야 시대의 이스라엘 백성들과 사도 바울은 똑같은 소망을 고백하고 있는 것입니다. 물론 이 위대한 고백은 성령의 임재 가운데 율법을 바르게 이해함으로써 처음으로 나온 고백이겠지만, 은혜가 풍성하고 긍휼이 많으시고 의로우시며 노하기를 더디 하시고 인자하심이 크신 하나님을 분명히 알게 된 백성들은, 현재 고난 가운데 놓여있지만「속량을 기다리느니라」라는 사도 바울과 같은 소망에 서 있는 것입니다. 이 소망에 우리도 서도록 촉구받고 있는 것입니다.

결론

오늘의 내용을 정리합니다. 현대를 살아가는 우리도 매일매일 자신이 처한 고난과 어려움을 견뎌내고 있는 것이 현실입니다. 세계 곳곳에서 들려오는 전쟁, 빈곤, 전염병, 지진 등의 소식에 마음의 불안을 느낄 때도 있을 것입니다. 자신이 노예와 같은 삶을 살고 있다고 느끼시는 분들도 계실 것입니다. 그러나 그리스도로 말미암아 구속받은 그리스도의 몸인 우리 교회는 마지막 날 몸의 속량과 약속의 땅을 차지할 소망 가운데 계속 걸어가도록 허락받았습니다. 주님은 신실하신 분, 의로우신 분, 자신의 이름을 걸고 반드시 이 약속을 성취하실 것이라는 은혜에 서서, 우리는 새로운 한 주간도 소망 가운데 걷는 자들이 되도록 합시다.

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