2024年03月31日「目が開け、イエスだとわかる 눈이 밝아져 예수님인 줄 알아 보더니」

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目が開け、イエスだとわかる 눈이 밝아져 예수님인 줄 알아 보더니

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章13節~35節

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聖句のアイコン聖書の言葉

24:13ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24:14この一切の出来事について話し合っていた。
24:15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24:16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24:17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24:18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24:19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24:20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24:21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24:22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24:23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24:24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24:25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24:26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24:27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
24:28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
24:29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
24:30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
24:31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
24:32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
24:33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
24:34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
24:35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 24章13節~35節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

イースターおめでとうございます。今日、この日はイエス・キリストが復活された記念日として全世界でお祝いされています。皆様と共に主の復活をお祝いできる恵みに心から感謝いたします。今日のこの礼拝に呼び集められたお一人お一人の上に、神さまの豊かな祝福と平安がありますようにお祈りいたします。

ルカによる福音書、24章13~35節には、二人の弟子たちに起こった心の変化が描写されています。どのような変化かと申しますと、前半においては、悲しみと挫折感が描かれています。イスラエルを救ってくださるメシアと思われていた方が、祭りの最中に十字架刑によって公開処刑をされ、弟子たちは悲しみのどん底へ突き落されました。それまで彼によって抱いていた希望が、挫折と絶望に変えられてしまった、その様子がエマオへ向かう道の中で描かれています。しかし、後半においては、二人の弟子たちが再び喜びと情熱と希望へとかき立てられる様子が、エルサレムへと向かう道の中で描かれています。一体、彼らに何が起こったというのでしょうか。本日はルカ24章から御言葉の恵みに与りたいと思います。

【1】. 二人の弟子たちの目は遮られていた

13節の冒頭に「ちょうどこの日」とあります。それはイエス様が復活された日を指しています。安息日の明けた週の初めの日、とんでもない報告が使徒たちにもたらされました。朝早くに、婦人たちはイエス様のご遺体に香油を塗るために遺体が納められた墓に行ったところ、墓は空になっていたというのです。エマオという村が、どこにあるのか、いまだにはっきりとは分かりませんが、エルサレムから60スタディオン、つまり11キロほど離れていたと書かれています。過ぎ越しの祭りを終えて、エルサレムの雑踏から抜け出すために、二人の弟子がエマオという村へ向かって歩いていました。するとそこへイエス様が近づいてきて、一緒に歩き始めました。この時点で、二人の弟子たちの目は遮られており、この人がイエス様だとは分かりませんでしたので、自分たちと同じようにこの人も、祭りを終えて、帰省するところなのだろうと考えていたのかもしれません。

イエス様が「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか?」と、話しかけると、二人は暗い顔をして立ち止まりました。あまりにショックが大きかったため、その事件を口にするのも憚れたことでしょう。そして、二人のうちの一人、クレオパという人物が口を開きました。「エルサレムに滞在しながら、この数日間そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」

このクレオパの言葉から、驚きと共に、公開処刑が公然と行われたのに、なぜあなただけ、知らないのかという叱責の念がどことなく伝わってきます。イエス様が「どんなことですか」と言われると、二人は「ナザレのイエスのことです」と言い、イエス様を目の前にして、ナザレのイエスについて説明をし始めました。19節bから、23節までをご覧ください。

“この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。”

二人の弟子たちがナザレのイエスについて説明した内容は、まさにメシアとして来られるお方についての正確な情報でありました。まず第一に注目したいことは、19節の「行いにも言葉にも力のある預言者でした。」という言葉です。二人の弟子は、ナザレのイエスに対し、預言者であったことを認め、とりわけ“行いにも言葉にも力のある預言者”であると評価しています。聖書の中で、やがて来られるメシアとは、モーセのような預言者であり、言葉にも行いにも力のある預言者であると語られています。使徒言行録7:22と、申命記18:17-19をご覧ください。最初に使徒7:22(聖書協会共同訳)です。

“そして、モーセはエジプト人の知恵を尽くした教育を受け、言葉にも行いにも力ある者となりました。”

ご覧のようにモーセは、言葉にも行いにも力ある者であったと書かれています。続いて申命記18:17-19をご覧ください。

“主はそのときわたしに言われた。「彼らの言うことはもっともである。わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する。”

申命記には、モーセのような預言者が来られる。その預言者の語る言葉に、聞き従いなさいと書かれています。ですから、二人の弟子たちが、イエス様のことを言葉にも行いにも力のある預言者であったと言った時に、もしや、彼こそ約束されたメシアではないのかということに気づかなかったのでしょうか。第二に、20節の“わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまった”という言葉に注目してください。ここで「議員たち」と訳されている言葉は、他の箇所で「指導者たち(使徒3:17, 4:26, 13:27)」と訳されています。つまり祭司長、長老、律法学者のことです。当時の宗教当局者たちを指していると考えられます。イエス様は、ルカによる福音書の中で三度の受難告知をされていますが(9:22、9:9:44、18:32-33)、その中でまさに、ご自身が祭司長、長老、律法学者によって引き渡され、三日目に復活するということを語られていました。イエス様が十字架にかけられた時、もしや、あの受難告知の通りに、メシアのご受難を受けられ、そして復活されたのではないかと推測できなかったのでしょうか。第三に、21節の“わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました”とも語っています。「解放してくださる」という言葉に注目すると、ギリシア語で「贖う」「買い戻す」という言葉が使用されています。メシアの働きの本質的な部分を言い当てています。そして、詩編とイザヤ書には、他人の命を贖うことは、人間には不可能であり、それは神にしかできないと書かれています。詩編49:8-9ご覧ください。

“しかし、人は兄弟を贖うことができない。/神に身代金を払うことはできない。魂の贖いの値はあまりに高く/とこしえに払い終えることはない。”

次にイザヤ書41:14です。そのままお聞きください。

“あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。”

二人はナザレのイエスに対し、あの方こそイスラエルを贖ってくださる方と望みをかけていたのなら、彼こそまさに、死んで身代金を支払われ、復活された主ご自身なのかも知れないという結論には至らなかったのでしょうか。極めつけは、22節の“ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです”という言葉です。ここで二人の弟子は、婦人たちの報告に同意はしていないようですが、後で仲間の者、何人かが墓に調べに行くと、確かに墓は空だったことが明らかになりました。二人が持っていた情報は、まさにメシアとしてこられるお方についての正確な情報でした。彼らは知識においては、誤りなくメシアについて説明しているにも拘わらず、その知識が信仰として結実していなかったのであります。

【2】. 目が開け、イエスだと分かった

イエス様はここまでの説明を聞かれ、二人の弟子に言われました。25-27節をご覧ください。

“「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。”

イエス様の言葉から、何とあなた方は物分かりが悪いのかという叱責の念が伝わってきます。イエス様が強調しているのは、「メシアは必ず苦難を通して、ご自身の栄光に入らなければならない」ということでした。そのことは、神の摂理であり、永遠において定められていたことでありました。そのことについて聖書全体から説明していきます。イエス様の御言葉の解き明かしを聞きながら、二人の弟子たちの心に火がともされるのを感じたということが、少し後の32節で語られています。目的地に近づくと、二人の弟子たちはイエス様に「一緒にお泊りください」と無理に引き止めました。もう日が傾いていたからです。夜道の移動は強盗に襲われる危険がありました。28節を見ると、イエス様は「なおも先に行こうとされたとされた」とありますが、これは、当時の礼儀作法と考えられます。ユダヤ人において旅人を自分たちの宿に泊まらせてあげるのは、ある意味、当然の義務でした。お互い、そのことを分かっていますので、旅人はわざと先に行こうとしますが、強いてお願いされた場合に、その言葉に甘えさせていただき宿泊することもありました。ユダヤ人はこのようにして、知らず知らずのうちに天から遣わされた天使さえ、もてなすこともあったと聖書に書かれています。例えば創世記19:1-3をご覧ください。ここにもユダヤ人のもてなしの文化とそこに見られる礼儀作法が見られます。

“二人の御使いが夕方ソドムに着いたとき、ロトはソドムの門の所に座っていた。ロトは彼らを見ると、立ち上がって迎え、地にひれ伏して、言った。「皆様方、どうぞ僕の家に立ち寄り、足を洗ってお泊まりください。そして、明日の朝早く起きて出立なさってください。」彼らは言った。「いや、結構です。わたしたちはこの広場で夜を過ごします。」しかし、ロトがぜひにと勧めたので、彼らはロトの所に立ち寄ることにし、彼の家を訪ねた。ロトは、酵母を入れないパンを焼いて食事を供し、彼らをもてなした。”

ユダヤ人の中でこのような文化がありますので、イエス様が先へ行こうとされた様子を見せたのは、他に何か目的があったということではなく、当時の礼儀作法として、そのような態度を見せたということです。イエス様が家に入られ、一緒に食事の席についた時、イエス様は客でありながら、その家の主人のようにふるまわれました。パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人の弟子に配られたのです。この時、イエス様の捧げた祈りは、以前、弟子たちに教えてくださった「主の祈り(11:2-4)」を思い起こさせたことでしょう。弟子たちは、自分たちに必要な日々の糧が恵みによって天から与えられることを、アーメンという言葉をもって深く同意したに違いありません。また、イエス様がパンを裂く様子は、以前、イエス様がなされた五千人の給食の奇跡を弟子たちに思い起こさせたことでしょう。あの時、イエス様こそ、まさに自分たちの必要を満たしてくださるお方であり、羊を養ってくださる羊飼いであると感じた、あの感触を思い起こしたに違いないのであります。その瞬間、二人の目が開かれました。24:31~32節をご覧ください。

“すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。”

二人の目が開かれ、目の前におられるお方が、イエス様であること悟りました。十字架で死なれ、復活されたイエス様です。32節に「聖書を説明してくださったとき」、とありますが、この言葉は、31節の「目が開く」という言葉と同じ言葉です。道で話しながら、イエス様が聖書の御言葉を開いてくださったということです。それは、今まで知っていたはずの何の変哲もない聖書の御言葉が、イエス様の説明によって、御言葉が目の前に立体的に開かれて来るような、そんな感覚に襲われたということだと思います。よく知っていたはずの聖書の御言葉が、新しい新鮮さを持って迫って来たということです。以前語られたイエス様のみ教えが、一つ一つ有機的なつながりを持って、再認識させられたということです。イエス様に関する表面的な知識が打ち破られ、中からリアリティを持った信仰が現れてきたのです。その瞬間、イエス様の姿は見えなくなりました。しかし、彼らの心に灯された信仰の火は、それによって消されることはありません。彼らは言いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」!

イエス様との人格的な出会いによって、彼らの心に信仰の火が灯され、彼らは完全に御言葉に捕らえられてしまったのです。弟子たちは、食事を終え、既に遅い時間になっていたと思われますが、時を移さず出発し、夜道の中、エルサレムへ戻りました。とても、その場に留まって夜を過ごすことは出来なかったのです。一刻も早く仲間たちに、この喜びの知らせを伝えたいと思ったのでありましょう。皆様もある日、この二人の弟子たちのように、聖書の御言葉が非常な新鮮さを持って、ご自身に迫ってきたという経験をされたことはないでしょうか。イエス様との人格的な出会いや、それぞれの信仰の営みは、人それぞれだと思いますが、おそらく、何らかの形で御言葉に捕らえられたからこそ、今日、このようにして、皆様は、教会に来られたのだと思います。私自身も御言葉に捕らえられた一人であります。

【結論】

聖書の情報を、聖書の知識を、どんなに正確に理解していても、イエス様を信じることは出来ません。時にかなって、イエス様が弟子たちを訪ねて来てくださり、弟子たちの目を開いてくださり、その時、初めて信仰の火を灯されるのです。この信仰の火は、たとえイエス様が目に見えなくとも、信じることができ、喜びと情熱と希望をもたらします。私たちは、共におられるイエス様から、励ましと慰めとを常に与えられ、御言葉に捕らえられた者として、苦難を通して栄光に入れられる信仰の歩みを全うすることができるのです。イースターをお祝いする皆様の信仰の歩みが、神様の豊かな祝福に満ちたものとなりますようお祈りいたします。

原稿のアイコンハングル語メッセージ

눈이 밝아져 예수님인 줄 알아 보더니

2024년 3월31일 센겐다이 교회 부활절 주일설교

누가복음 24장 13~35절

서론

부활절을 축하합니다. 오늘, 이 날은 예수 그리스도께서 부활하신 기념일로서 전세계에서 축하되고 있습니다. 여러분과 함께 주님의 부활을 축하할 수 있는 은혜에 진심으로 감사드립니다. 오늘 이 예배에 부르심을 받은 한 분 한 분 위에, 하나님의 풍성한 복과 평안이 함께 하시기를 기도합니다.

누가복음24장 13~35절에는, 두 제자들에게 일어난 마음의 변화가 묘사되어 있습니다. 어떤 변화냐 하면, 전반부에는 슬픔과 좌절감이 그려져 있습니다. 이스라엘을 구원해 주시는 메시야로 여겼던 분이, 유월절 축제 중 십자가형에 의해 공개처형을 당했고, 제자들은 슬픔의 구렁텅이로 빠졌습니다. 그때까지 그로 인해 품었던 희망이, 좌절과 절망으로 바뀌어 버린 그 모습이, 엠마오로 향하는 길 속에서 그려져 있습니다. 그러나 후반부에는, 두 제자들이 다시 기쁨과 열정과 희망으로 가득찬 모습이 예루살렘으로 향하는 길 속에 그려져 있습니다. 도대체 그들에게 무슨 일이 일어났다는 걸까요? 오늘은 누가복음 24장으로부터 말씀의 은혜를 입고 싶습니다.

(1) 그들의 눈이 가리어져서

13절 첫머리에 「그 날에」라고 쓰여져 있습니다. 그것은 예수님이 부활하신 날을 가리키고 있습니다. 안식일이 밝았던 주 초하루, 뜻밖의 보고가 사도들에게 전달되었습니다. 아침 일찍, 여자들이 예수님의 시신에 향유를 바르기 위해 시신이 놓여진 무덤에 갔더니, 무덤이 비어 있었다고 합니다. 엠마오라는 마을이, 어디에 있는지는 아직도 확실히 알 수 없지만, 예루살렘에서 60스타디온, 즉 11킬로미터 정도 떨어져 있었다고 적혀 있습니다. 유월절 축제를 마치고, 예루살렘의 혼잡에서 벗어나기 위해, 두 제자가 엠마오라는 마을을 향해 걷고 있었습니다. 그러자 그곳에 예수님께서 다가 오셔서 함께 걷기 시작했습니다. 이 시점에서, 두 제자들의 눈은 가리어져 있었고, 이 사람이 예수님인 줄 알아차리지 못했기 때문에, 자신들과 마찬가지로 이 사람도 축제를 마치고, 귀성길에 오른 것이라고 생각했는지도 모릅니다.

예수님이 「너희가 길 가면서 서로 주고받고 하는 이야기가 무엇이냐하시니」두 사람은 슬픈 빛을 띠고 머물러 섰습니다. 워낙 충격이 컸기 때문에, 그 사건을 입에 올리는 것도 꺼려졌을 것입니다. 그리고, 둘 중 한 명인 글로바라는 인물이,「당신이 예루살렘에 체류하면서도 요즘 거기서 된 일을 혼자만 알지 못하느냐」라고 입을 열었습니다.

이 글로바의 말에서, 놀라움과 함께, 공개처형이 공공연히 행해졌는데, 왜 당신만 모르냐는 질책의 뉘앙스가 어딘지 모르게 전해집니다. 예수님께서 「무슨 일이냐」라고 말하자, 두 사람은 「나사렛 예수의 일이니」라며, 예수님을 눈앞에 두고, 나사렛 예수의 일을 설명하기 시작했습니다. 19절 b부터 23절까지를 보세요.

19b 그는 하나님과 모든 백성 앞에서 말과 일에 능하신 선지자이거늘

20 우리 대제사장들과 관리들이 사형 판결에 넘겨 주어 십자가에 못 박았느니라

21 우리는 이 사람이 이스라엘을 속량할 자라고 바랐노라 이뿐 아니라 이 일이 일어난 지가 사흘째요

22 또한 우리 중에 어떤 여자들이 우리로 놀라게 하였으니 이는 그들이 새벽에 무덤에 갔다가

23 그의 시체는 보지 못하고 와서 그가 살아나셨다 하는 천사들의 나타남을 보았다 함이라

두 제자들이 나사렛 예수에 대해 설명한 내용은, 바로 메시아로 오시는 분에 대한 정확한 정보였습니다. 먼저 주목하고 싶은 것은, 19절의 「말과 일에 능하신 선지자이거늘」이라는 말입니다. 두 제자는, 나사렛 예수께서 선지자셨음을 인정하고 특히 「말과 일에 능하신 선지자」라고 평가하고 있습니다. 성경에서, 이윽고 오시는 메시아란, 모세와 같은 선지자이며, 말과 하는 일들이 능하신 선지자라고 기록되어 있습니다. 사도행전 7장 22절과 신명기 18장 17~19절을 참고하시기 바랍니다. 첫 번째로 사도행전 7장 22절입니다.

사도행전 7장

22 모세가 애굽 사람의 모든 지혜를 배워 그의 말과 하는 일들이 능하더라

신명기 18장

17 여호와께서 내게 이르시되 그들의 말이 옳도다

18 내가 그들의 형제 중에서 너와 같은 선지자 하나를 그들을 위하여 일으키고 내 말을 그 입에 두리니 내가 그에게 명령하는 것을 그가 무리에게 다 말하리라

19 누구든지 내 이름으로 전하는 내 말을 듣지 아니하는 자는 내게 벌을 받을 것이요

신명기에는 모세 같은 예언자가 오니, 그 선지자가 하는 말을 잘 들으라고 적혀 있습니다. 그래서 두 제자들이, 예수님에 대해 말과 일에 능하신 선지자였다고 했을 때, 혹시, 그야말로 약속된 메시아가 아닌가 하는 것을 깨닫지 못했을까요. 둘째로, 20절의 「우리 대제사장들과 관리들이 사형 판결에 넘겨 주어 십자가에 못 박았느니라」라는 말에 주목하십시오. 여기서 「관리들」은 제사장, 장로, 서기관들을 말합니다. 당시 성전 당국자들을 지칭하는 것으로 보입니다. 예수님은, 누가복음에서 세 번의 수난 고지를 하셨는데(9장 22절, 9장 44절, 18장 32,33절) 그 가운데에서, 바로 자신이 대제사장들과 장로들과 서기관들에게 버린 바 되어 죽임을 당하고 사흘 만에 부활한다는 것을 말씀하셨습니다. 예수님이 십자가에 못 박혔을 때, 혹시 그 수난 고지대로, 메시아의 수난을 받으셨다가, 부활하신 것이 아닐까 하고 추측하지 못했을까요? 셋재, 21절의 「우리는 이 사람이 이스라엘을 속량할 자라고 바랐노라」고도 합니다. 「속량할」이라는 말에 주목하면 헬라어로 「속죄하다」,「되사다」라는 말이 사용되고 있습니다. 메시아의 사역의 본질적인 부분을 알아 맞히고 있습니다. 그리고, 시편과 이사야에서는, 다른 사람의 생명을 속죄하는 것은 인간에게는 불가능하며, 그것은 하나님께만 가능하다고 쓰여 있습니다. 시편 49편 8,9절을 보시기 바랍니다.

8 그들의 생명을 속량하는 값이 너무 엄청나서 영원히 마련하지 못할 것임이니라

9 그가 영원히 살아서 죽음을 보지 않을 것인가

다음으로 이사야서 41장 14절입니다. 그냥 들어주시기 바랍니다.

버러지 같은 너 야곱아, 너희 이스라엘 사람들아 두려워하지 말라 나 여호와가 말하노니 내가 너를 도울 것이라 네 구속자는 이스라엘의 거룩한 이이니라

두 사람은 나사렛 예수에 대해서, 그분이야말로 이스라엘을 속량해 주실 분이라는 것에 소망을 걸고 있었다면, 바로 그분이야말로, 죽음으로 몸값을 지불하고, 부활하신 주님일지 모른다는 결론에는 이르지 못했을까요? 궁극적으로 22절의 「또한 우리 중에 어떤 여자들이 우리로 놀라게 하였으니 이는 그들이 새벽에 무덤에 갔다가 그의 시체는 보지 못하고 와서 그가 살아나셨다 하는 천사들의 나타남을 보았다 함이라」라는 말입니다. 여기서 두 제자는, 여자들의 보고에 동의하지는 않는 것 같지만, 나중에 동료 몇 명이 무덤에 조사를 하러 가니, 확실히 무덤은 비어 있었던 것으로 밝혀졌습니다. 두 사람이 가지고 있던 정보는, 바로 메시아로 오시는 분에 대한 정확한 정보였습니다. 그들은 지식에 있어서는, 틀림없이 메시아에 대해 설명하고 있음에도 불구하고, 그 지식이 믿음으로 결실되어 있지 않았던 것입니다.

(2) 그들의 눈이 밝아져 예수인 줄 알아 보더니

예수님은 여기까지 설명을 들으시고 두 제자에게 말씀하셨습니다. 25~27절을 보시기 바랍니다.

25 이르시되 미련하고 선지자들이 말한 모든 것을 마음에 더디 믿는 자들이요

26 그리스도가 이런 고난을 받고 자기의 영광에 들어가야 할 것이 아니냐 하시고

27 이에 모세와 모든 선지자의 글로 시작하여 모든 성경에 쓴 바 자기에 관한 것을 자세히 설명하시니라

예수님의 말씀에서, “너희들은 왜 이렇게 미련하고 더디 믿는가”하는 질책의 마음이 전해집니다. 예수님이 강조하시는 것은 메시아는 「반드시 이런 고난을 받고 자기의 영광에 들어가야 할 것이 아니냐」라는 말씀이었습니다. 그 일은, 하나님의 섭리이며, 영원 가운데 정해진 일이었습니다. 예수님께서는 그것에 대해 성경 전체에서 설명하십니다. 예수님께서 성경을 풀어 주실 때에 두 제자들의 마음이 뜨거워지는 것을 느꼈다는 것이 조금 뒤 32절에서 이야기되고 있습니다. 마을에 가까이 가자 두 제자들은 예수님께 「우리와 함께 유하사이다」라고 무리해서 머물기를 권유했습니다. 이미 해가 기울어져 있었기 때문입니다. 밤길 이동은 강도에게 습격당할 위험이 있었습니다. 28절을 보면, 「예수는 더 가려 하는 것 같이 하시니」라고 되어 있는데 이는 당시의 예의범절로 여겨집니다. 유대인들에게 여행자들을 자신들의 숙소에 머물게 해주는 것은 어찌 보면 당연한 의무였습니다. 서로 그것을 알고 있기 때문에 여행자는 일부러 먼저 가려고 합니다만, 무리하게 유하기를 권유를 받았을 경우에 그 말을 받아들여 숙박하는 일도 있었습니다. 유대인들은 이렇게 해서 부지불식간에 하늘에서 온 천사를 대접하기도 했다고 성경에 적혀 있습니다. 예를 들어 창세기 19장 1~3 절을 보시기 바랍니다. 이 말씀에서도 유대인의 환대 문화와 예의범절을 볼 수 있습니다.

1 저녁 때에 그 두 천사가 소돔에 이르니 마침 롯이 소돔 성문에 앉아 있다가 그들을 보고 일어나 영접하고 땅에 엎드려 절하며

2 이르되 내 주여 돌이켜 종의 집으로 들어와 발을 씻고 주무시고 일찍이 일어나 갈 길을 가소서 그들이 이르되 아니라 우리가 거리에서 밤을 새우리라

3 롯이 간청하매 그제서야 돌이켜 그 집으로 들어오는지라 롯이 그들을 위하여 식탁을 베풀고 무교병을 구우니 그들이 먹으니라

유대인 중에서 이런 문화가 있기 때문에, 예수님이 먼저 가려고 하신 모습을 보인 것은 다른 어떤 목적이 있었다는 것이 아니라, 당시의 예의범절로서 그런 태도를 보이셨다는 것입니다. 예수님이 집에 들어가, 함께 식사 자리에 앉았을 때, 예수님은 손님이면서, 그 집 주인처럼 행세하셨습니다. 떡을 집어들고, 찬양의 기도를 소리내어 외우시고, 떡을 떼어 두 제자에세 나눠 주신 것입니다. 이때, 예수님이 드리신 기도는, 이전에 제자들에게 가르쳐주신 「주기도문 (11장 2~4절)」을 상기시켰을 것입니다. 제자들은, 자신들에게 필요한 매일의 양식이 은혜로 인해 하늘로부터 주어지는 것을, 아멘이라는 말로 깊이 동의했을 것입니다. 또한 예수님이 떡을 떼시는 모습은, 이전에 예수님이 하셨던 오천 명을 먹이신 기적을 제자들에게 상기시켰을 것입니다. 그때 예수님이야말로, 바로 자신들의 필요를 충족시켜 주시는 분이자, 양을 길러 주시는 목자라고 느꼈던, 그 감촉을 상기시켰음에 틀림이 없었을 것입니다. 그 순간 두 사람의 눈이 밝아졌습니다. 24장 31,32절을 보시기 바랍니다.

31 그들의 눈이 밝아져 그인 줄 알아 보더니 예수는 그들에게 보이지 아니하시는지라

32 그들이 서로 말하되 길에서 우리에게 말씀하시고 우리에게 성경을 풀어 주실 때에 우리 속에서 마음이 뜨겁지 아니하더냐 하고

두 사람의 눈이 밝아지고, 눈앞에 계신 분이 예수님임을 깨달았습니다. 십자가에서 죽으시고, 부활하신 예수님입니다. 32절에 「성경을 풀어 주실 때」라고 되어 있는데, 이 말은 31절의 「눈이 밝아져」라는 말과 같은 말입니다. 길에서 말씀하시면서, 예수님게서 성경 말씀을 풀어 주셨다고 합니다. 그것은 지금까지 알고 있었을 아무런 색다를 것이 없었던 성경 말씀이, 예수님의 설명에 의해, 말씀이 눈앞에서 입체적으로 다가 오는 그런 감각에 사로잡혔다는 것이라고 생각합니다. 잘 알고 있었을 성경 말씀이 새로운 신선함을 가지고 다가왔다는 것입니다. 전에 말씀하신 예수님의 가르침이, 하나하나 유기적인 연결고리를 가지고 재인식되었다는 것입니다. 예수님에 대한 표면적인 지식이 깨지면서, 안에서 리얼리티를 가진 믿음이 나타난 것입니다. 그 순간, 예수님의 모습은 보이지 않게 되었습니다. 그러나, 그들의 마음에 켜진 믿음의 불은, 그것으로 인해 꺼지지 않았습니다. 그들은「길에서 우리에게 말씀하시고 우리에게 성경을 풀어 주실 대에 우리 속에서 마음이 뜨겁지 아니하더냐」라고 말했습니다.

예수님과의 인격적인 만남으로, 그들의 마음에 믿음의 불이 켜졌고, 그들은 온전히 말씀에 사로잡히고 말았습니다. 제자들은, 식사를 마치고, 이미 늦은 시간이 되었을 것으로 생각되지만, 때를 놓치지 않고 출발하여, 밤길 속에 예루살렘으로 돌아왔습니다. 도저히 그 자리에 머물러 밤을 보낼 수는 없었습니다. 한시라도 빨리 동료들에게, 이 기쁨의 소식을 전하고 싶었던 것입니다. 여러분도 어느 날, 이 두 제자들처럼 성경 말씀이 매우 신선함을 가지고, 자신에게 다가 오는 경험을 해보시지는 않으셨는지요. 예수님과의 인격적인 만남이나, 각자의 믿음의 영위는 사람마다 다를 것이라고 생각합니다만, 아마도 어떤 형태로든 말씀에 사로잡혔기 때문에, 오늘 이렇게 해서 여러분은 교회에 오신 것이라고 생각합니다. 저 자신도 말씀에 사로잡힌 한 사람입니다.

결론

성경의 정보를, 성경의 지식을, 아무리 정확하게 이해하고 있어도, 예수님을 믿을 수는 없습니다. 때가 되면, 예수님께서 제자들을 찾아와 주시고, 제자들의 눈을 밝혀 주시고, 그때 비로소 믿음의 불이 켜지는 것입니다. 이 믿음의 불은, 비록 예수님이 눈에 보이지 않더라도, 믿을 수 있고, 기쁨과 열정과 희망을 가져다 줍니다. 우리는 함께 계시는 예수님으로부터, 격려와 위로를 늘 받을 수 있고, 말씀에 사로잡힌 자로서, 고난을 통해 영광에 들어갈 수 있는 믿음의 발걸음을 다 할 수 있는 것입니다. 부활절을 축하하는 여러분의 믿음의 발걸음이, 하나님의 풍성한 복을 받는 자가 되기를 기도드립니다.

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