2020年12月20日「天使ガブリエルのお告げ 천사 가브리엘의 수태고지」

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天使ガブリエルのお告げ 천사 가브리엘의 수태고지

日付
説教
川栄智章 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章26節~38節

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聖句のアイコン聖書の言葉

1:26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
1:27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
1:28天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
1:29マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
1:30すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
1:31あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
1:32その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
1:33彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
1:34マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
1:35天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
1:36あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
1:37神にできないことは何一つない。」
1:38マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 1章26節~38節

原稿のアイコン日本語メッセージ

【序】

主イエスのご降誕を祝う2020年のクリスマス礼拝をお迎えすることが出来ました。神の御子は、ご自分を無にされ、へりくだり、この地に来てくださり、十字架に架けられ死んでくださいました。そればかりでなく、よみがえって天に挙げられ神の右に着かれ、やがての日にすべてを完成されるために再び来られます。御子のご降誕を喜び、再臨を待ち望んで集められています皆様の上に、神の豊かな祝福と平安がありますようにお祈りいたします。

預言者マラキから、中間期と呼ばれる400年の沈黙の時を経て、神様は天使ガブリエルを送ってくださりイスラエルに新しい啓示を与えてくださいました。その啓示とは、油注がれた王、ダビデの子、キリストがお生まれになり、ついにイスラエルに救いがもたらされるという啓示でございます。天使ガブリエルとは、500年以上も前にダニエルにも現れてくださいましたが、非常に大切なメッセージをもたらす天使です。ガブリエルはまず最初に、洗礼者ヨハネの誕生を祭司ザカリヤに告げるために来ました。洗礼者ヨハネという人はどういう人物かと言いますと、後に、キリストが現れる前に人々を悔い改めに導く人です。険しい山や、でこぼこの谷を平坦に整えるように、救いへの道をまっすぐに整える人です。ザカリヤと不妊の妻であるエリサベトに授かったこの洗礼者ヨハネは、全ての祭司の注目の中で、奇跡の子として誕生しました。また、1:15に書かれていますように、ヨハネはぶどう酒や強い酒を飲まない、神に捧げられたナジル人として成長していきました。やがてヨルダン川で民に洗礼を授けるようになった時、全イスラエルは、彼こそ神から遣わされた預言者か、あるいはメシアではないかと思われたほどの人物でした。この洗礼者ヨハネの誕生の予告から6カ月後に、天使ガブリエルは、今度はナザレという片田舎の乙女に現れて、イエス様のご降誕について告げられました。この二つの奇跡的な誕生物語の、そのギャップを見比べる時に、イエス・キリストが、いかに低い方としてお生まれになったのか、そして、同時に聖なる方として、信仰を通してお生まれになったのかが浮き彫りになってまいります。本日はイエス様のご降誕における「低さ」と「聖さ」と「信仰」という三つのポイントに着目しながら御言葉に聞いていきたいと思います。1:26~27節をご覧ください。

【1】. ご自分を無にされた主

“六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。”

天使ガブリエルは、最初エルサレムの聖所で奉仕している祭司ザカリヤにヨハネの誕生を予告したのに対して、今度はナザレという片田舎の、貧しい一人の処女に来るべきメシア、ダビデの子の誕生を予告しました。ガリラヤのナザレと言えば、今でこそ、受胎告知教会があって、大変有名な観光スポットでありますが、当時はただの田舎で「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われるほど、何もないみすぼらしい町でした。もし、わたしたち人間が、油注がれた王のご誕生を計画しようとするなら、もっとふさわしい仕方があるのではと思ってしまうのではないでしょうか。エルサレムにおいて、何かの祭りの最中に告知したり、あるいは王や、大祭司や、時の権力者を通してメシアのご誕生を告知するという仕方です。しかし神様はそのような世の権威を一切用いることはなさりませんでした。神様の目に、最もふさわしかったのは、むしろ人々から賞賛されるものを何も持っていない、ナザレという町の、しかも女性に告げられるという仕方でした。ルカによる福音書の特徴として、とても温かいタッチと言うのでしょうか、温かい筆遣いを挙げることができますが、その理由は、他の福音書に比べて、特にルカ福音書に、貧しい人、女性、罪びとたちにスポットが与えられているからだと言われています。社会的に小さくて弱い人々を通して神様がご自身の栄光を現される出来事が生き生きと描かれています。このようにしてイエス様は私たちの内にある罪と悲惨を贖うために、ご自身を全く無にされ、最も低いところに現れてくださったのです。

【2】. 聖さと信仰を通して

当時、ユダヤにおいて女性は年齢が13歳くらいになると両親から結婚相手を斡旋されましたから、恐らくマリアもこの時、まだ13歳前後に過ぎない少女だったと考えられます。二人の婚約は、新郎側から新婦側に支払われる花嫁料の交渉から始まりました。それから公に新郎と新婦の婚約が宣言されるのですが、この約束は大変拘束力の強いもので、まだ性的な関係は許されませんでしたが、法的にはすでに結婚したことを意味します。したがって、死や離婚を通してでなければ二人の婚約関係は解消されることはなかったということです。二人はやがて始まる結婚生活に思いを膨らませて、一年間、それぞれの両親のもとで聖別された期間を送ることになります。ですから万一、この一年間に新婦が妊娠していたことが明らかになれば、ただ事ではなかったはずです。律法には姦淫の罪は、石打による死刑だと書かれていますので、ただ事ではないということです。まさにそのような時に天使ガブリエルがマリアを訪れたのでありました。28~33節をご覧ください。

“天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」”

ガブリエルの第一声は「おめでとう、恵まれた方」でありました。マリアはこの天使の挨拶が何のことだろうかと注意深く、平静な気持ちで思いを巡らせていたようです。少し天使の言葉を細かく見ていきましょう。第一に天使は生まれてくる子をイエスと名付けなさいと言いました。ギリシャ語の「Ἰησοῦςイェスース」という言葉は、ヘブライ語では「ヨホシュア」と記述されます。これが時々短縮されて、「ヨシュア」とか、「ホセア」として呼ばれますが、それらの名前の意味するところは、「主は救われる、主は助けられる」という意味です。ですからイエス様のお名前とは、イエス様のお働き、イエス様の職務そのものを意味しているということです。第二に、天使が言うには、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われ」、彼にダビデの王座を下さると宣言してくれました。ダビデの王座とはイスラエルの王としての位であり、もっと言えば、御国における王座でございます。そして、彼は永遠にヤコブの家を治めるとありますが、「ヤコブの家」とは即ちイスラエルのことを指しており、新約でいうところの「私たち教会」を指しています。つまり、イエス様は神の子であられ、御国の王座に着座される方であると同時に、教会の頭であり、シオンの王として油注がれたということです。これは、まさにダビデに与えられた、あのダビデ契約の成就と言えるのではないでしょうか。サムエル下7:12~13をご覧ください。

“あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。”

ガブリエルの言葉とはダビデ契約の成就であったという事です。おそらくマリアはそのことに気づいていたでしょう。しかし普通に考えてみるなら、まだ結婚生活に入っていない若い女が妊娠をしてしまうということは、それは、恐ろしい結果を招くことだと言えるでしょう。もし子供の父親が、この女性と結婚することを拒否するなら、女性は一生独身で生きなければならないという可能性もあります。生計を維持するために物乞いをしたり、売春婦になる状況にまで追いつめられる可能性もあります。マリアはこの時、婚約しているヨセフと、自分の家族と、そして、自分自身の名誉を失うかもしれない大きな冒険を敢行していると言ってもいいかもしれません。しかし崩れ果ててしまったダビデの王座が再び建てられるという天使のお告げを聞いたとき、マリアの心の中に刻まれた信仰と確信は、彼女に何の躊躇もなく神のご計画を受け入れるようにさせたのです。従いまして、34節においてマリアが「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と質問しているのは、彼女が天使のお告げを疑ったり、反論しているというのではなくて、驚きの感情に打たれて、興奮してそのような言葉を発したのだと思われます。それに対する天使の返事を見てみましょう。35~37節をご覧ください。

“天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」”

35節の「包む」という言葉は、覆うという意味です。神の臨在の雲が覆うとか、御翼で覆うという言葉が聖書によく出てくる表現です。マリヤからお生まれになる子は、アダムの子孫からではなく、聖なる種から生まれてくるということがここで説明されています。したがってイエス様は人間の体を取りながらも罪のないお方として生まれてくることができたのです。因みに、不妊の女、エリサベトはマリアの親類ですから、マリヤもザカリアとエリサベトの老夫婦に長いこと子が授からないことをよくよく知っていました。そのエリサベトが身ごもっているというしるしを与えられたのです。マリアとエリサベトが親類関係ですから、イエス様と洗礼者ヨハネも、いとこ同士であるという事が分かります。そしてエリサベトはアロンの家系ですから、マリアとヨセフの結婚というのはアロンの子孫とダビデの子孫、即ち祭司の系列と王の系列の結婚という事になります。まさに神様の絶妙なタイミングの中で、御子が人となられたということです。最後に「神にできないことは何一つない」という天使の言葉に励まされて、マリアは「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と答え、恵みに応答することができました。このマリアの告白は、1:20でザカリヤが天使のお言葉を信じなかったために、赤ちゃんが生まれてくるまで口が利けなくなったのと、実に対照的であります。イエス様は、結婚を待ち望む乙女のその聖別された期間に、そしてマリアの信仰的な恵みの応答の中で、お生まれになったということが分かってくるのです。キリストのご降誕とは、まさに全面的に神様の御心によって、最もふさわしい仕方で成就されたという結論に導かれるのです。

【適用】

日々聖書を読んでいる人にとっては、神の恵みというのは、即刻的に成就するものや、あっという間に名声を得るようなものではないということに、お気づきになるのではと思います。つまり、一見私たちには恵みとは思えないものでも、長い目で見た時に、後で振り返ってみた時に、それが実は神の恵みであったということがわかるのです。私たちは、自分の人生にとって何が最善なのか、自分自身でもよく分からないと思います。ですから神様の導きにお委ねすること、神のご計画、神の召しに対して、信仰によって応答することこそ、神の不思議な恵みを受け取る手段であり、私たちが本当の意味で幸せに生きる道ではないかと思うのです。マリアのケースでは、天使の受胎告知を受け入れて、救い主の母となり、神の救いの計画に与るという事ですが、それは同時にやがて十字架に架けられるわが子の姿に胸を刺されることになるという過酷な定めを受け入れることも意味していました。しかし、そのようなリスクもひっくるめて、神の恵みを信じ、そしてそれが最善の生き方であることを信じて、自分自身を神のご計画に全面的にお委ねし、献げていったのです。私たちも、信仰生活の中で、自分の願いと神の願いが衝突することがあるかもしれませんが、そのような時、自分の願いと計画を優先し、自分で自分を救おうとする、自分で自分を助けようとする、その仕方に突き進むのではなく、マリアのように神の知恵と導きに信頼し、自身を神様に明け渡して歩んでいきたいと思わされます。

また、もう一つ覚えたいことは、神様は聖さを通して働きをなされるという事です。マリアはちょうど彼女の人生の中で最も聖い時期にあったということです。一年後にはヨセフとの結婚生活が始まるために、期待に胸を膨らませながら、心も身体も人生の中で最も貞潔に歩んでいる時に、受胎告知を告げられました。神様は私たちの聖さをお用いになられます。これは決して私たち自身が努力して聖くなれるという事ではありませんが、私たちの信仰生活の中で聖霊を悲しませてはならないよう、日々、聖さを意識しなければならないということです。そして、聖い生活は、私たちの信仰の財産にもなります。私事で恐縮ですが、私は昔、福音派の教会で信仰生活を送っていました。毎朝、早朝祈祷会がございまして、6時に教会に行って礼拝を捧げてから、仕事に向かいました。毎日寝不足でしたけれども、若さの故にある程度継続することができたと思います。当時は、早朝祈祷会に出席することに律法主義的な考え方もありましたが、今振り返ってみますと、あの時、主が私の心に触れて下さって、その体験が大変大きな信仰の財産となっています。皆さまに置かれましても、今日のクリスマスをお祝いするにあたって、それぞれにおいて、聖い歩みを神様に献げて来られたのではないでしょうか?午後の愛餐会のために準備をしたり、賛美の練習をしたり、知人にクリスマス礼拝をお誘いしたり、このような皆様の聖い献身の上に、聖霊が覆ってくださり、お一人お一人を豊かに祝福されていることを信じます。そしてそれはきっと信仰の財産となるはずです。聖い生活を意識するために、朝、目覚めたら祈りを捧げたり、夜、布団に入ったなら、一日の感謝の祈りを捧げるのもいいと思います。立っている時、歩いている時、何気ない時にも神様に祈りを捧げたり、夫婦がキリスト者であるなら、手を合わせて祈りを捧げるのもいいと思います。罪を犯したなら、神様にすぐに罪の告白の祈りを捧げましょう。私たちがマリアのように主に期待し、聖さをもって歩ませていただくなら、聖霊が私たちを覆ってくださり、神様の大いなる働きのために私たちを用いてくださることでしょう。

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천사 가브리엘의 수태고지

2020년 12월 20일 센겐다이 교회 주일설교 카와에 토모아키 목사

누가복음 1장 26~38절

서론

예수님의 강림을 축하하는 2020년 크리스마스 예배를 드리게 되었습니다. 하나님의 독생자는 자신을 비우시고, 낮추시고, 이 땅에 오셔서 십자가에 못 박혀 죽으셨습니다. 그것뿐만 아니라, 부활하셔서 하늘로 올라가셔서 하나님의 오른편에 앉으시고, 이윽고 모든 것을 완성하시기 위해서 재림 하십니다. 독생자의 강림을 기뻐하고, 재림을 고대하며 오늘 이 예배에 참석하신 여러 회원분들께 하나님의 풍성한 복과 평안이 함께 하시기를 기도합니다.

선지자 말라기로부터, 중간기라고 불리는 400년의 침묵의 시기를 거쳐, 하나님은 천사 가브리엘을 보내셔서 이스라엘에게 새로운 계시를 주셨습니다. 그 계시란, 기름부음 받은 왕, 다윗의 자손, 그리스도가 태어나시어 마침내 이스라엘에 구원이 임한다는 계시입니다. 천사 가브리엘은 500년도 훨씬 더 전에, 다니엘에게도 나타났지만, 매우 중요한 메세지를 전달하는 천사입니다. 가브리엘은 먼저 세례 요한의 탄생을 제사장 사가랴에게 알리기 위해 왔습니다. 세례 요한이 어떤 인물인가 하면, 후에 그리스도가 등장하시기 전에 사람들을 회개로 인도한 사람입니다. 험준한 산과 울퉁불퉁한 골짜기를 평탄하게 다듬듯이, 구원의 길을 곧게 다듬은 사람입니다. 사가랴와 불임의 아내 엘리사벳에게 주어진 이 세례 요한은 모든 제사장이 주목하는 가운데, 기적의 아이로 태어났습니다. 또한 1:15에 기록된 대로, 요한은 포도주나 독한 술을 마시지 않는, 하나님께 바쳐진 나실인으로 자라났습니다. 이윽고 요단 강에서 백성에게 세례를 베풀기 시작했을 때, 온 이스라엘은 그가 하나님께로부터 보내어진 선지자이거나 메시아가 아닐까 생각할 정도로 위대한 인물이었습니다. 이 세례 요한의 탄생 예고로부터 6개월 후, 천사 가브리엘은 이번에는 갈릴리 나사렛이라는 동네에 사는 처녀에게 나타나 예수님의 탄생에 대해 알려주었습니다. 이 두 가지 기적적인 탄생 이야기의 간극을 비교할 때, 예수 그리스도가 얼마나 낮은 자로 태어나셨는지, 동시에 거룩하신 분으로 믿음을 통해 태어나셨다는 것이 명확하게 드러나게 됩니다. 오늘은 예수님의 탄생에 있어서「낮아짐」과 「거룩함」과「믿음」이라는 세 가지 포인트에 주목하며 말씀에 귀를 기울여 보고자 합니다. 1:26~27절을 보시겠습니다.

(1) 자신을 비우신 주님

26 여섯째 달에 천사 가브리엘이 하나님의 보내심을 받아 갈릴리 나사렛이란 동네에 가서

27 다윗의 자손 요셉이라 하는 사람과 약혼한 처녀에게 이르니 그 처녀의 이름은 마리아라

천사 가브리엘은, 처음에 예루살렘의 성전에서 섬기고 있던 제사장 사가랴에게 요한의 탄생을 예고한 반면, 이번에는 나사렛이라는 시골 동네의 가난한 처녀에게, 오실 메시아, 다윗의 자손의 탄생을 예고했습니다. 갈릴리의 나사렛이라고 하면, 지금은 수태고지 교회가 있어 매우 유명한 관광 명소가 되었지만, 당시에는 단순히 시골 마을로「나사렛에서 무슨 선한 것이 날 수 있느냐」라고 말해질 정도로 아무것도 없는 초라한 마을이었습니다. 만약 우리가 인간적인 생각으로, 기름 부음 받은 왕의 탠생을 계획하려 한다면, 더 적합한 방법이 있지 않을까 생각하게 될 것입니다. 예루살렘에서 어떤 절기 중에 알리거나, 왕이나 대제사장이나 당시의 권력자들을 통해 메시아의 탄생을 알리는 방식입니다. 그러나 하나님은 그런 세상의 권위를 전혀 사용하지 않으셨습니다. 하나님의 눈에는 오히려 사람들로부터 칭찬받을 만한 것을 전혀 갖고 있지 않은 나사렛이라는 마을의, 게다가 여성에게 알려지는 방식이 가장 적합하셨던 것입니다. 누가복음의 특징으로, 매우 따뜻한 문체를 꼽을 수 있습니다. 그 이유는 다른 복음서와 비교해 특히 누가복음에서는 가난한 사람, 여성, 죄인들에게 초점이 맞춰져 있기 때문이라고 합니다. 사회적으로 낮고 약한 사람들을 통해 하나님께서 자신의 영광을 드러내시는 사건이 생생하게 그려져 있습니다. 이처럼 예수님은 우리 안에 있는 죄와 비참함을 속량하기 위해 자신을 온전히 비우시고 가장 낮은 곳에 와 주셨습니다.

(2) 거룩함과 믿음을 통해

당시 유대에서는 여성들이 13세 정도가 되면 부모로부터 결혼 상대를 소개받았기 때문에, 아마도 마리아도 이 시점에는 아직 13세 전후의 소녀였을 것으로 추정됩니다. 두 사람의 약혼은 신랑 측에서 신부 측에 지불하는 신부 예물 협상부터 시작되었습니다. 그 다음에 신랑과 신부의 약혼이 공개적으로 선언되지만, 이 약속은 매우 구속력이 강한 것이었습니다. 아직 육체적 관계는 허용되지 않았지만, 법적으로는 이미 결혼한 것을 의미했습니다. 따라서 죽음이나 이혼을 통해서만이 두 사람의 약혼 관계가 해제될 수 있었다는 것입니다. 두 사람은 곧 시작될 결혼 생활을 기대하며, 1년간 각각의 부모님 곁에서 성별된 기간을 보내게 됩니다. 따라서 만약 이 1년 동안 신부가 임신한 것이 밝혀진다면, 이는 결코 가벼운 일이 아니었을 것입니다. 율법에는 간음 죄는 돌로 쳐 죽이는 형벌로 규정되어 있기 때문입니다. 바로 그런 시점에 천사 가브리엘이 마리아를 방문한 것입니다. 28~33절을 참고 하시기 바랍니다.

28 그에게 들어가 이르되 은혜를 받은 자여 평안할지어다 주께서 너와 함께 하시도다 하니

29 처녀가 그 말을 듣고 놀라 이런 인사가 어찌함인가 생각하매

30 천사가 이르되 마리아여 무서워하지 말라 네가 하나님께 은혜를 입었느니라

31 보라 네가 잉태하여 아들을 낳으리니 그 이름을 예수라 하라

32 그가 큰 자가 되고 지극히 높으신 이의 아들이라 일컬어질 것이요 주 하나님께서 그 조상 다윗의 왕위를 그에게 주시리니

33 영원히 야곱의 집을 왕으로 다스리실 것이며 그 나라가 무궁하리라

가브리엘의 첫 번째 말은 「은혜를 받은 자여 평안할지어다」이었습니다. 마리아는 이 천사의 인사가 무슨 뜻인지 주의 깊게, 평온한 마음으로 생각에 잠겨 있었던 것 같습니다. 천사의 말을 조금 더 자세히 살펴보겠습니다. 첫째로 천사는 태어날 아들을 예수라고 이름 지으라고 말했습니다. 헬라어의 「Ἰησοῦς(이에수스)」라는 단어는 히브리어로는 「여호수아」로 기록됩니다. 이 이름이 때로는 「예수아」 또는 「요수아」나 「호세아」로 줄여 불리기도 하지만, 이 이름들의 의미는 「주께서 구원하시고 주께서 도우신다」는 뜻입니다. 따라서 예수님의 이름은 예수님의 사역, 예수님의 직무 자체를 의미하는 것입니다. 둘째로, 천사는 「그가 큰 자가 되고 지극히 높으신 이의 아들이라 일컬어질 것이요 주 하나님께서 그 조상 다윗의 왕위를 그에게 주시리니」라고 선언했습니다. 다윗의 왕위는 이스라엘의 왕으로서의 지위이며, 더 나아가 하나님의 나라에서의 왕위를 의미합니다. 그리고 그는 영원히 야곱의 집을 다스릴 것이라고 기록되어 있는데, 「야곱의 집」은 곧 이스라엘을 가리키며, 신약에서 말하는 「교회」를 의미합니다. 즉, 예수님은 하나님의 아들이시며, 하나님의 보좌에 앉으실 분이시자 동시에 교회의 머리이시며, 시온의 왕으로 기름 부음을 받으신 분입니다. 이는 바로 다윗에게 주어진, 그 다윗 언약의 성취라고 할 수 있지 않을까요? 사무엘하 7:12~13을 보시겠습니다.

사무엘하 7장

12 네 수한이 차서 네 조상들과 함께 누울 때에 내가 네 몸에서 날 네 씨를 네 뒤에 세워 그의 나라를 견고하게 하리라

13 그는 내 이름을 위하여 집을 건축할 것이요 나는 그의 나라 왕위를 영원히 견고하게 하리라

가브리엘의 말은 다윗 언약의 성취를 의미했습니다. 아마도 마리아는 그 사실을 깨달았을 것입니다. 그러나 일반적인 관점에서 보면, 아직 결혼 생활에 들어가지 않은 젊은 여성이 임신하게 되는 것은 두려운 결과를 초래할 수 있다는 것을 말할 수 있습니다. 만약 아이의 아버지가 이 여성과 결혼을 거부한다면, 여성은 평생 독신으로 살아야 할 가능성도 있습니다. 생계를 유지하기 위해 구걸을 하거나, 매춘부로 전락할 수도 있는 상황에 몰릴 수도 있습니다. 마리아는 이 때 약혼한 요셉과 자신의 가족, 그리고 자신의 명예를 잃을 수도 있는 큰 모험을 감행했다고 말할 수 있을 것입니다. 그러나 무너져버린 다윗의 왕위가 다시 세워질 것이라는 천사의 계시를 들었을 때, 마리아의 마음속에 새겨진 믿음과 확신은 그녀가 주저함없이 하나님의 계획을 받아들이도록 만들었습니다. 따라서 34절에서 마리아가 「나는 남자를 알지 못하니 어찌 이 일이 있으리이까」라고 질문한 것은, 그녀가 천사의 예언을 의심하거나 반박하는 것이 아니라, 놀라움에 휩싸여 흥분해서 그런 말을 한 것으로 보입니다. 그에 대한 천사의 답변을 살펴보겠습니다. 35~37절을 참고하시기 바랍니다.

35 천사가 대답하여 이르되 성령이 네게 임하시고 지극히 높으신 이의 능력이 너를 덮으시리니 이러므로 나실 바 거룩한 이는 하나님의 아들이라 일컬어지리라

36 보라 네 친족 엘리사벳도 늙어서 아들을 배었느니라 본래 임신하지 못한다고 알려진 이가 이미 여섯 달이 되었나니

37 대저 하나님의 모든 말씀은 능하지 못하심이 없느니라

35절에「덮으시리니」라는 말이 나옵니다. 하나님의 임재의 구름이 덮였다거나, 하나님의 날개로 덮으신다라는 표현은 성경에 자주 등장하는 표현입니다. 마리아로부터 태어날 아이는 아담의 후손이 아니라 거룩한 씨에서 태어나는 것이 여기에서 설명되고 있습니다. 따라서 예수님은 인간의 몸을 취하시면서도 죄가 없는 분으로 태어날 수 있었던 것입니다. 참고로, 불임이었던 엘리사벳은, 마리아의 친족이기 때문에, 마리아도 사가랴와 엘리사벳의 노부부가 오랫동안 자녀를 갖지 못했다는 것을 잘 알고 있었습니다. 그 엘리사벳이 임신했다는 표적을 받은 것입니다. 마리아와 엘리사벳이 친족 관계이기 때문에 예수님과 세례 요한도 친족 관계라는 것을 알 수 있습니다. 그리고 엘리사벳은 아론의 가계이기 때문에, 마리아와 요셉의 결혼은 아론의 후손과 다윗의 후손, 즉 제사장의 계통과 왕의 계통의 결혼이 됩니다. 바로 하나님의 절묘한 타이밍 속에서, 하나님의 아들이 인간이 되신 것입니다. 마지막으로 「대저 하나님의 모든 말씀은 능하지 못하심이 없느니라」라는 천사의 말에 격려를 받은 마리아는 「주의 여종이오니 말씀대로 내게 이루어지이다」라고 대답하며 은혜에 응답할 수 있었습니다. 이 마리아의 고백은 1:20에서 사가랴가 천사의 말을 믿지 않아 아기가 태어날 때까지 말을 못하게 된 것과 극명히 대비됩니다. 예수님은, 결혼을 기다리는 처녀의 성별된 기간에, 그리고 마리아의 믿음 가운데, 은혜의 응답 속에서 태어나셨다는 것이 밝혀집니다. 그리스도의 탄생은 바로 전적으로 하나님의 뜻에 따라 가장 적합한 방식으로 이루어졌다는 결론에 이르게 됩니다.

결론

성경을 매일 읽는 사람이라면, 하나님의 은혜라고 하는 것은, 소원하는 것이 즉시 이루어지는 것이나 순식간에 명성을 얻는 것과 같은 아니라는 것을 깨달으실 것입니다. 즉, 처음에는 우리에게 은혜로는 보이지 않는 것들도, 장기적으로 보면, 나중에 되돌아볼 때 그것이 사실 하나님의 은혜였다는 것을 알게 되는 것입니다. 우리들은, 자신의 인생에 무엇이 가장 좋은 것인지, 자신도 잘 모른다고 생각합니다. 따라서 하나님의 인도하심에 맡기는 것, 하나님의 계획과 부르심에 믿음으로 응답하는 것이 바로 하나님의 기이한 은혜를 받는 방법이여, 우리가 진정한 의미에서 행복하게 사는 길이지 않을까 생각합니다. 마리아의 경우에서는, 천사의 수태고지를 받아들여, 구세주의 어머니가 되고 하나님의 구원 계획에 참여하는 것이었지만, 동시에 결국 십자가에 못 박힐 자신의 아들의 모습을, 가슴을 찌르는 고통을 받아들여야 한다는 혹독한 운명을 받아들인 것이었습니다. 그러나 그런 위험을 포함해 하나님의 은혜를 믿고, 그것이 가장 좋은 삶임을 믿으며, 자신을 하나님의 계획에 완전히 맡기고 헌신해 나갔습니다. 우리도 믿음 생활 가운데 자신의 소원과 하나님의 소원이 충돌하는 경우가 있을지 모르지만, 그런 때에 자신의 소원과 계획을 우선시하고 스스로를 구원하려 하거나 스스로를 돕기 위해 그 방식을 고집하는 것이 아니라, 마리아처럼 하나님의 지혜와 인도하심에 신뢰를 두고, 자신을 하나님께 맡기며 살아가고 싶다는 생각을 하게 됩니다.

또한, 한 가지 더 기억하고 싶은 것은, 하나님께서 거룩함을 통해 일하신다는 것입니다. 마리아는 바로 그녀의 인생에서 가장 거룩한 시기에 있었다는 것입니다. 일년 후에는 요셉과의 결혼 생활이 시작될 것을 기대하며, 마음과 몸, 모두 인생에서 가장 순결하게 살아가고 있을 때, 수태고지를 들었습니다. 하나님께서는 우리의 거룩함을 사용하십니다. 이것은 결코 우리가 스스로 노력해서 거룩해질 수 있다는 의미가 아닙니다. 오히려 우리의 신앙 생활 속에서 성령을 슬프시게 하지 않도록 매일 거룩함을 의식해야 한다는 것입니다. 그리고 거룩한 삶은 우리의 신앙의 재산이 됩니다. 개인적인 이야기지만, 저는 과거 복음주의 교회에서 신앙 생활을 했습니다. 매일 이른 아침에 기도회가 있었고, 6시에 교회에 가서 예배를 드린 후 일터로 향했습니다. 매일 잠이 부족했지만, 젊음 덕분에 어느 정도 계속할 수 있었다고 생각합니다. 당시에는 아침 기도회에 참석하는 것에 대해 율법주의적인 생각도 있었지만, 지금 돌아보면, 그 때 주님께서 제 마음을 만져 주셨고, 그 경험이 매우 큰 믿음의 재산이 되었습니다. 여러분들도 오늘 크리스마스를 축하하는 데 있어서 각자 거룩한 헌신을 하나님께 드리셨을 것입니다. 예배 후의 식사회를 준비하거나, 찬양 연습을 하거나, 지인을 크리스마스 예배에 초대하는 등, 이러한 여러분의 거룩한 헌신 위에 성령께서 덮어 주시고, 한 분 한 분께 풍성한 복을 주심을 믿습니다. 그리고 그것은 분명히 믿음의 재산이 될 것입니다. 거룩한 삶을 의식하기 위해, 아침에 일어나면 기도를 드리고, 밤에 잠자리에 누우면 하루의 감사의 기도를 드리는 것도 좋을 것입니다. 서 있을 때, 걸을 때, 그 평범한 순간에도 하나님께 기도를 드리는 것도 좋고, 부부가 그리스도인이라면 손을 잡고 기도를 드리는 것도 좋다고 생각합니다. 죄를 지었다면, 하나님께 즉시 죄의 고백의 기도를 드려야 합니다. 우리가 마리아처럼 주님께 의지하고 거룩함으로 걸어가게 된다면, 성령께서 우리를 덮어주시고 하나님의 위대한 사역을 위해 우리를 사용해 주실 것입니다.

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