2021年08月15日「十字架のつまずき」

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聖書の言葉

7あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。 8このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。 9わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。 10あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。 11兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。 12あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。
Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988
Japan Bible Society 日本聖書協会 1987, 1988ガラテヤの信徒への手紙 5章7節~12節

メッセージ

日曜日の朝の礼拝では、ガラテヤの信徒への手紙から御言葉を聞き続けております。先週は、5章2節以下から、「信仰」という言葉に特に注目をしました。信仰、イエス・キリストへの信仰ですけれども、この信仰こそが大切なものだとありました。この信仰こそが全ての源泉となるのです。その前には、5章1節から「自由」という言葉に注目しました。律法の束縛、世を支配する諸々の力からの自由です。この自由もまたキリスト教の信仰にとって、基本的なものであり、大切なものであります。今日の箇所にも「信仰」あるいは「自由」と同じように、キリスト教信仰にとって、基本的な、その特色を表すような言葉が出てまいります。それは、「つまずき」、「十字架のつまづき」です。11節にはこう語られています。

「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」。

 ここには、「つまずき」、単につまずきというのではなく「十字架のつまずき」という言葉が用いられています。十字架のつまずきということ、それがどういう意味なのか、あまり立ち止まって考えたことがないかもしれません。今朝は、この聖書が語っています十字架のつまずきとは一体、どういうことなのか。それは、今日のわたしたちとどのように関わっているのか、聖書はわたしたちに何を語っているのか、ご一緒に考えてみたいのです。

 「つまずき」と言う言葉は、広く一般に用いられる言葉であると同時に、キリスト教会で用いられる特別な重みを持った言葉でもあります。

一般的に用いられる意味は、例えば、歩いていて石などの障害物に足を取られて、つまずくと言うことです。つまずくと言う言葉を聞いて私が思い出したのは「けっぱんずく」と言う言葉です。今回、調べてわかったのですが、初めて知ったのですがこれは岡山弁だそうです(通じません)。「けっぱんずく」と言うのはおそらく蹴ると言う言葉からきています。足に関わるわけです。「つまずいて転ける」と言うことです。走っていて、大きな石を蹴ってしまう、そのために思いきっきりこけてしまうのです。聖書は、「人を躓かしてはいけない」と書かれていますがここでは、神さまご自身がわたしたち人間につまずきの石を置かれているというのです。それが十字架だというのです。

 このつまずくということは、腹を立てるということと関っています。道を気持ちよく、すいすいと歩いている、走っている、そこで思い崖ないところに大きな石があって、つまずいて転んでしまう、けっぱん付いてしまうわけです。ふっとんでしまったかもしれません。そこで前に進めなくなってしまう。私たちはどう思うか、不快に思います、腹を立てます。どうしてこんなところに、こんな石があるんだと石に腹を立てるかもしれません。「十字架のつまずき」というものもそれと同じです。それを受け入れられない、感謝できない、それどころか、不快に思うのです。こんなものなければいいのに、どうしてこんなものがここにあるのかということになってしまう。十字架のつまずきと言うのは十字架そのものがつまずきであると言うことです。

 なぜ、どうしてなのでしょうか。十字架は、わたしたちにとって神の救いです。ここに救いがある。ここに望みがある、ここに光がある、ここに喜びがある、わたしたちはそう信じています。しかし、同時に、わたしたちは「十字架のつまずき」、「十字架そのものがつまずき」であるということもよく知っておく、わきまえていなければならないのではないでしょうか。そのことは、わたしたちが自分自身のことを知り、また神の恵みを知る、それがどんなに大きなものなのかを知ることにおいて、また神さまの恵みを伝える器として生きることにおいて、極めて大切なことなのではないでしょうか。 

 ここで聖書は、この十字架のつまずきと言うことを、割礼との関係で語っています。

 ガラテヤの諸教会は、パウロの福音の伝道によって誕生しました。イエス・キリストの十字架の説教を聞いて信じて救いに入ったのです。けれども、パウロが去ったあとに、ユダヤ主義者たちがエルサレムからやってきました。彼らは、パウロの反対者たちであり、主イエスを信じるだけではなく、ユダヤ人のように律法を行うこと、また割礼を受けることがなければならないと強く勧めたのです。教会の人々の中にはそのような教えに傾く人たちが出ました。そして、彼らの勧めに従って、割礼を受けようとするものたちまで、出てきたのです。そのような状況にあった教会に向けて、書いたのがこのガラテヤの信徒への手紙です。

 今日の箇所でパウロは、過去を振り返利ながら、こう語っています。「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったい誰が邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません」。「このような誘い」と言うのは「このような説得」と訳すことができる言葉です。あなたがた異邦人は、キリストを信じるだけではなく、割礼を受けて、ユダヤ人と同じようにしなければ救われない、だから割礼を受けなさいと言う説得、半ば強制的な説得のことです。パウロはそれは真理ではない、つまり神から来たものではない断言します。割礼と言うのは、男性の性器の包皮の部分に傷をつけることです。ユダヤ人は、成人すると、その儀式を行って、正式に神の民の一員となったのです。エルサレムから来たユダヤ主義者たちは異邦人であったガラテヤの教会の人々にこの割礼を受けさせようとしたのです。しかし、パウロは、猛反対します。もし、その通りにしてしまうなら、それはキリストの救いを失ってしまうことになってしまうというのです。このことは、おそらくガラテヤの教会の人々にはわからないことだったようです。割礼を受けるのはそんなたいしたことではじゃない。少し傷をつけるくらいのことでしかないと思っていたのではないでしょうか。しかし、パウロはそのようには考えていませんでした。なるほど確かに、そのこと自身は小さなことかもしれない。しかし、「わずかなぱん種が練り粉全体を膨らませるのです」。「千丈の堤も蟻の一穴より崩れる」ということわざがありますが、たとえ小さなことでも、それはやがて全体に影響を与えるものになるというのです。実はこのことは大変なことなのだというのです。滅びか救いか、死か命かを分けることなのだというのです。ここには二つの救いのあり方が、向かい合っているのです。

 一つは律法による救いです。その律法を行うことの象徴が割礼を受けることです。これは、つまり、わたしたち人間が自分の行いによって自分を救うということです。

 それと向かい合っているのが、信仰による救いです。人はただ主イエス・キリストを信じることによって救われるのです。人間の行いによるのではありません。救いのために必要なことは全て、キリストがしてくださったのです。主イエスは、わたしたちが救われるために十字架にかかって死んでくださいました。この十字架のキリストこそ、わたしたちの救いです。十字架のキリスト以外に救いはない。人は全くの恵みによって、救われるのです。これがパウロの語った福音です。

これ以外に福音はないのです。

 ガラテヤの人たちは、はじめ、この福音を信じて、ここににしっかり立っていました。しかし、そこからそれてしまったのです。パウロは、これは大変なことだということを霊的な目で見抜いたのです。割礼を受け入れることは、キリストの十字架を否定することになり、神に背き、救いを失うことになるのです。ですから、パウロは、このような割礼を宣べ伝えて教会の人々を惑わしていた反対者たちにも大変、厳しいことを語ります。10節ではそのような者は、「神に裁かれる」と言い、一二節ではそのような者たちは、「いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」とまで語ります。この部分は、聖書朗読する人たちが読むことをためらうことまであったと言われます。

 このように語ることの中で、11節の言葉があります。

「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」。

 パウロは、十字架のつまずき、イエス・キリストの十字架そのものがつまずきであることを見つめています。割礼を宣べ伝えていた人たちの奥にあるものをパウロは、よく見抜いていたのです。それはなんでしょうか。それは十字架につまずくということであったということです。十字架は受け入れがたいもの、邪魔なもの、障害物、余計なものだと思っていたのです。十字架は、神の子が十字架にかかって死ぬということです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれて主イエスは、十字架で息を引き取られました。この十字架によってわたしたちは罪を赦され、神との生きた交わりを回復される。それが福音です。しかし、この福音がユダヤ主義者にとっては、福音にはならないのです。この福音は人間が全くの罪びとであるということを意味します。人間は救いにおいては何もできない、無力であるということを意味します。神の子、救い主が十字架にかかって死なれるということが受け入れがたいということだけではないのです。人間の業、行いが救いにおいて役立たない、そのことが認められない、受け入れられません。その全くの罪人である人間を、神がただ恵みによって救われるということが認められない。受け入れられない。ここに十字架のつまずきということがあります。人間は根本的に、生来、自分の業、自分の行いによって、自分を救おうと試みようとるのです。言い換えると、わたしたち人間が十字架を信じると言うことは、わたしたちの本性に反することなのです。だから十字架はつまずきになるのです。行いによって義とされるということならはつまずきはないのです。しかし、信仰によって恵みによって、十字架によって救われると言うことにはつまずくのです。ガラテヤの人たちも、この十字架へのつまずきを覚えていたのです。内側に持っていたのです。だから揺らいだのです。わたしたち人間は弱いものであります。わたしたちも、その本姓においては、全く同じです。十字架を見ようとしないのです。ここに救いがあるということを本当に覚えて感謝しようとしないのです。十字架をつまずきとしてしまう性質を持っているということは、よく知っていなければなりません。しかし、こんなわたしたちが十字架を覚え、感謝し、この十字架により頼んでいるとすれば、それは神の召し出しによります。ここでパウロは決してガラテヤの教会の人々を見捨てててはいません。神の恵みの中で見て、必死に守ろうとしています。8節には「あなたがたを召し出しておられる方」と言っています。これは現在形で語られています。今、現在のことです。今、この時も神は召し出しておられるというのです。

 聖書はここで、福音を語る時に、どうしてもこのつまずきは避けられないと言っています。裏を返せば、パウロが、この十字架のキリストを語らずに、割礼を伝えていれば迫害を受けなかったということです。割礼を伝えず、十字架のキリストを宣べ伝えたから迫害を受けたのです。行いによる義ではなく、恵みによる義、信仰による義を伝えたからこそ、迫害を受けたのです。でもだからと言って、このつまずきは避けられないのだというのです。この十字架のつまずきを外して、福音を伝えることはできないのです。十字架のつまずきをずきとしてそのまま語ることが福音を伝えるということなのです。その時、迫害を受けるのです。でもそうするのです。ガラテヤの教会の人々が、割礼を受けようとしたのは迫害を避けようとしたためであったのかもしれません。軋轢というものを避けたい思いはわたしたちにもあります。しかし、そのために十字架をなかったことにすることはできないのです。この日本でも、この関の地でもということですが、十字架のことを語らず、行いによる義を伝えるなら、つまずきはなくなり、教会の福音は多くの人たちに受け入れられるかもしれません。人はためになるお話を聞き、喜べるかもしれません。よくわかり役に立つと言うことになるかもしれません。しかし、そうしたら、教会は教会でなくなるのです。そこに救いはなくなるのです。この十字架を信じなければ、わたしたちは、世の多くの人たちからすんなり受け入れられると思います。でもそうなれば、わたしたちはもはやキリストの僕ではなくなるのです。わたしたちは今日も、改めて、十字架のキリストのみ前に、自分の罪深さを覚えて、告白し、赦しをいただき、ただ神の恵みによって救われたその救いに感謝したいと思います。そしてここに生きることで無理解にさらされたりすることがあっても、神が共にいますことを信じて歩みたいのであります。