2020年05月10日「まことの食べ物、まことの飲み物」

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まことの食べ物、まことの飲み物

日付
説教
橋谷英徳 牧師
聖書
列王記上 17章1節~7節

音声ファイル

聖書の言葉

ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。しばらくたって、その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。(列王記上17・1〜7)

わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。 (ヨハネによる福音書6・55)
 
日本聖書協会 新共同訳列王記上 17章1節~7節

メッセージ

1、魂の荒廃の時代に  

 私たちの人生には色んな時があります。平穏無事な時、順風満帆の時があります。しかし、もちろん、そんな時ばかりではなく、逆境の時、試練の時、苦難の時があり、また窮地に追い込まれる時があります。このような時は辛く避けたいと思いますが避けられません。しかし、そういう時を通して与えられる恵みというものがあり、そういう時にしか気づかない、気づけない大切なことがございます。今日、与えられました旧約聖書の列王記の御言葉は、私たちに苦難の中にある神の恵みを伝えています。

 ここには預言者エリヤの人生の経験が語られていますが、エリヤは、イザヤやエリミヤよりもずっと前、紀元前八五〇年頃に活躍した預言者です。数多い預言者の中でも、もっとも代表的な預言者の一人でありしばしば新約聖書にもその名前が登場します。

 このエリヤが生きたのは、どんな時代だったのかというと、一節に、「エリヤはアハブに言った」とありますように、アハブ王の時代です。

ダビデ王、ソロモン王のあと、イスラエルは南のユダと北のイスラエルに分裂してしまって、混乱の時代になったのです。北イスラエルでは王が立てられて新しい政権ができるとすぐにまたクーデターが起きて、新しい王になる、そういうことが続きました。激しい権力闘争が続いたわけです。

 今日の御言葉の直前、16章10節には、「ジムリは襲いかかって、エラを打ち殺した。ジムリはエラに代わって王となった」とあります。ここで殺されたエラが王であったのは、わずか二年間でした。さらに、エラを殺したジムリですが、15節には、彼が王位にあったのはわずか七日間であったとあります。このジムリに代わって王になったのがオムリであり、このオムリの子がアハブでした。日本の戦国時代に似ています。アハブは、強くて富み栄える国を造ろうとし、そのためには手段を選びませんでした。アハブは、シドンの王の娘であるイザベルと政略結婚をします。そして彼女がイスラエルにバアルの宗教を持ち込みます。バアル神は五穀豊穣の神でそういうバアル宗教がイスラエルに広がっていきます。それは宗教が広まったということだけではなく、神を離れて経済的な繁栄のみを求める生き方が浸透していったということを意味します。確かにこの時代に、国は経済的には繁栄した。けれども、魂においては荒廃を極めたのです。そうした社会情勢の中で、預言者はエリヤが神に召されて遣わされました。 エリヤという名前は、「わが神は、ヤハウェ」または「神はヤハウェ」という意味だそうです。まさに、この名の通り、エリヤは、主なる神のみが神であること、この神が唯一の神であることを大胆に、臆することなく、語る働きをしました。

2、ケリトの川のほとりに

 しかし、エリヤは預言者として順風満帆の人生を歩んだのではありません。苦難を、窮地に追い込まれる経験を与えられたのです。今日の聖書の箇所はそのことを伝えています。2節、3節に「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ」とあります。これは、主なる神の言葉です。エリヤは、「主が言われたように直ちに行動した」とあります。エリヤは主の言葉に従って、「ケリト川のほとりに行き、そこにとどまった」。「ケリトの川のほとりにとどまる」エリヤ、これは一体何を意味するのでしょうか。

 一節では、エリヤはアハブ王に対して、経済政策のために、魂を売り渡して生きていたアハブ王に歯に絹を着せず大胆に神の言葉を語っています。主なる神を離れて、バアル礼拝に、つまり豊さと富を追い求めて生きる民に神の審きを告げたのです。それが今、一転して、ケリトの川のほとりに身を隠すのです。

 エリヤは神の言葉を語ったために、その身が危険になった。つまり迫害が起こって、身を隠さなければならなくなった。つまり、一時的に避難することを余儀なくされた。そのために神さまはケリト川のほとりに身を隠すようにエリヤに命じられたのではないかと考えられます。そうだと思います。しかし、主なる神がこのように身を隠すように求められたのは、危険を避けるために避難することだけが目的ではなかったのです。ここには神のエリヤに対するご計画があった、牧会的な配慮があったというべきかもしれません。聖書によれば、神は私たちのまことの羊飼いであり、魂の医者でもあります。神は私たちにいつも善きものを与え、私たちを導こうとなさるお方です。

 エリヤは御言葉に従って、ケリトの川のほとりに身を隠し、とどまった。けれども、エリヤとしては、この意味はその時はよくはわからなかったかもしれません。エリヤにとっては相当に厳しい経験であったのではないでしょうか。生命の危機から身を守るために、その身を隠す。しかも、人を避けて、ケリトの川のほとりに身を隠さなければならなかった。そして、それ自身もまた、窮地に追い込まれることであったでしょう。

3、隠れた場所で

 私たちの人生、信仰者の人生にもこういう時があります。身を隠すときがある、じっととどまることを余儀なくされることがあります。

なんらかの苦難によって、突然の病のためにということもあるでしょう。自分の失敗によってということも、どうすることもできない社会的な変動によってということもあります。そのときは、私たちも、やはり、その意味がよくわからないことが多いのではないでしょうか。そして、私たちはみんな、特に現代人は、身を隠し、同じ場所にとどまり続けるということをひどい苦痛に感じる人が多いでしょう。いずれにしても、そのようなことは災難だととしか思えないのです。

 しかし、御言葉は、ここで身を隠すこと、退くこと、とどまることの意味をここで語っています。

 「その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」(4節)。そして、6節です。「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ」。

不思議なことですが、大切なことは、彼が主なる神によって、その命が、魂が養われる経験を与えられたということです。神ご自身による魂の配慮を受けた。神に牧会された。主イエスが、山上の説教で、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6・6)とおっしゃいました。エリヤもまたここで隠れたところで父なる神と出会って、その養いにあずかっているのではないでしょうか。わたしたちには、この隠れたところがどうしても必要なのです。わたしたちが本当に生きるのは、人目に立つところではありません、人生の成功や、経済的な豊かさというようなものでもありません。わたしたちが本当に生きることができるのは、神によって養われて生きること、神が養ってくださるとの信頼に生きることによってであります。今日の一日を神によって身体的にも霊的にも生かされて生きるのです。

4、豊かな養い 

 数羽の烏が、エリヤにパンと魚を運んできたと六節の御言葉で語られています。 「数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た」。朝に夕になんです。一日に二度のパンと肉。これは、イスラエルの通常の食事を遥かに超えていると言われます。つまり、エリヤは、身を隠した生活の中で、想像を超える豊かさに預かったというのです。満ち足りたのです。神の恵みが与えられるところで、人間は、どんな場所でも、荒れ野のような生活の中でも本当に豊かに養われるのです。

 先週、「隣に座って」と題された本を読みました。キリスト教図書の翻訳家の中村佐知さんが、書かれた本です。この本には二一歳のお嬢さんのミホさんが、スキルス性の胃がんを病まれて、一一か月で召されるまでの日々の記録が記されています。ある先生の勧めがあって手に取りましたが、最初はどうも気が進みませんでした。心が重くなるのではないかと思ったからですが、実際にはそうではありませんでした。むしろ、魂に深い慰め、希望を与えられました。読み始めたのは、先週の日曜日の午後のことでした。礼拝を終えて、ひとりでしばらくの間、部屋に籠もって読み耽りました。

 この本の中にこんな一節があります。本の帯にも記されている言葉です。 「ミホが病気になったのは何故なのか。彼女が苦しまなくてはならない意味はなんなのか。それは答えを要求すべき問いではないのかもしれない。しかし、問うことをやめるのではなく、それを問いつつ、その緊張感や葛藤の中を日々生きることで、何度も神と出会い、神に触れられる。意味があるとしたらそこなのかもしれない」。

 佐知さんは日々、苦しみの中で悲しみ、嘆き、問い続けています。しかし、それだけではないのです。確かに荒れ野のような日々の中で、神に養われている。しかも豊かに養われておられるのです。このエリヤと重なります。

 今この時代に生きる、わたしたちも身を隠すことを余儀なくされています。けれども、身を隠して、ただ身体の健康を守ろうというのではないのです。なお、ここでなすべきことがある、気づくべきことがある、知るべきことがあるのではないでしょうか。それは、神によって、神の恵みによってここで豊かに養われるということです。神は、私たちにも「ケリト川のほとりに身を隠せ」と言われているのではないでしょうか。そして「そこで」「あなたを養わせる」とも語られます。わたしたち、この国に生きる私たち、否、私自身のことですが、繁栄や目に見える物質ばかりを追い求めて、魂が深く病んでしまっていたのではないでしょうか。だからこそここで止まる。そして、そここで養われる、癒されるということがあるのではないでしょうか。

 今、このとき、この場所が私たちのケリト川になるのではないでしょうか。

 エリヤは水とパン、そして肉によって養われました。私たちにも、「まことの食べ物、まことの飲み物」があります。それは、イエス・キリストご自身です。主イエスは、私たちのために、その身を十字架に献げてくださいました。このキリストこそ、私たちの魂を養い、また癒してくださるお方です。

 神を離れて、神を忘れて、否、神を捨てて、みこころに叶わない生き方をして虚しくなり、傷ついた私たちの罪をこの方が赦してくださいます。私たちは、今日の日曜日も礼拝をささげています。礼拝堂に集まっている人たちもいます。ネットを観て、ご自宅でこの礼拝に参加されている人も、録音を聞いておられる人も、配達された説教の原稿の紙でこの御言葉を聞いている人もいます。私たちはそのようにして、ケリトの川のほとりに身を隠し、養われることに招かれています。ここで私たちも赦しにあずかり、ここで癒され流のではないでしょうか。ここで本当の自分を取り戻します。思いがけない豊かな恵みにあずかれます。そして、これから何のために地上の人生を生きていくのか、他者に対して、どう生きるか。神の栄光のためにどう生きるのかも示されていきます。ここから愛と使命のために生きる日々が始まるのではないでしょうか。

 エリヤの人生はここから始まったのです。エリヤの人生の秘密は、ここにありました。今の時をもう世の末だ、もう世界に未来はない考える人もいます。教会にはもう未来はないという人もいます。しかし、私はそうは思いません。御言葉によって、終わりではなく始まりだと信じています。 主に委ね、主に養われて、歩もうではありませんか。祈りましょう。

 主なる神よ。あなたはいつも思いがけない仕方で、私たちに望まれ、私たちを養ってくださいます。エリヤをケリト川のほとりに導き、隠れたところでエリヤを豊かに養われました。私たちにも同じようにしてくださいますように。今日から、始まる1週間も、朝に夕に、私たちの体と魂に、糧をお与えください。豊かな恵みをあなたが下さいますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。アーメン。