2021年07月04日「神の愛のなかで知られている」

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聖書の言葉

8ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。 9しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。 10あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。 11あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。ガラテヤの信徒への手紙 4章8節~11節

メッセージ

 

今朝お読みしましたのは、ガラテヤの信徒への手紙四章八節以下の御言葉です。ガラテヤの信徒への手紙というのは改めていう必要もないことですが「手紙」です。パウロという伝道者がガラテヤの地方の教会のキリスト者たちに宛てて書いた「手紙」です。手紙をお書きになられたことがおありになると思います。この頃は手紙を書くことは少なくなったと思いますが、わたしたちが手紙を書く一つの目的は「思い」を伝えるということがあります。業務用の手紙というものもありますが、それだけではなく思いを伝える愛の手紙というものがあります。聖書の手紙は、業務用の手紙ではなく、思いを伝える目的を持った愛の手紙です。それは聖書の手紙、書簡の部分だけがそうだというのではなく、福音書も預言者も、聖書の全てが愛の手紙であると言って良いように思います。自分に宛てて記された神様からの愛の手紙として読む時に聖書は初めてわかってくるとある人は言いました。

 今日の箇所からしばらくは、このガラテヤの信徒への手紙の中でも、非常に手紙らしい特質がよく現れた箇所だと思います。一一節に「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」とあります。大変に率直な思いが記されています。パウロは悩やみの中におります。ただ彼が心配し、悩んでいるのは自分が骨折ったことが無駄になってしまうのではないかという、自分の労苦のことだったのでしょうか。それもあったでしょう。けれども、彼は「あなたがたのことが心配です」と真っ直ぐに言っています。ここで彼が心配しているのは、教会のことであり、そこに集うひとりひとりの事です。もっと言えば、救いのこと、魂のことであります。今日の箇所には、このパウロの心配の内容について書かれていると言って良いと思います。このパウロの心配とはどんなことだったのか、それはわたしたちとどう関わるのでしょうか。

 四章七節まで、パウロは順序立てて、救いの福音を書いてきました。それは、あなたがたはキリストに結ばれて、神の子であり、神の相続人であるという恵みと喜びに満ちた話にまで至りました。それを受けて、「ところで」と言って、ここから率直に思いを語り始めるのです。

どうして救われる前の生活に逆戻りしようとするのかとここで率直に語るのです。

まず彼らの過去、救われる前のことについて語ります。「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました」。ガラテヤの人々は異邦人です。だから、ユダヤ人のようにただひとりの神を信じていたわけではありません。ですから、ひとりの神ではなく、神々を信じていたのです。けれども、それだけではなく、パウロは、「あなたたちはかつて神を知らなかった」とも言っています。神々を信じている間は、神を知らなかったと言うのです。

 神を知らずに、神々を信じると言うことは、どういうことでしょうか、パウロはそれを神々に奴隷として仕えていたと言っています。それは必ずしも、宗教を持っているとことではないかもしれません。それはこの今の日本のことを考えてもわかるのではないでしょうか。多くの人は無宗教、無神論です。だからと言って、その人たちは、どんな神も信じることなく生きているのでしょうか。神とは呼ばれなくても、神に近い存在を自分で拵えて信じていることがあるのではないでしょうか。それは生きるために、自分の力として、頼みとしているものです。神々と言うのは文字通り、宗教上の神々だけのことではないのです。ここでは、「神々を信じる」とは言わないで、「奴隷になっている」と言われています。それは生き生きと生かされているのではなくて、ビクビク恐れてしまっていることを意味しています。そうしたものはわたしたちの周りに神々と言われるようにたくさんあるのではないでしょうか。お金、財産、社会的な地位であったり、人からの評判だったり、自分の能力や力…そうしたものです。自分は無神論で何も信じていないと言う人がそうしたものを神のように頼みとしているということはいくらでもあります。そして、そうしたそのような神々は、わたしたちに恐れしかもたらさないと言うのです。そこには愛の関係はなく、それは恐怖の関係しかない。そこに本当の安心は生まれないと言うのです。

 これは聖書がわたしたちが、キリストの僕(これは奴隷と言う意味ですが)と言う時とは違います。キリストの奴隷の場合にはそこにキリストの大きな愛があるのです。そこには恐れはないのです。

 では、今日の箇所には「神を知る」という言葉が出てきますが、それはどういうことでしょうか。「あなたがたはかつては神を知らなかった、しかし、今は神を知っている」と言われています。神を知るというのは、ただ神の存在を認めているということではありません。学問の知識のようにして知っているということでもありません。9節には、「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」とあります。神を知るということは、神から知られていることだと語られています。これはとても心惹かれることではないでしょうか。神を知るということは一方通行ではないのです。わたしたちが神を知るという時に同時に、神から知られているということがあるのです。私だけがただ神を知るのではないのです。神の方が知っていてくださるのです。そこには愛の関係があるのです。

 このことがとてもよくわかる聖書の言葉があります。コリントの信徒への手紙一第8章3節です。「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」。ここでは神を愛するということと人が神を知るということが同時に語られています。つまり、知るということが、愛というであることが語られているのです。わたしたちが神を知るのは、イエス・キリストの救いによります。キリストによって罪を赦され、救われて初めて神を知ります。その時、同時にわたしたちは神の愛を知るのです。ひとり子を十字架にかけるほどに神は、わたしたちを愛してくださったのです。神は愛なのです。この神に知られているということ、神の愛ということが先にあるのです。それゆえにわたしたちが神を知るのです。神を知るということは、神の愛を知ることです。しばしばわたしたちは神を知るという時に、知識として神を知るということばかり思ってしまうかもしれません。しかし、そうではない、そういうことではない。神を愛し、神から愛されている、そのことなのです。神の愛の中で神を知るのです。そこにはもう恐れはないのです。本当の喜びがあり、安心があるのです。

 それなのに、「なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」とパウロは言います。ガラテヤの教会の人々は、キリストを信じることを止めようとしていたわけではありません。ユダヤ主義や律法主義に誘われて迷いの中にあったのです。それは、過去に戻ることと同じではないか、救われる前の状態に戻ることでしかないではないかというのです。キリストの福音に何か人間の業を付け加えることは、逆戻りだというのです。キリストの福音だけに生きることに不足を感じ、それに割礼や律法を付け加えるなら、実は律法の支配下に身を置き、律法の奴隷になることでしかない。それは異教の神々に仕えていた過去の姿と同じだ。律法主義も、支配する諸霊も同じだというのです。「支配する諸霊」は、三節で「世を支配する諸霊」(世を支配するストイケア)と言われています。それは先ほど挙げました神々と同じです。それは、人間を抑圧し、恐れさせ、がんじがらめにします。しかし、それは実は「無力で頼りにならないもの」なのです。異教の神々とユダヤ教の律法主義は、全然違うように見舞えます。一方は他神教で

一方は一神教の律法主義です。しかし、パウロはそれを同じも「世を支配する諸力」だと言います。どちらも、救いにおいては無力で頼りにならない。人間を救わないのです。恐れさせることにしかならないのです。しかし、神の救い、キリストの福音は違います。神の愛は違います。人を救います。世の諸力は、この神に対して抵抗します。そして、再び捕らえようとします。こういう力が働いているのが、わたしたちが生きるこの世です。

 ある説教者はこんなことを言っています。わたしなりに言い換えると、ガラテヤの教会の人たちは、このことに気づいていたのだろうかというのです。おそらく全く、このことに気がついていなかったのではないか。神を知らなかった、救われていなかった過去に、逆戻りすることなど思っていなかった。「無自覚」であった。律法主義というものがどんなことなのかということがわかっていなかった。遡りして、奴隷になるこれはわたしたちにとっても他人事ではないのです。神の愛の中に本当に生きることがなければわたしたちにも同じことが起こるのです。

「あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。」と言われています。これは異教のことではなく。ユダヤ教の祭りのことではないかと思われます。ユダヤ教の安息日や仮庵の祭り、ニサンの月やヨベルの年などを守るようになっていたというのです。救いのために、こういう祭りを守ることが必要だと考えるようになっていたのです。それでは結局、救われる以前と、同じことになってしまうのではないかというのです。奴隷ではないか。そこには恐れしかないではないか、。そこには喜びはないではないか、パウロは、そういうのです。

 世を支配する諸霊、それは今も、わたしたちに働きかけています。無関係ではありません。日本の社会には、福音以前の宗教的な風習が力を持っています。新聞やテレビを通しても世の諸力は働いています。富や地位、そういうものの中にもはたりています。神の愛から、キリストの愛から引き離し奴隷にしようとして働くのです。それなら、どうしたら良いのでしょうか。そういう力が働いていることをまず自覚しなければなりません。次にそれらにはわたしたちを救う力はないこと、それらは「無力で頼りにならないことを」今日の御言葉を通してさとりましょう。そして、何よりも大切なことはわたしたちが、繰り返し神の愛、キリストの十字架の福音に立ち戻ることです。パウロは、ここでガラテヤの教会の人々のことを心配していました。この心配は救いのこと、魂のことの心配です。でも実は、わたしたちのことも心配しています。わたしたちは色んなことを心配しながら生きています。

今のわたしたちの心配はなんでしょうか。生活のことでしょうか。健康のことでしょうか。感染症のことも心配です。確かにそういう心配もあります。でも本当に一番の心配は、魂のことではないでしょうか。

 わたしも牧師として心配していることがあります。ああ、このことなのかと思うのです。魂のこと、救いのことです。教会に生きる人々が、「神の愛」そこにしっかり止まってくれることであります。愛の中で神を知ること、神に知られることであります。福音に生きることであります。

 先日、父が八四歳で病気のために天に召されました。父は、若い日に、洗礼を受けましたが、教会を離れ、母がまたわたしが洗礼を受けた後、晩年になって教会に戻りました。そして天に召されました。本当に神さまの恵みを覚える出来事でした。母は今、やはり病気のために限られた期間を過ごしています。その中で父母の教会の牧師、わたしよりも年下の方ですが、少し若い頃の愚痴、不平を申しました。するとその牧師がこう言われました。お父さんもお母さんも、先生のことを心配していましたよ。」そう言われました。心に残りじーんときました。自分のことを心配してくれる人がいるというのは幸せなことであります。このパウロの心配も同じです。そして、このパウロの心配、伝道者の心配は、わたしたちのことを知っておられる、神の思い、神の愛からきています。

 ある説教者がある時、神が愛であることがなかなか実感できないという悩みを打ち明けられたというのです。そして、自分もそうだった、その悩みわかると思った。そして、こう言ったというのです。「実感できなくても良いではないか。しかし、神が愛であることを絶大なこととして信じることです」と答えられたそうです。実感することよりも大切なことがあるというのです、それは信じることだというのです。実感は後からついてくるというのです。わたしもそう思います。でも同時に今日の箇所はわたしたちに神の愛を実感させてくれるのではないかとも思います。パウロを通して、神の愛が伝わってくるように思います。ああ、神さまが、わたしのことを思っていてくださると。