2021年05月30日「呪いから祝福へ」

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聖書の言葉

6それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。7だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。 8聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。 9それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。 10律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書いてあるからです。 11律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、「正しい者は信仰によって生きる」からです。 12律法は、信仰をよりどころとしていません。「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです。 13キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。 14それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした。Executive Committee of the Common Bible Translation 共同訳聖書実行委員会 1987,1988
Japan Bible Society 日本聖書協会1987, 1988
ガラテヤの信徒への手紙 3章6節~14節

メッセージ

お手元の週報には礼拝の順序が記されています。その最後に「派遣と祝福」と書かれています。以前は祝祷と言いましたが、今は多くの教会でも祝福と呼ぶようになりました。祝祷と祝福でどう呼ぼうともそんなに違いはないかもしれません。けれども、わたしは「祝福」と呼んで、わたしたちがその意味をよく理解することは、とても大切なことです。なぜかというと祝祷の「祷」いう字は、祈祷、お祈りという意味になります。祝福を祈るという意味です。祈りと祝福というのはやはり意味が違います。一体、どこが違うのでしょうか。明らかに違うのはお祈りの場合は、聞かれないことがある、祈り願った通りにはならないことがあるのです。しかし、祝福の場合はそうではありません。どんなことがあっても、何があっても祝福されている、そういうものなのです。

 今日ここでわたしたちは礼拝しています。最後に祝福を祈ってもらってここから一週間の歩みを始める、つまり祝祷という場合と、祝福を受けて一週間を過ごして行くという場合にはそこに違いが起こってきます。例えば今日から始まる一週間の間に、誰から酷く傷つけられるようなことを言われたり、また病気を患ったりしたとします。そこで祝祷の場合どういうことが起こるでしょうか。「ああ、日曜日の礼拝で祝福を祈ってもらったのお祈りが聞かれなかったなあ」、そんな風に思ったりすることが起こるかもしれません。けれども祝福の場合にはこうなります。「わたしは今、とても辛い目にあっている酷いことを経験している。でも私は日曜日に教会で祝福を頂いた人間だ、わたしは祝福されている」そう言ってしっかり立つことができます。少し極端かもしれませんが、こういうことなのです。キリスト者は自らに与えられた祝福を信じて生きてゆきます。当然のことながら、人生に色んなことが起こってきます。そして、不思議なくらい、苦難や不幸といったものは重なって襲ってくることがあるのではないでしょうか。そういう時、この社会ではお払いをしてもらうということになるわけです。けれども、私たちにはそんな必要はないのです。何が起こって、どんなに重なっても、そこで祝福を信じて生きていくことができるのです。そして、たとえ突然、死を迎えるようなことがあったとしても、祝福されて死ぬのであります。キリスト教の信仰というのは祝福の信仰です。この祝福の終わりの言葉は「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがたにあるように。アーメン」という言葉です。二コリント一三章一三の聖書の言葉です。言葉の上ではお祈りに思われるかもしれませんけれども、神さまの言葉でありますから

その通りになります「あるように」というのは「ある」そう言い換えてもいい言葉なのです。

 今のこの社会の状況の中でこの祝福の信仰というものが特に今、キリスト者として、私たちに問われています。この世界は、呪われているのではないかと思うような現実の中にあります。疫病、自然の破壊、人間そのものが崩れていっている。この世界というだけではなく、ひとりびとりの生活のことでもそうです。苦労して懸命に働いて家庭を築いてきたはずなのに、今どこの家庭にも多く問題がある、痛みや悲しみ、不幸があるのではないでしょうか。どこにも私たちの目に見える現実に祝福を見出すことができないような現実があります。しかし、そういうところで私たちは問われているのです。そういうところで、神さまご自身が私たちに否、あなたがたは祝福されている、そう言ってくださっているのです。否、祝福してくださるのであります。私たちはこの祝福の中に生きていくことができます。

 

 ガラテヤの信徒への手紙を最初から読んできまして、今朝は第三章の6節以下をお読みしました。この聖書の箇所でパウロが語っているのは「祝福」ということです。9節には「それで、信仰によって生きる人々は信仰の人アブラハムと共に祝福されています」と語っています。ここにはアブラハムという人が登場します。アブラハムは、信仰の父と呼ばれるように、信仰に生きた人です。そしてまた神さまはこのアブラハムに祝福の約束をなさいました。あなたの子孫は、あなたによって祝福される、そう言われたのです。

 ユダヤの人びとは、自分たちこそ、その血筋においてこのアブラハムの子孫であると自信を持っておりました。そして、自分達こそ、アブラハムによって約束された祝福を受け継いでいると思っていたのです。 その時に彼らが拠り所としたのは、自分たちが律法を与えられており、それを守っているということでした。

 祝福は自分たちユダヤ人だけに与えられているもので、ユダヤ人以外の民族、ローマ人やギリシャ人には与えられない、そう思っていたのです。彼らは神さまの祝福から遠い、なぜなら、彼らは神の律法を知らず守っていないから。そのように考えていたわけです。そして、実はこのパウロもそのように思っていたのですが、そうではないことを知らされたのです。聖書においてアブラハムに神さまが約束されたのは、ユダヤ人だけではなく、異邦人も皆、祝福を受けるということだと。それは律法を守ることによってではなく、信仰によって、信じることによって与えられる祝福なのだと。ユダヤ人であれ異邦人であれ、律法を実行することによってではなく、人は皆、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされる。パウロはそのことに気づかされたのです。「ああ今まで、わたしはこの祝福ということを自分は小さく狭く勝手に思い込んでしまっていた。けれども、この祝福はこの世界全体に広がっている」。そのことがわかったのです。世界がひっくり返るようなことであったに違いありません。この神の祝福がユダヤ人だけではなく、世界中の人たちに与えられる、そのことがわかった。これぐらいだと自分で思っていた祝福が、自分の思いをはるかに超える広さを持っていることに気づかされたのです。

 かつてのパウロもユダヤ人たちも、この祝福の根拠を律法を持ち、それを実行するということに見ていたのです。それは結局ところに、自分で見え、自分で確かめることができるものとしてしまったわけです。でもパウロは、そうではなく、この祝福は、信じること、キリストを信じるというただ一点にかかっているということに気づかされたのです。

 祝福を、信仰によってではなく、目で見て、この手で確かめる仕方で得たい、そういう思いは私たちにも他人事ではありません。でも、そこでは立てません。ユダヤ人は、律法の実行によって、この祝福を見える仕方で、確かめて得ようとしていきたわけですが、私たちには違った仕方で存在するように思います。富、財産、地位。成功、業績もそうですし、人間にこれだけのことができるというような思いもまた形を変えた律法主義ではないでしょうか。こういう考えというものが私たちには染み付いているのです。そしてそういう考えに共通しているのは、祝福が小さく、限定されたものになるということです。この考えに囚われてしまうと、人間は病み、疲れ、倒れるほかないのです。その祝福は人間の考える、人間の祝福でしかなくて、限りがあり、すぐに失われてしまうのです。しかし、神さまの祝福というものはとても、広く、大きい。そして、それは永遠の意味を持っており、私たちを困難の中でも支えます。

 ところで、ここでパウロが語っている祝福には一つの厳しさがあることもよくわきまえなけれなりません。この神の祝福は決して甘いものではありません。そのことは、パウロは、この祝福に対立するものとして、呪いということを語っていることからわかります。神の祝福がない、この祝福が取り去られてしまったところ、そこには何の幸いもない。呪いしか残らないのです。聖書は、この祝福ということだけを語らないで、祝福を語るところで、呪いを語るのです。祝福がなければそこにあるのは呪いです。中間はありません。祝福か呪いかなのです。でも私たちはこのことでも中間ということを考えます。わたしはどうも祝福されているとはいえないかもしれない、でも呪われてもない。そんなこと真剣に問うたことがない。どっちつかずでいいのではないか。でも聖書は違います。私たちは、祝福されているか、呪われているかどちらかだと。どっちつかずの場所はない、二つのどちらかだ、「あなたはどこにいますか」と問うています。

 それにしてもここでパウロが語っている祝福とは何でしょうか。色んなことが順風満帆に行っている、成功している、無病息災だとかそういうことではありません。ここでパウロが語っている言葉が、祝福とは何かということを明らかにしています。それは「義とされる」という言葉です。6節には「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。」とあります。今日の箇所でも、この手紙のあちこちでも語られているのが、この義という言葉です。これが祝福されるということです。義というのは「正しい」ということです。神さまによって、正しいと認められるのです。もっというなら、神さまと正しくお付き合いができる、神さまとの交わりが与えられるということです。これこそが祝福の中身です。

 しかし、私たちはどうでしょうか。神さまの前に正しいものではないわけです。生まれながらにして罪人であり、たくさんの失敗を過ちを犯しながら毎日生きています。どうしようもない者です。みんなそうなのです。では祝福されないのか、呪われて生きるしかないのか、そうではないのです。この私たちが義とされる道、祝福されて生きる道を神さまが備えられたのです。それがイエス・キリストの救いです。今日の箇所には、この主イエスがわたしたちのためにしてくださったことがここだけにしか語られていないような言葉で語られております。

一三節です。

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」。

 キリストは私たちのために呪いとなられたというのです。ただ単に呪われたと言うのではないのです。呪いとなられた。激しい言葉です。このことによってただならない事の深刻さが語られています。激しい言葉です。強い言葉です。同時にキリストの恵みの深さ、愛の深さが表されています。宗教改革者のルターはこの一三節に、「キリスト教教理の主要点」があると言っています。キリストが呪いとなられた、これはどこで起こったか、決定的な仕方で起こった場所は十字架です。だから「木にかけられたものは、皆、呪われている」と言う申命記二一章二二節以下の言葉が引用されています。

 律法を完全に行うことができないものは、皆、本来、呪われるのです。神の義を得ることができないのです。でも誰も律法を完全に行うことなどできません。それならばすべての人は呪われるほかないのです。しかし、キリストが呪いとなってくださった。十字架で死んでくださり、わたしたちが呪いとなるべきところで身代わりに呪いを身に受けてくださったのです。このキリストを信じる、ただ信仰によってこのわたしたちに、呪いではなく祝福の道が開かれたのです。これが贖いと言うことです。この贖いと言う言葉は、奴隷や捕虜を買い戻すと言う言葉だそうです。ある説教者は、「人間の業の呪縛から主によって解放された」それが、この箇所のメッセージだと言います。そして、こう言います。「律法の呪いが終わったと言うことは、人間の業の要求のすべてに言えることです。わたしたちとって、仕事の呪いも、人間関係の呪いも終わっています。神からの救いが恵みによって届いているからですと」。仕事の呪い、人間関係の呪い、色んな呪いが確かにあります。おかねの呪い、病気の呪い、死の呪いもあるのではないでしょうか。でもそんなあらゆる呪いからわたしたちはキリストによって、信仰によって解放されます。

 以前、こんなことがありました。若い日に傷ついた経験があります。わたしの通っていた教会には青年が多かったのです。年の近い、友人がいました。彼は、真面目で、教会でも評判がとても良かったです。一方、わたしの方は教会で、あまりできのいい青年ではなかった、チャランポランな青年でした。そんな中で、ある女性がおりまして、その友人と二人で一緒にいた時に、「○○君は祝福されていますね」と言って褒めるわけです。そして、隣にいるわたしには彼女は何も言わないわけです。何も悪気はなかったと思います。でも心ひそかに傷ついたわけです。どうして僕には祝福されていますと彼女は言わないのかと。そして、今は、彼女の問題だけではなく、傷ついた自分の問題でもあると思っています。人の前とか思いとかではなく、誰がなんと言おうとわたしは祝福されている、そう信じれば良いのだと今は思います。そして、ああ、自分でもこういうことがあるのではないか。祝福と言う言葉を簡単に、使ってしまって人を傷つけてしまうことがあるのではないかと。

 わたしたちはキリストをただ信じることによって祝福されているのです。どんなに罪深い者であっても、苦難や傷を持っていても、ただそのことで祝福されているのです。そして、この世もまた祝福のない世界ではないのです。ですから、数々の闇、災い、悲惨があっても、わたしたちは望みを抱いて生きるのであります。