2021年05月23日「インマヌエルと聖霊の愛」

問い合わせ

日本キリスト改革派 高島平キリスト教会のホームページへ戻る

インマヌエルと聖霊の愛

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
マタイによる福音書 28章16節~20節

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

16節「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」
17節「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」
18節「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。」
19節「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、」
20節「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書 28章16節~20節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

ペンテコステ礼拝「インマヌエルと聖霊の愛」マタイ福音書28:16~20

本日私たちに与えられましたマタイ福音書のエピローグ部分の御言葉は、通常「大宣教命令」と呼ばれておりまして、復活の主イエスが弟子たちに福音宣教の使命を与え、派遣する場面が描かれております。ペンテコステの伏線ともいえます御言葉です。ここで十一人の弟子たちは、復活の主イエスと見え、「イエスに会い、ひれ伏し(17節)」ました。この「ひれ伏す」という言葉は、礼拝行為を示します。ところが同時に「疑う者もいた。」と聖書は記録しています。実はこの「疑う者もいた」、この部分は直訳しますと「しかし彼らは疑った」となりまして、この節の全文を続けて直訳しますと「そして、彼らはイエスに会い、礼拝した。しかし、彼らは疑った。」、となりまして、もともとの文章では11人のうちの一部の弟子たちだけが疑ったのではなく、全員が疑った、とこのような状況も想定できるのです。彼らは礼拝しながら疑っているのです。主イエスの側近中の側近が、十字架の死から復活された主イエスそのお方を目撃しているのに疑っている。実は、この疑うという言葉は、新約聖書に2回しか見られない珍しい言葉でありまして、もう一つもこのマタイ福音書で使われております。それは湖の上をペトロが歩いて主イエスの許に行こうして沈みかけた場面で「「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか(マタイ14:31)」この「疑う」、という言葉です。つまり、何も変わっていないのです。弟子たちのこの不信仰さは復活という奇跡を目撃しても変わらないほどに頑なであったのです。奇跡を目撃しようが、どんなに感動しようが、それが福音宣教を推進させる力にはならないのです。

しかし、その不信仰な弟子たちに主イエスの方から近づいてくださり(18節)、ご自身の権威(18節)とインマヌエルの約束(20節)を根拠に、大宣教命令を与えられます。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(19~20 節前半)」ここで大切なのは、復活の主を前に「疑いながら礼拝をささげていた」弟子たちにこの宣教命令が与えられたことです。何とも頼りない11名の弟子たちにこれが委ねられたのです。

使徒言行録の最初に、この数日後の出来事だと思われますが、舞台がガリラヤからエルサレムに移って、天に昇る直前の主イエスに弟子たちは「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒言行録1:6)」、と尋ねました。実に、主イエスが天に昇られる時まで、主イエスの弟子たちは、よくわかっていないのです。弟子たちは、いまだに武力や政治力でローマ帝国を圧倒する地上的なメシアを待望し、主イエスに期待の目を向けているからです。主イエスがガリラヤの山の上で言われたあの宣教命令はどうなったのでしょうか。

しかし、主イエス様は、その物分かりの悪い弟子たちに最後にこのように言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒言行録7、8節)」、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」、つまり、聖霊が降らないうちは力などないのです。いくら素晴らしい奇跡を目撃しても、信頼できる約束をもらっても、それは力にはならない。或いは、人間がいくら心身ともに鍛えて修行しても、それも力とは言えない。聖霊が与えられない限り、福音宣教に仕える力は与えられない、それが聖書の言います真理です。この主イエスの最後の言葉からペンテコステの出来事まで10日間の時間が弟子たちに与えられました。そこで彼らはようやく悟り始めたのでしょう。この後11名の弟子のリストと彼らの大切な姿が記録されています。

 「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。(13、14節)」この11名は、祈っていたのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」、と主イエスに言われた後、彼らは祈り始めたのです。実は、弟子たちが自主的に祈ったという記事はここで初めて出て来ます。弟子たちは、率先して主の祈りを教えてもらいましたが、ゲッセマネの園で主イエスが苦しんでいて、一番祈りが必要な時、祈るのではなく寝ていました。これが弟子たちの祈りの姿を象徴しているように思えてなりません。しかし、彼らは肉眼で主イエスが見えなくなった時、祈るしかなかったのです。その時ようやく信仰の目が開かれていったのではありませんか。肉の目が閉じられた時、信仰の目は開かれるのです。もうこの部屋には、この世的なメシアを期待する者は一人もおりません。

そして実に祈りとは言い換えますと、聖霊との交わりなのです。ペンテコステまでの10日間で、弟子たちは聖霊と交わる真の信仰者に変えられていったのです。

 本日、このペンテコステ礼拝では、「インマヌエルと聖霊の愛」という説教題を与えられました。

神の愛、或いはキリストの愛、という言葉は頻繁に耳にしますが、意外と聖霊の愛という表現は聞かないのではないでしょうか。これは、祈りの足りなさで聖霊という御人格が見えにくくなっているところに原因があり、そこに、現代のキリスト教会の弱さがあります。父、子、聖霊、の三位一体の神を生ける真の神と仰ぎ礼拝する、これが私たちのキリスト教であり、聖霊は罪人の救いを完成してくださるお方です。この聖霊なる神の愛に砕かれるような生きた交わりがなければならないのです。

実は、本日の御言葉でこの聖霊の愛を裏付ける決定的な表現があるのです。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、(19節)」この「父と子と聖霊の名によって」、この部分です。ここでは、父と子と聖霊、この三者が同列に崇められています。存在、栄光、力、その全てにおいて等しいお方である、ということなのです。つまり、愛においても等しい、ということです。すなわち、実に聖霊の愛とは、十字架の愛なのです。主イエスキリストの十字架の愛と同じ愛をもって聖霊は今私たちと交わってくださる。私たちの祈りとは、あの十字架の愛が聖霊によって注がれる時であるのです。

 主イエス様は、このマタイ福音書で、ご自身を冒涜する者は赦されるが、聖霊を冒涜する者は決して許されない、と言われました。それはこの聖霊の愛の大きさに理由があるのです。

 「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。(マタイ12:32)」人の子となってこの世に来られた主イエスに逆らう者は赦されるのです。そのために主イエスが十字架で殺されたからです。むしろ、主イエスを十字架につけたから、私たちは赦されたのではありませんか。しかし、聖霊は、世の終わりまで罪人にイエス様の十字架の救いを適用されるために働いてくださいます。十字架の愛で、何度も何度も、罪人の心をたたき続ける、これが聖霊のお働きなのです。だから、もし聖霊に背くのなら、もう救いはないのです。私たちは、2千年前のただ一度だけの歴史的事実であるキリストの十字架によって救われ、キリストが復活されたことによって永遠の命が約束されました。しかし、決してそれは昔話ではありません。キリストの十字架の愛は、今日も明日も、いいえ、世の終わりまで「全ての日々」、聖霊の愛によって私の中で、私たちの中で実現しています。真のインマヌエルは、聖霊の愛によって常に実現しているのです。