2020年12月20日「インマヌエル」

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イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。マタイによる福音書 1章18節~23節

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説教の要約 「インマヌエル」マタイ福音書1:18~23

新約聖書で直接的に主イエスの誕生の場面を記録しているのは、このマタイ福音書とルカ福音書の2つだけです。マタイ福音書は、父であるヨセフの視点で描かれている点と、主イエスの誕生のプロローグとしてアブラハムから始まる系図が記されている点が特徴で、これが神学的に重要です。

許嫁のマリアから、「聖霊によって身ごもっていること(18節)」ことを聞いたヨセフが苦悩し、離縁を決心した時(19、20節)、主の天使がヨセフに現れました(20節)。

その時、天使は、「ダビデの子ヨセフ、恐れずマリアを妻に迎えなさい」、とヨセフに命じました。

 「ダビデの子ヨセフ」、すなわち、これはアブラハムから始まる系図上に今ヨセフがいることを明確にしています。そのうえで、「恐れずマリアを妻に迎えなさい」、というのです。

 この「恐れず」という言葉はもともと逃げ出す、という意味を持っています。すなわち、この系図から逃げるな、ということなのです。ヨセフの役割は、アブラハムから続くこの系図から逃げ出さずに、黙って神様の約束の実現に用いられることなのです。イエスキリストは、聖霊によって身ごもったわけですから、ヨセフと血のつながりがあるわけではありません。しかし、当時のイスラエルの理解では、ダビデの子孫ヨセフが、イエスを法的に認知すれば、それは血のつながり以上に優先され、イエスもダビデの子と認められたのです。そして、この血のつながりと無関係に系図の中に入れられる、これが大切なのです。この後、主イエスから続く救いの系図にそのまま反映されるからです。

さて、天使はさらに続けます。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。(21節)」このイエスという名前は、旧約聖書のヨシュアという名前と同じで、「主は救い」という意味を持っています。そして、その通り、イエスと名付ける理由が、「この子は自分の民を罪から救うからである」、とこのように示されています。そして、これこそが、イエスキリストが、人となってこの世に来られた目的なのです。主イエスは、救い主であります。しかし、それは地上的な救い主ではなくて、罪からの救い主なのです。そして、実に、最後までこれを理解できないユダヤの人々がイエスを十字架につけたのです。 罪からの救い主、それは誕生の時からのイエスの使命であると同時に、十字架の理由ともなったのです。イエスは罪からの救い主であるがゆえに生まれ、罪からの救い主であるがゆえに殺されたのです。

そのうえで、「その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(23節)」とこのように聖書は解説するのです。

本日のこのクリスマス礼拝ではこの「インマヌエル」がそのまま説教題として与えられました。それは、約束の救い主の誕生を祝うクリスマスによって始まった最も偉大な真理がこの約束だからです。

 このインマヌエルについて2つの真理を教えられたいと思います。

 一つは、罪からの救い主が、インマヌエルである、ということです。

 主イエスは、地上的な救い主ではありませんでした。ですから、この世の有力者たちには全く興味を示さず、徴税人や娼婦たちといった当時罪人と蔑まれていた人々のところに赴き、彼らの友となられました。つまり、罪からの救い主は、罪人と共におられる、ということです。

 プロローグ部分のアブラハムから始まる系図には、ほころびがあって、この時代本来なら不要な女性の名前、しかも娼婦のように重い過去を持った女性や異邦人の名前が記されています。

或いは、アブラハムの妻サラを記した場合、女性ではありますが、さほど違和感がなかったでしょう。

 特に、当時のユダヤにおきまして、名前とは、その人の人格全体、生涯全体を指し示す大切なものです。現代の私たちの国でも、そこまではいかなくても、やはり名前は重要です。わが子が生涯呼ばれる名前です。ですから、キリスト者の女の子で、聖書の登場人物から名前を付けられる場合、多いのは、マリアちゃんとか、この系図にはないサラちゃん、とかでありましょう。

 しかし、聖書は、ラハブちゃんもバトシェバちゃんも省かず、むしろこの系図に入れたのです。

 どうしてでしょうか。それは、これが、罪からの救い主イエスキリストの系図だからです。

 キリストは、まさにそのように重たい過去を持っている人の重荷を取り除くために、この世に来られたのです(マタイ9:13)。イスラエルは、彼女たちを、罪人と呼んで追い出すでしょう。しかし、イエス様は、あなたの罪は許された、と彼女たちを招く救い主なのです。そして、これがインマヌエルです。  私たちの時代も、ラハブちゃんはおられます。バトシェバちゃんもおられる。いいえ、この私がバトちゃんです。たくさんの重荷を、数えきれない罪を背負っているからです。しかし、それでも尚、私もこの系図から省かれないのです。もはやマリアちゃんであろうが、ラハブちゃんであろうが、それはたいした問題ではありません。イエスが招いてくださった以上、そして主イエスが今共におられる以上、私たちはもはや罪とは無関係にされているからです。この罪人であるのに、罪と無関係にされる恵みがインマヌエルです。

そして、二つ目、この系図は、主イエスからさらに世の終わりまで続いている、ということです。

 主イエスは聖霊によって乙女マリアの胎に宿りました。ですから、主イエスから先は、もはや血筋とは無関係にこの系図が伸びているのです。大切なのは、乙女マリアが聖霊によって主イエスを宿したように、私たちが聖霊によって、主イエスを信じて迎い入れることです。そして、聖霊によって主イエスを迎い入れ、インマヌエルが私たちの中で実現している以上、私たちは死とも無関係にされています。 実に、インマヌエルとは、生きるにも死ぬにも、私が主イエスと共にある約束なのです。

 私たちは、今まで何度も大切な家族や、愛する友や恩師と地上での別れを繰り返してきました。

 葬儀を終えて、葬る時、変わり果てた大切な方の姿を見て、何もしてあげられない悲しさに何度も打ちひしがれてまいりました。しかし、今日はっきり申し上げます。その変わり果てて、墓に眠る彼らはインマヌエルなのです。そこに主イエスがともにおられる、私たちには葬ることしかできなくても、主イエスは共にいてくださるのです。 私たち改革派教会の信仰告白でありますウエストミンスター大教理問答書は、この真理を次のように告白します。「その体は、死にあってもなお続いてキリストに結合され、終りの日に彼らの魂に再び結合されるまで、床にあるようにその墓に休息する。(問86)」小さな骨壺に入れられた愛しい方が、暗い墓の中でさぞ寒かろう、寂しかろう、と考えてしまうのが遺された私どもの気持ちです。しかし、インマヌエルとは、その寒く寂しい墓の中でも、今実現している現実なのです。キリスト者である以上、たとえ私の意識がなくなっても、この命が失われても、主がともにおられる、この現実は何ら変わらないのです。なんという憐れみありましょう。

新しい天地創造である救いの御業、それが、インマヌエルで実現したのです。今、私どもは、生きるにも死ぬにも、主イエスから世の終わりまで続くこの救い主の系図に名が記されているのです。「インマヌエル・神は私たちと共におられる」からです。ここにクリスマスの福音があります。