2021年04月18日「青春の日々にこそ」
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コヘレトの言葉 11章7節~12章8節
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聖書の言葉
7光は快く、太陽を見るのは楽しい。8 長生きし、喜びに満ちているときにも/暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべて空しい。9 若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると。10 心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け。若さも青春も空しい。12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。2 太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。3 その日には/家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ/窓から眺める女の目はかすむ。4 通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。5 人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い/アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。6 白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。7 塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。8 なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。コヘレトの言葉 11章7節~12章8節
メッセージ
伝道者コヘレトは、若者に向かって語り掛けます。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」以前の口語訳聖書では、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」と訳されていました。こちらの訳のほうに馴染みがあるという方も多いことでしょう。教会には様々な人たちが集います。若い人たちや子どもたちも集っています。コヘレトは若い人たちにどうしても伝えたいことがありました。青春の日々にこそ、若い時にこそ、あなたをお造りなった方を心に留めるように、しっかりと覚えるようにということです。
この御言葉は教会学校の暗唱聖句でもよく取り上げられます。あなたがたはまだ若いのだから、この聖書の言葉をしっかり覚えなさいというようなことではなくて、この御言葉は教会学校の先生たちの願いであり、親の願いでもあり、祈りでもあるということです。私も子どもたちのことを覚えて祈る時、ただ元気に健やかに大きくなるようにということだけでなく、何よりも神様のことをよく知りながら、大きくなることができるようにと祈ります。この祈りの背後には、コヘレトのこの言葉があります。また、宗教改革者ジャン・カルヴァンという人は、信仰を子どもたちに伝えるにあたり、「ジュネーヴ教会信仰問答」というものを作りました。堅信礼(信仰告白)の準備のために書かれたものです。だいたい13歳くらいの若者を想定して書かれたものです。初めにこのように問うのです。「人生の主な目的は何ですか?」「人間の最上の幸福は何ですか?」答えはいずれも「神を知ること」だと教えています。何のためにあなたは生きるのか?何があなたの幸せなのか?それは神を知り、神を崇め、神を愛すること…。
このことは若い人たちに限ったことではありません。どの世代の人にも同じように問われていることです。小さな子どもあっても、ご高齢の方々にとっても、神様のことを心に留めて生きること。その神というお方はどのようなお方であるかを知ること、ここにあなたがたの幸せがあるのだ、と聖書は語ります。なぜ、自分はこの世界に生まれて来たのだろうか?そのようなことを真剣に考えることがあるでしょうか。考える人もいれば、あまり気にせずに生きている人もいるでしょう。しかしどれだけ深く考えても、逆に何も考えなくても、はっきり言えることは、自分で望んで生まれてきた人はどこにもいないということです。それならば、「親が望んだから」と言えるかもしれませんが、親が子どもを造ったわけではありません。よく「子どもをつくる」とか「子どもができた」という言葉を聞くことがありますが、信仰に生きる者は気を付けて言葉を用いたほうがいいと思います。子どもは親である自分たちがつくるものではありません。人を造ることができるお方は神様ただお一人だけです。だから、この私もまた神によって造られ、神からいのちを与えられた人間なのです。私どもは神によって、神から与えられたいのちを生きるのです。だから、創造主であり、造り主であられる神様のことを覚えるようにと言うのです。ここに私たちのいのちの源があります。私どもが生きるという時に、どうしても忘れてはいけない大切なことがここにあるのです。青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ!
とろこで、この「若い」ということ、「青春の日々」を生きるというのはどういうことでしょうか。色々と考えたのですが、一概にこういうことだと決めるのも難しいと思いました。年齢で区切ることもできるかもしれませんし、若い人たちが向き合っている特徴的な課題というのをいくつかをあげることができるかもしれません。若いというのは、社会に出るための準備期間であるとか、生き甲斐を見つける時間とか、良き友達をつくるとか、色々あるかと思います。また、体力面においても、歳を重ねた者よりも強いものを持っています。健康であるということです。また、人生経験という意味では未熟かもしれませんが、その分、何事にも恐れずにチャレンジすることができるでしょう。失敗しても、何度もやり直しが効く。それが若いということであるかもしれません。
では、コヘレトは何と言っているのでしょうか。若者について直接定義しているわけではありませんが、第11章9節でこう言っています。「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。」ここで言われていることは、「喜びなさい」「楽しみなさい」ということです。つまり、人生そのものと肯定しているということです。「喜びの人生を歩んでほしい」と言って、若者を喜びの中に招いているのです。神様を信じて生きている人というのは、神をまだ知らない人より窮屈な生き方や忍耐が強いられる。「あれもしてはいけない」「これもしてはいけない」というふうにやたらと禁止事項が多い。そのように周りから思われているかもしれません。そして、教会も他人事ではなくて、知らないうちにどこか堅苦しいところになってはいないだろうか。特に、子どもたちや若い人たちにとって我慢を強いるような場所になっていないか。そのことに絶えず注意を払う必要があると思います。キリストの福音に生きるというのは、喜びに生きることと一つのことです。礼拝という短い時間だけのことではなく、今、自分は喜びの中に生きているのだという手応えや味わいというものを若い人たちに提供してあげること。それも大切な教会の働きであろうと思います。コヘレトは「喜びなさい」「楽しみなさい」と言った後に、「心にかなう道を、目に映るところに従って行け」と若者に言いました。要するに、あなたの好きなように生きたらいいと言うのです。自分で「こうだ!」と思った道を行けばいいと言うのです。
でも、そこで気をつけないといけないのは、9節後半にあるように、「知っておくがよい/神はそれらすべてについて/お前を裁きの座に連れて行かれると」いうことです。「裁き」という言葉があります。神様は私たちの行いをすべてご覧になっていて、最後には行いに応じた裁きが下されるというふうに読めてしまいます。ただ、この「裁き」という言葉は、「支配」という意味があります。そうしますと、神様は私たちのすべてを支配しておられると理解できます。そのように理解したほうがよい言葉です。「好き勝手に生きても、あとで知らないぞ」と言って脅しているのではないのです。あなたを造り、いのちをお与えになった神は、あなたの歩みをすべてにおいて支配し、導いておられるというのです。あなたが心に留めるべき神とは、このように恵みに満ちたお方である。この神様の御支配の中にある幸いに感謝をして、喜び楽しむ生き方をしなさいと言うのです。たとえその道の途中で倒れ躓くことがあっても、神の御支配はあなたから離れることはない。あなたを再び立ち上がらせてくださると言うのです。
そのように読んでいきますと、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」という御言葉を喜んで聞くことができるでしょう。しかしながら、よく知られている第12章1節の御言葉は、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」という言葉で終わっているのではありません。続きがあるのです。どういう言葉があとに続くのでしょうか。普通でしたら、若い時から神様のことをちゃんと心に留めて生きていれば、立派な大人になることができる。誰もが羨むような幸せを手に入れることができる。どんな悩みも悲しみにも打ち勝てる大人になれる。そのように良いことばかりを想像してしまいます。では、コヘレトは何と言っているのでしょう。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と/言う年齢にならないうちに。」これは明らかに良い言葉、心が明るくなるような言葉ではありません。「苦しみの日々が来ないうちに」とか「年を重ねることに喜びがない」とか…。なぜこのようなことを語るのでしょうか。いったい何を伝えたいというのでしょうか。コヘレトには、これから歳を重ね大人になる若い人たちに、今からちゃんと知っておいてほしいこと、しっかりと覚えておいてほしいことがありました。「苦しみの日々」というのは、歳を重ねることを意味します。しかも、これは単に大人の年齢になるということではなくて、老いるということ、高齢者になるということです。では、なぜ高齢者であるということが苦しみなのでしょう。それはいつの日か死ぬ時が必ず来るからです。今、若くても、やがて歳を重ね老いていく。そして、死んでいくという現実をコヘレトは見つめているのです。
そして、コヘレトは2節以下で「老い」の現実、人が老いるということの厳しさというものを語っていくのです。そうしますと、若者に向けて語っていた言葉が実は、大人の人にとっても、高齢の方にとっても無視することができない言葉となってくるのです。少し細かい話になりますが、2節以下で何が語られているかを見ていきたいと思うのです。まず2節ですけれども、このようにあります。「太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。」ここには明るい光が段々と薄暗くなっていく様子が記されています。これは、歳を重ね目が霞んでくる様子が語られています。雨の後に雲が戻って来るというのは、心の状態を表していて憂鬱になるということです。3節には、「家を守る男も震え、力ある男も身を屈める」とあります。身を屈めるというのは、腰が曲がるということです。「粉ひく女の数は減って行き、失われ」というのは、これは歯が抜けて減っていくことです。「窓から眺める女の目はかすむ」というのは、先程の2節のように視力が低下していくことです。4節には、「通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ」とあります。門が閉じるというのは耳が聞こえなくなることです。「鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる」というのは、朝早く鳥の声で目が覚めてしまうこと、あるいは、不眠症で十分に眠れなくなるということです。「歌の節は低くなる」というのは、声が枯れてしまうこと、きれいな歌声で歌うことができなくなるということです。5節の「人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。」これは高い場所が恐くなるということもありますが、階段や上り坂を歩くことが恐くなるということです。「アーモンドの花は咲き」というのは、アーモンドの白い花のように髪の色が白くなるということです。「いなごは重荷を負う」というのは、いなごのようによろよろとしか歩くことができなくなるということです。また、「アビヨナ」には性欲や貪欲を促す働きがあったと言われています。そのような欲がなくなるということです。「人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る」というのは、死んで墓に葬られることです。泣き手というのは、泣き女のことで葬儀の際に涙を流し、悲しみや嘆きを演出した人たちのことです。最後の6節にはこのようにあります。「白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。」これは高価もの、大切なものが砕け散る様子を記しています。つまり、人のいのちが砕け散ること、死ぬことを表す言葉です。
このようにコヘレトは多くの言葉を重ねながら、人が歳を重ね老いるということは、いったいどういうことなのかを誤魔化すことなく語ります。コヘレトの言葉を聞きながら、自分自身も思い当たる節があると思われた方も多いでしょう。高齢者と呼ばれる年齢でなくても、30歳であろうが 、40歳であろうが心身共に様々な衰えというものを感じるものです。そして、コヘレトが、私どもが経験する衰えということ以上に伝えたかったのは、誰もが最後は死ぬ存在であるということです。だから第12章8節で、「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と」語ります。第11章8節でもこのように語ります。「長生きし、喜びに満ちているときにも/暗い日々も多くあろうことを忘れないように。何が来ようとすべて空しい。」今日の箇所だけでなく、第1章の初めからコヘレトはひたすら「空しい」という言葉を繰り返します。その数、実に38回でありまして、これほどまでに「空しい」という言葉を繰り返すこの「コヘレトの言葉」が本当に神の言葉である聖書に相応しいのかどうか、幾度も議論になったほどです。そういう意味で、死を前にした空しさを前にして、私どもはどうしたらいいのか。このことが若い人たちだけではなく、すべての世代の人たちに問われている問題です。
そもそも「コヘレトの手紙」が書かれたこの時代、ユダヤ人の平均寿命と40歳くらいだったと言われています。今自分が20歳、30歳の若者であってとしても、もう後、十数年しか生きることができない現実に置かれていたということです。まだ自分は若いから、死ぬのはまだまだ先の話。だから、それまでに何をしようかなと呑気なことなど言っていられないということです。現在の平均寿命は昔よりもはるかに長くなったかもしれません。倍に近い80歳、いやそう以上生きることができる人たちもたくさんいます。しかし、死という現実は何も変わっていません。聖書の時代の若者と呼ばれる人たち年齢は、今で言うと60歳、70歳くらいに当たります。気持ちは若くても、衰えを色んなところで感じていることでしょう。経験が物を言うということもあるにはありますが、老いるという現実を前にした時、どうしようもないことがあります。まして、死を前にした時にそれらのことは何の役にも立ちません。
「コヘレトの言葉」において、「空しい」という言葉をどう理解するかは極めて重要な問題になってきます。もし空しさで終わってしまうならば、福音でも、喜びでも何でもありません。あるいは、コヘレトのように「空しい、空しい」と口にすることは、キリスト者として情けない姿だ。コヘレトのような人間になってはけないというふうに、まるで反面教師のようにコヘレトを取り上げても、根本的には何の解決にもなっていません。空しいという言葉を口にしなければ、自然と喜び湧き上がってくるわけではないでしょう。この「空しい」と訳されているヘブライ語の意味は、他にも「束の間」とか「一瞬」というふうに訳すことができる言葉なのです。「束の間」とあるように、とにかく時間がないのです。余裕がないのです。私どももよく「あっという間だった」と口にすることがあります。「今年も気付いたら4月になっていた」とか、「80年の人生、思い返してみれば色々あったけれども、あっという間にここまで歳をとった」というふうに。そして、「あっという間」と言う時に、どこか寂しい思いが伴うものです。やり残したことがあったからかもしれません。これまでの人生に心から満足できない何かがあったのかもしれません。そして、やがて死んでいくという現実を前にした時に、それこそもう言葉が何も出てこないわけです。結局は空しかったということになってしまうのです。
しかし、コヘレトが「空しい」という時に、彼は決して悲観的になってはいないと思うのです。「空しい」というのは、いわゆる「儚い」とか「無意味」と意味ではないからです。空しいから人生を諦めようとか、逆に好き勝手なことをしようとか、そういう話ではないのです。もっと積極的な意味が込められているのです。つまり「空しい」というのは、私どもの人生は束の間、一瞬なのだと聞き手を鼓舞するように語りながら、「だからこそ、神から与えられた今という時を真剣に生きるように」呼び掛けているのです。「空しい」というのは、「生きよ!」というメッセージの裏返しの言葉でもあります。あなたをお造りになられた神を信じ、神に心を留めて生きる生き方を、若いからと言って先伸ばしにすることがないように。若いからと言って、まだ先があると考えないないように。あなたのいのちは神の御手の中にあるのだから、いつ神があなたを召されるか分からない。だから、今という時を一所懸命、真剣に生きなさい!
コヘレトは第11章6節でこのように言っています。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか/それとも両方なのか、分からないのだから。」とにかく朝も夜も休むことなく種を蒔きなさいというのです。どの種が実を結ぶかは分からないかもしれない。でも、自分がしていることが無駄だとか、効率がわるいとか余計なことを言うのではなく、手を休めることなく今やるべきことを一所懸命行うようにと勧めるのです。宗教改革者マルティン・ルターもこれに似た有名な言葉を残しています。「たとえ明日、世の終わりが来ようと、私は今日、りんごの苗を植える。」明日世の終わりがきたならば、りんごの苗など植えても意味のないこと、空しいことです。しかし、そのことを十分承知でルターは、「たとえ明日、世の終わりが来ようと、私は今日、りんごの苗を植える」と語るのです。神が与えてくださった人生最後の一日を、私は精一杯生きる。最後の一日でさえも、私はいのちを注いで生きるのだと。それがキリスト者の生き方なのだと。
そして、コヘレトは、死ということに対しても、決して悲観的になっているわけではありません。まだ主イエスが地上にお生まれになっていない時代ですから、そういう意味で時代の制約というものは確かにありました。復活であるとか、終わりの日の救いというものを、今日のキリスト者たちのようには知らなかったと考えられます。しかし、第12章7節でコヘレトはこう言っています。「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」創世記にも記されているように、神によって最初に造られた人間アダムは、塵をかたどって造られました。そして、神が息を吹き入れられ、人は生きるものとなったのです(創世記2:7)。だから、人は死んだら塵に帰る存在なのです。けれども、私たちは何よりもいのちの息を吹き込んでくださった神のもとに帰ることができます。死んでも、どこか知らない場所に行くのではなく、造り主であり、いのちを与えてくださった神のところに帰って行く。そのような信仰が確かにありました。やがて死を迎えるということは、私どもの人生には限りがあるということです。限りがあるからこそ、空しいというのではなく、逆に私どもに与えられたいのちには重みがあり、価値があることを意味するのです。だからこそ、最後まで与えられたいのちを懸命に生きていくのです。
コヘレトの言うように、死という現実を見つめることが、若い人たちをはじめすべての世代の人たちにとっても大きな意味を持つことも確かでしょう。私どもの生き方に限りがあるからこそ、与えられたいのちと時間を大切にし、賢く用いようとするのです。もうずいぶん昔の話ですが、黒澤明監督の「生きる」という作品がありました。ご存知の方も多いことでしょう。主人公の渡辺という男は市役所の課長として働いていたのですが、仕事への情熱はもうとっくになくなり、無気力な毎日を送っていました。ある時、体調を崩して病院に行くと、医者から癌を宣告され、余命も少ないことを告げられます。ショックのあまり自暴自棄になり、放蕩する毎日を送るようになりました。しかし、何も満たされることなく空しさだけが残ったのです。そんなある日、職場の元部下である女性と街でぱったり出会います。彼女の生き生きとした姿を見て、渡辺は励まされ、「自分にはまだできることがある」ということに気付かされるのです。そして、子どもたちの楽しい笑い声で満ちるような公園を作ろうと、最後まで一所懸命になる姿を描きました。病気や死ということを必ずしもマイナスに考える必要はない。そこでなお前向きに生きる道があるというメッセージがこの映画には込められていると思います。そして、この映画は多くの人の心に訴え、高い評価を得た作品にもなりました。今日においても、例えば、「終活」という言葉があるように、自分の終わりの日に備えてどう生きたらいいのか。そのことに関心を持っている人も多いと思うのです。自分の死から逆算するようにして、自分の人生を考え、計画していく生き方です。
そのように、「死」という揺るがない現実を前にした時、逆にこれまで以上に積極的に生きることができるようになった。そういうことは確かにあると思うのです。しかしふと思うことがあります。それは聖書が語る福音というのは何なのかということです。「死」という現実が私どもを真実に生かすということなのでしょうか。「死」というものが、私どもの生きる根拠、土台になるということなのでしょうか。ここで最後に考えたいもう一つのことがあります。それは、私どもを喜びに満ちた人生へと押し出すものとは何なのかということです。福音とは何なのかということです。どんなことがあっても、「生きよう!」という思いに押し出すものとは何なのかということです。それは、私どもをお造りになり、いのちをお与えくださった神様であるということです。だから、コヘレトは自分の存在を掛けて、若い人たちに、そしてすべての人たちに語るのです。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」そして、第12章13節でこう言います。「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」
本日はコヘレトの言葉に先立って、新約聖書マタイによる福音書の御言葉を朗読していただきました。ここに一人の青年、若者が登場します。彼もまた神から与えられたいのちを真剣に生きようとした人でした。そして、やがて訪れる死をしっかりと見つめて生きていた人でした。だから、神が与えてくださる「永遠の命」、つまり、死で終わることのないいのちを求めていました。死を越えて神と共に生きるいのちをどうしたら手に入れることができるのだろうか?そのことを問わずにはおれませんでした。だから、その青年は主イエスに尋ねるのです。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」主はお答えになります。「殺すな、姦淫するな、盗むなといった『十戒』に記されている神の掟を守って生きるように。そして、自分を愛するように隣人を愛しなさい。」けれども、青年にとって、主から聞いた言葉は満足できないものでした。なぜなら、それらの掟をすべて守って生きてきたという自負があったからです。だから、まだ自分に欠けているものがあれば教えてほしいと思いました。主イエスはおっしゃいます。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」しかし、金持ちの青年は主の言葉に従うことができず、悲しみにながら立ち去ったというのです。
この金持ちの青年は、幼い頃から神の掟を信じ、真面目に生きていたに違いありません。では、この金持ちの青年のどこに問題があったのでしょうか。お金をたくさん持っていたからとか、誰かにお金を献げたら自分が贅沢できなくなるというような単純な理由ではないでしょう。青年が抱えていた問題は、神を信じると言いながら、最後まで「自分自身」にこだわり続けたことです。神に従っていながらも、自分の生き方、自分のいのちというものを最後まで神にお委ねすることができなかったということです。それは一人の青年だけのことではなく、この時一緒にいた弟子たちを含め、私どもにおいても言えることです。そして、お金であろうが、何であろうが自分にこだわる生き方を捨てることができない限り、「天の国に入ることはできない」「救われることはない」と主イエスははっきりおっしゃったのです。では誰が救われるのだろうか?と途方に暮れる弟子たちに、主は彼らを見つめながらおっしゃいました。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる。」(マタイ19:26)立ち去った青年の悲しみ、人生に意味を見出せない悲しみもまた、「神は何でもできる」という神様のお働きの中で意味あるものとされ、救われるものとなるのです。
そのために主イエスは十字架の道を歩んでくださいました。「神は何でもできる」ということを明らかにしてくださるために、父なる神は主イエスを墓の中から呼び起こしてくださいました。だから、私どもはこの私を造り、いのちを与えてくださった神に心に留めると同時に、主イエスを死の中から甦らせてくださった神のお働きにも心を留めます。ここに復活の希望、永遠のいのちに生きる喜びがあるからです。死を覚えて、今を大事に生きることももちろん意味があることす。死んだら、神様のもとに帰って行くという信仰も間違っているわけではありません。しかし、本当に私どもを喜びと希望に満ちた人生へ押し出すのは、神様御自身であり、十字架と復活の主をとおして与えられている復活のいのち、永遠のいのちです。死の只中にあっても、決して色褪せることなく、むしろますます光輝くいのちがここにあります。この神のいのちの恵みの中を、今ここで生き始めているのです。「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」このことこそが、人間にとって最高の幸せなのです。お祈りをいたします。
あなたから尊いいのちをいただきながら、生きる意味を見失ってしまった私どもです。しかし、あなたは御子イエス・キリストを遣わしてまで、罪人である私どもを探し出し、救いの恵みに導いてくださいました。心から感謝いたします。私どもは年齢に応じた人生の課題というものがあります。その一つ一つに向き合う勇気と力を与えてください。何もできなくなるほどに無力になり、衰えることもあるかもしれません。しかし、ただ神の恵みによって救われている自分であることを忘れることなく、神様のことを心に留め、神様と共に生きる幸いな人生を最後まで歩み抜くことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。