2021年04月11日「あなたに伝えたい最も大切なこと」

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聖書の言葉

1 兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。2 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。9わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。コリントの信徒への手紙一 15章1節~11節

メッセージ

 「これは大切だ」と思えるようなものを、誰もが持っているのだと思います。目に見えるもの、形があるものもあれば、思い出や記憶というふうに目に見えないものもあるかもしれません。他の人からすれば、たいしたものに見えないかもしれませんが、この私にとっては間違いなく一番大切なもの。これがなければ、今の私はないと言えるほどに大切なもの。そのようなものをきっと多くの人が持っているのではないでしょうか。そして、自分にとって最も大切なものというのは、誰かに自慢するとかそういうことではなく、多くの人々と共有したいと願うものです。ここに集う私どもにとって、最も大切なものとはいったい何なのでしょうか。誰かに喜んで伝えたくなるほどに、私にとって大切なものと言えるものとは何なのでしょうか。

 先程、コリントの信徒への手紙一第15章の御言葉を共に聞きました。使徒であり、伝道者であるパウロがコリントにある教会に宛てた手紙です。パウロは3節でこのように言っています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」ここに「最も大切なこと」とあります。これはいくつかあるうちの一番目という意味ではありません。「第一に」という意味です。その中心、本質をなすものです。これがないと意味をすべて失ってしまうようなものです。そして、この「最も大切なこと」と言う時に、それはパウロやコリントの人たちだけの問題ではないということです。つまり、これは私にとって大切なことだけれども、あなたはあなたで自分が大切にしたいものを見つけて生きたらいいという話ではないのです。パウロにとっても、コリントの人たちにとっても、私どもにとってもすべての人が大切にしなければいけないただ一つの真理がここにあるということです。では、パウロがコリントの教会の人々に伝えた最も大切なこととは、何でしょうか。それが、1節、2節繰り返し語られています「福音」ということです。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。」「福音」というのは、先程、子どもたちにもお話しましたけれども、「喜びの知らせ」「良い知らせ」という意味があります。元々は、国の王が即位をした時や戦争で勝利した時などを告知する際に用いられた言葉だそうです。しかし、キリスト教会にとって、何よりも大きな喜びは、救い主イエス・キリストがお生まれになったこと。十字架で死なれた主イエスが、三日目にお甦りになられたこと。これ以上に喜ばしい知らせはありません。

 パウロが手紙を書いたコリントの教会について知っておられる方も多いと思いますが、様々な問題を抱えていた教会でもありました。神を知るというだけでなく、神を信じて実際に生きようとした時に多くの問題が浮き彫りになってきました。そういう意味では、どの時代の教会も真摯に耳を傾けるべき神の言葉であると思います。本日の第15章というのは、手紙の終わりに近い部分なのですが、初めから丁寧に読んでいただきますと、ある特徴に気付いていただけると思います。それは、コリントの教会の人たちから質問状のようなものがいくつか届きまして、それに答えるような形で手紙が書き進められていくのです。こういう問題が教会であるのですけれども、パウロ先生はどう思われますか?どのようにして解決したらよいでしょうか?ぜひ教えていただけないでしょうか。コリントの教会は、パウロの伝道の実りによって生まれた教会でもありました。問題を抱えていましたけれども、パウロは心からの愛をもってコリントの教会の人たちに向き合うのです。

 ところが、この第15章においては、質問に答えるというような形をとりませんでした。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」このように、これまでとは違った語り方をするのです。あなたがたの質問に答えるという仕方はここではしない。今から、あなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせる。あなたがたが信じている福音とは何であるかを、もう一度、伝えたいと言うのです。そして言います。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」もしかしたら、パウロはこの第15章の内容を手紙の最初で伝えたかったのではないかと推測する人もいるほどです。でも、パウロは最も大切なことを最後に残しておいたのだろうというのです。

 この最も大切なことというのは、キリストの福音のことですけれども、もう少し具体的に申しますと「復活」の問題です。主イエスの復活、そして、主を信じて死んだ者の復活です。なぜ復活が問題になったのでしょうか。12節にこうあります。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」要するに、復活を信じることができない人たちが、教会の中にいたということです。主イエスの復活をちゃんと信じていないから、自分たちが死んだら、それで終わりと思っている。なぜ、そんな愚かなことを言うのだとパウロは言うのです。主イエスが復活したという出来事は、十字架にかけられた主イエスを救い主と信じること以上に、信じがたいこと、躓きになると考えられてきたところがあります。そもそもずっと主イエスに従ってきた弟子たちや婦人たちでさえ、主の復活を最初に聞いた時、途方に暮れ、恐れを抱いたのです。今日においても、「復活だけはどうしても信じることができない」という人は多いのだと思います。

 キリストの福音というのは、パウロだけでなく、あなたがたコリントの教会の人たちにとっても最も大切なことです。これがなければ、あなたがあなたとして生きる意味を失ってしまうものです。あなたがたは私が伝えた福音を受け入れ、信じた。そして、今、あなたがたにとって、福音は生活のよりどころとなっている。1節でそのように言います。「生活のよりどころ」というのは多少意訳のようなところがありまして、本当はシンプルな言葉で「立つ」という意味です。パウロは言います。あなたが立っている足元をもう一度見てほしい。あなたはどこに立っているのか。あなたの足元を支えている真の土台とは何なのか。それは私が告げ知らせた「福音」ではないか。これをしっかりと覚えるように、そうしたらあなたは救われるのだから。そして、第15章の中で繰り返しますように、信じたことが無駄になるようなことはしないでほしい。空しい信仰に生き、空しいことに望みをおくような惨めな人間にならないでほしいと言うのです(15:17,19)。

 そして、このことはコリントの教会だけの問題ではありません。あるいは、まだ信仰を言い表していない求道者や契約の子どもたちだけの問題でもないと思います。キリストの福音を信じ、主の復活を信じている私どもであっても、様々な問題を抱えることがあると思うのです。厳しい試練を経験するということがあると思うのです。その時に、足元をすくわれるような経験をすることがあります。信じているけれども、救いの真理の上にしっかりと立つことができない。いつもぐらぐらしてしまうということがあります。あるいは、一度はちゃんと信じることができたのだけれども、何かが躓きとなり、疑いを持つようになってしまうこともあるでしょう。信じてはいるけれども、どこかぼんやりしている。輪郭がぼやけている。そういうことが実際の信仰に生きてみると起こってくるわけです。そういう何かモヤモヤとした思いを吹き飛ばし、くっきりとした信仰に生きることができるようになるためにはどうしたらいいのでしょうか。信じてみて、空しい存在になるのではなく、信じることによって喜びの存在に変えられるためにはどうしたらよいのでしょか。この問いはまだ神様を信じていない人だけではなく、既に洗礼を受けている私どもにとっても無視することができないことです。

 ある人は、「祈ることなしに信仰を理解することはできない」と言います。そのとおりでしょう。自分の頭の中で、色々と考えてみたところでよくは分からないのです。自分で考えたところで、「やっぱり信じるに値しない」という結論が先に出てしまうこともあるでしょう。そして、信仰というのは、そもそも自分の力で手にするものではありません。信仰は自分で持つものではなくて、神様から与えられるものです。だから、「信仰を与えてください」「信仰を分からせてください」と祈りをささげるのです。

 パウロは、ここで祈りそのものについては触れていません。でも、興味深いことに2節で、「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば…」と言っています。福音を告げ知らせるという時、どのようにして伝えるのか。それは「言葉」だというのです。その言葉をよく覚えておくように。ここに福音を理解するうえでの一つの鍵があります。どのような言葉で祈るかが大事なように、どのような言葉で福音を宣べ伝え、それをどう心に留めるか。このことがとても重要になってきます。パウロ自身も受けた言葉、聞いた言葉、そして、コリントの教会に伝えた福音の言葉はどのようなものだったのでしょう。3〜5節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」さらに6節以下にも言葉が続いていきます。

 パウロが最も大切なこととしてコリントの教会に伝えたキリストの福音というのは、3節にあるように「受けたもの」なのです。パウロの独創性、オリジナルによってつくりあげられたものではないということです。私も受けたのだというのです。信仰というのは、そのように受けたものを次の人たちに渡すこと。この繰り返しです。そして、「受けたもの」というのは、自分以外の誰かから与えられたものであるということです。信仰の先輩であったり、キリスト者である親から受けるということもあるでしょう。そのように人をとおして、信仰を受けるということはもちろんあるのですが、突き詰めれば、神様が与えてくださったということです。私たち自身が神様のことについてどう思い、どう感じ、どのくらい熱心に信じているか。そのことが一番重要ではないのです。本来、神様の救いというのは自分の中にはなかったのです。自分の中にないものをああだ、こうだ考えてもどうしようもないのです。しかし、神様が与えてくださいました。私が立派な生活をしているとか、していないとか、そういうことは一切関係ないところで、神様は救いの御計画を用意して、あなたに与えると決断してくださいました。だから、神様の救いは揺らぎようがないのです。そのことを信じ、受け入れること。それがキリストの福音を信じるということです。

 この福音の言葉が先程の3節以下の言葉です。そして、この言葉は昔から教会の中で告白されてきた「信仰告白」だろうと言われています。私たちも礼拝の中で「使徒信条」を告白していますけれども、それに似たものです。ただ、これらの信仰告白には「どうしたら救われるか?」というノウハウのようなものが記されているわけではないのです。どうしたら救われるか?というのは、私どもにとっては大きな関心事だと思うのですけれども、最初にこうして、次にこうしたら救われるというふうに丁寧な手順を教えてくれるわけではないのです。教会が伝え、パウロも伝える福音というのは、神様が私たちを救うために何をしてくださったか。イエス・キリストに何が起こったのか。そのことを語るのです。

 パウロはここで4つのことを伝えています。一つ目が、「キリストが罪のために死んだこと」です。キリストがただ死なれたというのではなく、私たちの「罪」のために死んでくださったということです。二つ目は、「葬られたこと」です。十字架で死なれたということだけではなく、墓に葬られたことをここで記します。つまり、キリストは本当に死なれたということを伝えたいのです。死んだ振りをしておられたのではないのです。また、キリストが本当に死んでくださったということは、キリストの十字架が完全であるということのしるしでもあります。そして、葬られたというのは、私たちと同じ死者の仲間入りをしてくださったということです。このことが復活への伏線となります。復活の初穂である主イエスに続いて、私どもも終わりの日、復活することが約束されているのです。三つ目に言われていることは、主イエスが復活したこと。最後の四つ目は、復活の主が弟子たちをはじめ、人々の前に現れ、出会ってくださったことです。

 これら4つの中心となる教えは、キリストの十字架と復活です。主の十字架と復活について、パウロは2度繰り返して「聖書に書いてあるとおり」(3,4節)と語ります。この場合、旧約聖書ことを指していますが、具体的にこの箇所というよりも旧約聖書全体がキリストの十字架と復活を目指して記されたものだと理解したほうがよいでしょう。「聖書に書いてあるとおり」というのは、神様が望まれてそのようになさったということでもあります。私たちが願ったから、私たちが望んだから、仕方なく救ってあげようというのではなくて、神様があなたを救いたいと初めから願っていてくださり、あなたを救うためにキリストをこの世界に与えてくださったのです。キリストの十字架と復活をとおして表された神様の救いの御業を、私どもがどのような心で受け止め、信じるのか。このことがいつも問われています。そして、自分の生き方を問うというのは、救いの中心にも表されていますように、自分の「罪」を見つめることでもあります。それは決して悲観的なことではありません。罪について考えるなんて、心が暗くなるようなことをしてどうするのか。そもそも、私たちはキリストの十字架によって罪赦されたではないかと言う人もいるかもしれません。しかし、キリストの十字架と復活によって、神の前に立つことができるようになった私どもが、その与えられた人生・いのちを空しいものとしないためにはどうしたらいいのでしょう。それは、いつもキリストの十字架と復活を思い起こし、罪赦された喜びに繰り返し生きること。これ以外に道はないのです。もし、主の十字架と復活を真剣に受け止めようとしないならば、結局、表面的な信じ方しかできず、空しい生き方になってしまうのだと思います。

 パウロは5〜8節にかけて、「ケファ」、つまり十二弟子の一人であるペトロのことですが、ペトロをはじめ、他の弟子たちにも、次いで、五百人以上の兄弟たちに現れました、と言っています。他にも主イエスの兄弟であるヤコブや使徒たちにも現れます。いずれも自分から出向いて復活の主を訪ねたのではありません。復活の主のほうから弟子たちに近づいて来てくださいました。自分は主を裏切った罪深いからとか、復活を信じることなどできないとか、死ぬのが恐いとかそう言った一切の罪や不安を乗り越えて、復活の主イエスは人々の前に現れてくださったのです。「もう何も心配することはない。わたしは復活したのだ。あなたがたに平和があるように」主はそのように祝福を告げてくださったのです。

 そして、8節でパウロは「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」と言って、自分のことを付け加えています。昔から教会が告白していた信仰の言葉の後ろに、自分が救われた恵みの出来事を付け加えました。信仰を受け、そして、伝えていくというのは、実はこのような仕方でしか伝わっていかないのだと思います。パウロや他の使徒たちだけではない、この私にも復活の主は現れてくださった。今も、復活の主との出会いは続いている。主は今も生きて、共にいてくださる。そのようにしてキリストの福音を伝えていくのです。またパウロは、「月足らずで生まれたようなわたしにも」と言いました。「月足らず」というのは未熟児という意味ですが、流産や死産を意味する言葉でもあります。だから、「生まれ損ないのような私にも」と言うのです。さらには9節で、「使徒たちの中でいちばん小さな者」「使徒と呼ばれる値打ちのない者」と言っています。

 どうしてそのような言い方を自分に対してするのでしょうか。パウロは、使徒ではありますが、他の使徒たちのように地上におられた主イエスのことを直接知っていたわけではありませんでした。主イエスのお姿を自分の目で見たわけでもなく、主に従いながら、主と共に生活をしていたわけでもありません。そういう意味で他の使徒に比べ引け目のようなものを感じていたのでしょう。そして、そのことよりももっと大きな理由は、9節にあるように、パウロはかつてユダヤ教徒として神の教会を迫害していた過去があったということです。主に従うどころか、迫害することに生き甲斐を感じて生きていました。そのように救われるどころか、滅びて当然の自分にも復活の主イエスは出会ってくださったのです。そして、使徒としてキリストの福音を宣べ伝える器として召してくださったのです。パウロは、自分には救われる価値など何もないということを心の底からよく知っていましたし、そのことを一度だけではなく、何度も心に留めていたのです。パウロが使徒として働くにあたり、自分が教会を迫害していた過去を心に留めるということは、とても心が痛むことであったに違いありません。周りからも、教会を迫害していたお前が福音を語る資格などあるのかと咎められたこともありました。しかし、そのように神様の前における自分の罪を心に留めながら、そのような自分がなお赦されていること。そのような自分にも復活の主が出会ってくださり、それだけでなく使徒として、伝道者として召してくださる神の圧倒的な恵みに心から感謝していたのです。

 だから、パウロは最後にこう言いました。10節「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」「神の恵みによって今日のわたしがある」という御言葉は、多くのキリスト者に愛されている御言葉の一つかもしれません。もう少し柔らかく言うと、「今の私があるのは、神様のおかげです」ということですが、これは軽い言葉ではないないと思うのです。神様に限らず、「誰々のおかげで」と言って、感謝を表すことがあります。親のおかげで、先生のおかげでというふうに…。しかし、神様のおかげで、神の恵みによって今日の私があると言う時、それは、本当に不思議な、思いもしなかった生き方に導かれていくということでもあるのです。それはまだ神を知らない周りの人の目からすれば、「それでもあなたは神様のおかげで」と言って感謝することができるのですか?無理をしていませんか?と笑われてしまうようなことかもしれません。「あなたの人生を見ていてもどうも幸せそうに見えない」と言われてしまうかもしれません。

 事実、復活の主イエスと出会い、使徒として召されたパウロの人生は決して楽なものではありませんでした。自分の思いどおりにすべてが進んで行ったのでもないのです。パウロは洗礼を受け、キリスト者になったことにより数々の苦難を経験しました。彼自身、このように言っています。「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。」(Ⅱコリント11:23〜28)こういうパウロの言葉を聞く時に、どこに神の恵みがあるのだろうかと思うのが普通の感覚でしょう。この世的見たら、パウロの人生は幸せとは言えない人生です。それでも、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と、パウロが言うことができたのはどうしてでしょう。それは苦難の中にある自分のところにも、神様の恵みが確かに与えられていることを知っていたからです。この世的な幸せが奪われたとしても、神様の恵みによって今日の私があると告白できる幸いにいつも生きていたのです。

 私どももパウロのように「神の恵みによって今日のわたしがある」と、感謝することでありましょう。でも、それは思い煩いも苦難もすべてなくなったところで、はじめて口にするような言葉ではないのです。洗礼を受けても。見た感じ何も変わっていないし、状況はむしろ悪くなっているように思えることもあります。しかし、キリストの十字架と復活に表された神様の恵みというのは、滅んで当然の私どもさえも復活させることのできる力強いいのちです。喜びに満ちたいのちです。この復活の主のいのち、神の恵みが届かないような場所はどこにもないのです。

 復活の主にお会いしたパウロは、神の圧倒的な恵みに押し出されるようにして、キリストの福音を宣べ伝えました。10節後半(〜11節)でこう言います。「そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。」パウロの言葉が聖書にたくさん残されているように、事実、パウロは多くの働きをしました。でも、これは自分の業績を誇っているのではありません。パウロが最後に言いたいことは、神の恵みには力があるということです。だから、自分の働きが無駄になることなく、多くの実りをもたらしたのだと言うのです。自分の伝道のための働きが支えられているのも、すべては神の恵みのおかげだと言って、神をほめたたえています。

 このことは使徒パウロだけではなく、今を生きる私どもにも同じように言えることです。神に従う私どもの人生は、神の恵みによって実りあるものとされます。苦難を避けて通ることはできないかもしれません。しかし、苦難の中でしか響かない福音の言葉、神の恵みというものが必ずあるのです。だから、折が良くてもわるくても、神様の御前に立ち、精一杯、神様の召しに応える生き方をすることができるのです。私どもの働きは、神の恵みのゆえに無駄になることはないのです。死んだとしても、復活の主のゆえに、私どももまた復活することができます。永遠に価値を持つ生き方を神様の前で、もうここから始めることができるのです。だからこそ、最も大切なこととしてパウロが伝え、あなたが受けた福音をしっかり覚えるように。ここにしっかり立つように心を込めて語るのです。ここに私どもの救いがあるからです。お祈りをいたします。

 何を大切にして生きていけばよいのかさえ分からず、あなたから離れてしまった私どもです。しかし、神よ、あなたはキリストによって救い出してくださいました。十字架と復活の主を仰ぎ見る時、私どもがどれだけ大切にされていたかを深く思い、心から感謝をいたします。今あるのはただ神の恵みであり、この神の恵みがどのような時も無駄になることがないということを信じ、あなたから与えられた働きに真っ直ぐに生きることができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。