2020年09月20日「すべての出来事には時がある」

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すべての出来事には時がある

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
コヘレトの言葉 3章1節~22節

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聖書の言葉

1何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。2生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時3殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時4泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時5石を放つ時、石を集める時/抱擁の時、抱擁を遠ざける時6求める時、失う時/保つ時、放つ時7裂く時、縫う時/黙する時、語る時8愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。9人が労苦してみたところで何になろう。10わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。11神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。12わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と13人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。14わたしは知った/すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。15今あることは既にあったこと/これからあることも既にあったこと。追いやられたものを、神は尋ね求められる。16太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。17わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。18人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。19人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、20すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る21人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると誰が言えよう。22人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだとわたしは悟った。それが人間にふさわしい分である。死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。コヘレトの言葉 3章1節~22節

メッセージ

 私どもが神の言葉と信じ、日々、耳を傾けています『聖書』という書物は、旧約聖書39巻、新約聖書27巻、計66巻から成っています。なぜ66巻なのでしょうか。どういう基準で、これは聖書に入れてもいい、入れてはダメというふうに決まったのでしょうか。突然、天から「これがわたしの言葉だ。これに聞き従うように。」という神様の声とともに、聖書という書物が降ってきたわけではないのです。もちろん、聖霊なる神様の導きなしに、聖書の成立を考えることはできませんが、こうして私どもの手元に聖書という書物が与えられた背景には、既に神を信じて生きていた人たちの祈りと働きがあったことを忘れてはいけないと思います。ですから、この書物を聖書の中に入れていいものなのかどうか?本当に悩みながら、祈りながら、決めなければいけないこともあったのです。例えば、「雅歌」という書物がありますけれども、さっと目をとおしただけでは、男女の愛を歌っているとしか思えないのです。しかし、なぜこの「雅歌」が、神の言葉として聖書の中に収められているのでしょうか。とても不思議なところがあります。

 そして、今、お読みしました「コヘレトの言葉」もまた曰く付きの書物だと言われています。それほど長い書物ではありませんので、ぜひ時間を見つけて読んでいただければと思います。そして、おそらくコヘレトの言葉を読みながら、多くの方がすぐに気付かされることは、コヘレトがその最初から最後まで、ひたすら「空しい」という言葉を繰り返しているということです。数えてみると、実に38回も「空しい」という言葉を語ります。第1章2節ではこのように語ります。「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい。」そして最後の第12章、その8節においてもこのように語るのです。「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。」コヘレトの「空しい」という叫びは、結局、満たされないまま、コヘレトの言葉は閉じられているような思いがします。神様からの明確な言葉がないまま、「空しい」という言葉だけがずっと響き渡るのです。人は満たされないまま、完成されないまま、地上の歩みを閉じるというのです。

 いったいこれはどういうことなのでしょうか。聞かれても答えるのに困ってしまいます。だから、このように考える人々もいたのです。神を信じている人間が、ずっと「空しい」と嘆き続けることはおかしなこと。所々で「空しさ」を叫ぶだけならまだしも、終始一貫して、空しさを口にしている姿は、信仰者として相応しくないと考えたのです。この「コヘレト」という言葉ですが、元々、「集める」という意味があります。そこから、「集会を司る者」と訳されることがあります。今日で言うと、教会の礼拝を司る牧師のような働き人です。だから、以前の翻訳聖書では、「伝道の書」という名称でした。その伝道する者が、なぜこのような「空しさ」を連呼するのでしょう。伝道者たる者、たとえ、空しさを知っていても、それを満たしてくれる神様の祝福を信じ、それを人々に伝えるべきだと誰もが考えます。しかし、コヘレトは「なんという空しさ、すべては空しい」と語るのです。

 だから、後の時代の人々の中には、コヘレトの言葉を中々納得できなかったのです。たとえ、読まれることがあったとしても、あまり積極的に読まれてこなかったかもしれません。コヘレトはまるで「反面教師」のような扱いをされてきたところがあるのです。「このような信仰者になってはいけません。」「“空しさ”ばかり考えることは神様の御心に反することですよ。」というふうに。しかし、果たして、そのような消極的な姿勢でコヘレトの言葉を読むことが、正しい読み方なのでしょうか。「こういうふうにしてはいけない」ということだけでなく、「このようにしよう!」「このように生きよう!」というふうに、積極的な姿勢、前向きな信仰の姿勢というのが大切なのではないでしょう。事実、コヘレト自身、自らの人生を否定しているのではないということです。そして、驚くべきことに、空しいからこそ、私たちの人生の意味には意味があるのだと言うのです。空しさや悲しみを覚えながら、コヘレトの関心は、ひたすら今という時を如何に生きるかということに注がれています。だから、コヘレトには、将来のことも、死んだ後のこともほとんど興味を示しません。復活や終末の希望を当たり前のように信じている今日のキリスト者にとっては、躓きともなるようなことを平気で語ります。でも、それだけ今を如何に生きるかということに心を注いだ人でもあるのです。

 ところでこのコヘレトの言葉の中で、キーワードとなる「空しい」という言葉ですが、これは「儚い」とか「束の間」という意味があります。単に、空っぽ、無意味ということだけではありません。時間的な意味合いも込められているのです。何かがあっという間に過ぎ去る時、あるいは、今立っているところから過去を振り返った時、「本当に私の人生はあっという間だった」とため息をつくことがあるのではないでしょうか。本日、お読みした第3章は、「時のリスト」とも呼べる言葉がいくつも記されています。「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(1節)そのように語り始め、「生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時」(2節)というふうに、全部で28もの時を書き記します。「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」ここでコヘレトが言いたいのは、すべては神様の支配の中にあるということです。この地上で起こるあらゆることは、決して、運命でも偶然でもなく、神様の御手の中で起こっているということです。時を支配しておられるのは神様です。私どもはこう考えるかもしれません。生まれる時や死ぬ時は、自分で選ぶことができなかったとしても、生まれた後は、自分の力でどうにでもできるではないか。すべてが思いどおりいくことはないかもしれないけれども、なるべく自分で思い描いた計画どおりに生きていくことができたら幸せだと考えます。だから、緻密に時、時間を管理し、この時までにこうするというふうに、自らの計画、人生設計をつくることがよくあるのです。

 しかし、この地上で起こるすべてのことは、神によって定められているのです。地上に起こる「時」というのは、今日の聖書箇所に記されている時だけではありません。数えきれない「時」というものを刻みながら私どもは生きています。でも、その中でコヘレトは次のような「時」を記します。「殺す時」「破壊する時」「泣く時」「嘆く時」「石を放つ時」。そして「戦いの時」。つまり、これらは戦争をほのめかす言葉であるということです。2節の「植える時、植えたものを抜く時」というのも、激しい戦闘によって農地が荒れ果てたことを意味すると言われます。せっかくの収穫の実りも敵によって奪われてしまうのです。7節の「裂く時」というのは、服を裂くということですが、この行為は激しい悲しみによって、喪に服することを意味します。そのような激しい痛みの中で、束の間の「笑う時」「踊る時」が訪れるのです。コヘレトが語る「時」というのは、コヘレト個人が一人だけ経験した時だけではないでしょう。時代や場所を越えて、今日の人々もまた経験してきたことでもあります。それだけに、最後に「平和の時」という言葉で終わっていることに、何か意味深いものがあるように思えます。「平和」ということが、順番的に最後に来ているというだけではなく、コヘレト自身の最後の願いでもあるのではないでしょうか。多くの時を刻みながら、最後に平和が訪れることを誰もが望んでいます。事実、あれだけ「空しい」ということを語るコヘレトが、この「時」を語る部分においては(1〜17節)、一度も「空しい」と口にしないのです。明らかに、深い悲しみを知っているコヘレトが、自らの人生の中で刻んできた様々な時というものを見つめ、しっかりと前を向いているように思えるのです。

 だから、11節にはこのようにあるのです。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」初めの「神はすべてを時宜にかなうように造り」という言葉ですが、以前の翻訳では、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」と訳されていました。こちらの訳に親しみを覚えておられる方も多いでしょう。神のなされることは皆その時にかなって美しい。コヘレトは、「美しい」とたたえることができるほどに、神がなさる御業をすべて肯定しています。聖書本文にしたがって理解すれば、神の創造の御業は美しいということです。この創造の御業の中に、自分もまたいのちを与えられ、人間として創造されたという喜びが溢れているような言葉です。そして、14節の終わりにあるように、「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」のです。神を畏れること、これこそ私ども人間にとっての初めの知恵、何よりも知るべき大切なことです。

 またその一方で、もう一度11節に戻りますが、「永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」というふうにも言っています。「永遠」というのは、時間的な長さというよりも、神様御自身を表す言葉です。そして、元々この言葉は、「(何かを)隠す」という言葉に由来します。つまり、神様がなさることは隠されているということです。秘められた部分があるということです。だから、「神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」と語るのです。生まれてから、死ぬまで様々な時を経験します。それはただ、自分はこういうことをした、ああゆうことをしたということに留まりません。このことが何を意味するのかを絶えず問い続けるということでもありましょう。キリスト者は、その意味を「運命」とか「偶然」とは言わずに、信仰に基づいて理解しようとします。信仰の言葉で言うと、「摂理」と呼ぶことがあります。また、日々、御言葉に聞く中で、「これはこういう意味があったのか」と、後になってから新しい気付きが与えられる時があります。

 しかし、そこで一つ心に留めなければいけないことは、神様のことをすべて理解することはできないということです。神様がなさることも、神様が与えてくださる時というものも、全部理解することはできないのです。私どもは神ではありません。神に造られた人間です。そこに限界というものがあります。だから、永遠を思う心を与えられながら、未だに捕らえ切れない。未だに手の中に収めることができないということがあります。そして、時を生きる限り、私どもが把握仕切れないこと、つまり、思い掛けないことやどうしても避けられない出来事と遭遇することがあるということです。一般的に、その時起こったことについて、時間が経ってから、「あれはこういうことだったのか」と分かるということも多々あります。神様のこと、御言葉においても同じことがあります。でも、そういう意味で、私どもは神様のことが分からないというのではなくて、最初からすべてを理解することができないのだと言うのです。まずそのことを弁えるようにと言うのです。もし、人間としての限界を弁えないならば、私どもは自分が神のようになり、取り返しのつかない過ちを犯してしまうことになります。

 しかしながら、神様のなさることが分からないなどと言われますと、やはり、人間の心理として不安になるものです。「よく分からないものを信じられるか」という話になります。もちろん、聖書は、私どもが信ずべき神の救いについて、そして、キリスト者としてどう生きるべきかを明確に語ります。でも、その上で分からない部分もあるのだと言うのです。コヘレトが伝えたいことは、分からないからこそ、私ども一人一人がちゃんと責任を担って生きていくということができるというです。なぜそのような論理になるのか不思議に思われるかもしれません。でも、もし仮に、自分の人生に起こるすべての出来事をあらかじめ知ることができた場合、私どもは果たして真面目に生きることができるでしょうか。案外、私どもはいい加減な生き方をしてしまうのではないでしょう。「どうせこうなるのだから、こんなことをしたって意味がない」と言って、何の喜びもない人生を送って終わってしまうだけかもしれません。

 1節では、「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」とコヘレトが言っていますが、これはあくまでも神様の側からの話です。私どもは、明日自分がどうなるかさえ分からないのです。「すべて定められた時がある」という御言葉を、あらかじめ神様に全部決められているのだから、私はどうせこういう運命を辿ることになる。だから、私は与えられた人生を喜ぶことができない。そのように理解してしまうことは大きな誤りです。運命だからとか、分からないからという理由で、生きることを放り出す必要はないのです。神様のことが全部分からないから、神様を畏れ、謙虚になります。そして、分からないからこそ、神様と対話をずっと続けていくことができるのです。神様が私のすべての時を定めていてくださるほどに、私のことを誰よりも深く知っていてくださる。だから、戦いの時も、悲しみの時も、すべてを神様にお委ねすることができます。

 そして、コヘレトはこう言うのです。12〜13節です。「わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と 人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。」この御言葉も誤解されやすいのですけれども、いわゆる、「もうこういうことが起こって、こうなるのだから、今のうちに自分の好きなことを好きなだけやっておこう」というのではないのです。自暴自棄になって、自分を見失ってはいないのです。コヘレトがここで見つめるのは人生の喜びです。「喜び楽しんで一生を送る」というのは、決して嘘偽りではありません。神様から与えられた人生を徹底的に喜び、楽しむのだという思いが、コヘレトにはあります。もちろん、神様を無視して、喜び楽しむというのではありません。神を徹底的に畏れ敬うことが、同時に、神を喜び楽しむことであり、自分を喜ぶ生き方と一つに結び付いていきます。そして、コヘレトは人生における喜びと楽しみの一つとして、13節にありますように、「人だれもが飲み食いし」ということを見つめています。先の第2章でもこのように言っています。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし/自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは/神の手からいただくもの。」(コヘレトの言葉2章24節)食べること、飲むことは、生きるということと同じ意味です。そしてたいへん日常的な行為です。しかし、食べること、飲むことという日常の営みの中に、最高の喜びを見出しています。「これも神様が与えてくださったもの」と言って、神に感謝しています。使徒パウロもこう言っています。「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(コリントの信徒への手紙一10章31節)神様の栄光を現す生き方は、日曜日、教会で礼拝をささげている時に限られているのではありません。食べる時も、飲む時も、私どもが生きる日常のすべての時が、神をたたえる時となるのです。

 ところで明日は「敬老の日」です。今年も執事会から御言葉を記したカードが送られることになっています。歳を重ねるということはどういうことなのでしょうか。まだ、40歳にも満たない私には正直よく分からないところがあります。敢えて気付かされたと言えば、体力が衰えたとか、病気しがちになったとか、そういうことくらいですけれども、これらのことはもっと若い時には考えられないようことでした。身体のことも大事なことかもしれませんけれども、一つ確かなこととして言えるのは、自分の年齢の分だけ、長い時間を歩んできたということでしょう。ご高齢の方は、その長い時の中で、きっと多くの経験をされてきたことでありましょう。決して、喜ばしいことや楽しいだけの経験ではなく、辛く悲しい経験をきっと多くの方がしてこられたのだと思います。そして、ここまで歳を重ねてきたのに、まだあの時に起ったことがいったい何を意味するのか分からないという方もおられるに違いありません。「時間が解決する」とよく言われますが、時間はすべてを解決してくれるわけではないのです。あるいは、「経験が物を言う」と言いますけれども、これまで積み重ねてきた経験や知恵、知識がまったく何も役に立たないというこということを知る時があるのだと思います。また、食べること、飲むことといった日常的なことも満足にできなくなる、そういうことも病や事故などによって経験することもあるのだと思います。信仰というもの、単純に信仰生活が長ければ長いほど、人生に起こってくる様々な問題に上手く対処できるかと言うと、必ずしもそうとは言い切れないところがあります。逆に、自分はこんなに長く、真面目に信仰生活を送ってきたのに、何で最後にこんなに苦しいこと、悲しいことを経験しないといけないのだろうか、という思いに捕らわれることもあるかもしれません。

 そして、私どもはしっかりと心に留めなければいけないことがあります。歳を重ねた者だけではありません。若い方も含め、すべての世代の人が知らなければいけないことです。それは、私どもが時を刻み、歳を重ねるということは、「死」という現実に近づいているということです。死という不気味な足音が、私どもに近づいているということです。コヘレトはどう言っているのでしょうか。コヘレトは私どもが期待するようなことは何一つ語りません。説教の最初のほうでも申しましたけれども、あまり死後のことにも、復活のことにも関心はないようです。22節の最後でも、「死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」と言っています。「死後どうなるのか」というのは、「これからどうなるのか」「将来どうなるか」という意味です。自分の死を含めて、自分の将来についてはよく分からない。いったい誰がこれからの私について語ることができるのかと言っています。コヘレトがこのように言っているのは、旧約という時代的な背景、制約があったからかもしれませんし、何よりも、将来のことよりも、今を如何に生きるかということに大きな関心があったからでしょう。先のことを見つめてばかりいたら、今を疎かにしてしまうと考えたからです。

 今を生きる私どもキリスト者は、「死」という問題に対してどう答えるのでしょうか。あるいは、死という現実を前にして、如何に生きていけばよいのでしょうか。私どもは、コヘレトがその時はまだ知らなかったイエス・キリストという救い主を知っています。そして、主イエスが十字架にかかり、三日目に復活してことを知っています。復活であり、いのちであられる主を信じるならば、私どもは死んでも生きるのです。「そのことを、あなたは信じるか?」と主イエスから問われ、「はい、信じます。」と答えて、キリストのものとされました。今朝はコヘレトの言葉に先立って、ローマの信徒への手紙第13章の御言葉を読んでいただきました。11節でこのように言われています。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」パウロは言います。「あなたがたは今がどんな時であるかを知っている」と。もう今がどんな時か分からないとは言いません。今がどんな時かを知っているというのです。今という時は、既にキリストが来てくださった時であり、そして、天におられる主イエスが再び来てくださる日を待ち望みながら生きている時です。「救いは近づいている」とありますように、私どもに近づいてくる足音は、死の足音ではなく、いのちの足音です。罪と死に打ち勝ってくださった復活の主イエスの足音なのです。

 コヘレトが第3章の最後22節で、「死後どうなるのかを、誰が見せてくれよう。」と問うていました。この問いに神様は真っ直ぐに向き合い、イエス・キリストを私どもに与えてくださったのです。私どもはすべての出来事について理解できないことがあるかもしれません。理解できないから神様にお尋ねしているのに、思うような答えが返って来ない時もあるでしょう。それゆえに、自分の人生は「空しい」とか、「満たされない」と言って、嘆いてしまうのです。しかし、「今がどんな時であるかを知っている」と言えるほどに、これ以上にない確かな時を、神様から与えられています。主イエスとお会いすることができたからです。主に救っていただいたからです。だから、私どもの歩みは浮き足立ったものではなく、しっかりと地に足を着けた歩みへと変えられていきます。目を覚まし、品位をもって、神様の御前に生きるのです。

 イエズス会の神父で、長く聖イグナチオ教会の司祭をされ、上智大学でも学長を務められたヘルマン・ホイエルスという神父がおられました。もう50年程前ですけれども、『人生の秋に』という随筆集を出しておられます。79歳の時です。その中に、「年をとるすべ」という文章があります。それは、このコヘレトの言葉の引用から始まります。そして、私は故郷ドイツの友人からこのような詩をもらったと言って、一つの詩を紹介します。「最上のわざ」と呼ばれる作者不明の詩ですが、よく知られている詩ではないかと思います。

最上のわざ                                    この世の最上のわざは何?                             楽しい心で年をとり、                               働きたいけれども休み、                              しゃべりたいけれども黙り、                            失望しそうな時に希望し、                             従順に、平静に、おのれの十字架をになう                      若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、              人のために働くよりも、                              謙虚に人の世話になり                               弱って、もはや人のために役だたずとも、                      親切で柔和であること。                              老いの重荷は神の賜物、                              古びた心に、これで最後のみがきをかける。                     まことのふるさとへ行くために。                          おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、             真にえらい仕事。                                 こうして何もできなくなれば、                           それを謙虚に承諾するのだ。                            神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。                   それは祈りだ。                                  手は何もできない。                                けれども最後まで合掌できる。                           愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。                すべてをなし終えたら、                              臨終の床に神の声をきくだろう。                          「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじと。」

 歳を重ね、老いることも立派な仕事です。歳とともに肉体や心において弱さを覚える時があります。誇らしい過去があったとしても、今、それがまったく意味を持たないと思える時があるのです。そして、時間だけが無情に過ぎて行く。そして、老いて、あとは死んでいくだけ。そのような絶望に捕らわれ、結局、空しさと労苦しか自分の人生に残らないのではないか。そう思うと恐くなります。しかし、そのような厳しい現実の中で、なお喜び、望みをもって生きることができる。そのような素晴らしい時を神様は私ども一人一人に備えていてくださいます。先程紹介した詩の中では、手を合わせ祈る姿こそ、いちばんよい仕事だと語ります。愛する者に神の恵みがあるように。コヘレトも願ったように、地上に平和が訪れますように。そして、たとえ手を動かし、手を合わせる体力がなくなるということがあったとしても、そういう自分がキリストの体である教会に連なっているということ、それ自体が、既に神の恵みそのものを表していると言えるのです。

 「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」神がゆるしてくださる限り、与えられた地上の時を、喜んで歩んでいくのです。お祈りをいたします。

 それぞれに、あなたから与えられた時を刻みながら、ここまで生きることがゆるされました。過去に起こったことの意味やこれから起こるすべてのことを知っているわけではありませんが、御子イエス・キリストとお会いすることができ、それゆえに、今という時を心から感謝して生きる道が与えられています。様々な時をこれからも刻みながら生きていきますが、いつも主の御手によって守られていることを思い、喜びつつ、あなたの御栄を現していくことができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。