2023年09月17日「朝ごとに喜びをください」

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朝ごとに喜びをください

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 30編1節~13節

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聖書の言葉

1【賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。】2主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。3わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。4主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。5主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。6ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。7平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。8主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。9主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。10わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。11主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。12あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。13わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。詩編 30編1節~13節

メッセージ

 私どもは日々、様々な祈りをささげています。祈るべき課題がたくさんあるのです。どうしても聞いていただきたい願いや適えていただきたい願いがあります。私どもは普段何を祈り願っているでありましょうか。それらの中でも、特に「自分の健康が支えられますように」という祈りをささげることがあります。たとえ自分は健康であったとしても、愛する家族や知人、教会員のことを覚えて祈る時、その人たちの健康が守られることを祈ります。もしその人が今病で苦しんでいるならば、癒しが与えられるように祈ることでありましょう。それは何もキリスト者だけの願いではありません。たとえ、まだ神様を信じていない人であっても、自分や家族の健康を願い、病の癒しを求めて生きているところがあります。医者や薬に頼っても中々良くならない場合、最後はもう神に祈るしかないということになるのでしょう。

 先程、詩編第30編の御言葉を共に聞きました。詩人は3節でこのように言っています。「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。」詩人は、病の中にあったと考えられています。また、4節で「わたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ」とありますから、病は病でも死に至る大きな病を患っていたと思われます。4節では、「わたしの魂を陰府から引き上げてくださいました」とありました。死の恐れというのは、深い穴蔵や井戸の底にいるようなものです。日の当たらない真っ暗な場所、自分の力で這い上がりたくても決して外に出ることができない高い壁がそびえ立っているのです。それは「陰府」とあるように、死によって神様との関係が絶たれてしまうのではないかという恐怖と絶望を感じています。また、2節の「あなたは敵を喜ばせることなく」という「敵」というのは、これは人間のことではありません。「いたずらな運命の力」と言ったらよいでしょうか。私が病にかかったことを嘲笑う声が聞こえてくるのです。病によって体だけでなく、心や魂においても苦しみを覚え、行き場を失っているのです。しかし、詩人の祈りを神様が聞いてくださいました。死の淵から助け出してくださいました。運命の虜からも救い出してくださいました。体に癒しを与え、死んだも同然のようになっていた詩人に、再びいのちの喜びを与えてくださいました。

 ですから、「主よ、あなたをあがめます」(1節)と言って、主を賛美しています。また5節では、「主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。」と歌っています。自分一人だけではない。「あなたも一緒に、主を賛美しよう」と言って、賛美の中に招きます。賛美というのはどのようにしたら生まれるのでしょうか。「賛美」という言葉を、「信仰」という言葉に言い換えてもいいかもしれません。どうしたら私どもの中に信仰が生まれるのでしょうか。どうしたら神様を信じることができるのでしょうか。例えば、本日の詩編のように、神様に「病を癒してください」とお祈りをして、自分が願ったとおりに病が癒され、いのちが守られた時、私どもは神様に感謝をして、賛美をささげ、私を助けてくださった神様を信じるということがあると思います。

 もちろん、そのような仕方で信仰が与えられるということもあるでしょう。詩編第30編の詩人も病が癒され、死の底から救われたことを感謝し、賛美をささげています。でも、神様に感謝をし、賛美するというのはどうもそれだけではないような気がいたします。確かに、病が癒されたことは、奇跡とも言えるような大きな喜びです。しかし、病の癒し以上に、詩人にとって大きな恵みとして受け取ることがありました。それは「神様との出会い」が与えられたということです。「わたしを引き上げてくださいました」と言われていたのは、病を癒してくださったということでもありますが、人間が罪と滅びの中にある人間を神様が「救い出してくださった」という意味でもあります。神様は癒しを与えてくださる神ですが、救いを与えてくださる神でもあります。救いの神と出会う時、自分が患っている病が、たとえ大きなものであったとしても、それよりも遥かに大きな神様の救いの中にあることを知って、不思議なことですが、安心することができます。そこで神をほめたたえる者とされるのです。

 ところで、病がもたらす苦しみといったい何なのでしょう。体がだるくてしんどくなる。体のあちこちが我慢できないくらいに痛くなる。そういった肉体的な苦しさがあります。でもそれだけはありません。精神的にも色んな辛さを経験します。いつになったら、自分の病気は癒されるのだろうかと途方に暮れることがあります。病にかかったせいで、自分が好きなことができなくなった。計画していたこと、準備していたこともすべて一旦ストップしなければいけない。すべてを諦めて、治療に専念しなければいけないということもあるでしょう。そのようにして、体だけではなく、精神的にも深いダメージを負うことがあります。そして、私の人生とは何なのか。これまで自分がしてきたことは何だったのかと色んなことを思い巡らせるのです。そこで、必ずしも明るい答えを見出すことができるとは限りません。2節に「敵」とありましたように、いたずらな運命な力、不可解な力に引きずり込まれそうになるということもあるのだと思います。罪の力に引き込まれると言ってもいいのです。

 旧約聖書の時代、人々が病のことを考える時、神様との関わりを無視することはできませんでした。つまり、病気になるというのは、神様がお怒りなったからだ。あるいは、自分が犯した罪の報いとして病気になったからだ。そう理解されていました。キリスト者として歩んでいても、病気になることはたくさんあります。そこで色んなことを考えることでありましょう。それはいわゆる因果応報という思想ではありません。何でも単純に、自分が悪いことをしたから神様が罰として病をお与えになったと理解すべきではないでしょう。でも、病をはじめ、たいへんな苦難を経験するとき、信仰者であるならば、結局最後は、神様と自分との関係を考えるに違いないと思うのです。神様の御心を尋ね求めるのだと思います。病が癒されることもとても大きな問題ですが、それ以上に神様のことが気になって仕方なくなるのだと思います。それは旧約の時代も今の時代も同じなのではないでしょうか。病などの苦難をとおして、自分の生き方、信仰のあり方を問うのです。

 詩人は、6節でこう言っています。「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」詩人は、神様の怒りを見つめています。そして、神様がお怒りになられたから、私は病気になったのだと考えているのです。しかし、幸いなことは、その神様の怒りは永遠に続くものではなく、「ひととき」なのだと言うのです。束の間、ほんの一瞬だと言うのです。このような時間の捉え方の中にも信仰者の特徴が表れているのではないでしょうか。普通、病に苦しむ時、私どもの時間の感覚は大きく狂います。決して、ほんのちょっとだとは思えないのです。むしろ、この苦しみ、この痛みは永遠に続くのであって、終わることはないと考えてしまうのです。

 では、神の怒りがほんのわずかの間であるとはどういうことなのでしょうか。「あなたは今、病で苦しいだろうけれども、すぐに治るよ」などというふうに安易な慰めを語ろうとしているのでしょうか。そういうことではないと思います。実際、私どもはどれだけ祈っても癒されない厳しさといものを知っています。ついには、病によって、地上の生涯を終えなければいけない者たちの姿を幾度も見てきたのです。病が早く良くなるのか、治るまでに時間がかかるのか、それとも一生治らないのか。それは私どもには分からないのです。でも、そういう中で、私どもにはっきりと分かることがあるのだというのです。

 それは神様の本質です。神様の性格と言ってもいいでしょう。その神様の本質・性格は「怒り」ではないということです。では、神様の本質とは何であるのか。6節に続けて「命を得させることを御旨としてくださる」とありますように、神様は恵みに満ちたお方であり、いのちを与えてくださるお方であるということです。いのちを与えてくださった神様が、私たちの死を望まれるはずはありません。「命を得させることを御旨としてくださる」というのは、他の翻訳では、「生涯は御旨の中にある」「いのちは恩寵の中にある」と訳されています。私たちのいのちは、神様の恵みの中にあります。健やかな時も、病んでいる時も、死を前にしたときも、私どものいのちと生涯は、神様の恵みの中に置かれています。神様の御旨・御心から切り離れた人生はどこにも存在しません。だから、どのような時も、私どもは神様と結ばれた人生を歩むことができます。神様との結びつき、神様との関係をいつも問いながら、祈り求めながら歩んでいきます。

 その神様の恵み、御心について、6節の後半でこのように言っています。「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」詩人は、「夜」という時は、どういう時かを語ります。「泣きながら夜を過ごす」とあるように、夜は涙を流す時なのだと言うのです。その理由について詳しくは語りません。しかし、夜は闇が支配する時です。夜の闇と自分の心の中にある闇が重なりあって見えてくるということもあるのではないでしょうか。夜の静けさの中で、自分の心にある闇の声がささやきます。黙っていたい、何も考えたくないと思っても、色んな声が聞こえてきます。それらの声は自分に喜びを与えるような声ではありません。病の苦しさを語り、人生の空しさを語り、死の恐怖を告げる言葉です。それらの声に、自分一人で戦わなければいけません。夜は孤独です。ひとりぼっちです。闇の声と戦うために、祈ろうと思っても、「いくら祈っても無駄だ」と言って、サタンがささやくこともあるでしょう。そのように、夜は複雑な思いが心の中にどっと湧き上がってきます。その思いに呑み込まれる時、涙が溢れます。そのような夜を幾度も経験しなければいけないこともあるでしょう。

 しかし、「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」と神様の約束を告げています。人工的な光がない昔の時代、人々にとって朝の光のありがたみというものは、今以上に大きかったことでありましょう。今は夜であっても、必ず朝が来て、光をもたらすように、神様は朝の光を与えてくださり、その光のもとで、私どもは賛美の歌をうたうことができるのだと約束してくださいます。希望の朝は必ず来るのだから、今を耐え忍ぼう!希望の光に支えられて、今を生きよう!詩人は今日の私どもにも呼びかけています。

 同じ詩編の第56編9節に、次のような御言葉があります。「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に/それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」私どもは嘆きの日々を数えること、書き留めることは中々できないと思います。書き留めるほどのゆとりや体力があればいいのですが、大きな病や苦しみの中で、それらの日々を自分で意味づけることは不可能です。けれども、神様は私どもの嘆き、涙を一つ一つ数えてくださるのです。そして、御自身の記録にしっかりと留めてくださるのです。だから、私どもの流す涙が無駄に地に落ちるということはありません。神様が皮袋に蓄え、数えてくださるからです。私どもの涙は無駄ではないのです。それを受け止め、そのあなたの悲しみが、実はあなたの人生に大きな意味を与えるのだ。なぜなら、この嘆き、涙の日々の中でわたしと出会うのだからと、神様がおっしゃってくださるのです。

 ですから、涙を流したくなるような悲しい時や苦しい時が、不幸であると決めつけることはできないのです。病の時、死を前にした時が、神様に見離された時であると言うことはできないのです。逆のことを言えば、健康な時、安らかな時に、必ずしも幸せだとは言えないということです。だから、詩人は7〜8節でこう歌っているのです。「平穏なときには、申しました/『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。」「平穏なとき」と詩人は言います。「平穏」というのは、何もない安らかな時と言うこともできるでしょう。悲しみや病や死とは無関係な時と言ってもいいでしょう。今、自分は健康で、何の心配もない。すべては安泰だということです。一般的な見方をすれば、そういう人は幸せだと考えられています。

 でもここで言われている「平穏な時」という言葉は否定的な意味で用いられているのです。ある訳では「成功した時」「呑気で無頓着な時」という意味でもあります。成功を収めることが悪いわけではありません。しかし、その成功を自分の力によったのだと自惚れていたのでしょう。呑気で無頓着というのも、これは神様に対して呑気で無頓着ということです。自分の身に大きなことが起こらなければ、神様との関係が疎かになるということです。この詩編の詩人もそのような時が過去にもあったのだというのです。そして、そういう平穏な時に限って、「わたしはとこしえに揺らぐことがない」などと大それたことを言ってしまうものです。神様を忘れたところで口にする大胆さほど恐ろしいものはありません。そして、こういった言葉を、神様を知らない人が言っているのではないのです。神様を信じていても、神様をそっちのけにして、「わたしはとこしえに揺らぐことはない」などと傲慢な言葉を口にしてしまうのだというのです。喜ばしい時も、悲しい時も、健康な時も、病む時も、すべては神様の恵みのうちにあるのにもかかわらず、その大切なことを忘れてしまっています。実は、そこに人間の本当の不幸があるのだ。人間の深い罪があるのだということを、詩人は深い悔い改めとともに語っています。どのような時も、神様がいのちを得させてくださるという恵みを忘れる時、8節の後半に「御顔を隠されると」とありますように、神様の御顔が見えなくなります。神様の御顔、つまり、神様の存在が見えなくなるのだというのです。6節の言葉で言えば、神がお怒りになるということです。その瞬間に、恐怖に陥り、死の力に呑み込まれそうになります。

 10節で、「わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。」と歌います。私には神の助けなどなくても、平穏に生きられる。とこしえに揺らぐことがないと言い張る「罪」の先に、「死」という現実あることを見つめています。死というのは病の先にあるものということではなくて、もっと厳しい現実として、罪の先に死があるということです。聖書が語る死の理解です。そして、旧約の時代は、死んでしまえば、神様との関係もそこで終わってしまうと考えられていたようです。だから、死んで塵になった者がどうして、神に感謝し、賛美をささげることができようか。できないではないかというのです。

 そのように罪を覚え、罪に対する神の怒りと裁きとしての死を覚える時に、「ああしてください」「こうしてください」という祈りではなく、9節、11節にあるように主に憐れみを乞う他なくなるのです。「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。」「主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。」人間というのは、自分が幸せだ、安心だと思う時に、傲慢になり罪を重ねます。反対に、悲しい時や病む時にさえも、自分と神様を呪い、罪を重ねてしまいます。いったい何をもって、人は幸せと言えるのでしょうか。正しい人間だと言えるのでしょうか。本当は人間の力だけでは見つけ出せないのだと思います。ただ神様だけが与えてくださる憐れみによる他ないのです。

 病と罪と死は深く関わっている事柄ですが、最後に問われること、いやいつも問われていることは神様との関係です。その神様との関係が正しいならば、病は自分にとって本質的なものでなくなってきます。病を患うことは苦しいことですし、死の陰が散らつく時、恐れを覚えます。しかし、神様が憐れんでくださるならば、そのような大きな試練の時でさえも恵みの時となるのです。私どもの神様は、病の中、罪の中で呻き苦しむ者を憐れみ、助けてくださるお方です。「怒る」と言ってもそれはほんのわずかの間であり、その御心はいのちを私どもに与えることなのです。そして、神様が私どもを憐れんでくださるならば、死を超えて、神と共にあることができるのです。旧約の時代の人々は、主イエス・キリストのことを知りませんから、はっきりとした復活信仰を持っていませんでした。でも、神様が憐れみに満ちたお方であることは知っていました。主の憐れみを乞うところに、死を超えたいのちの望みがかかっていることを知っていたからでしょう。

 最後の12〜13節で詩人は、こう言っています。「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。」神様の御心は、私どもをいのちの喜びに招き、導くことです。私どもはその人生において、多くの苦難を経験します。病の苦しみと痛みを負います。罪を重ね、死の恐れに捕らわれてしまうのです。けれども、神様は必ず喜びの中へと引き上げてくださいます。詩人は最後に言いました。「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」「踊り」というのは、喜びの最高の表現です。「粗布」は人が悲しみを経験した時に身にまとっていたものでした。それを脱がせ、喜びを帯びとしてくださいます。

 主の日、日曜日は、神様に救われた喜びに感謝し、礼拝をささげるために集まります。主イエスが十字架にかけられた時、地上は真っ暗な闇に包まれました。この闇は罪の闇であると同時に、神の怒りを表す闇でもありました。この深い闇の中で、主は十字架で死に、陰府にくだられたのです。しかし、神の怒りはほんの一瞬でした。死と陰府の中に、神様は一筋の光を与え、主イエスを甦らせてくださったのです。十字架で死んでから3日目の朝の出来事です。やがて時が来れば、また暗くなってしまうというような不確かな光ではなく、とこしえに私どもを生かすまことの朝の光です。神様は今日も朝の光の中に招いてくださいました。6節に「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」とあったように、主の日の朝、教会に集う私たちの口には、喜びの歌があります。神様が与えてくださった喜びの歌です。

 一方で、色んな悲しみを抱えながら、喜びの歌など歌えないという方もおられることでしょう。朝になっても病の苦しみを抱えたままという方もおられます。病のゆえに、ここに集うことができない方もおられます。けれども、神様は朝ごと、主の日ごとに、今日を生きるいのちを与え給うお方です。私どももまたここで神を喜びつつ、ここに集うことができない者たちのことを覚えて礼拝をささげます。また、明日は敬老の日です。教会からもご高齢の兄弟姉妹を覚えてカードを送ります。ここ数年のコロナ禍のことだけでなく、ご高齢の兄弟姉妹方の健康のことはいつも気になります。健康が支えられることを祈り願うとともに、神様の恵みを思う静かな時、喜びの時が日々与えられることを祈りたいと願います。お祈りをいたします。

 病む時も健やかな時も、私どもの生涯はすべてあなたの恵みの中にあります。御心を祈り求め、いつもあなたの御前に生きる者とさせてください。あなたの御子イエス・キリストの甦りの光の中に見えてくる確かな喜びを見出すことができますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。