2023年09月03日「イエス・キリスト、この名のほかに」

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イエス・キリスト、この名のほかに

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
使徒言行録 3章1節~10節

音声ファイル

聖書の言葉

1ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。2すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。3彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。4ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」7そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。9民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。10彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。使徒言行録 3章1節~10節

メッセージ

 私どもは自分が再び立ち上がることができた、その時の出来事であったり、そこで聞いた言葉というものを生涯覚えているものであります。それは私どもが日々、何によって立っているのか、つまり、何によって生きているのか、そのことをいつも確認して生きていると言うこともできるのです。私どもを根底から支えている出来事、あるいは、言葉というのはいったいどのようなものなのでしょうか。

 使徒言行録の御言葉を聞きました。生まれながら足の不自由な男がいました。この男は生まれてからまだ一度も自分の足で立ったことがありませんでした。22節を見ますと、彼は「四十歳を過ぎていた」とあります。40年間という時間もかなりのものですが、2千年前の40歳というのは、もう人生の晩年を迎えていると言っても大袈裟ではありません。「人生の折り返し地点をすぎた、さあ、新しいことを!」という年齢ではないのです。生まれてから今日まで立つことも歩くこともできない。つまり、自由に動き回ることもできないし、働くこともできない。ずっと横になったままです。そして、気づいたら、もう人生が終わろうとしている。いったい私の人生とは何なのか?そのようなことを幾度も問うていたことでありましょう。

 しかし興味深いことに、この男は私どもが想像するように、そこまで絶望して生きていたわけではないだろうと、多くの人は言うのです。私どもも同じようなところがあるかもしれません。40年間足が不自由とまではいかなくても、それぞれ自分の中に不自由さ、あるいは貧しさや弱さというものを抱えて生きています。人と自分を比べながら、自分の足りなさばかりに目が行ってしまうということもあるでしょう。そして、深く落ち込むことがあるのです。ただ絶望するところまでは行っていない。「こんな自分は嫌だ」と言いながら、一日一日を生きているのです。思い悩むことも多い日々だけれども、明るく振る舞って、与えられた人生を生きたいと思うものであります。貧しいなりに、生きる術というものをそれぞれが知っていたり、誰かから教わって生きているのです。

 この男もまた同じでした。生まれつき足が不自由だということを、私どもが考える以上に深刻には受け止めていません。不自由なら、不自由なりの生き方があるということをこの人は知っていたようであります。そのことをよく表しているのが、2節後半の言葉です。「神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日『美しい門』という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。」簡単に言えば、物乞いをしていたということです。もう40歳になります。両親も亡くなっていたのかもしれません。生きていたとしても、十分に息子の生活を支えることはできませんから、誰かに頼んで、神殿の門まで運んでもらっていたのでしょう。

 1節にあるように、午後3時の祈りの時間、多くの人たちが神殿で祈り、礼拝をするためにたくさん集まって来ます。そして、ある人が言うには、神殿に来る人、これから神様に祈りを聞いていただこうという人の心というのは、優しさで満ちているというのです。施すこともできない者の祈りを神が聞いてくださるはずはない。だから自分は優しい人間であることを一所懸命演じて、神様にアピールするというのです。面白い言葉ですね。でもそういう人の心理を突いて、男も祈るためにやって来る人々から施しを乞い、いのちをつないでいました。神殿に来た人々も善意というよりも、美徳の一つとして、病で苦しんでいる者や貧しい者の生活を支えていたようであります。

 男は、時々、神殿の美しい門に来たのではありません。「毎日」美しい門の前に置いてもらっていたのです。そして、そこで生活の必要を満たしてもらっていたということです。この男にとって、「美しい門」というのは、まさに自分が生きる場所でありました。自分の居場所ということです。ここに居れば、自分は生きていけるという場所です。私は生まれつき足は不自由かもしれない。でも生きていくことがまったくできないわけではない。ここに居れば、私は生きているのだというのです。そういう、言わば、「いのちの場所」というものを男は知っていました。そして、もう何十年もそこで実際に生きてきたのです。

 私どもにとりましても、ここに居たら大丈夫、ここに居たら生きていける、安心できる!そのような場所というのが絶対に必要です。私どもの苦しみの一つは、生きる場所、居場所を失うということでしょう。生きるために、その場所まで這い上がったり、奪い取ったり、あるいは逆に誰かから奪われたり、そういうところで一喜一憂する私どもではないかと思います。私どももまた、「ここに居たら大丈夫」と言える確かな場所を持っているかどうか。このことが問われているのです。既に持っているという人もいれば、まだ捜している途中ですという人もいるでしょう。あるいは、「ここなら大丈夫だ」と自分では思っていても、神様がご覧になった時、「そこはあなたの居場所ではないよ」「もっと素晴らしい場所があるよ」と愛をもって呼びかけてくださっている。そのようなこともあると思います。

 この男は自分の居場所を知っていました。毎日、美しい門の前で施しを受け、ある程度満足した人生を送っていたのです。ただそれだけに、御言葉を聞いていて何とも言えない気持ちになるのは、彼が何十年もの間、神殿の前まで来ながら、そこを居場所としながら、ついに神殿に入ることがなかったということです。足が不自由だったからということも理由の一つにあるかもしれませんが、彼自身、神に救いを求めるということはしなかったようです。体が癒されるようにここで祈り、願っているのでもありません。体が癒しを祈り求めるなど愚かなことだと思っていたのでしょう。そういう意味では彼は諦めの中にあったと言えるのです。でも、諦めてなどいられない。自分なりに精一杯生きねばと思いました。ただ、自分の人生に神は必要なかったのです。神に一番近いところに毎日にいながら、また神を礼拝する人々を毎日見ながら、「いや自分に神様は必要ありません。神様などいなくても、ご覧のとおり、このように生きていけますから…」そう思って生きていたということです。

 そこに神様は使徒ペトロとヨハネをお遣わしになりました。男は神殿に入ろうとするペトロたちを見て声をかけます。施しを乞うたのです。するとペトロとヨハネは一緒に彼をじっと見つめます。3〜5節には「見る」ということが繰り返し語られます。「彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると…」ペトロとヨハネは男をじっと見ました。「じっと見る」というのは、緊張が伴うと言いましょうか、力がこもったまなざしを意味する言葉だそうです。ただペトロたちとは対照的に、男のまなざしはいつものように何かをもらえるという期待に満ちたまなざしでありました。

 しかし、ペトロはこのように言うのです。6節。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」男が期待していたのは、金や銀をもらうことでした。普通、施しをする時は銅貨を渡すものだと言われます。金銀のような高価なものは与えないのです。でも、ペトロは「金や銀はないが」と言いました。それは男が金や銀といった秩序の中に生きていたということでしょう。神様との秩序・関係を見失っていたのです。だからペトロは力を込めて告げるのです。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

 説教の最初で、私どもは何によって立っているのか、何によって生きているのかを問いました。金や銀によって生きるのがいけないとか、いいとかそういうことではありません。豊かな生活がダメで、貧しい生活はいいということでもないのです。問われているのは、ナザレの人イエス・キリストの名によって生きているかどうかということです。足の不自由な男もイエス・キリストの名、それ自体は知っていたことでしょう。また当時、キリスト者たちも神殿に集って、礼拝をささげていました。けれども、イエス・キリストの名によって生きるということを知りませんでしたし、キリストによって生きるということを願うこともしませんでした。

 「ナザレの人イエス・キリストの名によって」ここで強調されているのは、「名」ということです。「名」というのは、その人の名前のことというよりも、その人の存在そのものを表す言葉です。「名」というのは、ですから、重みがあり、力があり、いのちがあります。神様とはどういう存在、どういうお方なのでしょうか。例えば、旧約聖書の出エジプト記第3章を見ますと、そこで神様がイスラエルの民の指導者モーセの前に現れ、ご自分の名前を紹介されます。そこで神様は「わたしはあなたの父の神」「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と言った後で、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と告げられました。「わたしは存在する者だ」という不思議な自己紹介です。でも神様というお方は、ご自分ただお一人で存在する方ではありません。エジプトの奴隷から私どもを救うために、いつも共にいようとしてくださるお方です。さらには、モーセの時代に留まらず、イエス・キリストにおいて私どもを罪の奴隷から救い出してくださるお方です。さらには、聖霊なる神様によって、教会が誕生しました。今の時代のことです。そして、教会の働き、使徒の働きをとおして、救いの御業へと招いてくださるお方です。今も、あなたを救いたいと願っていてくださるということです。

 イエス・キリストの名が強調されているのは、神の救いの歴史において、決定的な意味を持つのは、キリストの十字架と復活の出来事であるからです。イエス・キリストが救いの御業を成し遂げてくださったお方であるからです。今日は10節までお読みしましたが、この出来事のきっかけにして、物語は続いていきます。ペトロはこの後、人々に向かって説教をすることになりますが、その中ではこのように言っています。13〜16節「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。」特に15節では、主イエスのことを「命の導き手」と紹介し、神がイエス・キリストを復活させてくださったと語ります。私どもは命の導き手であるイエスを十字架につけました。けれども、神が甦らせてくださいました。だから、私どもは神の御前に悔い改め、「イエスを主」と告白して受け入れるならば、救われるのです。罪と死に勝ったいのちに最後まで生きることができるのです。

 「生きる」というのはどういうことでしょうか。苦しみや困難を抱えているけれども、自分なりに上手く工夫して何とか生きていけばいいのでしょうか。あるいは自分なりの居場所を見出すことでしょうか。そういうことも大事かもしれません。でも聖書が語る人生観、聖書が語るいのちというのは、そういう生き方ではないのです。生きるというのは、イエス・キリストの名によって生きるということに他ならないのです。私ども一人一人にいのちを与え、罪に勝ち、死を超えて最後まで導いてくださる主イエスと共に生きること。これこそが私どもが生きる道なのです。

 足の不自由な男は、神殿の美しい門の近くで、毎日、横になりながら、神を受け入れようとはしませんでした。何十年もそこにいたのです。それでも、神様や神様を信じる人たちに関心を寄せることはありませんでした。しかし、救いというのは、突如、私どもの思いを超えて与えられるものです。神様が遣わしてくださった使徒たちの働きによって、ついに彼は立ち上がり、歩き出すのです。6〜8節をお読みします。「ペトロは言った。『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」

 

 40年以上もの間、立つことのできなかった男が、立つことができるようになりました。まさに奇跡がここに起こりました。その癒された足、強くされた足で、男はどこに向かったのでしょうか。それは神殿の境内でした。一度も足を踏み入れたことのない神殿です。足が不自由だったからというのではなく、神を受け入れようとしない心が、神殿から彼を遠ざけていたのです。神殿の一番近くを毎日の居場所としながら、それができなかったのです。このことは、この男の悲しみというよりも、神ご自身が抱いておられた悲しみではないかと思います。「なぜ、こんなにも近くにいながら、わたしのところに来てくれないのか…」神は40年もの間、彼を待ち続けたのです。彼自身の足で、ご自分のところに来ることができるように待ち続けてくださったのです。その間も、この男に対する愛が止むことはなかったのです。だから、ペトロとヨハネを遣わし、彼らをとおして、キリストがこの男の内に働いてくださったのです。

 もう男の居場所は神殿の美しい門の前ではありません。彼の居場所は神殿の中であり、そこで神を賛美する生き方こそ、キリストによって与えられたいのちを生きるに相応しい生き方です。そのように神を賛美する生き方を毎日にする者へと変えられたことでしょう。人間として健やかに生きるというのは、ただ体が丈夫になった。病気が治った。そういうことではないのです。神を喜び、賛美する人間こそ健やかな人間であるということです。

 そして、神殿を居場所とするというのは、神殿で礼拝する者たちの群れに自分も新たに加えられて、一緒に賛美する者となるということでもあります。救われるということと、神を信じる群れに加わるということは一つのことです。つまり、救われるというのは教会生活を始めるということです。イエス・キリストは信じているけれども、教会に行かないとか、神の家である教会を建て上げる働きに参与しないというのは、まことの信仰ではありません。

 私どもはそれぞれに違った歩みをしてきましたし、信仰に導かれるきっかけもそれぞれ違っています。けれども、「教会」の存在を抜きにして、自分の救いを考えることはできないのです。洗礼を受け、教会の仲間に加わるまでの歩みにおいて、たくさんの兄弟姉妹が声をかけ、交わりを持ち、何よりも祈りをもって支えてくださいました。今もそれぞれが執り成しの祈りの中にあるはずなのです。私どもはそのことを知っているはずです。「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」この言葉は、私どもにも告げられている言葉です。教会の兄弟姉妹が救いの手を差し伸べるようにして、かけてくれた救いの言葉です。そのようにして、私ども一人一人が、この神の名による言葉によって、再び立ち上がる者となりました。

 洗礼を受ける時にこれと同じ言葉を聞くことになります。この男もまた、神を礼拝する群れと共に歩む中で、やがてイエス・キリストの名によって洗礼を受けたことでありましょう。使徒言行録でも第2章48節でこう記されています。ペトロが語った説教を聞いて心打たれた人たちがどうすればいいのか尋ねます。それに対して、ペトロは言うのです。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」洗礼を受けて、キリスト者になること。教会の一員になること。それは、イエス・キリストの名によってそうすることだと語るのです。私どももまた、イエス・キリストの名によって、罪赦され、神のものとさせていただきました。教会はそのような豊かな祝福の中にある一人一人の集まりです。そして、今度は教会は私たちの群れの中に、あなたもまた加わってほしいと声をあげ、礼拝の中に招き続けます。

 私ども教会は何を持っているのでしょうか。何を伝え、何で勝負しているのでしょうか。伝道の困難さに直面する時、自らの貧しさを素直に、悔い改めをもって認めざる得ないところもあるでしょう。けれども、自分たちは本当に弱くて、貧しくて、何もできない者たちなのだと思っている人は教会に誰もいないと思います。イエス・キリストという金銀に遥かに勝る素晴らしい名をいただいているからです。この世のどんな豊かさによって生きるよりも、イエス・キリストと共にある生き方がどれだけ自分たちを豊かにしているのか。そのことを心から感謝して生きているのが私ども教会であるからです。この恵みを喜び、誇ることができます。だから、「イエス・キリストの名によって、立ち上がり、歩きなさい」と語ることができます。

 それぞれの生活においても、教会の働きにおいても困難を覚えることは多々あります。けれども、私どもはイエス・キリストの名によって、立ち上がることがゆるされています。キリスト以外に私どもの支えはないのです。今から、聖餐にあずかります。私どものいのちの導き手であられるイエス・キリストが共におられることを覚え、強くされたいと願います。お祈りをいたします。

 父、子、御霊なる神様、あなたの御名を賛美する場所へと今朝も私どもを導いてくださいました。イエス・キリストの名によって、立つべき場所に立ち、なすべきことをなすことができる者とされていることを感謝します。生きることの困難さに直面することの多い私どもの歩みですが、なおそこで御名を呼び、どのようなところにあっても、主が私どもの救い主でいてくださることを知り、御名をたたえることができますように。また、私たち教会を聖霊で満たしてください。教会の側で救いを求めている者たちを愛をもって見つめることのできるまなざしを与えてください。そして、イエス・キリストの名を大胆に宣べ伝えることができますように。主が教会をとおして、これからも豊かに働いてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。