2023年06月25日「深い淵の底から」

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深い淵の底から

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 130編1節~8節

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聖書の言葉

1【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。2主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。3主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。4しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。5わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。6わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。7イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。8主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。詩編 130編1節~8節

メッセージ

 詩人は「深い淵の底」から神に向かって叫びます。「深い」という言葉は、複数形です。ですから、「深い深み」と言ったらよいでしょうか。ちょっとした深みというのではなくて、本当に深いのだということです。だから、ある人は、「深い淵の底」というのは、死者が横たわる「陰府」だと理解しました。上には神がおられる天があります。そして、私たちが生きる地上があります。陰府というのは、地上のその遥か下にある場所です。それは、単に地下ということではなく、天におられる神様から一番遠い場所だということです。神との交わりが絶たれ、それゆえに救いの光、希望の光が届かない場所です。

 また、深い淵の底というのは、何も死んだ後の世界のことだけではなくて、私たちが生きている地上においても「陰府」と呼びたくなるような現実があることを知っています。「深い淵の底」という言葉ですが、旧約聖書の他の箇所では、「水の底」「海の底」と訳されます。例えば、詩編第69編には次のような言葉があります。「神よ、わたしを救ってください。大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み/足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み/奔流がわたしを押し流します。」(詩編69:2-3)深い淵の底にいるというのは、水の底に沈んだということですが、そこにはもう上に這い上がる「足がかり」が何一つないのです。底なし沼で、這い上がろうとすればするほど、足が取られ、身動きできない。ますます、沼の深みにはまっていくということです。大水に表されるような「大きな苦難」に呑み込まれ、一気に底まで引きずり込まれ、そこで救いの足がかりを見つけることができないまま、深みにはまり、絶望に陥ってしまう。助けてくれる者もいない。まさに孤独である。そういうことが私どもの地上の歩みにおいて起こり得るのだということです。

 そのように、この詩編は私どもが抱える絶望とも言える現実を最初から描くのですが、改めて心を静めてこの詩編に耳を傾けて聞いてみますと、驚くべきことを語っていることに気づかれます。深い淵の底というのは、神の救いの光が届かないと言っても、決しておかしくないような闇に支配された場所です。生きる力をも奪い取る死が支配する場所です。でも、その深い淵の底から、詩人は何をしているかと申しますと、「主よ、あなたを呼びます」とあるように、神様に祈りをささげているのです。この詩人一人だけのことではないでしょう。神に救われ、神のものとされている私どももまたこの詩人のように、この世的には「もうダメだ」「もう絶望的だ」と諦めてしまうような現実においてもなお祈ることができるのだというのです。たとえ、望みを失うような深い淵の底にあったとしても、神に祈ることができる。これは決して矛盾したことではありません。むしろ、キリスト者に与えられた恵みであり特権です。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」

 詩人は、「深い淵の底」と言うのですけれども、彼にとっての「深い淵の底」とは何であるかということです。私どもも一人一人、それぞれ違った「深い淵の底」というものを経験したことがあると思います。ただ詩人がここで経験した「深い淵の底」というのは、この詩人だけに関係することであって、私には無関係。この詩人固有の苦しみなのでしょう?そういうことではないのです。詩人が今置かれている「深い淵の底」というのは、すべての人に共通する問題であるということです。すべての人にとって、最も深い淵の底と言える場所とはどういう場所であるのか。そして、そこから救われるにはどうしたらいいのか。最も深い底にあっても、なお希望と言えるものが何であるのか、救いの足がかりとなるものが何であるかを教えています。

 3〜4節をお読みします。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」ここで言われていることは、「罪」の問題です。罪という深い淵の底に詩人は置かれています。自分の力で這い上がろうとするのですけれども、もがけばもがくほど、深みにはまっていきます。それが罪の恐ろしさでもあるのです。ただこの詩人はまったく神様のことを知らない人ではありません。神様のことをよく知っているのです。そして、既に救いの恵みに生かされている人です。そうであるがゆえに、自分の罪深さ、罪の惨めさというものをよく知っていました。私どももキリスト者になる前よりも、洗礼を受けてキリスト者になった後のほうが、自分の罪に対して敏感になるのだと思います。使徒パウロもそうでして、救われたにもかかわらず、なぜ、自分はなすべきことをすることができず、したくないことばかりをしてしまうのか。私は何と惨めな人間なのだと嘆きました。私どもも詩編の詩人やパウロの気持ちというのはよく分かるのではないかと思います。罪の問題は主イエス・キリストによって、すべて解決されているのですが、だからと言って、私どもは罪のことを曖昧にするのではなくて、神の愛と赦しに支えられながら、ちゃんと向き合うことが大切です。「私は今深い淵の底にいる」というほどに自らの罪を知ること。それは同時に、主の恵み深さを知ることでもあるのです。

 神様は正しいお方ですから、罪に対して厳しいお方です。罪を裁くお方です。神様が私の罪に目を留められるならば、誰も耐えることができません。誰も神様の前に立つことができません。でも、この詩編が私どもに伝えたい神様のお姿というのは、神様は罪を裁くお方というよりも、神様は罪を赦すお方であるということです。3節の「心に留められるなら」とありますが、これは、お前が悪いことをしないかどうか24時間ずっと監視してやる。一つの罪も見逃さない。罪を見つけたら裁いて懲らしめてやる。そういう意味ではないのです。もしそうなら、誰も深い淵の底から抜け出すことはできないのです。「心に留める」というのは、注意深く見守るという意味です。注意深くというのは、愛をもって見守ると言ってもいいでしょう。7節に「慈しみは主のもとに」とあります。慈しみというのは、愛とか憐れみという意味です。愛をもって、憐れみをもって私のことをいつも見守ってくださる。信仰的に健やかな時も病んでいる時も、神様が私どもから目を離すことはないのです。神様は私どもに対して無関心なお方ではありません。そうではなくて、いつも関心を注いでくださいます。だからこそ、深い淵の底にあっても、安心して、大胆に主の名を呼んで祈ることができます。赦しが神様の中にあるからこそ、「私の罪を赦してください」と祈ることができます。

 その祈りというは、「悔い改めの祈り」です。詩編には7つの代表的な悔い改めの祈りがありますが、この詩編第130編もその一つです。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。」4節に「赦しはあなたのもとにあり」とありました。罪の赦しというのは、自分ではどうすることもできないということです。あるいは、他の誰かのもとにあるというのでもありません。罪の赦しはただ神のもとにある。神様だけが私の罪を赦すことがおできなる。これが私たちに与えられている信仰であり、救いの確信です。ところで、なぜ神様は、私どもの罪を裁いて滅ぼしてしまおうというのではなくて、赦してくださるのでしょうか。ご自分が犠牲を払ってまでも赦そうとなさるのでしょうか。それは4節の終わりに、「人はあなたを畏れ敬う」とありましたように、神が赦しを私どもに与えることによって、私どもが神を畏れ、つまり、神を神として礼拝することができるようになるためにということです。神様がイエス・キリストを与え、主の十字架と復活によって人間の罪をお赦しになる。ここに神の栄光が現され、赦しの恵みにあずかった人間は神を礼拝し、賛美する者となるのです。人間の罪というのはもとを辿れば、神を神としないということでした。初めだけではなくて、旧約の歴史全体を見ても、それは明らかです。でも、どうしたら神が神とされるのか。どうしたら、罪深い人間が神のみを礼拝して生きることができるのか。それは裁きによってではない。赦しでしかない。それが神様の御心です。

 5〜6節をお読みします。「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。」待つこと、待ち望むことが繰り返し、語られます。私ども信仰者の生きる姿勢は、待ち望む姿勢と一つのことです。それは退屈して待つとか、辛いと言って我慢して待つことではありません。忍耐は必要かもしれませんが、確かな希望があるからこそ、その希望に支えられて待ち続けることができます。私どもの神がどのような神であるかを知っているからこそ、神を信頼し待ち続けることができます。5節では、主に望みをおきということが言われていますが、より具体的なこととして「御言葉」を待ち望むということが言われています。神様が与えてくださる罪の赦しは、御言葉をとおして与えられます。御言葉を聞くことの中で、私どもは神を知ります。そして、神様の赦しがこの私にも与えられているということを知り、救いの確信に立つことができます。

 6節では、その救いの確信について、見張りが朝を待つ姿に譬えています。辺りが闇で支配される夜、敵が攻め込んで来ないか、神経を尖らせて、その務めに集中します。肉体的にも精神的にも疲れ果ててしまいます。そのような見張りにとっての希望は、夜が明け、朝が来ることです。そこでやっと働きから解放されるからです。朝が来ないことはありません。今は夜でも必ず朝は来ます。必ず労苦から解き放たれる時が来るのです。だから希望をもって待ち望みます。神の赦しも同じようにと言いましょうか、それ以上に、それにも増して、より確かなこととして私どもに与えられるのです。

 そして、御言葉を待ち望むこと、罪の赦しの確信を得ること。これらは自分一人ですることというよりも、礼拝共同体として、教会としてすべきことであり、受け取るべきことなのではないでしょうか。詩編第130編は巡礼歌の一つに数えられています。巡礼の旅に譬えられる人生の旅路、日々の歩みにおいてはもちろんのこと、旅の目的である神の民と共にある礼拝において、悔い改めの祈りがささげられ、御言葉をとおして、罪赦されている平安を覚えることができます。そのために今日も私どもは共に神様の御前に集まっているのです。

 最後に7〜8節をお読みします。「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。」ここでは「イスラエル」ということが言われています。先ほど申しましたように、罪の悔い改め、そして罪の赦しは自分一人の問題ではないからです。イスラエルの民の問題、つまり、神の民の問題なのです。共に主を待ち望もうではないか!共に御言葉を待ち望もう!そのように呼びかけています。また、ここでは神様のことについて、「慈しみ」「贖い」という言葉で紹介されています。「慈しみ」とは、最初のほうでも触れましたが、愛とか憐れみというふうにも訳されます。「贖い」というのは、お金を払って買い戻すという意味の言葉です。そこから、解放とか回復という意味にもなりました。旧約聖書の歴史を振り返るならば、出エジプトやバビロン捕囚からの解放の出来事をとおして、神は贖いの神であるということを示してくださいました。

 今日、私どもはまことの贖い主であるイエス・キリストのゆえに、この詩編の詩人よりももっと確かな救いの確信に立つことができます。だから、私どもは、救いはいつ与えられるのかと待ち続ける必要ないのです。イエス・キリストがいのちの御言葉として、罪の赦しをもたらす福音の御言葉として私どものところに来てくださったからです。そして、私どもを罪から贖うために、キリストはご自分のいのちを代価として十字架の上で支払ってくださいました。

 「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」詩人はそのように祈っていました。私どもはここにイエス・キリストのお姿を見出すことができるのではないかと思います。十字架の出来事が示していますように、キリストこそ、神から最も遠い場所に立ってくださったお方です。神との交わりを絶たれ、神から捨てられるようにして死んでいかれました。キリストこそまことの罪人として、そして私どもの罪を背負って十字架で死んでくださいました。それは私どもが深い淵の底で絶望しなくてもいいためです。たとえ「もうダメだ」と思っても、そこで「主よ」と祈ることができるようになるためでもあります。キリストこそが罪の深みにおいて、そして、人生のあらゆる苦難において、本当の「足がかり」となって、私どもと共にいてくださるのです。罪の苦しみはもちろんのこと、いついかなる時も、キリストに足をかければ罪と死の底なし沼に沈むことなく、ちゃんと立ち続けることができるのです。そのような恵みが私どもに与えられています。自分の力、自分の知恵によって立つのではないのです。ただ、神の赦し、慈しみと愛、そして、贖いの御業によって、私どもは支えられるのです。

 そして、私どもはイエス・キリストによって与えられている救いのゆえに、何か恐れに支配されてというのではなく、救いの確信に立ち、この詩編の言葉を私どもの祈りの言葉として祈ることができるのではないでしょうか。既にこの世に来てくださった主の救いの恵みに支えられて、終わりの日、救いの完成のために再び来てくださる主を待ち続ける間、私どもはこの詩編第130編の祈りを祈ります。それも高いところに立って祈るというのではなく、深い淵の底に立って、そこで苦しんでいる者たちのために、そこで苦しんでいる者たちの代わりに祈ることに召されているのではないでしょうか。教会を知るというのは、教会の一番底辺に何があるのかを知ることだとある牧師は言いました。また、この世においても、この世の一番底辺に何があるのかということに敏感でありたいと願います。深い淵の底を知ること、実際にそこに立ち、そこで祈ることをとおして、私どももそこで神と出会うことになるからです。お祈りをいたします。

 深い淵の底より、主よ、あなたの御名を呼びます。その時に、私どもがいるところよりももっと深いところから祈り、叫んでくださっている主イエスの御声を聞くことができ、ただキリストの恵みによって生かされている幸いを覚えることができるようにしてください。なおこの世には救いようのない悲惨な現実があることを思います。人々の嘆き、涙がやむことはありません。私どもキリスト者はそのような現実を見つめることができますように。見つめるだけでなく、そこに共に立ちながら、彼らのために祈り続け、希望の朝が来ることを待ち望むことができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。