2023年03月26日「主にある家庭の祝福」

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主にある家庭の祝福

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 128編1節~6節

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聖書の言葉

1【都に上る歌。】いかに幸いなことか/主を畏れ、主の道に歩む人よ2あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか/いかに恵まれていることか。3妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。4見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。5シオンから/主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見6多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和。詩編 128編1節~6節

メッセージ

 詩編第128編は「いかに幸いなことか」という御言葉から始まります。2節にも「あなたはいかに幸いなことか」とありました。これは、「幸いである!」という祝福の宣言です。人は誰もが幸せを願って生きています。ああ、今日も幸せだった。そのような歩みを重ねながら、人生を終えることができれば、どれほど幸いなことでしょうか。幸せというのは、喜びであったり、満足であったり、平安であったりというふうに、様々な言葉に置き換えることもできるでしょう。私どもは、心の底から「幸せだ」と言って、生きることができる道を誰もが求めています。

 聖書の御言葉をとおして、神様が私どもに伝えようとしている幸いがあり、喜びがあります。その中心にあるのは罪から救われて生きる幸いであり、喜びです。その一方で、まだ洗礼を受けていない人も、それぞれ生活の中で幸せを求め、幸せを感じながら生きています。幸いと言いましても、救いの喜び以外に様々あります。では、それらの幸いに生きることはいけないことなのでしょうか。そんなことはないのです。

 2〜3節をもう一度見ていただきますと、このようにありました。「あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか/いかに恵まれていることか。妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。」ここで言われていることは、何か特別な幸せというよりも、ごく日常にある生活の光景ではないでしょうか。「あなたの手が労して得たもの」というのは、仕事をするということです。仕事をして、正当な収入を得て、それで食べていくのです。それもここで描かれているのは、一人で生活しているということではなくて、愛する家族と共に生活をしている人間の姿です。妻は家の奥に居て、家事をしているのでしょう。妻のことが、「豊かな房をつけるぶどうの木」と譬えられていますが、これは妻がたくさんの子どもを産んだということです。そして、子どもたちのことが今度は「オリーブの若木」に譬えられています。オリーブというのは乾燥に強い植物で、幹が切られてもそこから若枝が芽生えます。オリーブの若木に譬えられた子どもたちというのは、そのように生き生きとみなぎるいのち、力、繁栄を表すものです。そのようなたくさんの子どもたちを、神様ご自身が家庭に与えてくださいます。そして、その子どもたちが食卓を囲んでいるというのです。笑い声が絶えない喜びの食卓であったことでしょう。このような家族の姿というのは、ごく一部の限られた者たちだけ、キリスト者だけというのではなくて、昔も今も、またどの国や地域においても見られる光景ではないかと思います。そして、「幸せ」というのは、人によって違うと申しましたけれども、どの時代の人もどの国の人も家族の幸せを願うのではないでしょうか。私どももキリスト者も同じです。主イエスと出会って、本当の幸せとは何かを教えていただいた。だから、「家族の幸せなどたいした問題ではない」という人などどこにもなりません。キリスト者もまだそうでない人も家族の幸せを願って生きています。家族を養うために、働くという点においても同じことが言えるのではないでしょうか。

 それだけに、家族の平和が崩れてしまうというのは、何にも耐えがたい悲しみであると思います。私どもにとって、良い意味で日常であり、当たり前のように存在する家庭の営みや仕事があります。「いかに恵まれていることか」と2節の終わりにもありますように、どこにでもあるような家族の姿こそが、実は神様から与えられた豊かな恵みそのものです。しかし、それがあることをきっかけにして、当たり前ではなくなってしまう。そのような苦しみを私どもは経験することがあります。幸いの中に不幸が訪れるのです。喜びの中に悲しい出来事が起こるのです。しかし、そこで私どもはどうしたらいいのでしょうか。一度、亀裂が入ってしまった幸せというのは、もう価値や意味を持たないのでしょうか。偽りの幸せだったということなのでしょうか。一度、悲しみに襲われたならば、もう元の生活に戻ることを諦めて、また新しい幸せを見つければよいということなのでしょうか。決してそんなことはないと思うのです。問題が起こったら、もう価値はないとか、もう諦めるしかないということではないと思うのです。

 では、一方で聖書が語る幸い、神様が与えてくださる幸いというのは、どのようなものなのでしょうか。救いの喜びに生きるということはどういうことなのでしょうか。神様を信じて生きていれば、仕事も上手くいくし、たくさんの収入を得ることができる。神様を信じてさえいれば、誰でも良き伴侶が与えられ、たくさんの子どもが与えられる。妻も夫も子どもたちも、家族全員何も問題もなく、健康に過ごすことができる。そういう幸いが神様から与えられるのでしょうか。もしそうであったならば、それはとても嬉しいことであり、感謝すべきことですけれども、実際はそうはいかないということが多いのだと思います。キリスト者も、キリスト者の家庭もまた、他の人たちと同じように様々な問題を抱えながら生きているのです。しかし、そこで一つ違うのは、そういう幸せや喜びが崩れてしまいそうな危機の中で、私たちキリスト者は、神様を仰ぎ見る幸いに生かされているということです。

 「いかに幸いなことか」というこの言葉ですけれども、先の詩編第127編にも出てきましたし、他の詩編の中でも何度も出てくる言葉です。そもそも、一番初めの詩編第1編1節が、「いかに幸いなことか」という祝福の言葉をもって始まっていました。どういう人が幸いなのかと申しますと、昼も夜も、つまり、いつも御言葉を口ずさみ、御言葉に生きる者が幸いなのです。詩編第128編1節の「主の道を歩む人」というのも同じ意味です。「主の道」というのは、主の律法、主の掟を信じ、歩む人という意味なのです。反対に不幸な人というのは、御言葉に従わない人です。詩編第1編では、御言葉に従う人と従わない人が、それぞれどういう運命に導かれているのかを、分かりやすく描いています。御言葉を愛し、御言葉に従う者の歩みは、荒れ地のような困難の中にあったとしても、決して、枯れることはありません。葉を繁らせ、豊かな実を結びます。なぜなら、絶えずいのちの水が流れているからです。一方で、御言葉を愛さない者の運命は、風に飛ばされるもみ殻のように軽い存在であり、地に落ちたもみ殻は集められ、最終的には燃やされてしまうのです。つまり、神の裁きに耐えることができないのです。

 詩編第1編が、このように両者を対比している意図は明らかでありまして、私どもを御言葉に生きる幸い、祝福へと招くためです。誰も御言葉に聞き従わない人のように、空しく、呪われた人生など送りたくないのです。ですから、「幸いなるかな」という言葉が含まれている詩編というのは、「知恵の詩編」というふうにも言われます。幸せに生きることと、知恵を持って生きることは一つのことなのです。神様に従ったら、すべてが何か自動的に上手くいくということではありません。神様を信じている人も信じていない人も、表面的に見れば、どこか似たような生活をしているということがあるのです。けれども神様の御言葉を愛し、従っている人。主の道を歩んでいる人。また、詩編第128編では、1節や4節にあるように、「主を畏れる人」、つまり、主を心から崇め、礼拝している人。こういった信仰者たちの歩みは、神から与えられている知恵によって、より輝きを増し、力強い歩みとなります。災いや不幸の中でも、空しさを覚えることがあっても、人間ではなく、ただ神の知恵によって、幸いの中を生き抜く道を知っているからです。だから、不幸なことが起こっても、「こんな辛い目に遭わすのは神ではない」と言って、主の道から離れるのではありません。「神よ、なぜですか」「神様、助けてください」と祈りつつ、ますます神により頼み、ますます神の言葉を待ち望む者へと変えられていくことでありましょう。あるいは、不幸だと思うようなことを経験する中で、自分は、私たちの家族はこれまで神を畏れて生きていたのだろうか。不十分なところがあったのではないか。そうであるならば、もう一度、神様の御前にへりくだって、悔い改めよう。そのような思いへと導かれることもあるでしょう。自分の人生や、自分の家庭の中に生じるあらゆる問題をとおして、神様に対する信仰の姿勢をもう一度整え直し、新しい出発をすることが、私どもには赦されているのです。神様から与えられる祝福、それぞれの家庭に与えられる祝福というのは、御言葉に従う道をとおして与えられるものなのです。

 「あなたの手が労して得たものはすべて/あなたの食べ物となる。あなたはいかに幸いなことか/いかに恵まれていることか。妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。食卓を囲む子らは、オリーブの若木。」この2節、3節で語られていたことは、昔も今も多くの場所で見られる日常の光景であると申しました。毎日、職場や家庭で何か驚くような出来事が起こるわけではないでしょう。昨日も、今日も、明日も同じようなことが繰り返されていく。決して、つまらないとかそういうことではありません。何気ないようなところに幸いがある。祝福がある。恵みがある。そのような信仰のまなざしでもって見つめ、いつも神に感謝することができれば、これ以上に喜ばしいことはありません。

 しかし、働くことも、食べることも、家庭を持つことも、これは普通のことのように思えるのですけれども、必ずしもそうとは言い切れない部分もあるのではないでしょうか。この詩編が歌われ、読まれた時代、つまり、神の民イスラエルの長い歴史を振り返ります時に、仕事をすることも、家庭を形成することも、これらは当たり前のように目の前に存在していたというのではありませんでした。例えば、イスラエルの民は、かつてエジプトで長い間奴隷としての生活を強いられました。自分たちの手で労して得たものをすべてエジプトのために差し出さなければいけなかったということです。どれだけ働いたとしても収入を得ることができない空しさ、苦しさといったものを味わい続けてきました。また、敵国バビロンとの戦いに敗れ、捕囚の民となったこともありました。戦争によって、夫が奪われ、妻が奪われ、子どもたちが奪われていく、そういう悲惨を経験した家族も数多くありました。このバビロン捕囚の場合は、その背景にイスラエルの民の罪という問題がありました。主を畏れ、主の道を忠実に歩もうとしなかったがゆえに、神から受けた裁きというふうにも言えるかもしれません。今まで当たり前のようにあった幸せが突如奪われてしまう悲しみを経験しながら、「なぜこんなことが」という思いを、幾度も心の中で繰り返し、神に祈り、悔い改めたことでありましょう。先の詩編第127編で、主ご自身が私たちの家庭を建て上げ、守ってくださらなければ、すべてはむなしい。主がすべてを与えてくださらなければむなしいとありました。そのむなしさをイスラエルの民は実際に経験しました。主を畏れず、主の言葉に従う道から離れ、自分の力に頼って、自分の人生、家庭の幸せを築こうとすることがいかにむなしいことであるのかを、彼らは歴史の中で経験したのです。

 また、私たちに与えられている信仰を脅かす力は、私たち自身の内側にあるだけでなく、当然外側からもやって来ます。戦争もまた神に敵対する力によって生じたものというふうに言うことができるでしょう。そこで犠牲になるのは、無力な子どもたちや女性たちという場合が多いのではないでしょうか。それも、たまたま弱い子どもたちが犠牲になったというのではなく、意図して子どものいのちが奪われることもあります。主イエスがお生まれになった時代、ヘロデ王がベツレヘムとその周辺にいる2歳以下の男の子を皆殺しにしました。ヘロデが新しい王として生まれたイエス・キリストの誕生を恐れたのです。それは今の自分を、将来の自分を脅かす者をすべて消し去りたいということでしょう。自分こそ王であり、自分こそ神でありたいというのです。それを邪魔する者は子どもであろうが、家族であろうが、まことの神の子であろうが関係なく滅ぼしてしまおうというのです。また、子どものいのちを奪ったり、脅かしたりするというのは、その国全体の将来をも握りつぶすという意図もあるでしょう。

 そのようなこの世の現実の中で、昔も今もこれからも、神様の祝福が一つの小さな家庭に注がれているということを、今日の詩編は語ります。社会や国というのは、一つ一つの家庭が集まって成り立つものです。そして、一つの国が平和な国となるためには、その国を構成する一つ一つの小さな家庭が、神様の祝福に満たされなければいけません5節、6節ではこう言われていました。「シオンから/主があなたを祝福してくださるように。命のある限りエルサレムの繁栄を見 多くの子や孫を見るように。イスラエルに平和。」最後にイスラエル全体の平和を祈っているのです。これは家庭の平和から急にイスラエルの平和へと、大きく飛躍しすぎているという話ではあり

ません。自分たちの家庭の平和とイスラエルの平和が一つになっている。これは必然的なことなのです。3節で譬えられていました「ぶどうの木」や「オリーブ」というのは、聖書では神の民イスラエルを意味する言葉として用いられることがよくあるのです。

 そして、5節、6節で強調されていることは、神様の祝福が「シオンから」与えられるということです。シオンというのは、神の都エルサレムのことです。この詩編は「都に上る歌」(巡礼歌)です。小さい子どもたちを含め、家族全員でエルサレムまで旅したかどうかは分かりませんが、少なくとも夫はエルサレムに行ったことでありましょう。そこで神を礼拝しつつ、神が与えてくださった家庭のこと、家族のことを感謝します。決して当たり前のことではなく、本当に神様が与えてくださらなければ、この幸せは存在しないのです。そして、たとえ家庭の中で、これからたいへんことが起こったとしても、主を畏れ、主の道を真っ直ぐに歩むことができるようにと祈りをささげたことでしょう。そして、同時にイスラエルの民全体の繁栄と平和を願います。

 神様が与えてくださる祝福は「シオンから」与えられるというのです。決して、別に他の場所に居たら祝福がないということではありません。「シオンから」というのは、要するに、神を共に礼拝する場所からということです。それは今日で言えば、私どもが集っている「キリスト教会」のことです。教会から、教会でささげられる礼拝をとおして、キリストのものとされている私ども一人一人に、またここに集うそれぞれの家庭に、神の祝福と平和が与えられます。

 詩人はエルサレムの繁栄を願いました。それは具体的には子どもたちがたくさん与えられることでした。今日、教会がエルサレムの地だけではなくて、世界中に、この日本の国に、そして千里山や川西の地に立っているというのは、神様の子どもとされた者たちが、世界中に与えられたという神様の確かな祝福のしるしです。イエス・キリストこそ、「イスラエルに平和があるように」という祈りに耳を傾け、ご自身の十字架と復活をとおして、真の和解、真の平和を築いてくださいました。そして、「イスラエルに平和」と祈りましたように、神の家族、霊の家族とされた私どもが集まる教会をとおして、この地域や国に、そして世界にもたらされていきます。各家庭の平和、教会の平和が、そのまま世界の平和へとつながるのです。決して大袈裟な話ではないのです。だからこそ、今与えられているそれぞれの家庭の歩み、教会の歩みを大切にしていくのです。お祈りをいたします。

 神よ、すべてはあなたのものです。そして、生きていくためのすべてを、あなたは恵みとして与えてくださいます。日常の歩みの中に、神様が与えてくださっている祝福があることを、いつも見させてください。そのために、主を畏れ、主の御言葉に従って歩んでいくことができますように。それぞれの家庭を豊かに祝福し、また一つ一つの家庭をとおして、また、教会をとおして、神の平和がこの地域に、この世界に広がっていきますように。主の御名によって祈ります。アーメン。