2023年03月05日「神よ、守ってください」

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神よ、守ってください

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 16編1節~11節

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聖書の言葉

1【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。2主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」3この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。4「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」5主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。6測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。7わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。8わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。9わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。10あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず11命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。詩編 16編1節~11節

メッセージ

 まだ洗礼を受けていないけれども、神を信じる信仰に生きたいと願いながら、礼拝に集う方たちのことを、教会では「求道者」と呼ぶことがあります。「道」を「求める」と書いて、「求道」と言います。一般的には、「キリスト教」と呼ばれることがありますが、決して、キリストの教えを聞いて、それに関心を抱いたり、少し知恵をいただいて、それでおしまいというのではありません。だから、キリスト教と言うよりも、「キリスト道」と言ったほうがいいという人もいます。キリストと共に、神様が備え、示してくださっている「道」を歩んでいくこと。従っていくこと。このことを神様は望んでおられます。また、「求道者」と言いましたけれども、「道」の代わりに、「神」という言葉を入れて、「求神者」という言い方もできるかと思います。「求神者」という言葉はありませんけれども、意味は明らかです。「神を求める者」ということです。そういう意味では、既に洗礼を受けた者も求道者であり、求神者なのです。そして、神を求めるという場合、それは神を呼び求めるということでもあります。神を呼ぶというのは、神に祈るということです。キリスト者にとって「祈りは呼吸である」ということを先週お話しましたが、まだ洗礼を受けていない方にとっても大事なのは祈ることです。祈りつつ、神を求めることです。洗礼を受けないと、祈ることができないかというと、そんなことはありません。祈り求めながら、洗礼を受ける備えをします。「神様、あなたのことを教えてください」「神様の愛が分かるように導いてください」というふうに。

 先程、お読みした「詩編」には、全部で150もの信仰者たちの祈りや賛美が収められています。昔から、キリスト者たちにとって、詩編というのは祈りの言葉の宝庫でした。詩編の言葉に合わせ、自分たちもまた神に祈り、神に賛美の歌をささげました。祈ることは、どこか恥ずかしいという人もいるかもしれませんし、どう祈ったらいいか分からない方もおられるでしょう。しかし、そういう時に、詩編の言葉を真似るようにして、自分も祈ることができます。本日お読みした詩編第16編にも祈りの言葉が記されています。祈りがあり、神様への感謝と賛美に満ちた詩編です。最初の1節にこうありました。「神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。」信仰の詩人は、「神よ、守ってください」と祈り始めます。祈りというのは、初めから難しく考える必要はありません。「神よ、守ってください」という祈りは、もしかしたら誰もが祈っているような祈りではないでしょうか。まだ小さい教会の子どもたちも「守ってください」と祈ります。それは子どもたちがまだ小さく、それだけに危険が多いからということではないでしょう。子どもたちも、苦しいという経験をし、それゆえに、「神様、守ってください」と祈ることもあると思いますが、特別苦しいということを感じることがなくても、祈るというのは、「神様、守ってください」と口にすることなのだと自然に学んでいるところがあるのではないかと思うのです。なぜなら、自分の親を含め、教会の大人たちも絶えず「お守りください」と祈っているからです。そして、「神様、お守りください」というのは、教会に来ている人だけに限らず、すべての人の心の中にある思いではないかと思います。家族のことも、健康のことも、将来のことも、すべてが守られなければ、自分ではどうしようもないというということを知っているのです。

 けれども、聖書が語る神の守りというのは、何か自分が大きな危機の中に立っている時だけの話ではないということです。生きる時も死ぬ時も、上手く行っている時も行っていない時も、絶えず神の守りなしには生きていくことができない。それが神様の前に生きる私どもの姿であるということです。「神よ、守ってください」という祈りに続いて、「あなたを避けどころとするわたしを」という祈りの言葉が続きます。「神様、守ってください」と祈っているこの詩人は、神様を「避けどころ」としています。「避けどころ」と訳されています言葉は、「より頼む」とか「身を避ける」とか「逃れる」と訳されることもあります。「守ってください」と祈っているのですけれども、既にこの詩編の詩人は神を避けどころとし、神の守りの中にあります。それほどにいつも神様を信頼しています。何かたいへんなことが起こったらというのではなくて、神様のところに逃げ込んでいます。いつも神様の守りの中にあります。

 神を信じるということ、あるいは、信仰に生きるというのは、弱い人たちがすることだと言われることがあります。神に祈ることも、神を避けどころとすることも、弱いからそうしているのだろうと。けれども自分たちは違う。自分たちは強い人間だから、神の守りも助けも必要ない。初めから神様に頼るなんて情けないではないか。まず自分で精一杯頑張ってみて、それでもどうしてもだめだったら、最後の最後に「神様!」と祈ったらいいと言うのです。つまり、祈りというのは、弱い者がすること、敗北した者が最後にすることだと。けれども、本当にそうなのでしょうか。確かに、キリスト者たちは自分の罪の問題を含め、体も心も弱いことを知っています。将来についても、不安になるということもあるます。けれども、キリストによって神のものとされた私どもは、自分が弱い、もうダメだという時だけ祈っているのではないでしょう。これ以上に嬉しいことはない、これ以上に幸いなことはないと喜びを爆発させているようなところでも、実は「神よ、守ってください」と祈っていると思います。教会の子どもたちも大人たちも良い意味で、「守ってください」という祈りの言葉が一つの口癖になっています。

 そもそも私どもにとっての喜びや幸せというのは何なのでしょうか。すべてが自分の思いどおりに上手く行くことなのでしょうか。どこにおいても勝利や成功を収めることなのでしょうか。そのような幸いというのももちろんあるでしょう。それは大いに喜んだらいいと思います。けれども、詩人は私ども神を信じる者にとっての幸いが何であるかをこう語ります。2節、「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」これは祈りの言葉とも言えますし、信仰告白と言える言葉でもあるでしょう。詩人にとっての幸いというのは、神様が与えてくださる何かによって嬉しくなったり、悲しくなったりということよりも、神様そのものが私の幸いだと歌うのです。他に何も必要ないというのです。

 もちろん、神様が良いものを与えてくださるから幸いな気持ちになれるということももちろんあると思います。神様は良いもの、必要なものを与えてくださるお方です。だから、「主の祈り」の中でも「日毎の糧を与えてください」と祈るのです。詩編の中でも、5節、6節にはこのようにありました。「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。」6節の終わりに「嗣業」という少し難しい言葉がありますが、これは神様がご自分の民に分け与えてくださる土地を意味しました。自分たちが神の前で具体的に生きていく恵みの場所です。あるいは、嗣業というのは、神の民であるイスラエルそのものを意味しました。5節の終わりの「運命」という言葉は、くじ引きの「くじ」を意味しました。神様から与えられた広大な土地の中にも、ここは水が近かったり、ここは少し荒れていたりと、色んな場所があったのですが、それをくじによって決めたのです。小さな石を用いたと言われます。石を投げてくじをしたとも言われますし、入れ物にたくさんの小石を入れてそれを引いて行ったと言う人もいます。そうやって、自分たちが住む土地が決められ、分け与えられていったのです。6節の「測り縄」というのもここからは私の土地ということを示すものです。それは、この縄の先に入るなということではなくて、これだけの土地を神様が与えてくださったのだという感謝を表すものです。

 しかし、5節、6節では嗣業のこと、土地のこと、財産のことが、主なる神様ご自身に当てはめられています。私どもにとっての本当の嗣業というのは、自分たちのことや土地のことに勝って、神様ご自身が私どもに与えられたまことの嗣業ではないかと、喜びつつ告白します。「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方」というふうに。そして、ここでくじを引いて、運命を決めるのは、実は私どもではなくて、神様ご自身です。私ども人間というのは、もしかしたら、自分でくじを引いて、いいものをいただきたいと思っているかもしれません。自分の運命を自分以外の誰かに決められてたまるものか。自分の運命は自分で決める。自分の運命は自分で切り開くというふうに。あるいは、5節の最初に「主はわたしに与えられた分」とありました。「私の分」という言い方は私どももよくしますね。子どもの頃からします。「これは私の分で、あなたの分はこれだけ」というふうに。兄弟がいる家庭はいつもそんな喧嘩ばかりしています。大人になっても「これは私の分だ」と言っている人はいくらでもいるのです。自分でくじを引いて、どうして私の分はこれだけなの?いつも損ばかり。それなのにあの人の分はあんなにもたくさんある。羨ましい。こういう思いというのは、妬みとなり、恐ろしいことですけれども、その人のいのちさえも奪ってしまいます。「私の分」と言い張るのは、妬みであり、神に対する不満でもあります。何よりも、くじを引きながら、神を試しているとも言えるのです。

 私どもが生きる上で、神様からそれぞれに与えられた土地も財産も感謝すべき大切な賜物です。しかし、それ以上にまことの嗣業と言えるもの、それは神様ご自身です。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません」という2節の感謝の告白がここにも響いています。そして、5節、6節の背景には、イスラエルの民の中でも「レビ族」と呼ばれる人々のことがあるのではと言われます。他の部族たちは、神からの嗣業の土地に生きましたけれども、レビ族と呼ばれる人たちは土地を持ちませんでした。代わりに、神殿で神様のために仕えること喜びとしたのです。神殿で仕える人たちのことを祭司と言います。そして、彼らは神殿でささげられる献金によって生計を立てていました。決して贅沢な暮らしをしていたわけではありません。けれども与えられたものに感謝していました。貧しさがどこかに吹っ飛んでしまうほどに、神に仕えることを喜びとしました。

 

 「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。」ここから教えられますことは、生活のすべてを主なる神様にお委ねするということです。神様ご自身が私どもにとっての最上の幸せであり、神様ご自身が私どもに与えられている最も良きものなのですから、私どもはもう何が与えられたか、与えられたなかったかということで、一喜一憂することはありません。神様によってすべてが支えられている。これからも神様が支え、守ってくださる。この確信があるからこそ、私どもは嘆きの道から解放されるのです。たとえ、願ったものを手にすることができなくても、あなたにとって一番の幸せと言えるお方、つまり、神様が共にいてくださり、その方の愛と恵みの支配の中を歩むことができるのです。

 また、同時にこの詩編は、「あれがほしい、これがほしい」と言うのではなく、今与えられている生活や財産、賜物に感謝をし、受け入れて生きるという信仰の姿勢を私どもに教えてくれています。信仰を言い表すというのは、自分の生活をきちんと受け入れることでもあります。祈りにおいて大事なのもまた、今与えられているものに目を開き、それを受け入れるということなのです。自分にないものを願うということも、信仰生活や祈りの生活にはたくさんあることでしょう。「今の生活を受け入れなさい」と言われても、受け入れることができない現実がいくらでもあります。だからそこに祈りが生まれるということもあるのですけれども、神が何かを与えてくださるから私は幸せになるとか、神様が与えてくださらなければ不幸になるということではないのです。神様ご自身が、あなたにとっての幸いなのです。その神様があなたの神となって共にいてくださいます。与えられない、受け入れらないという中にあっても、私どもはそこで罪をおかしてはいけません。貪欲の虜となったり、まして、神様を試すようなことがあってはいけません。神ご自身が幸い、そこに思いを向けようではないかと御言葉は私どもを励まします。

 「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」この言葉は、十戒の初めの戒めとも響き合います。「あなたには、わたしのほかに神があってはならない。」(出エジプト20:3)次の戒めは、「あなたはいかなる像も造ってはならない」というふうに、偶像礼拝を戒める御言葉が語られます。4節に「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません」という言葉がありました。「神様の他に私の幸いはない」と告白することは、他の偶像の神々との決別を意味します。偶像の神の名前さえも口にしないと言うのです。おそらくこの詩人は周りの人々が、神の民とされながら、自分たちの生活に満足せず、偶像の神々を造っていた姿をよく見ていたのでしょう。旧約聖書を見ますと、驚くべきことすが、神を礼拝する神殿にも偶像を置いていた時代があったということが書かれています。そして、偶像礼拝のこと、偶像礼拝の根っこにある貪欲の罪というのは、自分以外の誰かのことだけの話ではないということです。この詩編を歌った詩人もまた、かつて貪欲の虜となっていたことがあったのではないかと言われています。しかし、今はもう違う。神が私の主となってくださった。私を贖ってくださった。「神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。」「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」詩人にとって、欠くことができない祈りとなりました。私どもにとっても同じであります。

 私どもは存在そのものが、神の息である聖霊によって生かされています。復活の主のいのちの息吹によって生かされています。祈りが呼吸であるというのは、何か特別な時間を設けないと祈ることができないというのではなくて、存在そのものが、普段の肉体の呼吸のように自然なものとされています。私ども自身が祈りの存在として、今ここに生かされています。ただそのような中にあっても、例えば、主の日、日曜日が最も顕著な姿だと思いますが、特別に時間を取り分けて、神様の前で祈りをささげ、礼拝をささげるということも大事なことです。わざわざ心を静めて、祈らなくても祈りの存在とされているのだから、何もしなくてもいいというのではありません。神様のために、こうして時間をちゃんと取り分けるということをしませんと、私どもは本当に何もしなくなるのです。キリストによって神のものとされた私どもにとりまして、こんなに勿体無い生き方はありません。こんなに神様を悲しませる生き方はないのです。

 一日の生活を考える時、私どもはいつ祈るのでしょうか。例えば、一日の始まりを意味する朝の時間帯に、あるいは、一日の終わりの意味する夜や寝る前に、神様との交わりを大切にする人はきっと多いことでしょう。今日の詩編の中では、7節から9節にかけてこう言われています。「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。」7節に「わたしの心を夜ごと諭してくださいます」とあるように、夜の時間帯に祈りをささげています。夜というのは、多くの人たちにとって一日の働き、生活を終えた時間です。夜の闇、静けさに包まれながら、その日の色んなこと、色んな思いに捕らわれる時でもあるでしょう。眠りたくても、安心して眠れないということもあるでしょう。

 7節に「わたしの心」とありました。「心」というのは、「腎臓」とか「はらわた」と訳されます。はらわた、腎臓というのは、心臓と共に人間の最も深いところにある思い・意志・感情を司る体の器官と言われていました。新約聖書では「憐れみ」という言葉があります。これも「はらわたが痛む」という意味がありました。表面的にというのではなく、体の内側から、存在の最も深いところから喜んだり、反対に心を痛めたりということを、私どもは生活の中で経験することがあります。しかし、その私の心を励まし、諭す方がおられるというのです。それが神様です。あなたの存在の、あなたの生活の最も深いところで、神様は出会ってくださる。神様があなたの心、あなたのはらわたの真ん中を捕らえ、あなたに話しかけてくださるというのです。「安心しなさい、安らかに眠りなさい。」

 それだけではないでしょう。神様は御言葉をとおして様々な助言を与えてくださるお方です。また、「諭す」という言葉ですが、これは「戒める」という意味でもあるのです。それは、何よりも「わたしのところに戻ってくるように」という呼びかけでもあるでしょう。私どものことを、罪も含め、すべてご存知の神様が「戻ってきなさい」と呼びかけてくださいます。祈りというのは、自分の願いや思いを神様に届けることだと思っていますが、それだけではなくて、神様の励ましや助言、戒めに耳を傾ける時でもあります。だから、いつもというわけではないかもしれませんが、御言葉に導かれながら祈るということは、祈りを考える上で一つ大切なことであります。その時に、例えば、1節で詩人が祈っていたように、「あなたを避けどころとするわたしを」という祈りの言葉が与えられるのです。神様の御言葉に耳を傾け、主のもとに逃げるのです。主を避けどころとするのです。そこに平安が与えられていくのです。御言葉に導かれつつ、私どもが避けどころとし、逃げて行く先というのは、主にあって安心することができる場所です。神様の恵みと平和に満ちた場所です。

 8節の「わたしは絶えず主に相対しています」という言葉ですが、これは私の目の前に神様を置くということです。神様をまるで人形か何かを自分の目の前に置くという感じもしないわけでもないですが、別にそういうことではなくて、いつも神様が目の前におられるのですから、もう私どもきょろきょろと目線を動かして、その度に不安に捕らわれることはないということです。だから続けて、「主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません」と言うのです。「主は右に」ということですけれども、「右」という言葉は、力を意味する言葉です。目の前にいる神様は、夜の時だけ、眠る時だけというのではなくて、目覚めている時も、働いている時も学んでいる時も、病む時も、死ぬ時も、いつも私どもの目の前にいてくださいます。私どもの生活のすべてが神のまなざしの中にあります。神様の目の届かないところはどこにもないのです。その神様が右にいてくださると言っているのは、神様がご自分の力をもって、私どもの守り、助け、まことの勝利へと、つまり救いへと導いてくださるということです。そのような力強い神様の守りがあるがゆえに、私は揺らぐことはないと信仰を表わすことができます。9節には「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います」とありました。興味深いのは、「からだは安心して憩う」ということです。信仰生活というのは、体をも含む生活です。頭で考えることも、心で感じることももちろん大切ですが、私どもの歩みというのは、体と共にある生活です。だからこそ、そこで病を患うなどして、悩むこともたくさん出てきます。しかし、その体をも神様の力強い右の御手にお委ねします。そこで体は安心して憩うということが起こります。

 その神様の力強い右の御手というのは、死の力、陰府の力によっても妨げることはできません。まさに、神の御手は死に打ち勝ったいのちの御手です。だから、最後に詩人はこのように祈りつつ、信仰を告白しました。10節、11節「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。」本当に美しい信仰の言葉だと思います。「陰府」というのは、死が意味するように、もう二度と帰って来ることができないような絶望的な場所、神様から遠く離れた場所と言われます。しかし、そのような陰府の力でさえも、私たちと神様との交わり、神様との絆を引き裂くことはできません。それは陰府や死、あらゆる絶望の中にあっても、そこは神様から見捨てられる場所にはならないということです。人は誰もが死を迎えるのですが、そこにおいても11節で言われているように、「命の道」を見出すことができるのです。

 詩編の詩人は、この時まだ、イエス・キリストのことを知りませんでした。けれども、神を避けどころとし、神以外に私の幸いはないと告白して生きる時に、私の歩みは死を超えるということ信じていました。神様が私の主となってくださり、その主なる神様との交わりに生きる時、もはや死は力を失う。死に勝った豊かないのちに、今生きることができるということを信じていました。やがて、主イエス・キリストがこの地上に遣わされ、十字架に死に、お甦りになった時、この詩編の言葉はますます輝きを放つ言葉、私どもを救いに導く確かな言葉となりました。ペトロやパウロといった初代教会の伝道者たちは、詩編第16編10節の御言葉を引用しながら、主の復活を語りました。詩編の中では、どのような仕方で死に打ち勝つことができるのか、その具体的なことにまでは言及していませんが、そのことがイエス・キリストにおいて明らかになったのです。

 「神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。」神様に守られ、神様のもとに逃げ込むことは、決して弱いことでも、人生の敗北でもありません。私どもが本当の意味で強くなることです。喜びに溢れた人生を生きるためになくてはならないことです。逃れの道は、まさに命の道なのです。ある人は、「命の道」という言葉を、「命の小道」と訳しました。小道というのは、工事で造った道路のような道ではないということです。元々は荒地だったのです。雑草だらけだったのです。しかし、教会の長い歴史の中、信仰の先輩たちが何人も何人も歩いてできた道だというのです。それが小道です。その先頭を歩いておられたのは、もちろんいのちの開拓者であられるイエス・キリストです。私どもも主イエスに続いて、信仰の先輩たちに続いて命の道を歩み続けます。その命の道はどこに通じているのか。それは神様のところに、救いの完成に通じているとも言えますが、同時に主の日の礼拝に通じる道でもあります。今朝、私どもがここに集うことができたのも、神様が「命の道を通って、ここに来なさい」「ここに逃げて来なさい」と招いてくださったからに他なりません。どんなことがあっても、神様が私どもを見捨てておられないからこそ、今ここにいることができます。神を避けどころとするのは、キリストの体である「教会」に留まることでもあり、教会で共に礼拝をささげることでもあります。その神様の御前で命の道をもう一度見せていただきます。だからここで心も魂も体も憩うことができます。

 そして、私どもは礼拝を終え、ここから出て行くのですが、その歩みもまた命の道であるということです。復活の主イエスと共に命の道を歩み出し、また次の主の日ごとに命の道を踏んで、礼拝をささげるためにここに戻ってきます。永遠のいのちの喜びを神様の力強いいのちの御手からいただき、その喜びの中を生き、そして安心して死んでいくのです。私どもは今から聖餐を祝います。「あなたのほかにわたしの幸いはありません」と心から信仰を言い表すことができるために。そして、命の道を私どもの前にしてくださるために、主イエスは十字架の道を歩んでくださいました。今、受難節を過ごしながら、とりわけ十字架の恵みを思いつつ、復活によって与えられているいのちの希望を確かにしたいと願います。お祈りをいたします。

 イエス・キリストが十字架と復活によって切り拓いてくださった命の道を通って、今朝も御前に集うことができました。いつも神様の守りによって支えられている私どものいのちであることを覚え、心から感謝します。日々、神様ご自身を慕い求めつつ歩むことができますように。御言葉をもって私どもを励ましてくださり、あなたとの交わりを喜ぶことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。