2023年01月22日「笑いと喜びが満ちる時」

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笑いと喜びが満ちる時

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 126編1節~6節

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聖書の言葉

1【都に上る歌。】主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。2そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。3主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。4主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。5涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。6種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。詩編 126編1節~6節

メッセージ

 人間が人間らしいというのは、どういうことでしょうか。私どもはキリスト者として、聖書から人間が何であるかを正しく答えることができるかもしれません。では、自分がまだ洗礼を受ける前はどうだったでしょうか。人間が人間らしく生きるとはどういうことだと考えていたでしょうか。そこには自分の願いや憧れというものが少なからず反映していたことでありましょう。このように生きたい、あのように生きたい。自分の夢や願いを実現して、初めて自分らしさを獲得することができるというふうに。あるいは、反対に自分の思いを捨てて、人のためにひたすら仕え、愛する生き方こそが人間らしいと思うかもしれません。しかしながら、ごく素朴なこととして、与えられたいのちを喜んで生きることができたら、それでいいのではないかと思うことがあります。特に小さい子どもと一緒に生活をしているとそう思います。言葉はまだ上手く話せないのだけれども、赤ちゃんや子どもが大きな声で笑っている、楽しそうにしている。そういう姿を見ているだけで、この子は自分のいのちを喜んでいるのだなと思いますし、そういう笑っている姿、喜んでいる姿を見ているほうの側も、何だか幸せな気持ちになります。人間が人間らしく生きるということは、いつも喜ぶことであり、その喜びがもたらす笑いに生きることでもあります。もちろん何を喜びとして生きるかということも大切でしょう。信仰生活においても同じです。そのことは自分自身において問わなければいけないことですし、我が子や教会の子どもたちにも丁寧に説明すべきことでしょう。そのうえで、笑って喜んでいる姿の中に人間らしさを見出すということは大事な視点ではないかと思います。

 何年か前にお亡くなりになりましたけれども、落語家に桂歌丸という人がいました。日曜日の夕方の「笑点」という番組によく出ていた方です。私も小さい頃からよく知っていた方ですが、桂歌丸さんがこのようにおっしゃっておられました。「人間、人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいんや。」興味深い言葉ですが、これは落語家・芸人として、人を笑わせることの難しさということを語っているわけではありません。人を笑わせるためのテクニックというものも落語家として日々、精進しておられたと思いますが、ここで言われている人を笑わせることの難しさというのは、人間のもっと根本にあることなのだと思います。だから、反対に人を泣かすこと、怒らせることは簡単だと言うのです。師匠や親から学ばないと、人を泣かすことができないとか、人を怒らせたり、悲しませたりすることができないのかと言うと、そんなことはありません。誰かに学ばなくても、人は簡単に誰かを怒らせたり、悲しませたりすることができます。恐ろしいことです。しかし、認めざる得ない人間の現実ではないかと思います。また一方で、深い悲しみの中でうずくまっている人を慰め励ますこと、希望を与えることがどれだけ難しいことであるかということも知っているのだと思います。

 しかし、私どもは決して、誰かを泣かしたり、悲しませてしまうことの中に、あるいは、自分自身が悲しみ続けることの中に、人間らしさがあるとは思いたくないのです。難しいことかもしれないけれども、やはり喜びと笑いに満ちた人生こそ、人間が人間であることではないかと、どこかで信じたいのです。先ほど、紹介した桂歌丸さんの言葉は幼い頃の戦争体験に基づく言葉です。歌丸さんはこのようにも言います。「人間にとって一番肝心な笑いがないのが、戦争をしている所。」戦争は人々の尊いいのちを奪いました。家も町も失い、家族もバラバラになりました。戦争は悲しみしか生み出さないということが分かっていながら、それを口にすることも許されない時代でした。戦争によって、多くの人が涙を流し、その涙が怒りに変わりました。戦争が終わってから今年で78年になりますが、いまだにその傷が癒えることはありません。昨年、ウクライナで戦争が起こりました。各メディアで戦地の様子が生々と映し出されたました。そこに笑っている人間の顔などどこにもありませんでしたし、そこに人間らしさがあるなどと思った人は誰もいなかったと思います。なお私どもはウクライナの平和のために、また世界の平和のために祈り続けます。神の平和と和解によって、生きることを喜びとし、笑いがもたらされることを祈らずにはおれません。

 昨年に引き続き、詩編第120編から始まる「都に上る歌」「巡礼歌」と呼ばれる御言葉に耳を傾けています。本日は詩編第126編です。この詩編を歌った詩人は過去に起こった大いなる出来事を振り返ってこう言うのです。1〜3節。「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて/わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう/『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と。主よ、わたしたちのために/大きな業を成し遂げてください。わたしたちは喜び祝うでしょう。」この箇所は何を意味するのかと申しますと、神の民イスラエルが戦争に破れ、敵国バビロンに捕囚の民として連れて行かれました。「捕われ人」というのは捕囚の民のことです。捕囚時代は、神の民にとって、まさに暗黒の時でした。このような結果になったのは、自らの罪に原因がありましたが、その罪を神様の前に悲しみつつ、「いつまでですか」「なぜですか」という嘆きと叫びが消えることはありませんでした。

 しかし、70年の苦しみの後、ついに捕囚から解放され、故郷である神の都エルサレムに帰ることができるという約束が与えられたのです。「わたしたちは夢を見ている人のようになった」とありましたが、嬉しいという思いとともに、信じられないという思いのほうが強かったかもしれません。旧約の時代、夢をとおして神様が御心を示されることがよくありました。ただ一般的には今日もそうですが、目が覚めると「あれは夢だったのか」とがっかりするのです。虚しくなるのです。怖い夢だと安心しますが、嬉しい夢だと目が覚めた時、少し悲しくなります。しかし、捕囚の民に告げられたエルサレム帰還の約束は決して夢だったとか、幻に過ぎなかったと言って、虚しく終わるものではありませんでした。夢だと思っていたことが、現実となる。これほど嬉しいことは他にないでありましょう。「そのときには、わたしたちの口に笑いが/舌に喜びの歌が満ちるであろう」という御言葉のとおりになりました。

 エルサレム帰還後、神の民は神殿を再建することとなります。エルサレムに戻ることは、神に立ち帰ることを意味したからです。そのために神殿を再建し、そこで神の臨在を喜び、神を礼拝しつつ歩む道こそが、神の民として再生することだと信じたのです。再び神殿が完成した時の様子がネヘミヤ記第8章に記されています。第8章8〜12節の御言葉です(旧約750頁)。「彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。『今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。』民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。彼らは更に言った。『行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。』レビ人も民全員を静かにさせた。『静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。』民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。」再建された神殿での礼拝の出来事です。神を礼拝するとはどういうことでしょうか。それは神を喜び、祝うことです。主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源であり、私たちがあるべき人間の姿に戻ることができたということでもあるのです。だから、「嘆くな」「泣くな」「悲しむな」とネヘミヤは呼びかけます。時に、神様の前で嘆くためだけに、悲しむためだけに教会に集うということもあるでありましょう。けれども、神様の前に嘆くことができるのもまた、神様にある喜びと希望に支えられているからこそ、できることなのではないでしょうか。詩編第56編にありますように、私どもの嘆きの日々を神様が忘れることなく覚えてくださり、それゆえに私どもが流す涙もまた虚しく地に落ちることはないのです。私どもの悲しみの涙を、神様がご自分の革袋に蓄えてくださるのです。神様が私どもの悲しみも喜びもすべて受け止めてくださるからこそ、私どもはいのちの手応えを感じながら、確かな日々を歩むことができます。

 4節にはこのようにありました。「主よ、ネゲブに川の流れを導くかのように/わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。」「捕われ人を連れ帰ってください」という言葉は1節にもありました。1〜3節までが過去に神様がしてくださった大いなる御業を思い起こしている部分です。そして、この4節の部分は今の出来事を歌う言葉であり、明らかにここは嘆きの言葉として「捕われ人を連れ帰ってください」と言うのです。ですから、4節の「捕われ人を連れ帰る」というのはバビロンからの帰還のことではありません。もう民はエルサレムに帰って来ているのです。「捕われ人を連れ帰る」という言葉は、回復するとか、復興する、元に戻るという意味があります。神の民は都に帰って来たのです。神殿の再建も果たしたのです。それは、2節の終わりにもあるように、周りの国々の人も驚くような、まさに神様の大きな御業でありました。けれども、この時はまだペルシアという外国の支配下にありました。国としての力は依然として弱かったのです。イスラエルをとおして、世界の国々が神を崇めるということにまではまだ至っていません。神の祝福の御業はまだ途上なのです。エルサレムに戻ることができたからと言って、すべてが上手く行ったわけではなかったのです。このことは今を生きる私どもキリスト者の歩みとも重なります。神の前に立ち帰り、救いの恵みに生きることは喜びです。けれども、キリスト者として色んな労苦や戦いがあることを知っています。生きることは決して楽なことではありません。どうしても笑うことができない日々があります。笑うこと、喜ぶことを忘れたほうが、どれだけ楽かと思うことさえあるかもしれません。しかし、そうであるからこそ、「私たちの口に喜びと笑いをもたらしてください。もう一度、あの時のように」と心を込めて祈ります。

 4節の初めに、「ネゲブの川の流れを導くかのように」とありました。ネゲブというのはパレスチナの南とエジプトの間に位置する地域です。ネゲブという言葉が、そのまま「南」という方角を意味する言葉になりました。この地は砂漠ということではなくて、緑が乏しく、岩が多い土壌だそうです。暑さが厳しくなる乾季には枯れ果てた土地となります。ですから、「南」という意味だけでなく、「不可能」という意味もあるようです。もうどうすることもできないほどに枯れ果てているということでしょう。けれども、雨季になると一転して、川に水が満たされ、豊かな場所となります。まさに奇跡です。私どもも魂の渇きを経験します。しかし、あのネゲブの地が潤うように、私どもの心も満たしてください、神様に信頼をして祈りをささげます。救いの喜びを知っているからこそ、笑いと喜びを失った嘆きの日々においても、望みを持って生きる者とされるということ。ここにキリスト者の特徴、生き方があり、神様はこのような望みに満ちた生き方へと、イエス・キリストをとおして招いておられます。

 そして、救いの神を知っているからこそ、最後の5節、6節で歌われているような言葉をもって信仰を言い表すことができます。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」人々の日常の光景にあった農夫の働き、特に「種蒔き」という作業をとおして見えてくる事実と、信仰者の歩みとを重ね合わせて歌うのです。種を蒔くとはどういうことなのでしょうか。私どもは農夫ではありませんが、少しは想像することができるでしょう。種蒔きの季節が来ると、種をたくさん蒔くわけですが、その時点ではまだ実りを確信することができません。大きな災害でもあったら、種蒔きの労苦は無駄になってしまうかもしれないのです。けれども種を蒔かないことには実が実ることはありません。来るべき季節にたくさん実ってほしいと願いながら種を蒔きます。希望を託して種を蒔くのです。私どもの人生もまた種蒔きの労苦のように、様々な労苦を経験します。涙と共に種を蒔くとあるように、それは涙を伴う労苦でもあります。しかし、その涙には希望が込められているのです。それも農夫が作物の刈り入れや実りを期待するよりも、遥かに確かな仕方で希望を抱くことができます。希望を抱きながら労苦し、涙を流すことができます。なぜなら、私どもに与えられる実りや喜びというのは、御言葉の約束に基づくものであるからです。

 神の民イスラエルは、「泣きながら出て行く」という経験をまさにいたしました。捕囚によって捕われ人となりました。しかし、「喜びの歌をうたいながら」、故郷エルサレムに帰って来たのです。また、6節の「出て行く」とか「帰ってくる」というのは一度限りのことではないということです。だから、ここを丁寧に訳すと日本語としては綺麗ではないのですが、「行きに行く」「帰るに帰る」となります。捕囚とそこからの解放の出来事だけでなく、つまり、たった一度の経験だけではなくて、私どもは人生において幾度も、泣きながら出て行き、喜びながら帰って来るということです。しかしながら、ここで改めて気づかされるのは、私どもの信仰の旅路とは、いつも「喜び」が終着点であるということです。だから私どもの将来に確信と希望を持ちながら歩むことができます。そのことを詩編の御言葉が、ここで私どもに約束を与えてくださいます。

 そして、私どもの信仰の旅路は、「終着点」だけではなくて、「出発点」においてさえも喜びであるということです。なぜなら、信仰の歩みというのは、キリストによって罪と死から救われたという喜びが最初にあるからです。ヨハネによる福音書に記されている御言葉を思い起こします。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)主イエスこそ、私どものために真実の涙を流し、私どものために労苦し、最後には十字架でいのちをささげてくださいました。そして、三日目に新しいいのちに甦ってくださいました。主は地に蒔かれる種、地に蒔かれた麦として十字架で死に、復活してくださったのです。これこそ神の「大きな業」です。キリストに示された大きな御業をとおして、私どもは神のもとに帰ることができました。まことの平和、そして喜びと笑いを取り戻すことができました。

 

 私どもの信仰の歩みも、教会の歩みも主の復活が出発点です。だから週の初め、私どもはここに招かれます。「主にある喜びから歩み出そう!」と復活の主は私どもの交わりの真ん中に立ち、声をかけてくださいます。私どもの歩みは、まさに喜びから喜びへと向かう旅路です。苦難の中にあっても、喜びを基調としながら歩むことがゆるされています。福音の音色、喜びの音色が消えることはありません。むしろ、苦しい歩みの中でこそ、まことのいのちの言葉として私どもに迫り、私どもを生かします。

 新しい年度の歩みが始まっています。1月も半分が過ぎましたけれども、次週は教会にとって大切な定期会員総会が開かれます。そこで昨年与えられた実りに感謝をささげます。そして、もう一度、新年度の教会の歩みを共に確認します。神様が祝福を豊かに与えてくださることを信じ、神様によって献身の心を新しくしていただきたいと願います。この一年も様々な労苦があるでありましょう。しかし、喜びに向かって歩んでいるのだということ、労苦は無駄に終わらないということを、御言葉から教えられます。それゆえに、農夫が種を蒔き続けるようように、私どもも日常の業、教会の業に仕えていくのです。ここに私どもの喜びがあるからです。お祈りをいたします。

神よ、あなたが与えてくださる実りを期待し、私どもはこの一年も歩んでいきます。涙し、労苦する日々を経験することもあるかもしれませんが、あなたが与えてくださる確かな喜びと希望に向かって既に歩み出している幸いを覚えることができますように。そのような幸いの中で、あなたから委ねられている働きを、心を込めて行うことができますように。また、喜ぶこと、笑うことを失っているこの世界を憐れんでください。あなたにある平和がもたらされますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。