2022年11月27日「揺らぐことなく」

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揺らぐことなく

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 125編1節~5節

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聖書の言葉

1【都に上る歌。】主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る。2山々はエルサレムを囲み/主は御自分の民を囲んでいてくださる/今も、そしてとこしえに。3主に従う人に割り当てられた地に/主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。4主よ、良い人、心のまっすぐな人を/幸せにしてください。5よこしまな自分の道にそれて行く者を/主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。イスラエルの上に平和がありますように。詩編 125編1節~5節

メッセージ

 夕礼拝では「都に上る歌」と呼ばれている詩編の御言葉に耳を傾けています。詩編第120編から始まる「都に上る歌」は、神の民が都エルサレムへの巡礼の際に、あるいは、目的地であるエルサレム神殿での神礼拝において歌われた歌だと言われています。今日を生きるキリスト者にとっては、「聖地」と呼ばれる場所はありません。エルサレムに一度は行ってみたいという憧れはありますけれども、むしろそれ以上に、聖霊が与えられ、キリストの教会が千里山の地にも川西の地にも、そして世界中に与えられていて、そこで主にお会いし、礼拝をささげることができる幸いが与えられています。ただ「都に上る歌」「巡礼歌」と呼ばれる詩編が、今日意味を持たないかと言うと、決してそうではないのです。エルサレム巡礼の旅路は、私ども教会の旅路、また私たち一人一人の信仰の旅路を意味するからです。その旅路の中で、かつて信仰の先輩たちが経験した様々なことを、今を生きる私どもも同じように経験するのだということを、詩編の御言葉を聞きながら教えられてきたからです。それは、苦難のこともありますけれども、それ以上に、苦難の中に共にある神様の恵みを覚え、神様をほめたたえる歩みと重なります。

 本日の詩編第125編で、詩人は「主に依り頼む人はシオンの山」というふうに、主を信頼する者とシオンの山とを重ねています。シオンの山というのは、都エルサレムが在る山または丘のことです。シオン=エルサレムのことと理解してもいいのですが、ここでは2節にも続けて記されていますように「山」ということに焦点が置かれています。山とはいかなる存在なのか。それは、「揺らぐことなく、とこしえに座る」とあるように、何があっても動くことなく、そこにどっしりしている。不動であり、不滅であるということです。これは私どもにもよく分かるのではないでしょうか。目の前に広がる山々はどれだけ大きな災害に襲われても、なくなることはまずありません。土砂崩れなど、山の一部が崩壊するということはあるでしょうが、山そのものがなくなるということはないのです。何があっても動じないのです。エルサレム自体が山や丘の上にありましたが、エルサレムの都を囲んでいたのも山々でした。

 心身ともに疲れ果て、色んな恐れに捕らわれる時、外に出ては高い場所に立つのです。あるいは周りの山々を眺めるのです。詩人や旧約の人々も神様がお造りになった自然の世界、また山々を眺めながら心癒される時間を過ごしたかもしれません。私どもも自然の美しさや壮大さに心奪われる時がありますが、信仰が与えられている者は、そのような自然世界の姿を見たり、聞いたり、触れたりする中で、神様のこと、信仰のこと、あの御言葉この御言葉というふうに、既に与えられている数々の主の恵みを数えることができるものだと思います。その時に、目の前の自然の美しさ、神秘さに遥かに勝った神様の祝福が、この小さな私にも確かに与えられている。そのことを思い、ますます神様を賛美する者とされていくのです。

 「主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る。山々はエルサレムを囲み/主は御自分の民を囲んでいてくださる/今も、そしてとこしえに。」1節の「主に依り頼む人」というのは神の民のことです。今で言えば、教会のことであり、教会に連なる私たち一人一人のことです。一方で、2節のエルサレムを囲んでいる「山々」というのは、神様のことです。神様が御自分の民、またその民が礼拝をささげるために集うエルサレムの都を守ってくださると約束してくださるのです。私どもはそのように神様の守りの中に、愛と憐れみの中に置かれているということをまず覚えること、そのことが大切です。神様への信頼もまた、神様の守りがあるからこそできることです。自分の力で、一所懸命、神様を信頼して歩もうと努力する気持ちは大事ですが、そのように自分で信仰の決心を新たにすることができたとしても、しばしば、つまずいてしまう弱さや罪に気づかされることがあります。「私は神様を信頼しているがゆえに、大きな山のように揺らぐことはない」と自信を持つことも大事なのですが、その私たちを神様が今も取り囲んで、あらゆる災いや危険から守っていてくださるからこそ、今の私があり、これからの私があるということを忘れてはいけません。そして、その神様の守りがあるということを確信し、それゆえに神様への信頼が確かにされる場所こそ、エルサレムであり、今で言うとキリストの教会であり、そこでささげられる神礼拝においてということです。

 宗教改革者ジャン・カルヴァンという人は、この詩編について次のようなことを言っています。

 「それゆえに、神のみ手によって支えられることを願う者は、変わることなく、それに依りすがらなければならない。また、それによって守られることを求める者は、忍耐強く、そのもとに憩わなければならない。われわれがあちこちと動かされ、風の前のもみがらのように捨てられるのを神が黙許(もっきょ)されるとき(知らないふりをされるとき)、それはわれわれの軽率さから生じるのである。われわれは、神の助けという岩の上に魂を固着させるよりも、空中を飛びはねるほうを好むのである。」

 カルヴァンは私どもの弱さというよりも、はっきりと「罪」と呼んだほうがいいキリスト者の現実、人間の現実を見つめています。 神様の助けを無視し、空中を自由に飛び回っているようでも、それは風で舞っているもみがらであり、やがて地に落ちて、集められて、燃やされてしまうだけだというのです。そうではなくて、自らの人生の土台をどっしりとした岩の上に築く。「神の助け」という岩の上に築いていくことこそ、私どもの生き方なのだというのです。そして、私どもが神様の守りと支えをいただくために具体的になすべきこととは、神様の前に憩うことです。礼拝がいつも私どもの歩みの真ん中にあるのです。それも、「忍耐強く憩わなければならない」とカルヴァンが言いましたように、神様の前に、神様の懐に何度も憩い続けることです。詩編第23編にあるように、神様がまことの羊飼いでいてくださるがゆえに、私どもの歩みは欠けることなく、満たされていきます。羊飼いである神様が、私どもを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を休ませてくださるのです。また、「疲れた者、重荷を負う者はだれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)という主イエスの言葉にもあるように、礼拝もまた神様からの招き、主イエスの招きがあるからこそ、弱い私どももまた繰り返し、ここに集うことが許されています。

 自分を揺るがす原因というのは、自らの罪にあります。ただそれだけではなくて、私どもが生きる現実の中にも、私たちを苦しめたり、いのちを脅かす力が周りにはたくさんあります。そのことを詩人は3節でこう言っています。「主に従う人に割り当てられた地に/主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。」「主に従う人」の前に、「主に逆らう者」が現れます。彼らは、「笏」を持っています。「杖」というふうに言われることもありますが、これは権威や力、武器を意味する言葉です。神様が御自分の民に分け与えてくださった土地にやって来て、笏でもって、「ここは我々の土地だ」と言って力を持って奪おうとするのです。このことはイスラエルの民が歴史の中で実際に経験してきたことでもありました。幾度も外国との戦いを重ね、その戦いに破れ、彼らの支配を受け入れなければいけませんでした。純粋に一つの国に神の民だけが集まって生活をし、礼拝をするということはできないのです。異国の人たち、偶像礼拝の神々を信じる人たちと生活をし、それゆえに大きな苦しみを経験したのです。こういったことはどの時代、どこの国においても決して珍しいことはではないでしょう。私どもが生きる国も同じです。そのような神に敵対する者たち、まだ神様を知らない人たちと一緒に生活をしなければいけないというのは、戦いをいつも必要としているということでもあります。その戦いにいつも勝利することができるかどうかという不安が、昔も今も信仰者たちの中にあるのだと思います。「主に従う人が悪に手を伸ばすことがないように」との願いは切実なものです。事実、異国の偶像の神々を拝むという罪をイスラエルもまた重ねてきたからです。最後の5節でも、「よこしまな自分の道にそれて行く者を/主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。」と祈っていますが、これも元々は神の道に生きていた人が、よこしまな自分の道を行ってしまったということです。「よこしまな道」というのは、曲がった道とか脇道というふうにも訳されます。歩むべき道、進むべき道を見失ってしまったということでしょう。ですから、主に逆らう者というのは、何も自分たちの外にだけいるのではなく、自分たちの中に、いや自分の中にもある。そのような深い畏れを抱きつつ、しかし、私どもを招いてくださる神様の前に憩います。

 再び、カルヴァンの言葉を紹介したいと思いますが、彼はこのように言います。

 「信仰者はこの世にあって、快適で安易な生活をみずからに約束すべきではない。困窮の中にあるとき、神の助けは決してわれわれを見捨てない、ということだけで、われわれには十分だからである。天の父が信仰者らを、やさしく愛されるのは事実としても、神は彼らが苦難によって目を覚まし、肉の快楽に陥ることのないように、と望まれる。」

 信仰者は、というよりも私ども人間は、「約束」を必要としている存在なのだというのです。しかも快適で安易な生活が与えられることを、誰かから約束してほしいのです。偶像の神々の存在もまた、人間が自分たちの欲望を実現するために、快適な生活を約束し、保証してくれることを願って、造り出したものに過ぎません。結局、人間というのは自分を頼りにして生きようとする存在であるということです。まことの神の助けなどいらないというのです。また神を信じると言いましても、苦しみをもたらすような神は神ではないというのです。でも、苦しみを避けてとおることはできないのです。キリスト者は、主の十字架の苦しみにあずかるものですから、なおさら人生において経験する苦しみは敏感なはずです。そういう地上の歩みの中で、キリスト者は結局何を求めて生きるのか。これさえ知っておけば十分と言えるものはないか。それは、カルヴァンが言うように、「神の助けは決してわれわれを見捨てない、ということだけで、われわれには十分だからである。」ということなのです。神様が私どもを見捨てられることはない。それだけ知っていればもう十分なのです。罪の問題をはじめ、苦しいこともあるし、耐え切れず神様に嘆きたくなることもあるかもしれない。快適などとは到底言えない不自由な生活がなお続いている。しかし、神様の守りはエルサレムを囲む山々のように、とこしえに立っているものであり、崩れることはない。他人が自分を見捨てても、自分のことで絶望しても、神様だけはあなたを見捨てない。その神様の前に、憩い続ける生活をしたらいいというのです。

 4節で、「主よ、良い人、心のまっすぐな人を/幸せにしてください。」と祈っています。この詩編を歌った詩人も、神を信じる私どもも「良い人」や「心のまっすぐな人」に自分を重ねるでしょう。5節にあったように、「よこしまな自分の道にそれ行く者」ではないからです。しかし、この良い人も、心のまっすぐ人もまた、自分の正しさによってつくりあげられるものではありません。ただ神様の恵みの中で、私どももまた善い者へと変えられていくのです。不安や恐れに支配されることもなく、自分の罪に支配されることもなく、神様の守りの中で、神様が示してくださる道を生涯歩む者とされます。

 最後に詩人は、「イスラエルの上に平和がありますように」と祈りの言葉をもってこの歌を締めくくります。「都に上る歌」の中ではしばしば、「平和」について歌われることがあります。既に、第120編や第122編でも平和について祈り、歌われてきました。何よりも、神様と人間との平和、また神様との平安ということですが、同時に、国の中では人々がなお争い続けているという現実がありました。今日のイスラエルにおいてもそうですし、2月に起こったウクライナでの戦争をはじめ、世界の至る所で争いがあり、暴力があり、人間のいのちが軽んじられているという現実があります。カルヴァンが言いましたように、快適さや安易さだけが求められている社会にあって、隣人が抱える痛みに寄り添い、それを共に担おうという愛がこの地上を覆っているようにはどうしても見えないのです。

 それゆえに、私どもの思いもまた詩編の詩人が祈った「イスラエルの上に平和がありますように」という祈りに続いて、「この世界の上に平和がありますように」と祈りを合わせます。様々な出来事によって揺れ動く世界です。何よりも人間の罪によって激しく揺れ動き、まことの安らぎを失ってしまったこの世にあって、しかし、エルサレムを囲む山々のように、神様は今も私どもを取り囲むようにして、罪と滅びから守ってくださいます。そのような確かな場所、憩いを与えてくださる場所こそがキリストの教会です。平和を願う祈りもまた、キリスの十字架のゆえに、確かなものとされました。十字架による主の赦しはとこしえからとこしえまで変わることはないからです。

 今日から待降節、アドヴェントが始まりました。預言者イザヤが告げましたように、「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」(イザヤ9:5)と唱えられたお方こそイエス・キリストであり、またクリスマスの夜、天使たちが「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)と賛美したように、キリストによってこの世界に平和がもたらされました。それは人々が「ただ神にのみ栄光!」と言って、神様を賛美して生きる者へと変えられていくためです。どんな苦しみがあっても、神様は私を見捨てることはないということ。どんなことがあっても、キリストのゆえに与えられている平和は失われないということ。このことが私どもに希望を与えてくれます。イエス・キリストを与えてくださるほどに、私どもを愛してくださる神様を信頼し、神様の御声に応え、神様に従う歩みをここから始めていくのです。お祈りをいたします。

 主よ、あなたが私どもの信仰を支え、守ってくださらなければ、すぐに揺らいでしまいます。あなたへの信頼もまた、先立って与えられている恵みによることを心から感謝いたします。私たちの外にも内にも、神様との平和を脅かす力が存在しますが、あなたの助けの中で、一筋の心であなたの前に立ち続けることができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。