2022年10月23日「神はあなたの味方」

問い合わせ

日本キリスト改革派 千里山教会のホームページへ戻る

神はあなたの味方

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 124編1節~8節

音声ファイル

聖書の言葉

1【都に上る歌。ダビデの詩。】イスラエルよ、言え。「主がわたしたちの味方でなかったなら2主がわたしたちの味方でなかったなら/わたしたちに逆らう者が立ったとき3そのとき、わたしたちは生きながら/敵意の炎に呑み込まれていたであろう。4そのとき、大水がわたしたちを押し流し/激流がわたしたちを越えて行ったであろう。5そのとき、わたしたちを越えて行ったであろう/驕り高ぶる大水が。」6主をたたえよ。主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。7仕掛けられた網から逃れる鳥のように/わたしたちの魂は逃れ出た。網は破られ、わたしたちは逃れ出た。8わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。詩編 124編1節~8節

メッセージ

 夕礼拝では詩編第120編から始まる、「都に上る歌」と呼ばれる御言葉に共に耳を傾けています。その5番目にあたるのが今共に聞きました詩編第124編の御言葉です。詩人が歌の最初で繰り返している言葉があります。「主がわたしの味方でなかったなら」という言葉です。味方であるというのは、主が私の側にいることであり、主が私のためにいてくださるということでもあります。

 2節後半から、もし主が私の味方でなかったならば、自分はどうなっていたかを語っていくわけですが、このことはこの歌を歌った詩人だけではなく、私ども一人一人の人生にも当てはめて考えるべきことです。1節で「イスラエルよ、言え」という言葉がありました。礼拝に仕える祭司が、神殿に集う会衆たちに「あなたがたはこう言うように」「あなたがたはこのような言葉をもって、神の恵みを思い起こし、賛美するように」、そう言って呼び掛けているのです。この詩編が歌われた具体的な時代背景はよく分からないと言われています。どういう出来事を思い起こして、「あの時、もし神が味方でいてくださらなければ」と歌っているのかどうか、詳しいことは分からないのです。しかし、それはどの時代、どの状況に置かれている人々においても同じようなことが求められているどうことでしょう。私ども一人一人もまた「もし神がわたしの味方でなかった」「もし神が私たち教会の味方でなかったら」ということをよく考えるべきなのです。1節の「言え」という言葉は、「思う」とか「思い巡らす」という意味でもあります。礼拝に集う私どもに神様は呼び掛けておられるのです。あなたがたは思い巡らすように。もしわたしがあなたの味方でなかったらどうなっていたのかを!そして、ここで改めて、今も神が私どもの味方でいてくださり、私どもの側にいてくださる幸いを確認するのです。

 神が私の味方でなかったら、私はどうなっていたのか。詩人はこの歌の中で、「そのとき」という言葉を何度も用いて、色んな人生の場面を思い起こしています。2節以下では、私たちに逆らう者が立ち上がった時、私はどうなってしまったであろうかと言っています。敵意の炎に呑み込まれるに違いないというのです。これは敵との戦い、戦争のことを示す言葉でしょう。4〜5節には「大水」「激流」という言葉があります。大雨が降る季節、川の水が激流となり町を襲います。土砂を含んだその大水は建物や町を一瞬で呑み込んでしまう破壊的な力を持っています。大水を前にして人は絶望する他ないのです。そして、聖書において大水というのは、神の裁きを表すものとして語られることがしばしばありました。創世記に記されているノアの洪水の物語などはよく知られている物語です。主イエスも山上の説教の中で砂の家に家を建てた人と岩の上に家を建てた人の譬え話をなさいました。あなたは何を真実の土台として生きているのかを問われたのです。砂の上に家を建てた人は、その家がたとえ立派なものだったとしても、大雨に象徴される終わりの日の裁きに耐えられない。ひどい倒れ方をして終わってしまうだけだというのです。神が味方でなかったならなら、私の人生もそうなっていたと旧約の詩人も歌うのです。また、6〜7節では、自分に敵対する力のことを猛獣や小鳥を捕まえる網や罠にたとえて語っています。もし、神が私の味方でなかったらならば、獣に食い尽くされ、猟師が仕掛けた網に掛かった鳥も捕らえられていのちを失っていたというのです。

 しかし、神が私の味方でいてくださったので、敵の餌食にならなかったというのです。小鳥を捕まえる罠の網に捕られ、絶望の中にあったのだけれども、「神が味方でいてくださったから網から逃れることができた」「私は救われた」「主をたたえよ」と言って、神に感謝をささげています。神の民イスラエルは、歴史の事実として敵国の力に呑み込まれたことが何度もありました。アッシリアやバビロン、ペルシアといった国々の力を前にして、自分たちのいのちを呑み込み、滅ぼし尽くす力に何度も襲われたのです。このことの背景にはイスラエルの民自身の問題もありました。彼らの罪の問題です。まことの神を神とせず、偶像を拝んだり、権力者たちは自らの力に酔いしれ、貧しさや弱さの中にある人々を顧みることはありませんでした。預言者をとおして彼らの罪を指摘し、神に立ち帰るように何度警告しても、神の言葉に耳を傾けようとしませんでした。敵の力に呑み込まれたのは、イスラエルが自ら招いた滅びでもあったのです。ところが結果として、敵の国は今はもう姿を消したのです。一時期は圧倒的な力を誇っていたかもしれませんが、その力は永遠のものではなかったのです。結局は儚く消えて言ったのです。一方で、力が一番弱く、また罪深い存在であったイスラエルの民が様々な苦難を経験しながらも、歴史の中で生き残ったのです。なぜあなたがたは今もここにいるのか?と問われたら、それは、神様が味方でいてくださったからとしか言いようがないのです。弱く、罪深い私たちのために、神様がずっと側にいてくれて、助けてくださったからとしか言いようがないのです。でもそれがイスラエルの真実であり、ここにいる私どもの真実でもあります。

 2節に「逆らう者」という言葉が出てきますが、これはもっと単純な言葉で「人間」という意味の言葉です。ヘブライ語で言えば、「アダム」という言葉なのです。一人の人間というよりも、すべての人間を指す言葉でもあります。私たちに逆らう者の力がどれほど強く大きなものであったとしても、所詮、それは人間の力に過ぎないのだということをここで言いたいのです。私たちを滅ぼそうとする人間の力、様々な敵の力があることは事実ですし、それによって苦しめられることがたくさんあります。しかし、そのような人間な力から私どもを救い出す神の力というのは比べ物にならないほど強く、確かなものなのです。

 これと関連して他の詩編の中に次のような御言葉があります。2つほど紹介します。

 「神を呼べば、敵は必ず退き/神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう。」(詩編56:10~12)

 「苦難のはざまから主を呼び求めると/主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。主はわたしの味方、助けとなって/わたしを憎む者らを支配させてくださる。人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。」(詩編118:5~9)

 主が私の味方でいてくださるということ。ここに私どもの救いがあります。

 詩編第124編の詩人は歌の最後8節で、神が私の味方でいてくださるということについて、このように信仰を言い表しています。「わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。」敵の力、罪の力に呑み込まれ、もう絶望だという時に神が助けてくださいました。自らの無力さを覚える時にも、この世界と私たちをお造りになった全能で力ある神は私どもを滅びから救ってくださったと、神をほめたたえつつ、信仰の喜びを言い表しています。救いは私たち人間の中にあるのではなく、ただ神様の力によるのです。天地をお造りになった神様こそが私どもの救いの源であるということをここで告白し、確認しています。私どもをお造りになり、いのちを与えてくださった神様は、今も生きて働いていてくださる方です。初めから終わりまで私どもの歩みに責任を追い、守り導いてくださいます。私たちの存在を脅かす力があるならば、神はそれと戦ってくださり、勝利を収め、救いへと導いてくださいます。

 「わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。」「御名」というのは、神様のお名前のことですが、同時にそれは神様の存在そのものを意味します。そして、私どもにとって、神様が側におられる、神様は私の味方だと強く実感できる時はどのような時であるかということです。先程、詩編第56編と第118編の御言葉を紹介しました。第124編と同じように、「神はわたしの味方」というのですが、それはいずれも、苦難の中から神の御名を呼ぶ時に、つまり神に祈る時に、神は私の味方であるということを知ったというのです。「神を呼べば、敵は必ず退き/神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。」(詩編56:10)「苦難のはざまから主を呼び求めると/主は答えてわたしを解き放たれた。主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。」(詩編118:5~6)私どもは御名を呼びならが、助けを求めます。その祈りに答えてくださり、相応しい助けを与えてくださるのです。

 私どもにどのような助けと救いを与えてくださるのか。それは時代や状況によって様々ですし、もしかしたら自分が願ったような仕方とは別の仕方で助けを与えてくださるかもしれません。しかし、「主の御名」ということに注目する時に、それは天地をお造りになった神であると同時に、罪と死から私どもを救い出してくださるためにこの世界に来てくださったイエス・キリストの御名を思い起こさずにはおれないのです。私どもにとって、救いとは何よりも罪からの救いであり、そのために天地をお造りになった父なる神様は御子イエス・キリストを与えてくださったのです。それは、「主よ、憐れんでください」「私の罪を赦してください」と祈りに答えてくださった、その答えとしてイエス・キリストが与えられたということでもあります。

 しかし、本当のことを言うと、罪の中にある人間というのは、もう主の御名を呼ぶことさえもできなくなっているのです。主の御名を呼ぶことさえできれば、もうそのこと自体が救いであるとさえ言えるのです。「わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある」という信仰告白自体がもう既にその人を救っているのです。しかし、罪の力に捕らわれる時、それができなくなってしまっているのです。嘆きたいこと、叫びたいことはたくさんあるのですが、その思いが神様のほうに向かないのです。自分の心の中にとぐろを巻くようにしてあるだけなのです。一人でつぶやいているだけで、ただの独り言になってしまっているのです。その言葉の先に神様は見えていないのです。

 「わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。」「わたしたちの助けは/十字架で死んで復活してくださった主イエス・キリストの御名にある。」ここに私どもの信仰告白があり、救いがあります。私たち改革派教会は宗教改革の伝統に立つ教会です。次週は私たちもそうですけれども、多くの教会で宗教改革を記念する礼拝がささげられることでしょう。16世紀ドイツのマルティン・ルターとともに活躍したのが、スイスのジャン・カルヴァンという人です。カルヴァンもまたルター同様、礼拝の改革に心を注いだ人ですが、その中でカルヴァンはこの詩編第124編8節の御言葉を大切にしました。特に礼拝の最初に司式者が「招きの言葉」を朗読しますが、カルヴァンは最初にこの詩編の御言葉をもって礼拝を始めることを勧めたのです。礼拝をささげるために教会に集っている私どもはいかなる存在なのか。そのことをよく言い表しているのがこの詩編の言葉だというのです。「わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にある。」

 礼拝の中には、御言葉の朗読、説教をはじめ、賛美や祈り、聖餐や献げ物など様々な要素があります。礼拝の中で色んなことをするのです。しかし、色んなことをしているからと言って、それぞれがまったく別のことをしているわけではないと思うのです。今日の詩編の御言葉で言うならば、礼拝というのは、私たちの味方でいてくださる神様がここにおられるということを、教会の仲間たちとともに確認し、喜ぶことです。

 最初申しましたように、1節に、「イスラエルよ、言え」という祭司の言葉がありました。会衆に「あなたたちはこう言いなさい」というのです。そして、「イスラエルよ、言え」というのは、「イスラエルよ、思い巡らせなさい」という意味でもあると申しました。「もし神があなたがたの味方でなかったなら」ということを思いなさいというのです。しかし、本当はそんなこと思いたくないのです。神がおられなかったなら、神が味方でいてくださらなかったなら、私も教会もどうなっていないのか。考えるだけで恐ろしいからです。でも恐ろしいと思えるのは、そのような恐ろしい最悪の事態から神によって、主イエスによって助け出されて、今の自分があるということをよく知っているからです。

 神が味方でいてくださらなけれども、そもそも私どもはこの世界に存在しませんでした。いのちが与えられていても、イエス・キリストと出会うこともないのですから、罪から救われることもありません。希望を見出すことができず、見出そうとしも結局それは自分や人間の力に頼る他ないということにもなります。さらには、自分一人のことだけではなく、愛する夫や妻、子どもたち、親たちとの出会いや生活もなかったでしょう。いつもこうして教会の仲間たちと共にこうして礼拝するということも、神が私の味方でいてくださらなければ、絶対に起こり得なかったことです。

 しかし、神が私どもの味方でいてくださるのです。信仰の歩み、教会の歩みの中で苦難を経験し、救いの恵みにあずかりながらも罪を重ねてしまう愚かな私どもですが、神様はどのような時も私どもの神でいてくださいます。神が私どもの味方であるということはそういうことです。どれだけ私どもが不信仰であったとしても、神様は私どもを見捨てたり、敵になることはないのです。敵ではなくて、私どもの味方として、私どもを苦しめるあらゆる力と今も戦ってくださるのです。わたしのもとに立ち帰るように招いてくださるのです。

 そのような力ある神が私どもの神でいてくださるということを、礼拝の中で確かに知るのです。だから、「主がわたしたちの味方でなかったなら」という詩編の言葉を怖がるような思いで口にするのではなく、むしろ救われた喜びをもって神に感謝をささげ、賛美の歌を共に歌います。主は私どもの味方です。わたしたちの助けは/天地を造られた主の御名にあるのです。お祈りをいたします。

 天地をお造りになり、私どもを罪から救うために御子をお遣わしくださった父なる神様、私どもはもう「神が味方でなかったならば」などという恐ろしいことを考えなくてもよくなりました。キリストをお与えくださるほどに、主よ、あなたが私どもの味方でいてくださり、いつも側にて、私どもの歩みを助け導いてくださるからです。それゆえに、私たち教会の歩みがただ神の御名をたたえ、イエス・キリストの名によって祈る群れとして立ち続けることができますように。そして、主の御名を宣べ伝え、神が共にいてくださる平安の中に招くことができますように。主の御名によって祈ります。アーメン。