2022年06月12日「わたしを見守ってくださる神」

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わたしを見守ってくださる神

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 121編1節~8節

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聖書の言葉

1【都に上る歌。】目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。2わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。3どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。4見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。5主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。6昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。7主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。8あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。詩編 121編1節~8節

メッセージ

 第2主日の夕礼拝では、詩編の中の「都に上る歌」と呼ばれる御言葉を順に学んでいきます。詩編第120編から第134編までの御言葉です。本日は詩編第121編です。ジュネーブ詩編歌でもよく歌う賛美歌の一つですが、讃美歌301番の「山べにむかいてわれ 目をあぐ」という歌詞から始まる讃美歌もよく知られた讃美歌の一つではないでしょうか。

 「都に上る歌」「巡礼歌」と呼ばれる15の詩編はどれもそれほど長い歌ではありません。短いものです。それだけに覚えようと思えば、すぐにでも覚えることができるでありましょう。詩編第121編も全部で8節と短いものですが、その短い歌の中に、「助け」であるとか、「守る」、あるいは「見守る」という言葉がいくつも並べられているということに気付かされます。3節前半までには「助け」という言葉が3回、3節後半からは「守る」「見守る」という言葉が計6回記されています。詩編の言葉というのは、賛美の言葉であり、また祈りの言葉です。祈る時、どう祈ったらいいか分からないことが最初はあるかもしれません。主イエスが教えてくださった「主の祈り」や「詩編」の言葉や御言葉全体から祈りの言葉を見つけることもできるでしょう。信仰の先輩や親からも祈りを学ぶことができるでしょう。自分の祈りもそうですけれども、他の人の祈りに耳を傾ける時、教会学校の小さな子どもと一緒に祈る時、必ずと言っていいほど、「守ってください」というふうに祈ります。祈る時は、「神様、守ってください」と祈るように教えたわけではありませんが、大人が同じように祈っているのを聞いたのでしょう。あるいは、自分が一番祈りたいことは、「守ってください」ということに尽きるのだと、小さな子どもなりに考えたのかもしれません。そして、神の守りであったり、助けというのは、必ずしもキリスト者固有の祈りというのではなくて、神にいのちを与えられた人間すべてが心の奥深くに抱いている思いなのだと思います。自分自身のことはもちろんのこと、愛する者、この国、この世界のことをお守りください。

 1節をお読みします。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」「目を上げて」と初めにありますから、詩人は最初目を上げることができない状態、つまり、目を伏せていたということでしょう。どうしてかと言うと、目の前には「山々」があるからです。この詩人がこの時どういう状況に置かれていたのかについては色んな考え方があります。巡礼歌ですから、これから神の都エルサレムに向かおうとしている時、愛する家族に見送られる中で、この歌がうたわれたと考えることができます。また、3節から「私」から「第三者」に主語が変わっていることから、巡礼を終えた詩人が故郷に帰る際、祭司から祝福の言葉を与えられた。その時の言葉ではないかとも言われます。どちらにも取れると思います。しかし、エルサレムに行く道、エルサレムから故郷に帰る道、いずれの道も山々を避けて通ることはできないということです。山々を越えないと目的地に着くことはできません。それは単純に道が険しいということもありますが、人が少ない山道には獣が出ることがあります。強盗が出ることがあります。そのように、あらゆる危険があったのです。巡礼の旅は、神様を礼拝し、神様とお会いできる時ですから、もちろん大きな喜びに違いないのですが、そこに至る道のりにはいくつもの危険があり、不安が伴ったのです。だから、思わず目を伏せてしまうのです。しかし、この詩編の言葉と祈りをとおして励ましを与えられ、もう一度、厳しい現実を見つめ直します。不安を抱えながらも、神の助けと守りを信じ、歩み出して行くのです。

 また、「山々」というのは、必ずしもパレスチナに広がっている自然の山だけを意味しません。のちに山々というのは、私たちキリスト者が経験する「試練」を意味する言葉にもなりました。それぞれの歩みの中には、乗り越えなければいけない試練があります。あまりの高さにたじろいでしまうような試練にもぶつかります。また神様にお会いするために、主の日の礼拝に備えつつ、それぞれ遣わされたところで働きをしながら歩んでいるのですが、その途中で試練を経験します。今日、私どもはここから遣わされるのですが、その途中、思いがけない試練という山にぶつかることもあるでしょう。しかし、神の助けと守りを祈り願いつつ、確かな祝福を信じて歩んでいきます。

 詩編の詩人も私たちも神の助けを求めています。詩人はこう歌います。2節、「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。」これは詩人の信仰告白でもあります。何も今回の巡礼の旅だけでなくて、これまでも人生のあらゆる場面で試練を経験してきたのでしょう。「助けてください」と叫びたくなるような状況に陥ったのでしょう。そして、これまでも数々の山々を前にし、それらを乗り越えることができました。これらの経験をとおして、助けは天地を造られた神から来ることを知っていました。目の前にある山々をお造りになったのは神なのだから、助けもまた神から与えられるはずだ。天地をお造りになった神は、被造物をお造りになって、それで引きこもってしまうようなお方ではなく、今も生きて働く神。今も全世界を御手の中で治めておられる神。私どものいのち、人生の源であるお方。詩人はそう信じ、本当に助けられてきたのです。

 私どもの歩みをそれぞれに振り返ってみても、同じように言えるところがあると思います。試練という山に立ち向かう度に、神の助けを経験してきたのではないでしょうか。だから、今、まさに試練の中にいる。不安を抱えて、今から前に進んで行かなければいけないという人も、最後に祈り願うのは、これまで幾度も助けを与えてくださった神様です。助けが近くにないということほど、寂しいことはありません。まさに人生の危機です。自分は孤独だと言いながら、しかし、実際は多くの人たちと生活を共にしています。共に学び、共に仕事をしています。けれども、どんなにたくさんの人に囲まれていても、それらの人たちに助けを期待できない現実があるのだと思います。だから、結局は自分に頼るしかないということになってしまうのですが、試練の中で落ち込んでいる自分を助けるほど、私という人間は強くないということを知っています。 

 「助けがない!」という状況の中で、しかし、私どもキリスト者は下を向くのではなく、目を上げて山々を仰ぐことへと導かれます。山を越え、遥か高くにある天に思いを馳せながら、天地をお造りになった神に思いを向けることができるのです。「わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから!」山々を見ながら、不思議なことに、そこに天地を造られた神の御業を見ることができたのです。同じように、私どもも試練という山を見て不安になり、怯えるのですけれども、そこで神の助けを信じ、神に信頼する思いが与えられていきます。そして、信仰の旅路を歩んで行くのです。ある説教者が、「詩編の中の祈りというのは、私たちのために執り成す祈りである」と言っています。私はずっと、詩編の祈りを真似て、自分の祈りの言葉にすることばかり考えていたところがあるのですが、どうもそれだけではないのです。詩編の言葉自体が、私どものために執り成してくださるというのです。なぜなら、詩編は神の言葉だからです。「あなたの助けが主のもとから来ますように」と詩編の御言葉そのものが私のために執り成し、祈ってくれているのです。そして、それを本当に信じた時、神様が私どもを再び立ち上がらせてくださるのです。そこからまた新しい一歩を踏み出していくことができるのです。

 さて、次に3節以下の御言葉に目を留めます。この3節からは、先程少し申しましたように、主語が変わっています。おそらく、祭司、あるいは、詩人の父母だと思われます。自分のために祭司が祝福を告げていてくださいます。あるいは、両親が息子を送り出す際に神の守りがあるようにと祈ってくれています。3節、4節、「どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」「足」というのは、私たちを立たたせ、支えるものです。人生の歩みを可能にさせるものと言ってもいいでしょう。だから、足がぐらつくと人生はそこから崩れてしまいます。その足がよろめかないようにしてくださいと祈ります。

 また、「まどろむことなく、眠ることもない」という言葉ですが、これには異教の神であるバアルの神々のことが背景にあるのではないかと言われます。このバアルの神というのは、季節の変わり目に、つまり、冬になったら冬眠すると考えられていました。眠っては目を覚ますというサイクルのなか、いのちの再生を繰り返すのです。しかし、天地をお造りなった神は真実な方、永遠にして不変のお方です。そして眠ることなどなさらないのです。出エジプト記にこういう御言葉があります。「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。四百三十年を経たちょうどその日に、主の部隊は全軍、エジプトの国を出発した。その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために寝ずの番をされた。」(出エジプト12:40〜42)ここはイスラエルの民がエジプトを脱出したその日のことを記す場面です。神様は御自分の民のために夜通し見張りをしてくださるというのです。寝ずの番をしてくださるのです。今は冬だからとか、今は夜だからというのではなく、昼も夜も、御自分の民を愛するということにおいて何の変わりもないのです。神様はいつも私たちに心を留めておられますから、眠ることなどいたしません。まどろむこともないのです。うっかり見過ごしてしまうこともありません。神様は一瞬たりとも私どもから目を離すことはないのです。

 4節には「見よ、イスラエルを見守る方は」とありました。「イスラエル」というのは、神の民のことであり、今日では「キリスト教会」を意味する言葉でもあります。そうしますが、イスラエルを見守る方というのは、私たち教会を見守る方でもあるということです。神様は教会を見守ってくださるお方です。教会に生きる「私」という一人を守ってくださるお方です。御自分の教会のために、寝ずの番をしてくださるお方です。それほど教会という存在は、神様にとって大切なものであるということを心に留め、神様に感謝をささげます。また、教会に対する神の守りというまなざしでこの詩編を見るとき、神様はもちろんのこと、教会の仲間が私の祝福のために祈ってくれている姿をも思い浮かべることができます。祭司や両親が信仰の仲間や、我が子のために祈ったように、私自身もまた教会員によって祈られている存在であり、同時に教会員のために祈る働きに召されていることを覚えたいと思います。

 3〜6節の御言葉を丁寧に見ていきますと、「ない」とか「なく」といった、否定を意味する言葉が多く用いられていることに気付きます。「足がよろめかない」「まどろむことなく」「眠ることもない」「撃つことがなく」というふうに。それは詩人が抱く不安を神様が次々と倒していく様子を意味しています。詩人を襲う災いが一つ一つ否定されていく。それはこの詩編が何度も繰り返すように、神様が私どもの歩みを守ってくださるお方だからです。神様が片時も私どもから目を離さず、私どもの足取りを確かなものとしてくださいます。たとえ、倒れてしまった、躓いてしまったと思うことがあっても、それは私どもの思いであって、神様は私どもを見捨ててはおられないのです。

 5節をお読みします。「主はあなたを見守る方/あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」「守る」「見守る」というのは、「注意深く」とか「大切に」という意味があります。他にも保護するとか保持するという意味があります。私たちの助けは天地を造られた神から来ると、2節で歌われていました。ただ、今もそうですが、神様のお姿を目で見ることはできません。目を上げて、天を仰ぐというのですから、神様は遥か遠いところにおられるのではと思う人もいるでしょう。しかし、神は遠い所におられるお方ではなく、近くにおられるお方です。5節の「右にいます方」というのは、あなたの側にという意味です。右手が届くくらいの、すぐ側に神はおられるという意味です。その神があなたの信仰の旅路を守ってくださいます。

 6節では「昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。」とありました。昼の暑さ、太陽の強烈な日差し、夜の寒さからもあなたを守ってくださいます。月、あるいは、月の光に照らされるというのは、どこか孤独であるという印象を受けますが、月というのは昔、不気味な存在、魔物のように思われていたところがありました。月の光を浴びると病や災いに襲われると言われていたのです。どこか迷信じみたところがありますが、それだけに人々を不安にさせる力からも守っていてくださいます。そして、7節でははっきりとこのように歌います。「主がすべての災いを遠ざけて/あなたを見守り/あなたの魂を見守ってくださるように。」あの災い、この災いという限られたものではなくて、「すべての災い」から遠ざけ、守ってくださるというのです。また、「あなたの魂」というのは、あなたの存在の中心・根源にあるものということです。あなたの存在すべてということです。そして、7節の語尾が「見守ってくださるように」と祈りの形になっていますが、ここは願いというよりも、「見守ってくださる!」という神様の確かな約束として理解したほうがよいでしょう。祈りが聞かれなかったら、神様に守られないかもしれないというのではなくて、神様というお方はすべての災いを遠ざけ、私どもの魂、いのち、全存在を守ってくださるお方です。この事実が揺らぐことはありません。

 そして、最後の8節でこのように歌います。「あなたの出で立つのも帰るのも/主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」巡礼の旅における行きも帰りも、主が見守ってくださいます。ここも祈りというよりは、主が守ってくださるという約束です。行きも帰りもということは、要するに、巡礼の旅全体のことです。また、巡礼の旅だけでなく、信仰の旅路全体、私どもの人生全体を神様が守ってくださるというのです。しかも、この時だけというのではなく、人生の旅路、どこにあっても神が近くにいて、今も、そしてとこしえに私どもを見守ってくださいます。この神の祝福を信じて、出発点に立ち、新しい歩みを踏み出していきます。

 私どもの人生というのは人それぞれ違っていますが、その中心には、この詩編が巡礼歌であるように、神礼拝が真ん中にあるのです。礼拝をとおして与えられる祝福の中に立ち、一週間という旅路を祝福の中、歩んでいきます。その間、神様は眠ることもまどろむこともなく、私どもの歩みを見守り続けてくださいます。そして、再び神様のもとに帰って行くのです。神様のもとから出発して、神様のもとに帰って行くこと、これが私どもキリスト者の歩みです。そして、私どもが立つべき祝福の原点とも言える場所がここにあります。目を上げて、神の助けと守りを確信する場所がここにあるのです。また、天地をお造りになった神は、イエス・キリストの父なる神でもあられます。主イエスは私どもの罪と死に勝利してくださいました。神様から私どもを引き離そうとする悪の力に打ち勝ってくださいました。それゆえに、試練の中でも、神の勝利を確信し、勇気をもって新しい歩みを始めることができます。神様の守りと祝福はそれほどに強いものなのです。お祈りをいたします。

 天地を造られた父なる神様、私たちはこれまで幾度もあなたから助けていただきました。これからの歩みにおいても、様々な出来事があると思いますが、あなたが私たちの神でいてくださり、それゆえに、試練の時に助けを与え、すべての歩みにおいても私どもの歩みを見守っていてくださることを信じます。私どもはすぐ色んなところに心が傾いてしまいますが、あなたは私どもをいつも愛のまなざしで見つめていてくださいます。あなたの守りの中で、信仰の歩みが最後までまっとうされますように。主の日の礼拝を中心に、私たち一人一人の歩み、教会全体の営みがこれからも守られますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。