2022年06月05日「若者は幻を見、老人は夢を見る」

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若者は幻を見、老人は夢を見る

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
使徒言行録 2章1節~21節

音声ファイル

聖書の言葉

1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」12人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。13しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。14すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。17『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。18わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。19上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。20主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。21主の名を呼び求める者は皆、救われる。』使徒言行録 2章1節~21節

メッセージ

 本日は聖霊降臨をお祝いするペンテコステ記念礼拝です。「キリスト教会の誕生日」とも呼ばれます。また、本日は第一主日ですので、礼拝の報告の際に6月のお誕生日の方を覚え、共に祈る時を持ちます。我が家も、私以外の3人は全員6月生まれでして、そういう意味でも、今月は誕生日のことをよく考える月にもなりました。誕生日というのは子どもにとって特別に嬉しい日だと思います。私に限って言えば、単純に好きな物を買ってもらえるからという理由がありましたが、大人になるとあまりそういうことは考えなくなりました。好きな物を手に入れるというよりも、神様によっていのちが与えられたことを感謝すると同時に、どうして神様はこの私にいのちをお与えになったのか。具体的にこのいのちをどのように用いていけばいいのか。そのようなことを、歳を重ねるごとによく考えるようになりました。いや、本当は誕生日の時だけでなく、いつもそのことを尋ね求めているようなところがあります。また親の立場になれば、子どもの誕生日を如何に盛大にするかということも大切なことかもしれませんが、神様がなぜこの子を私たちの家庭に与えてくださったのかということを、今一度、真剣に問うことにもなるでしょう。そのように自分の誕生日も人の誕生日も、単純にただ嬉しいというだけでなく、考えれば考えるほど色んな思いが湧き上がってくるものです。

 まして、「教会の誕生日」について思いを巡らす時、いったいどれだけの恵みをそこで見出すことができるのでしょうか。2千年前に、エルサレムの地で起こったペンテコステの出来事を思い起こし、その恵みの中にもう一度立ち戻って行くこと。そのことが同時に、教会の歩みを整え、教会に連なる私ども一人一人の歩みをも確かな仕方で導いてくれることでしょう。キリスト教会がどのようにして生まれたのか。それは五旬祭と呼ばれる日に、神様が約束してくださった聖霊が共に集まっていた一人一人に与えられたことによって生まれました。決して、たくさん人が集まっていたからとか、熱心に祈っていたからというのではなく、神のいのちの息である聖霊が注がれたことによって、教会の歩みは始まりました。つまり、教会というのは人間の業や力によるのではなく、神様の御業によって始められたということです。そして、教会の中に神のいのちである聖霊が息づいているからこそ、私どもが教会に生き始めると、神のいのちそのものに触れることができるのです。

 「ペンテコステ」という言葉は、教会に来たことのない方にはまったく聞きなれない言葉ですが、この「ペンテコステ」という言葉はギリシア語で「50番目」を表す言葉です。主イエスが十字架につき、復活なさったイースターの日から数えて50日目に起こったのがペンテコステの出来事でした。当時の習慣に倣うならば、過越祭と呼ばれる日から50日目ということです。主イエスが天に昇られてから10日後のことでもあります。この日は、「五旬祭」と言って、ユダヤ人にとって三大祭の一つでした。そのため、ユダヤだけでなく、方々の国々から離散したユダヤ人たちが巡礼のためにエルサレムに集まっていました。また、五旬祭にはいくつか意味があるのですが、その一つは、小麦を収穫して、神に感謝をささげる祭りであったということです。そうしますと、主イエス・キリストの十字架と復活によって鎌が入れられ、その実り収穫し、感謝をささげる日がペンテコステと言うこともできるでしょう。主の十字架と復活によって、聖霊が注がれ、教会が生まれました。そして、伝道の実りがさらに与えられます。第2章41節によると、その日に三千人ほどが洗礼を受け、教会の仲間に加わったというのです。そして、3千人で終わったというのではなく、今日に至るまで、ここにいる私どもを含め、多くの者が救いの恵みにあずかり、教会に生きる者とされました。これからも聖霊は教会に豊かな実りをもたらしてくれることでしょう。

 さて、このペンテコステの日の様子について、1〜4節において、次のように記されていました。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」一同が一つになって集まっているというのですが、この時は十二人の使徒たちではありません。他にも主イエスについて来ていた弟子たちや女性たちがいますから、だいたい計算すると第1章15節に記されているように「120人ほど」いたのではないかと言われています。それだけ大きな家があったのかどうか、それとも神殿の境内に集まっていたのかは分かりません。しかし、そのように共に集まっているところに、おそらくそこで祈りながら聖霊を待っていたのでしょう。そこに突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえたというのです。「激しい風」であるとか、このあとに出て来る「炎」というのは、神様がここにおられるという、いわば、神の臨在を意味する言葉です。神は生きておられる。神はここに確かにおられる。この恵みの事実が最初から教会にはありました。だからこそ、私どもはここで慰められ、立ち上がり、福音を宣べ伝える者とされていきます。そのような信仰の土台、伝道の土台が教会には初めからあったのです。神が生きておられるという確かな現実です。

 教会というものは、人間の業ではなく神様の御業によって生まれたと最初に申しました。2節にも「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」とありましたように、「突然」とか「天から」というのは、「神様から」ということです。激しい風が吹いているような音が家中に響いている。それは神様がなさったことだというのです。私たち人間が起こした出来事ではありません。ですから、このあと誕生するキリスト教会も表面的には、人間的な集まり・組織ですけれども本当はそうではありません。神が私どもを集めてくださったのです。また、教会による伝道も、伝道するのは私たち人間であることに違いないのですが、すべては聖霊が与えられ、聖霊に満たされるところで始まる働きだということです。

 そして、ペンテコステの特徴の一つは、3節にありますように、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」ということです。ある特定の人たちだけとか、十二人の使徒たちだけというのではないのです。家に集まっていた一人一人に与えられた出来事であったということです。全員、一人一人が体験した出来事であったということです。聖霊が教会に降るというのは、教会を造り上げている一人一人の上に、教会員一人一人の上にということです。それは、皆が聖霊に満たされ、皆が福音伝道の働きに召されているということでもあります。一人一人に聖霊が与えられたのですから、傍観者は誰もいないということです。別に私が語らなくても他の誰かが語ってくれるからいいとか、私は伝道が苦手だから得意な人に任せておいて、私は違う奉仕をするというのでもないのです。そうではなくて、この私がどうしても語らなくてはいけないということです。私にも聖霊に満たされているのだから、その聖霊の力に信頼して、どうしても私が福音を語らなければいけないということです。もちろん、一人一人立場も賜物も違います。伝道の熱心があっても、イエス様のことを上手く伝えることができないという人もいるでしょう。でも、一人一人の上に聖霊がとどまったというのは、教会を今形づくっている一人一人を神様が重んじてくださっているということです。言葉や考え方、立場や置かれている場所など様々かもしれません。しかし、そこであなたにしかできない働きがあり、あなたにしかできない生き方があるということです。そのことに誠実に向き合っていくことです。そのことをとおして、教会員一人一人が遣わされている場所に、キリストの福音が着実に根付いていくのだというのです。

 この時、「炎のような舌」が現れたとありました。「舌」というのは、言葉を語る舌ということです。言葉を語る力を持つ舌ということです。ペンテコステの出来事をとおして最初に与えられた賜物、それは言葉の賜物です。言葉を語る賜物です。だから、4節にあるように、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。教会は誕生したその時から、福音の言葉を語るという明確な使命が与えられていたということです。しかも興味深いのは、「ほかの国々の言葉で」とあるように、色んな国の言葉でキリストの福音が語られていったということです。また8節では、「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」と人々が驚いていますように、当時世界中から集まってきた人たちの故郷の言葉がそこで語られたというのです。

 9節以下に、色々な国や地域の名前が並べられています。中近東の国々や、今で言うトルコのあたりを指す小アジアの国々、またアフリカの国々もあります。また当時世界の中心と呼ばれていたローマ、もちろんユダヤの国の人たちのことも記されています。要するに、当時の世界全体を表す地名であるということです。その世界に散らばっている人々に対して、ペンテコステの日、聖霊に満たされた者たちはそれぞれの国の言葉でキリストの福音を語り出したのです。このように聖霊によって誕生した教会は、生まれた時から「世界」に向けて伝道することを視野に入れていたと言ってもよいでしょう。また教会が語る証言・説教というものは、世界のあらゆる国々で語られることを目指していたのです。教会は小さな群れであるかもしれませんが、だからと言って、小さく閉ざされた集まりなのではなく、神様から与えられた使命と幻に生きる器の大きな群れ、それがキリストの教会なのです。そしてこのことは既に主イエスが弟子たちに約束しておられたことでした。先週の箇所にもなりますが、第1章8節の御言葉です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

 ペンテコステの出来事が起こった時、エルサレムに集まっていた人々は、キリストの福音を自分とまったく関係がない言葉として聞いたのではありませんでした。自分が生まれた故郷の言葉で、喜びの知らせであるキリストの福音を聞いたのです。それはただ母国語として、福音のメッセージを聞いたということにとどまらないでしょう。自分の生活や生き方に大きな変革をもたらす言葉として聞いたということでしょう。ただ一方で、13節にあるように、聖霊に満たされた人々が語る言葉を聞いてあざける人もいたということが分かります。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざけったのです。

 そのあざけりに対して、弁明する使徒の言葉が語られていきます。弁明というよりも「説教」と言ったほうが良いかもしれません。ペンテコステによって誕生した教会で、最初に語られた記念すべき説教でもあるとも言えるのです。聖霊を注がれて誕生した教会は、いのちを与えられた最初の日に、神の言葉を語り始めたのです。聖霊が使徒たちに行わせた最初のことは説教するということでした。説教の最初の言葉が14節以下に記されています。本日は21節までをお読みしましたが、本当は36節まで続く長いものです。その説教の主な内容はキリストの十字架と復活についてです。

 14節に「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」とあります。この説教は「ペトロ」という名前がありますから、ペトロ一人で語っているという印象を持ちます。実際に説教を語ったのはペトロなのでしょう。しかし、ペトロは「十一人と共に立って」という言葉を記すのです。それは何を意味するのかと言うと、説教というのは、説教者一人の言葉ではないということです。実際は、説教者が先頭に立って、祈りつつ準備をし、一人説教壇で語っているのですけれども、しかし説教というのは本来、ペトロが十一人と共に立ってとあるように、教会の言葉であるということです。教会が生まれるというのは、教会の言葉が生まれるということです。御言葉を語ってくださるお方は神様ですが、その教会に生きている一人一人の現実、生活、様々な背景がそこにあるからこそ、御言葉が立ち上がってくるのです。一人一人が「自分の故郷」とも言える生活の場を持って生きているということ。その現実があるからこそ、御言葉が生きたものとして、私どもに語り掛けられている神の言葉として響いてくるのです。

 ペトロ、そして、十一人の使徒たちが共に語った説教の最初で語ったことは、この日に起こったこと、つまり、ペンテコステに何が起こったのかということです。そのことを先立って朗読していただきました旧約聖書・ヨエル書第3章の御言に基づいて語るのです。「基づいて」というよりも、ヨエル書の御言葉が、今日この日に「成就」したのだということです。

 その前に、15節で「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません」と弁明しています。あなたがたは「酒に酔っている」と言うけれども、そもそも、朝9時という時間は、祈りの時間なのであって、お酒を飲んで酔っ払っている人などいませんよというのです。そして、直接的には言っていませんけれども、もし自分たちが酔っているとしたら、それはお酒ではなく、聖霊に酔っている。聖霊に満たされて、神の偉大な御業を語っているのだということです。考えてみますと、ペトロも他の使徒たちもつい一ヶ月前には、皆の前で、公然とイエス・キリストについて語ることができない人たちでした。ペトロに関しては、キリストを証しするどころか、「キリストなど知らない」と言って、主イエスとの関係を完全に否んだのです。そのペトロや使徒たちが、自分の罪のために十字架に死んでくださり、そして復活してくださった主イエスと真実な仕方でお会いすることができました。ヨハネによる福音書第20章に記されていますように、復活の主から「聖霊を受けなさい」と言われ、もう一度いのちの息を吹き込んでくださり、新しい人間として創造してくださったのです。もはや臆病な人間ではなく、大胆にキリストを証し、御言葉を語ることができる賜物が与えられたのです。

 ペトロはヨエル書の御言葉を語りながら、そこで伝えたかったことはどんなことでしょうか。それはペンテコステの出来事というのは、自分たち使徒だけではなく、すべての人に聖霊が注がれたということです。息子も娘も、僕もはしためも、すべての人に神の霊が注がれるということです。性別も年齢も身分も関係ないのです。神のものとされている人たち、つまり、教会員一人一人に聖霊が注がれているということです。そして、聖霊に満たされている者は皆、預言をするのです。預言するというのは、説教をするということです。御言葉を語る者、キリストの証人となるということです。1〜4節で語られていたこととも重なり合う御言葉です。

 そして、ペトロがもう一つヨエルの御言葉をとおして伝えようとしていることは、「終わりの時」にという言葉が17節にあるように、新しい時代がここから始まるということです。終わりの時というのは、もう今日で終わりというのではなく、終わりに向かう日々がここから始まるということです。聖霊の時代が始まるというのは、終末を目指す歩みがここから始まるのです。その終わりについて、20節では「主の偉大な輝かしい日」と呼んでいます。主が天に昇られた時にも、二人の天使が現れ、終わりの日に主イエスが再びこの世界に来てくださることを約束してくださいました。だから、終わりの日が来るまでに、私どもは折が良くても悪くても、望みをもって、忍耐をして御言葉を宣べ伝えていくのです。

 21節に「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」とありました。「主」というのは、イエス・キリストのことです。「イエス・キリストこそ『私の主』であり、『私の救い主』である」と信仰を言い表す者が一人でも多く与えられることを願いながら、福音伝道の業を教会が、そして、私ども一人一人が喜んで担っていくのです。次の第3章を見ると、ペトロが足の不自由な男に向かってこのようなことを言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒3:6)イエス・キリストの名こそ、イエス・キリストの存在こそ、あなたが生きていく上で本当に必要なもの。あなたはまだ気付いていないかもしれない。金や銀のほうが大切だと思っているかもしれない。けれども、あなたを本当に立ち上がらせ、いのちの道に導かれるのはイエス・キリストである。私もまたイエス・キリストの名によって、罪と滅びの中から立ち上がることができた人間。あなたもまたイエス・キリストを救い主として受け入れ、神のものとされた人生を歩みなさい!

 終わりの時に向かって歩むということ。それは一人一人の場合に当てはめるならば、歳を重ねることであり、死に向かう歩みでもあるということです。そして、17節で「若者は幻を見、老人は夢を見る」という御言葉がありましたように、死を前にした老人も夢を見ることができるというのです。周りから、このようなことを言われることもあるかもしれません。もう歳を重ねて、夢を見たところで何ができると言うのか。夢を見るのは自由だけれども、実現することなどできないではないか。おとなしく現実を受け入れたほうがいいと。しかし、預言者ヨエルは幻を語ります。夢を語ります。「幻」と「夢」というのは、字は違いますが、意味としては基本的には同じです。幻に比べ、夢は儚く消えていくとか、若い時は偉大な夢を持つけれども、老人になると儚い夢しか見ることができないということではありません。「幻滅」「幻想」という言葉もあるくらいです。私どもは誰もが幻を見、夢を見ます。ただ、歳を重ねれば重ねるほど幻や夢を見ることは少なくなるということは確かにあるのではないでしょうか。どうしてでしょうか。それは、この世の現実の厳しさを嫌というほど前にするからではないでしょうか。あまりの厳しさに幻も夢も儚く消え去るという経験を年齢の数に比例して経験しているということもあるでしょう。だから、本当は歳を重ね、老いたところで新たな夢を見ることなど馬鹿げていると思えてしまうのです。たとえ、夢を見ると言っても、自分がやり残したことで、やれることをやって終わるだけなのです。それは結局、最後の最後まで自分で自分を満足させようとしているだけだと言うことができるのです。このことは年老いた者だけではありません。若者にもおいても同じように言えることです。

 しかし、聖書が語る幻というのは、私たち人間の内側から生まれるものではないということです。神様が与えてくださるものだということです。御言葉が語られ、神の霊が注がれる時、私どもは神の幻や夢というものを見ることができます。神が与える幻は、厳しい現実にも立ち向かうことができます。だから儚く消えることはありません。幻は英語で「ヴィジョン」と言いますが、これは「見る」という意味です。厳しい現実の中でも、神様が与えてくださる幻を見ることができるのです。この神の幻は人間の考えや思いといったものを遥かに超えていきます。神様は私どもが老いていく歩み、個人の終わりである死が近づいてくるその生活の中においても、幻や夢を見させてくださいます。悪夢ではありません。良い夢を見させてくださるのです。生きている時も死ぬ時も、私どもに真実な慰めと喜び、そして、平安を与えてくれる幻であり夢なのです。

 聖霊の働きのもとにある教会に生きることをとおして、若者や老人が神から与えられた幻や夢を見ることができる、そのような場所として、私たち教会が立ち続けていくこと。それが神様の願いでもあります。いや既にあなたがたは聖霊によって誕生した教会に生きているではないか。神が与えてくださった信仰の幻の中を、確かな仕方で一歩一歩あゆんでいるではないか。そう言って、いつも私どもを励ましてくださいます。このように共に集い、共に教会で礼拝をささげることをとおして、聖霊が働いていることを知り、主イエスがここにおられること、神が今も生きておられることを知るのです。神のいのちが息づいているこの場所で、神のいのちそのものに共に触れ、神のいのちそのものを共に味わいます。

 ペトロが語った説教を聞いた人々は心を打たれ、神の御前に悔い改め、洗礼を受け、罪を赦していただきました。洗礼を受け、教会の仲間に加わった者が3千人もいたというのです。そして、彼らもまた賜物として聖霊を与えていただいたということが、第2章37節以下に記されています。42節を見ますと、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあるように、生まれたばかりの教会が大切にしていたことが記されています。御言葉に聞き、共に主の交わりに生き、聖餐の恵みにあずかり、そして祈ることです。つまり、共に集って礼拝をささげるということです。このことは、ペンテコステの出来事から2千年経った今でも、教会が大切にしていることでもあります。形だけを真似ているのではありません。なぜ今も大切にするのか。それはここで神が生きておられることを知ることができるからです。それだけでなく、神様が私ども一人一人にいのちを与えてくださったことの意味、そして、神様から与えられている使命を聖霊なる神様が私どもに教えてくださるからです。だから軽んじることなど決してできないのです。今から共に祝う聖餐もまた、「イエス・キリストを主」と信じる者たちが、聖霊の働きの中で、昔から今日に至るまであずかり続けてきたものです。救いの恵みを共に味わうとともに、献身の思いを新たにし、神様がお一人お一人に、そして教会に与えてくださっている尊い使命に向かって歩み出して行くのです。お祈りをいたします。

 聖霊なる御神、あなたのお働きの中で教会の歩みがここまで守り導かれ感謝いたします。厳しい現実の中にあって、私たちの目では見ることのできない信仰の幻を、聖霊なる神様がいつもここで私どもに示してくださり、生きる勇気と喜びを与えてくださいます。私どもをこれからも豊かに用いてくださり、「イエスを主」と信じる仲間を教会に加えてくださいますように。私ども一人一人に聖霊が与えられていますから、自分に与えられている働き、私たち千里山教会に与えられている働きをいつも見つめ、祈り求めながら神様の御業に仕えていくことができるようにしてください。そして、あなたの使命に生きるところに、ますます信仰の喜びを増し加えてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。