2022年05月08日「平和について語ろう」

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平和について語ろう

日付
日曜夕方の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 120編1節~7節

音声ファイル

聖書の言葉

1【都に上る歌。】苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。2「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」3主はお前に何を与え/お前に何を加えられるであろうか/欺いて語る舌よ4勇士の放つ鋭い矢よ/えにしだの炭火を付けた矢よ。5わたしは不幸なことだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは6平和を憎む者と共に/わたしの魂が久しくそこに住むとは。7平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。詩編 120編1節~7節

メッセージ

 今月から第2主日も夕礼拝を再開することとなりました。夕礼拝では、基本的に旧約聖書から連続講解説教として御言葉を取り次ぎたいと願います。第4主日はめぐみキリスト伝道所の方との合同礼拝という意味合いもあると思いますので、それぞれ別のところから順に御言葉に聞くこととします。

 今、共に聞きましたのは詩編第120編の御言葉です。詩編第1編から始めてもいいのですが、回数の問題もありますので、今回は第120編から第134編という区切りの中で詩編の御言葉に耳を傾けます。しかし、なぜ第120編からなのでしょうか。何も理由がないわけではありません。第120編から第134編まで、それぞれ最初の1節を見ますと、小さな文字で「都に上る歌」と記されています。「宮詣での歌」と呼ばれることもあります。直訳すると「上る歌」です。どこに上っていくのか。それが都エルサレムであり、エルサレムにある神殿を目指して上っていくのです。昔、都から遠い場所に住むイスラエルの人たちは、祭りの季節になりますと、親戚や村の人たちと一緒に、聖地エルサレムに巡礼の旅をしました。「祭り」と言っても、食べて飲んで、踊ってということではなくて、一番の目的は神を礼拝し、神とお会いすることです。神様が私たちにしてくださった素晴らしい御業を思い起こし、感謝し、神を礼拝します。「都に上る歌」というのは、その時に歌われたものではなかと言われています。全部で15の歌、いわゆる「巡礼歌」と呼ばれるものが収められています。

 今でもキリスト者の聖地巡礼ということを重んじる人たちがたくさんいます。聖地に行ったことがあるというだけで、何か一つ徳を得たような気持ちになる人もいるかもしれません。しかし、「エルサレム」に行くことが、私どもの信仰の旅路において、何か特別な意味を持つというわけではないのです。もちろん、エルサレムに行く機会があれば、行きたいとは思いますが、行けないからと言って、私どもの信仰がどうにかなるわけではないでしょう。では、昔の信仰者たちが「エルサレム」に向けて旅をしたという聖書の御言葉は、今日の私どもに何を意味するのでしょうか。旧約の時代の人たちが、エルサレムに上っていったのは、神様に向かって歩み出す旅路だったということです。そういう意味では、この詩編が歌われた時代においても同じです。いつの時代の信仰者も神に向かって旅をしているのです。そのことに変わりありません。人生は道や旅に譬えられることがよくあります。その道や旅路というのは、人それぞれに違いないのですが、皆、本来向かうべきところは神様がおられるところ、イエス・キリストがおられるところです。主イエスにお会いするという一つの目的に向かって、私どもは歩むのです。既にキリストとお会いしたという人も、日々の歩みの中で、主の日の礼拝の中で、主イエスとお会いする。そのような歩みの連続です。詩編の詩人は歌いつつ、あるいは、祈りつつ、私どもを神とお会いする旅に招こうとしています。

 詩編第120編は初めにこのように歌いました。「苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。」詩人はかつて苦難の中から主に祈ったのです。すると、主はその祈りに答えてくださいました。その感謝を歌う言葉から始まります。このような経験というのは、詩人一人だけの特別なものではありません。キリスト者であるならば、誰もが経験することではないでしょうか。信仰に導かれ、神と共に歩む旅路ですが、その中で私どもはあらゆる苦難を経験します。私どもの幸いは、その苦難の中で、私の神であられるお方に向かって呼び掛けることができるということです。祈ることができるということです。まったく知らない何者かに向かってではなく、私を救ってくださった私の神に祈ります。そして、その祈りに答えてくださいます。すぐに答えてくださる場合もあれば、答えてくださるまでに時間が掛かったということもあるでしょう。願いどおりに答えてくださった場合もあれば、自分の願いとは違う形で答えてくださった場合もあると思います。いずれにしても、神様は私どもにとって最も良い仕方で答えてくだるお方です。祈ることをとおして、またそれに答えてくださる神様の思いを知ることをとおして、私どもは神様との交わりに生かされている幸い、また信仰の喜びを味わうことができます。使徒パウロが、「絶えず祈りなさい」(テサロニケ一5:17)と言ったように、私どもの信仰の旅路は、祈りに生きる道です。祈ることをとおして神を知る道です。信仰の歩みにおいて、まったく苦難がないわけではありません。しかし、祈りに答えてくださる神が、私どもの口に喜びと感謝の歌をさずけてくださいます。

 詩人は、「苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。」と自分が経験した恵みを語るのですが、今現在、詩人はどのような状況に置かれていたのでしょうか。何も問題なく信仰の歩みをしているのでしょうか。神への感謝から始まる詩編第120編ですが、続く2節を見ますと、こういう言葉があります。「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」「助け出してください」という叫びは、過去の話ではありません。一度、苦しみが過ぎ去ったからと言って、残りの人生は何もないというのではありません。不安も苦しみも尽きることはありません。一つの苦しみがずっと続くこともありますし、「ああこれで苦しみは終わった」と思って一息ついたら、また別の苦しみがやって来る。そういうところに私どもの深い悩みがあります。

 詩人は何に苦しんでいたのでしょうか。「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」「偽って語る唇」「欺いて語る舌」とあるように、人間が語る言葉が私を苦しめるというのです。誰から侮辱されたり、呪いの言葉を告げられるということです。終わりの6節、7節には「平和」ということが言われていますが、真実な言葉が失われてしまう時、平和が失われてしまうということが起こります。誰かから酷いことを言われると、私どもは当然傷付いてしまいます。いったん傷付くと私どもはどうなるのでしょう。その傷がなかなか癒えないということもありますが、もう人の言葉なんか信用できないということになります。普通に対話をしていても、何か裏があるのではないだろうか。何とかして、私をおとしめようとしているのではないか。そのように一度考え始めますと、人の言葉を信じるということがなかなかできなくなります。言葉を発するその人自身を信じることもできなくなります。そこに平和を見出すことはできません。また、このことは、決して他人のせいにできる問題ではないでしょう。なぜなら、誰かの言葉に傷付けられている自分もまた、偽って語る舌を持ち、欺いて語る舌を持っているからです。そのようにして、人間同士、お互いに言葉への信頼を失い、真実な言葉を失ってしまうとどうなるのでしょうか。それは神様に対する信仰がたいへん危ういものとなってしまうということです。なぜなら、神様は言葉をとおして、つまり、聖書をとおして、私どもに御自身を明らかにしてくださるお方だからです。神の言葉は真実であり、偽りも欺きもありません。しかし、「人間であろうが、神であろうが言葉なんか信用できない」と言い出した時に、私どもが聞くべき真実の言葉、いのちの言葉を聞き損ねてしまうということが起こります。人間同士の平和が崩れるというのではなく、根本にある神との平和が失われます。ですから、「主よ、わたしの魂を助け出してください/偽って語る唇から、欺いて語る舌から。」と心から叫ぶようにして祈るのです。神はあの時のように必ず答えてくださるに違いないと信じて祈るのです。

 次の3節、4節は、そのように偽りの言葉、欺きの言葉を語る者たちに対する報い、裁きというものが語られます。「主はお前に何を与え/お前に何を加えられるであろうか/欺いて語る舌よ 勇士の放つ鋭い矢よ/えにしだの炭火を付けた矢よ。」ここでは「矢」ということが言われています。つまり、自分が放った矢が自分に帰って来るというのです。「えにしだの炭火」というのは、強い火力を持つと言われています。人に対して偽りと欺きの言葉を語る者は、自分もまた言葉によって報復を受けるというのです。最後には、そのような裁きが、自分を苦しめる者たちにくだるかもしれません。しかし、今はまだ苦しみの中に置かれています。言葉によって傷付いています。5〜6節で、「わたしは不幸なことだ/メシェクに宿り、ケダルの天幕の傍らに住むとは 平和を憎む者と共に/わたしの魂が久しくそこに住むとは。」そう言って、自らの不幸を嘆きます。メシェクとかかケダルという地名が出てきます。メシェクというのは小アジア地方、ケダルというのはアラビア地方に位置します。両方ともエルサレムからずいぶん離れた場所にありますから、詩人が実際それらの場所に居たと考えることは難しいと思います。ですから、これは一つの比喩、譬えとして理解したほうがいいでしょう。つまり、エルサレムから遠い異教の地に自分は居るということです。それは同時に、神様が共におられるという信仰が揺らいでしまうということでもあります。神様も遠いところにおられるのではないかと疑ってしまうような危機を覚えているということです。

 この詩人はエルサレムから遠いどこかの国に住んでいたと思われます。時代背景としては、おそらくペルシア帝国の時代ではないかと考えられます。捕囚から解放されたものの、イスラエルの民は戦争に負けたことによって、色んな場所に散って行きました。それが離散の民、ディアスポラと呼ばれる人たちです。彼らはまことの神を信じているのですが、その国の人々は神を信じているわけではありません。偶像の神々を信じているのです。異教の国という環境の中で、周りの人たちから受け入れてもらえず、それこそ言葉によって責められ、自分が信じている神様のことさえも侮辱されたのではないでしょうか。「お前の神はどこにいるのか」「それでも神を信じていると言えるのか」というふうに。どこか、私どもが生きるこの国の環境とも似ているような思いさえいたします。自分がキリスト者であると公にしても、何も生活に支障がないという人もいれば、自分がキリスト者であるがゆえに肩身の狭い思いをしなければいけない。人の言葉によって、キリスト者である自分が傷付けられ、神様さえもバカにされているように思う。そのように感じることもあると思います。

 詩人は言います。「わたしは不幸なことだ…平和を憎む者と共に/わたしの魂が久しくそこに住むとは。」最後の7節ではこう言います。「平和をこそ、わたしは語るのに/彼らはただ、戦いを語る。」詩人は心から「平和」を望んでいます。詩人だけではなく、多くの人々が、国や地域、宗教に関係なく、平和というものを待ち望んでいます。しかし、平和の実現が難しいのは、自分一人が、つまり、一方がどれだけ平和を願ったとしても、相手が平和を望まなければ、いつまでも平和は実現しません。相手が自分と同じ思いにならないと平和は訪れないのです。私が平和を語っても、彼らは戦いを語るのです。中々、和解が成り立たず、愛と平和の関係を築くことができません。

 本日の詩編の御言葉を聞きながら、心のどこかでウクライナとロシアの戦争の悲惨を思い出している方もおられるでしょう。一方が平和を望んでも、相手が望まないから中々交渉が上手くいきません。戦いが激しなり、平和からますます遠のいている思いさえいたします。ウクライナ、ロシアだけではなく、他の国や地域でも同じような悲劇が繰り返されています。神の都エルサレムにおいてすらまだ平和は訪れていません。むしろ争いの舞台となっています。

 また、平和というのは、いわゆる政治的な争いや戦争がなくなることだけを意味しません。人間同士の関係、「あなた」と「わたし」という一対一の関係においても平和がどうしても必要です。国同士の平和に比べれば、小さな平和かもしれません。しかし、この小さな平和は、私にとってなくてはならないものであるということをよく知っていると思います。また、忘れてはいけないことがあります。私は平和を望む人間であって、平和を憎み、戦いを好む人間ではないと思い込まないことです。私はいつも真実な言葉を語る人間であり、偽りや欺きの言葉を語る人間ではないと過信しないことです。そうしますと、私どもは自分や他人を含め、いくら人間の知恵と力に頼っても、真の平和を実現することなどできないことが分かります。だから、詩人も心を神様に向けるのです。

 「平和」という言葉は、ヘブライ語で「シャローム」という言葉です。長く教会生活を続けていれば、よく耳にする言葉の一つではないでしょうか。そして、聖書が語る平和というのは、戦争がない静かな状態というのではないということです。静かというよりも、「動いている状態」と言ったほうがよいでしょう。決して、騒がしいのではありません。動いているのです。何が動いているのでしょうか。それは健やかないのちが動いているのです。動いているというのは希望があるということでもあります。絶望してしゃがみ込んだり、言葉を失っているのではありません。健やかないのちに満ち溢れ、希望に生かされている。それが平和であるということです。そのようないのちと希望に溢れた平和を神様は私どもに与えてくださいます。

 私どもの人生は旅路に譬えられると最初に申しました。神に向かう旅路、キリストにお会いし続けるための信仰の旅路です。その歩みの中で、平和の関係が、お互いの間で崩れ落ちる苦しみを味わうことがあるかもしれません。しかし、私どもはそこで詩人のように、「答えてください」「助け出してください」と祈ります。祈りつつ、主に向かう歩みを続けていくのです。詩人が礼拝をささげるためにエルサレムに向かったように、私どもは日毎に、主の日に向けて七日の旅路を繰り返します。その歩みの中で、祈りをささげ、主イエスの十字架と復活の御業を思い起こします。復活の主が与えてくださった神の平安と祝福に生きるのです。どんな苦難の中にあっても、「平和の秩序が乱された」と嘆くことがあっても、神の平和がなくなることがありません。罪と死に勝利した健やかないのちが私どもを最後まで生かすからです。

 最初に詩人が歌いましたように、「苦難の中から主を呼ぶと/主はわたしに答えてくださった。」この言葉はいつでも真実なのです。そういう意味で、もう私どもの祈りは既に聞かれていると言うことができるのです。もう既に平和は与えられている。その確信に立って祈り続けるのです。主イエスが再び来てくださる時を待ち望みながら、私どもは平和について語り続けます。神の言葉という真実な言葉、いのちと希望に満ちた言葉に生かされているがゆえに、神の平和について沈黙することなく、大胆に宣べ伝えます。

 宗教改革者のマルティン・ルターは、この詩編について説き明かしている文章の中で次のようなことを言いました。「神の言葉を捨てて、平安を得るよりも、御言葉を保ったほうが数千倍もよいではないか。私は神の言葉を捨ててまでして、楽園にさえ住みたくないと思う。しかし私は御言葉を持つならば、地獄でも容易に住むであろう。」面白い言葉です。福音の真理を追い求め、礼拝の言葉の改革のためにすべてを献げたルターらしい言葉でしょう。ルターにとっても、神の言葉はまさにいのちと希望に満ちた言葉でありました。だからその神の言葉がなければ、どれだけ素晴らしい楽園にいても意味がない。逆に、自分が地獄のような悲惨の中にあっても、神の言葉があるならそこに住むことに何の問題もないというのです。私どもの信仰の歩みもまた、ただひたすら神の言葉に根ざしたものとなりますように。神が与えてくださる平和によって、健やかないのちの恵みの中を最後まで生きていくのです。お祈りをいたします。

 祈りを聞いてくださる神よ、私どもに答え、私どもを助けてください。戦争をはじめ、平和について語り合い、それを実現できないこの世界を憐れんでください。イエス・キリストのゆえに、確かな平和に生かされている私どもが、神の平和と祝福を携えて、善き業をなしていくことができるように助けてください。主の御名によって祈ります。アーメン。