2022年04月24日「死をどう生きるか」

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死をどう生きるか

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 116編1節~19節

音声ファイル

聖書の言葉

1わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き 2わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。3死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして 4主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」5主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。6哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる。7わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。8あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった。9命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。10わたしは信じる/「激しい苦しみに襲われている」と言うときも11不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。12主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか。13救いの杯を上げて主の御名を呼び 14満願の献げ物を主にささげよう/主の民すべての見守る前で。15主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。16どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。17あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び 18主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で 19主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。詩編 116編1節~19節

メッセージ

 キリスト者の医者に日野原重明という人がいました。東京の聖路加国際病院の院長を長く務められた方です。5年前、105歳で召されました。教会以外でもたいへんよく知られている方ではないでしょうか。著書もたくさん出されています。今から約40年前、『死をどう生きたか 私の心に残る人びと』という本を出されました。この本は、日野原さんがこれまで出会ってきた患者をはじめ、日野原さんが医者として看取ってきた人たちの晩年の姿をとおして、また、その人たちの死をとおして、「死とは何か」「生きるとは何か」ということについて記した書物です。死とは何か?いのちとは何か?ということを、医学的・看護学的な視点からではなく、つまり、学問や講義のようにして教えるというのではなくて、実際に人生の最後をどのように生き、そして、死んでいったのか。そのことを丁寧に記すことによって、同労の医師たちをはじめ、医学や看護に関わる人たち、また今病で苦しんでいる人たち、その人を支える家族に、ぜひ読んでいただきたい。そう願って書かれた書物です。

 この本の中に、人生の最後を生きた22人の人たちのことが紹介されています。最初に紹介されているのは、まだ16歳であった少女のことです。京都医大を出たばかりの日野原さんが、最初に担当した患者であり、患者の死を最初に看取ったのが、この16歳の少女でした。まだ戦争も終わっていない1937年4月の出来事です。彼女は小学校を卒業した後、滋賀県彦根市の紡績工場で、母親とふたりで働いていました。父親がおらず、貧しい生活をしていました。その時に、彼女に病が見つかったのです。結核性腹膜炎という病です。入院後も体調が良くなるどころが、日毎にわるくなっていきました。高熱に腹痛、下痢、お腹には水が溜まっていきます。体もやせ衰え、体力も次第になくなっていきました。母親は娘の医療費や入院費を稼ぐために、毎日、見舞いに来ることができません。できたとしても、2週間に1度です。そのようななか、毎日、自分に寄り添い、自分のいのちを一所懸命支えようとしてくれている日野原さんの存在を、彼女はとても頼もしく思っていたようです。

 けれども、7月の下旬、彼女の容態は大きく悪化します。もうモルヒネを打って、苦しみや痛みを抑える以外、道はありませんでした。モルヒネを注射すると、少しだけ苦しみが和らいだのでしょうか。彼女は目を大きく見開いて、日野原さんにこう言ったのだそうです。「先生、どうも長いあいだお世話になりました。日曜日にも先生にきていただいてすみません。でも今日は、すっかりくたびれてしまいました。」しばらく間を置いて彼女は言葉を続けます。「私はもうこれで死んでゆくような気がします。お母さんには会えないと思います。」しばらく目を閉じた後、また目を開いてこのように言うのです。「先生、お母さんには心配をかけつづけで、申し訳なく思っていますので、先生からお母さんに、よろしく伝えてください。」そのように日野原さんにお願いしたと言います。つまり、どういうことかと言うと、16歳の彼女は、自分が死ぬということを受け入れたということです。そして、最後に感謝と別れの言葉を口にしたのです。

 しかし、その時、日野原さんはどう答えていいか分かりませんでした。16歳という若い年齢にもかかわらず、病と闘い、最後は死を受け入れ、感謝の言葉さえ口にする。そのような死を前にした美しさというものを初めて目にした日野原さんは、言葉を失ったと言ってもいいのです。彼女に向かって、「安心して死んでいきなさい」などとは、とても言うことができず、思わずこう言ってしまったというのです。「あなたの病気はまたよくなるのですよ。死んでゆくことなどないから元気を出しなさい。」その途端、彼女の顔色が急変します。慌てて処置を施すものの、そこでも日野原さんはこう言うのです。「しっかりしなさい。死ぬなんてことはない。もうすぐお母さんが見えるから。」しかし、その後、彼女は無呼吸になり、二度と息を吹き返すことはありませんでした。

 日野原さんが、医師として患者の死を看取った最初の経験でした。「私にとって死との対決の最初の経験」というふうにも言っています。日野原さんは直接的な言い方はしていませんが、死の対決に勝ったのか、負けたのかと言えば、明らかに負けたのです。医師として何十年も働いてきたけれども、今でも思い起こす度に、後悔することがある。それが、この16歳の少女の死です。彼女が病気で死んでしまったこと、病気を治せなかったことが敗北ではないのです。まさに今死のうとしている彼女のために、自分は何をしてあげることができたのか。何をすべきだったのかということです。この点で私は大きな失敗をしたというのです。日野原さんは言います。なぜわたしは、「安心して死んでいきなさい」と言えなかったのか。「お母さんには、あなたの気持ちを充分に伝えてあげますよ」となぜ言えなかったのか。そして、私は脈をみるよりも、注射するよりも、どうしてもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか。日野原さんの医師としての歩みは、この敗北、この挫折の経験から始まりました。16歳の少女の死について語る文章の最後で、ある昔の有名な医師の言葉を取り上げておられます。こういう言葉です。「癒すことはときどきしかできなくても、和らげることはしばしばできる。しかし、病む人の心の支えとなることは、医師にも看護婦にも、いつもできることではないか。それを私たちはやっているのか、そのための時間を患者に与えているのか。」

 死というのは、人生において、「私はどう生きるか」ということを問われる最後の機会です。それは、死を前にした本人だけの問題ではありません。死の只中で苦しんでいる者、まさに今死のうとしている者と正面から向き合っている者たちにも、同じように問われていることではないでしょうか。それは何も医師だけではありません。牧師もそうですし、私ども一人一人が、自分のいのちのことだけでなく、家族や隣人のいのちと死にどう向き合うかが問われているのではないでしょうか。そこで、いのちの言葉を語り、慰める務めに私ども一人一人が召されています。しかしながら、いのちと向き合うこと、死と向き合うことは、たいへん厳しいことでもあります。それゆえに、様々な失敗をし、悔いても悔やみ切れない思いで心がいっぱいになることもあるでしょう。地上のいのちも死も、たった一度切りです。それまでは、いくらでもやり直すことができたかもしれません。しかし、死を前にした途端、それほど多くの選択肢が残されているわけではないのです。そのような緊張感の中で、果たして自分に何ができるのだろうか。何が語れるのだろうか。私どもはどうしても悩んでしまいます。

 いのちと死に真剣に向き合うことに召されている私どもですが、そこで、一つ忘れてはいけない大切なことがあります。それは私どもよりも先に、私どもよりも真剣に、そして、私どもよりも遥かに力強い仕方で、人間のいのちと死に向き合ってくださるお方がおられるということです。その方こそ、主なる神様です。私どもも、愛する者たちの最後の日々を支え、その死を看取ることがあります。その時、どのようなまなざしで愛する者を見つめているのでしょうか。その私どもの目に何が映っているのでしょうか。そして、神様の目に私どものいのちと死はどのように映っているのでしょうか。

 詩編第116編の御言葉を共に聞きました。15節に、ひとことこのように記されています。「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。」聖書の言葉は告げるのです。神様の目にあなたの死は値高いのだと。「値高い」という言葉ですが、これは「貴い」とか「重い」というふうにも訳すことができます。神の愛と慈しみによって生かされている者、救いの恵みに感謝をし、神に従う者の死というのは、神様の目に値高く、貴いのです。決して、軽くはないのです。重みがあるのです。人間にとって、死ということほど虚しいもの、儚いもの、無意味なものはありません。人生の中で積み上げてきた数々のもの、それらのものを「重さ」と言っていいかもしれませんが、けれども、死んだら私どもは軽くなるのです。「私はこういう存在だ」と言って、苦労してたくさんのものを積み上げてきたにもかかわらず、死を前にした時、それらがまったく役に立たない。自分の宝だと思っていたものが、言葉は少し乱暴ですが、ただのゴミに過ぎなくなる。ただの重荷でしかなくなる。そのように思えてしまうことがあるのです。そして、死んだら、私どもは軽くなるどころか、この世から消えてしまいます。重さも価値も何にもなくなってしまいます。愛する者が死んだ時もそうでしょう。その人の姿かたちが見えなくなると同時に、心の中が本当に空っぽになったような気持ちになってしまいます。悲しみに心奪われ、立ち直ることができなくなります。

 しかし、詩編の詩人は言います。「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。」「あなたの死は主の目に重みがあるのだ。」この詩編を歌った詩人は、旧約の時代に生きた人ですから、当然、イエス・キリストのことをまだ知りません。そういう意味で、詩編に限ったことではありませんが、旧約聖書の時代というのは、今日の私どもほど「復活信仰」を明確に持っていたわけではないのです。死んだ後の慰めというものを、旧約の時代の信仰者もまったく知らなかったわけではないのですが、どこかで、もう死んだら終わり。死んだら、もう神様との交わりを持つことができなくなるし、こうして神様を賛美することもできなくなる。神様も死んだ私たちのことを心に留めてくれるはずはない。そのように思っていた人たちはとても多いのです。そのように、復活のイエス・キリストのことをまだ知らないがゆえに、今の私ども以上に死というものを恐れ、絶望している信仰者たちの言葉というのが、旧約聖書にはいくつも残されています。そのような中で、詩編第116編は、たいへん珍しいと言いましょうか、死を前にした者たちにも深い慰めをもたらす言葉となりました。後のキリスト教会の葬儀の中でも読まれる御言葉の一つにもなりました。地上の生涯を終え、天に召された者たちだけではなく、残された遺族や教会員にとっても慰めを与える御言葉となったのです。

 「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。」この御言葉を口ずさむ時、また、「神様の目に」とか、「値高い」とか「貴い」という言葉を聞く時に、私どもはもう一つ別の御言葉を思い起こすという方もおられるのではないでしょうか。それがイザヤ書第43章4節の御言葉です。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。」この御言葉は、聖書の言葉の中で最も愛されている御言葉の一つでありましょう。「わたしの目には、あなたは高価で尊い」という日本語訳で覚えておられるという方も多いでしょう。なぜこの御言葉がよく知られ、人々の慰めとなってきたのでしょうか。それはこのイザヤ書の御言葉に共感できる部分があるからだと思います。私どもは、自分のことを「高価で、貴い人間だ」などと思うことは余りありません。そして、私どもは自分で自分を採点することもありますし、人から採点されることもあります。私という人間に点数が付けられ、評価され、値段が付けられる。耐えられないことですけれども、私どもが生きる現実には、そういう苦しいこと辛いことで満ちています。仮に点数や値段を自分に付けるとどうでしょうか。どこをどう見ても、高価なもののようには見えないのです。自分の目にも他人の目にも、私という存在は安っぽく、価値のないように見えてしまうのです。何の重みも価値もない自分であることに深く絶望してしまうのです。

 この詩編の詩人もまた、様々な苦難を経験した人でありました。自分の価値を見失ってしまうほどの辛い経験を幾度も重ねたのです。いくつか詩編第116編の言葉に目を留めたいと思います。1節「主は嘆き祈る声を聞き」。3節「死の綱がわたしにからみつき/陰府の脅威にさらされ/苦しみと嘆きを前にして」。6節「哀れな人を守ってくださる主は/弱り果てたわたしを救ってくださる」。8節「あなたはわたしの魂を死から/わたしの目を涙から/わたしの足を突き落とそうとする者から/助け出してくださった」。10節「わたしは信じる/『激しい苦しみに襲われている』と言うときも」。11節「不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも」。最後に16節「どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。」詩人はこの時、具体的にどのような状況に置かれていたのでしょうか。病気で衰弱していたのでしょうか。迫害に遭って、牢獄に閉じ込められていたのでしょうか。何らか理由で今にも死にそうな状況に追い込まれていたのでしょうか。具体的なことは正直分かりません。しかし、私どもが苦難の中で経験する様々な状況、感情といったものがこの詩編の中には散りばめられています。そうであるがゆえに、私どもが人生において経験したそれぞれの苦難と重ねながら、この詩編を聞くことができるのではないでしょうか。しかし、そのような苦しみの中で、自分が「高価で尊い存在」というふうに見ることは中々できないのです。

 苦しみの中で、ただ嘆き訴えるようにして祈ることしかできない。しかし、その祈りを神様は聞いてくださったというのです。神様が私を愛してくださったからです。愛される価値もないような自分を神様は愛してくださいました。だから、祈りを聞き、私を救ってくださったのです。詩人は、神様から愛されていることに心から感謝し、神様の愛がもたらす平安に包まれています。7節では、「わたしの魂よ、再び安らうがよい/主はお前に報いてくださる。」そう言って、魂の平安の中で、主の前を歩んでいこうとしています。また、2節では「生涯、わたしは主を呼ぼう」と言い、9節では「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう」と言います。神は私のことを愛してくださり、それゆえに、私の祈りを聞き、私を助けてくださった。この喜びが、詩人を祈りの生活へとさらに押し出していきます。生涯、神様を呼び、いのちある限り、神と共に歩もう。そう言って信仰を言い表しています。神様から離れた人生というのは考えられないのです。

 この詩人に注がれた神様の愛が、ここにいる私ども一人一人にも与えられています。神様は、自分の価値を正しく見ることができなくなり、まして、死を前にして望みを抱くことができない私どもに対して、はっきりと告げてくださるのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」本当のことを言うならば、私どもは神を見失い、自分を見失っているその罪のゆえに、神様の目に私どもは惨めな存在にしか見えないはずです。それでも、「あなたは値高く、貴い」とおっしゃるのはなぜなのでしょうか。単なるお世辞なのでしょうか。ちょっとした気休めにと思って、私どもが喜びそうなことをおっしゃられたのでしょうか。そうではありません。神様が「わたしはあなたを愛している」とおっしゃった時、その神様の愛というものは、私どもの罪の惨めさ、滅びの死の力に打ち勝つ愛です。この神様の愛が、御子イエス・キリストにおいてはっきりと表されました。イエス・キリストのいのちが、十字架の上で代価として支払われたのです。私どもを罪から贖うためです。イエス・キリストのいのちと交換してくださるほどに、私どもは高価で尊い存在なのです。

 また16節で、「わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕」と言葉を繰り返します。「僕」というのは「奴隷」のことです。この世の中で、一番身分の低い存在であるどころか、人間としてまともに扱ってもらうこともなかったでしょう。なぜそのように、まったく価値なき者の呼び名を詩編の詩人は口にすることができるのでしょうか。それは、神様が価値なき者のまことの主人となってくださったからです。体も魂もすべて神様のものとしていただいたからです。私どもも、神様の目に値高い僕なのです。僕は僕でも、神様の僕とされる時、私どもはまったく新しい存在として、まったく新しいいのちの輝きを放つ者として生きることができます。

 私どもは、十字架でいのちを献げてくださり、復活してくださったイエス・キリストの新しいいのちに、今、あずかっています。「わたしの目にあなたは価高く、貴い」という神様の愛といのちのまなざしは、救われたあとの生活においても、そして、死を前にした時も、死んだ時も変わることはありません。「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」という詩編の言葉は真実であり、私どもの慰めとなります。礼拝の中で、毎週『ハイデルベルク信仰問答』というものを告白しています。聖書が私どもに告げている救いとは何か。信仰とは何か。これらのことについて、問いと答えを順番に重ねながら、私どもに教えるものです。その第1問は、次のような言葉から始まるのです。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答えはこうです。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。…」詩編の御言葉と重ねて理解するならば、「生きるにも死ぬにも、私たちは神様の目に値高い」ということでしょう。生きている時ならば、いくらでも自分を慰め、喜ばすものを私どもは持っているかもしれません。しかし、死ぬ時にそれらのものが真実の慰めになりますか?死に打ち勝つ真実の慰めとなっていますか?そのように問うているのです。人間からではなく、神様から「あなたは値高い」とおっしゃっていただけるただ一つの人生とは、どんな人生ですか?死に打ち勝つ尊さとは、如何なる尊さですか?信仰問答は答えます。それは、あなたが生きるにも死ぬにも、真実の救い主であるイエス・キリストのものとされているということです。キリストを与えてくださるほどに、あなたを愛しておられる神様のまなざしの中にあることです。この死に勝利したいのちのまなざしの中に、あなたは生きている時だけではなく、死を前にした時にも、死んだ時も置かれている。いや、あなた自身が今生きているいのちそのものが、復活の主のいのち、永遠のいのちなのだというのです。

 この神様の愛と恵みを私どもはいつも忘れてはいけません。詩編の詩人のもう一つの関心もここにあります。12節で、「主はわたしに報いてくださった。わたしはどのように答えようか」とありますように、どのような仕方で、救いの恵みに答えようかと自問自答しています。どのように神様の恵みに応答したらいいのかが分からないのではありません。どれだけ自分が賛美しても、どれだけ祈っても、どれだけ神殿でささげものを献げ、礼拝をしたとしても、まだ十分ではない。感謝しても、し切れない。それほどに豊かな救いの恵みを神様は与えてくださったのです。詩人は、ここでどれだけ神様に感謝しても、私の小さな感謝を受け取ってくださるはずなどない。だから、神様を礼拝しても意味がないなどとは思っていません。感謝しても、感謝し尽くせるはずはない。しかし、それでも神様は私の祈りと賛美を、そして、ささげものを喜んで受け取ってくださるに違いない。この確信が揺らぐことはありません。だから、先程も少し触れましたが、「生涯、わたしは主を呼ぼう」「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう」と、信仰の思いを新たにしています。また、詩編の終わり17節以下ではこのように言います。「あなたに感謝のいけにえをささげよう/主の御名を呼び 主に満願の献げ物をささげよう/主の民すべての見守る前で 主の家の庭で、エルサレムのただ中で。ハレルヤ。」ここにこういう言葉がありました。「主の民すべての見守る前で」「主の家の庭で」「エルサレムのただ中で」。これらは明らかに、信仰共同体を意識した言葉です。今日で言えば、教会における礼拝生活のことです。一人静かに神様と向き合い、祈りをささげ、礼拝をささげることももちろん大切なことですが、それがすべてではありません。むしろ、神の民とされた者として共に礼拝をささげ、神の教会を建て上げていきます。

 「命あるものの地にある限り/わたしは主の御前に歩み続けよう。」詩人はそう言いました。しかし、「命あるものの地」というのは、いったいどういう場所なのでしょうか。何の苦しみもない、まったく穏やかな気持ちで生きることができる場所なのでしょうか。病気も死もない場所なのでしょうか。そんなことはありません。地上の歩みというのは、様々なことで満ちています。予期せぬ色んなことが起こります。病を患うことがあります。疫病に苦しむことがあります。事故や災害に襲われることもあります。戦争が起こります。信頼していた人から裏切られることもあります。疑いや偏見の目で見られることもあるでしょう。自分自身もまた多くの過ちをおかし、失敗を重ねます。そして、誰もが最後に死を迎えるのです。地上のいのちには限りがあるのです。また、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」。この御言葉は、教会の歴史において、殉教者のことを覚える際に読まれた御言葉でもありました。キリストを信じる信仰のゆえに、迫害され、いのちが奪われてしまいます。このように、私どもが生きる地上の歩みは、明日のいのちを考える余裕がないほどに、厳しいものがあります。自分の本当の価値が再び分からなくてなってしまうような出来事に襲われることがたくさん起こるのです。

 詩編の詩人も、かつて死の恐怖から救い出されました。しかし、神様が救ってくださったから、もう私の人生を脅かすようなことは何一つ起こらない。もう死の恐怖を味わうことも死ぬこともない。そういうふうに思っているわけではないのです。神に救っていただいて、その恵みに感謝しながら生きる私の歩みもまた終わりを迎える時が来る。その事実を見つめています。しかし、そこで言うのです。「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。」死の時ほど、自分が如何に弱く、惨めで、虚しい存在であるか。そのことを嫌というほど味わうということがあるかもしれません。そのことを思うと死ぬことがますます恐くなるということがあるのではないでしょうか。少なくとも、詩編の詩人は、過去に死に瀕した経験がありましたから、その時の恐怖というものをよく知っていたのだと思います。しかし、私の神が、愛と恵みに満ちた神であるということを知った時、「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」と高らかに歌うことができました。自分がやがて死ぬということを悲観的に見なくてもよくなりました。主の慈しみに生きる人の死は、主の目に価高いからです。

 だからこそ、苦難多き地上の歩みであったとしても、私どもは神様に祈り、賛美と感謝をささげながら歩んでいきます。キリストによって、神のものとされた教会の仲間たちと、救いの喜びを共に味わいながら、神様の御前に立ち続けます。死に勝利したいのちの望みに、今ここで生かされている。それほどに、価値あるものとしていただいことを毎日、毎週、神様に感謝し、私どもも賛美の歌を歌います。

 そして、この神様の愛といのちのまなざしに生かされる時、私どもは自分のいのちや死ということだけではなく、教会の兄弟姉妹、自分の家族や隣人のいのちと死に対しても、真っ直ぐ向き合うことができる勇気と力が与えられていくのではないでしょうか。自分が愛しているこの人を見つめているのは、私だけではない。「あなたは値高い」とおっしゃってくださる神様のまなざしがこの人にも注がれている。私どもはそのことを信じることができます。神様の大きな愛の業に包まれるようにして、私どももまたなすべき愛の業に励みます。慰めといのちの言葉をとりつぎます。

 最後に、先立って朗読していただきましたコリントの信徒への手紙一第15章54節以下の御言葉をもって説教を終わります。

 「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

 お祈りをいたします。

 あなたを愛するより先に、あなたは私どもを愛してくださいました。あなたを見出すよりも先に、あなたは私どもを見出してくださいました。復活の主イエス・キリストのゆえに、「わたしの目に値高い」とおっしゃってくださるあなたの言葉に、私どもは深い畏れを覚える者です。しかし、同時に感謝の思いが溢れてきます。私どもの地上の生涯がこれからも豊かに祝福されたものとなり、ますます神をほめたたえる歩みとなりますように。主イエス・キリストの御名によって感謝し、祈り願います。アーメン。