2022年01月09日「いのちの流れに根をおろす」

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いのちの流れに根をおろす

日付
日曜朝の礼拝
説教
藤井真 牧師
聖書
詩編 1編1節~6節

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聖書の言葉

1いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず 2主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。 3その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。4神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。5神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。6神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。詩編 1編1節~6節

メッセージ

 詩編第1編は「いかに幸いなことか」という祝福の言葉をもって語り始めます。これは何も詩編第1編に限った話ではありません。全部で150ある詩編全体の導入の言葉であり、招きの言葉でもあるということです。あるいは、聖書全体を貫く、メッセージと言ってもいいのです。聖書は私どもに何を語りたいのでしょうか。聖書は私どもをどこに導こうとしているのでしょうか。それは幸いであり、祝福であるということです。

 「いかに幸いなことか」という言葉を聞く時、多くの人々が思い起こす主イエスの言葉があります。新約聖書マタイによる福音書第5章以下に記されている「山上の説教」と呼ばれる主イエスの説教です。主は初めにこうお語りになります。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。…」(マタイ5:4~5)このあとも、主は「幸いである」と何度も言葉を重ねるのです。主イエスはなぜこの世界に来てくださったのか。それは私どもを幸いな人生に招くためです。主イエス・キリストのゆえに、私の人生は祝福された。すべてにおいて私は満たされたと言って、心から神を賛美するためです。

 新しい一年が始まっています。教会の歩みにおいて、また、私ども一人一人の歩みにおいて、どのような一年になるのか。私どもはすべてを知ることができません。しかし、神様の御心は明らかです。それは私どもを幸いに導き、祝福で満たしたいということです。人間的な目から見れば、「どこに祝福があるのか?」と疑ってしまうような現実に取り囲まれることもあるかもしれません。しかし、そのような時でさえも、神の祝福に支えられるようにしながら、確かな道を歩むことができると、神様は約束してくださるのです。

 「いかに幸いなことか」という祝福をもって、語り掛ける詩編の詩人ですが、では具体的にどのような人に向かって語っているのでしょうか。もちろんそれは、神を信じる者たちに向かって語り掛けていることに違いないのですが、さらにそこで問われることは、神を信じる者はいつもどのような生活をして歩んでいるのかということです。

 幸いな人とはどのような人であるかを、詩人は1節でこう語ります。「いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず」。興味深いことに、詩人は「幸いな人は、ズバリ、こういう人のことだ」という言葉から始めないのです。否定的な言葉、逆説的な言葉を重ねることによって、幸いな人がどういう人であるかを明らかにしようとしています。ここでは、三つのことが言われています。一つ目は「神に逆らう者」。二つ目は「罪ある者」。三つ目は「傲慢な者」です。これは三つのタイプの人がいるというのではなく、いずれも神に背を向けて歩む罪人のことです。そのような者たちの計らいや考えに従って歩まないこと、その道にとどまらないこと、共に座り、そこを自分の場所・立ち位置にしないようにと勧めています。

 このように語る背景には、詩人が実際に、罪の道に行ったり来たりする信仰者の姿を見てきたからではないか推測する人もいます。せっかく信仰に導かれたのに、そこから離れたり、離れたと思ったら、また神様のところに戻ってきたりというふうな生活を繰り返すのです。そして、ついには、神がいないような生活をしてしまうようになったというのです。神と関係ない生活のほうが楽しいと思えるようになったというのです。だから、詩人は「そのような生き方をしてはいけない!」と戒めるのです。

 1節で語られている「神に逆らう者」「罪ある者」「傲慢な者」というのは、既に洗礼を受けている私どもにはまったく関係ないというのではありません。私どももまた、神様の御計画ではなく、自分の思いを第一にして、生きてしまうことがあります。心がぐらつき、神のもとに留まり続けることができなくなることがあります。何があっても、私は赦されているから大丈夫だという安心感は、同時に罪に悪を真実に恐れ、それと戦う力をも与えてくれるものだと思います。主イエスが共におられるという安心があるからこそ、ますます、主により頼み、主が備えてくださる道を選び取っていかなければいけません。

 詩人は、改めて、私どもにとっての幸いとは何であるかを語ります。神に逆らわないということは、神に従うことですが、それは具体的にどういうことであるのか。そのことが2節で語られます。「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。」幸いない人、それは主の教えを愛する人です。その教えを昼も夜も口ずさむ人です。主の教えというのは、神の律法のことです。御言葉のことです。難しいことが言われているわけではありません。何をもって、「あなたは幸いだ」と神様はおっしゃってくださるのでしょうか。それは、神を愛し、それゆえに、神の言葉を愛して生きているということです。御言葉そのものを愛して生きるのです。御言葉を信じて生きたらご利益があるからとか、反対に御言葉を信じないと悪いことが起こるから、だから信じるというのではありません。神様の御心そのものである御言葉を、また、神様の臨在そのものをあらわす御言葉を愛すること。ここに私どもの幸いがあり、祝福があります。

 御言葉を愛するがゆえに、昼も夜も、つまり、いつも御言葉を口ずさみます。順境の時だけでなく、逆境の時も御言葉を口ずさみます。「口ずさむ」というのは、決して、大きな声でというのではなく、唇を震わすような低い声で自分に言い聞せるということです。また、「口ずさむ」というのは、他にも「思い巡らす」「思い起こす」「呻く」「つぶやく」「吠える」というふうに、様々な言葉に言い換えることができます。また、「黙想する」と訳すこともできます。御言葉を「黙想する」とはどういうことでしょうか。それは、「今」、私たちに語り掛ける神様の言葉に耳を傾けることです。聖書の言葉を音読したり、その御言葉を巡って色々と考えることも大事ですが、同時に今ここにいる私に向けて、あるいは、私たち教会に向けて、神が何を語っておられるかということに耳を傾けます。聖書の言葉は、昔の古い言葉ではありません。なぜなら、神は今も生きておられるからです。今も私ども共にいてくださるお方です。その神様の言葉を口ずさみ、思い巡らし、この私への語り掛けとして耳を傾ける時、私の今の生活、そして、将来の生活が形づくられていきます。教会の土台も同じように、神の言葉に立つことによって、御心にかなう教会が建てられて行くのです。

 また、聖書に目をとおしてみますと、御言葉は読むだけのもの、聞くだけのものではなく、食べるものでもあると言われています。とても興味深い表現です。預言者エレミヤはこう言います。「あなたの御言葉が見いだされたとき/わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり/わたしの心は喜び躍りました。」(エレミヤ15:16)。また、御言葉の味わいは、「あなたの仰せを味わば/わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。」という御言葉が、詩編第119編にもあるように(詩編119:103)、甘いもの、美味しいものです。つまり、私たちの喜びと幸いをもたらすものだということです。

 普段の食事のことを考えてみると分かるのですが、私たちが口にしているものは、自分の好きなものばかりではないと思います。なかには味が薄かったり、苦いものもあると思います。正直、自分の口に合わないものを食べるということもあるでしょう。もし、偏ったものだけを食べ続けるならば、私たちはすぐに健康を損なってしまいます。自分の体のことを考えるならば、栄養バランスを考え、色んなものを食べる必要があります。聖書の言葉も、自分が好きな言葉もたくさんあると思いますが、なかなか受け入れることができない言葉もあります。あまりにも厳しいことを命じているように思う御言葉もあります。しかし、神が私どもに御言葉を与えてくださるのは、私たちが御心にかなった健やかな人間として生きるためです。祝福に満ちた人生を生きるためです。私どもが、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさん生きることができるようになるためには、どうしても訓練が必要です。子どもの時に嫌いだった食べ物が、大人になって、はじめて食べることができるようになり、しかも「美味しい」と感じることができるようになるまでには、やはり時間というものが必要です。しかしそこで、食わず嫌いになるのではなく、御言葉に触れ続けることが大切です。生活習慣となるまで、御言葉を口ずさみ、思い巡らし、黙想するのです。そのようにして、神様の御言葉の中に、つまり、神様の中に自分の居場所を見出し、神と共にある人生を喜ぶ人は幸いな人なのです。豊かな実りが与えられるのです。

 そのことを、詩人は美しい譬えをもって語ります。3節です。「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」御言葉を愛し、昼も夜も口ずさむ人、どういう人なのか。それは、「流れのほとりに植えられた木」というのです。「流れ」というのは、自然に流れている川といよりも灌漑用の「水路」だと考えられています。また、「木」というのも、山や森に自然に生えている木でなく、「植えられた木」とあるように、誰かがわざわざ水路のほとりに移し変えた木、移植された木であるということです。なぜ移し変えたのでしょうか。それは水路があるからです。いのちの源である水があるからです。暑く、乾燥しがちなパレスチナの地にあって、水の存在はいのちそのものと直結しています。移し変えられたというのですから、その木は、もしかしたら水の流れがない渇いた場所で、今にも枯れかかっていたのかもしれません。しかし、誰かがそのような木を見つけて、わざわざ水が絶えず流れている水路のほとりに植えてくれたのです。

 詩人は誰が木を移し変えたのかまでは語りません。しかし、誰が移し変えたのかは明らかではないでしょうか。私どももまた、いのちの源である水の流れから、遥かに遠いところで、渇き覚えながら生きていた存在です。神が与えたもういのちの糧である御言葉ではなく、悪しき者の計らい、また自分の思いを第一にして生きていた存在です。それは、神の目から見れば、今にも枯れそうな木に過ぎませんでした。しかし、神がそのような私どもを見て憐れんでくださいました。そして、神自らが私どもを手に取り、いのちの流れのほとりに植え変えてくださったのです。主を愛し、主の教えを愛する人間に変えてくださったのは、神様御自身です。神様は水のほとりにしっかりと根をおろすことができるように、地面を掘り起こしてくださいました。だから、私どもの人生の中に絶えず流れているのは、いのちの言葉である御言葉です。私どもがどのような状況におかれていても、たとえ試練の中にある時も、罪の中で苦しむことがあっても、私どもは御言葉という水の流れのほとりにいるということです。灼熱の暑さに襲われても、強い風に吹き付けられても、木の根元がしっかりと水のほとりに植えられているがゆえに、耐えることができ、そこでなお生きることができるのです。そのように御言葉がいつも私どもの歩みを取り囲むようにして、それぞれの生活を守ってくれるのです。守るだけでなく、私どもを正しい道へと導いてくれます。

 だから、主の教えを愛し、昼も夜も口ずさむ人について、「ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と語ります。御言葉に生きる人の人生は空しいものではありません。実を結ぶ人生です。すべてが繁栄をもたらすと言い切ることができるほどに祝福に満ちた人生です。では、ここで言われている「実を結ぶ」とか、「繁栄をもたらす」とはどういうことでしょうか。何をしても上手く行くということでしょうか。何の思い悩みもなく、何の病にもかからず元気に生きることができるということでしょうか。それが、聖書が語る幸せということなのでしょうか。そういうことではありません。

 次の4節、5節との対比から、実を結ぶこと、繁栄することとはどういうことかを考えたいと思います。「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。」ここで言われていることは、主の教えを愛する生き方からかけ離れた人たちのことです。1節でも言われていたように、神に逆らう者であり、罪ある者であり、傲慢な者です。その彼らの行き着く先がどういうものであるかが語られています。彼らは「風に吹き飛ばされるもみ穀」だというのです。実の入っているものともみ殻だけのものを見分けるのは困難です。見た目はどれも同じ実が詰まったもののように見えます。そこで農夫たちはどうするかと言うと、風が吹く場所に行き、穀物を上に高く投げるのです。そうしますと、実があるものは重さがありますから、下に落ちます。しかし、もみ殻は軽いですから吹き飛ばされてしまいます。農夫は下に落ちたものだけを実りとして収穫します。一方、吹き飛ばされたもみ殻は集められ、最後に火で燃やされてしまいます。旧約聖書の中でよく用いらえる神の裁きのたとえです。6節の終わりにも、「神に逆らう者の道は滅びに至る」と記されています。

 私どもはこの世において、形は様々かもしれませんが実を結びたいと願うものです。成功を収め、豊かになりたいと願います。そのために、あらゆる努力をします。苦しいことを耐え忍びます。色んなものを犠牲にします。そのこと自体が悪いわけではありません。しかし、神を忘れ、神から離れたところで、自分一人だけ実を結ぼうとするところに人生の意義を見出そうとするならば、それは空しい人生だと神様はおっしゃいます。どれだけ華やかにこの世を生き、手に入れたいものを手に入れることができたとしても、そのことが終わりの日の裁きに耐えうる確かな保証を与えるわけではないのです。何の役にも立たないのです。

 一方で、主の教えを愛する生き方を大切にする者は、終わりの日の裁きに耐えることができる、そのような確かな実りが与えられています。自らの地上のいのちの終わりを意味する「死」においてさえ、神が与えてくださった祝福のうちに死ぬことができます。復活のイエス・キリストのゆえに、死を超えた望みに今ここから歩み始めることができるのです。この地上の歩みだけが、私どもの歩みのすべてではありません。この地上ではまだ見えてこない実り、終わりの日において初めて明らかになる実りがあるのです。しかし、そこで「実を結ぶ時がまだ来ない」と言って、諦めの思いに捕らわれる必要はありません。御言葉に聞き従う者は必ず実を結び、繁栄する。空しく終わることなど絶対にあり得ない。終わりの日においても価値を持つ確かな人生を、今ここで生きることがゆるされている。これらの確信をもって、どのような時も大胆に歩むことがゆるされています。苦難の日々にあっても、落ち着いた生活を送り、終わりの日に与えられる、救いの完成を静かに待ち望むのです。

 詩編第1編は、意図的に「神に従う者」と「神に従わない者」を対比しながら語っていきます。そして、最後に両者がどのような運命を辿るのかが明確に語られています。「知恵の詩編」とも言われます。詩人は私どもに問いかけています。あなたはどちらの道を選びますか?考えるまでもなく、誰もが神に従う道を選ぶことでありましょう。誰も滅びの道を歩みたいなどとは思わないからです。そうだとしたら、私どもの歩みはいつも躊躇することなく、神に従う道を歩んでいくことができるはずです。どのような時も、主の教えを愛し、昼も夜も御言葉を口ずさむ道を選び取って生きていくことができるはずではないでしょうか。

 また、詩編第1編ということに限らず、主の教えを愛する者は、神が授けてくださる知恵によって賢く生きることができるということです。目の前の苦難そのものを吹き飛ばすような力はないかもしれません。今抱えている悲しみを喜びに変える力もありません。想定外の大きな出来事に襲われた時、今、何をすべきかが分からなくなることがあります。しかし、そこで御言葉に耳を傾けるならば、愚かな振る舞いをしなくてもいいのです。「神などいない」と言って、神に背を向けなくてもいいのです。このような時も御言葉の恵みに取り囲まれ、神が生きておられることを味わいながら、賢く生きることができます。祈りつつ、御言葉に聞き、歩んでいくことができます。

 最後の6節にこうありました。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」神様は私どもが歩む道を知っていてくださいます。単に私たち人間のことを知っていてくださるというのではなく、「神に従う人」の道を知っていてくださるということです。「知る」ということは、「愛する」ということでもあります。私どもの一番の理解者であり、味方であるということです。今年も私どもは神に従う道を歩みます。主がお語りくださる道を歩んでいきます。その道中で、予期せぬことが起こるかもしれません。大きな選択が強いられる時もあるかもしれません。あるいは、神を悲しませてしまうこともあるかもしれません。しかし、私どもの神は、イエス・キリストの父なる神であり、それゆえに神の愛から私どもを引き離すことができるものはどこにもないのです。

 また、主の教えを愛する生き方は、自分一人で行うのではありません。教会の仲間とともに、御言葉を愛し、御言葉に耳を傾けます。宗教改革者マルチン・ルターという人は、詩編第1編を説きながら、3節の「水の流れ」という言葉について、「神の恩恵の川」「天界の川」という表現をしました。天に流れている川です。その恩恵に、私どもは今、この地上にあって、既にあずかることがゆるされています。主の日、私どもが教会に集い、礼拝をささげるのは、本日の招きの言葉にあったように、主イエスが「わたしのもとに来なさい」「渇いている者は来て飲みなさい」と招いてくださるからです。「ここに、あなたを真実に生かすいのちの水がある」と主は告げてくださいます。主の日、私どもも感謝を携えて主の前に集いますが、主イエスはそれ以上に豊かな恵みをもって、私どもを招いてくださるのです。主の招きに応える時、私どもは水のほとりに植えられた木のように、いのちの御言葉に根をおろしながら生きている者であることを改めて知ることができます。私にとっても、教会にとっても、本当に必要なのは、神が与えてくださるいのちの言葉であることを何度でも教えられるのです。その度に、私どもは神に祝福された者であり、神に愛されている者であることを知り、賛美をささげます。「幸いな者よ!」と呼び掛けてくださる主の教えを愛し、主を信頼し、主の喜びに生きること。ここに教会を形づくる力が与えられていくのです。お祈りをいたします。

 神よ、あなたは私どもの道を知っていてくださいます。この一年の歩みだけではなく、すべてを知っていてくださり、御心のままに導いてくださいます。御霊を与えてください。あなたの言葉を愛し、喜んで従う信仰をこの一年も確かにすることができますように。この一年も、主よ、あなたが与えてくださる祝福を期待し、神と教会に仕えていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。