2020年07月05日「愛の賛歌」

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聖書の言葉

31 そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。1 たとえ、人々の異言、天使た ちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。2 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、 山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。3 全財産 を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛 がなければ、わたしに何の益もない。4 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は 自慢せず、高ぶらない。5 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かな い。6 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべ てに耐える。8 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9 わた したちの知識は一部分、預言も一部分だから。10 完全なものが来たときには、部分的な ものは廃れよう。11 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、 幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。12 わたしたちは、今は、 鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることに なる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているよう にはっきり知ることになる。13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまで も残る。その中で最も大いなるものは、愛である。コリントの信徒への手紙一 12章31節b~13章13節

メッセージ

 「愛の賛歌」と呼ばれる、聖書の中でもよく知られている言葉、あるいは、聖書の中で も最も美しいと言われる言葉を聞きました。教会に来たことのない人であっても、聖書の 言葉のいくつかは聞いたことがある、知っているという人は多いことでしょう。とりわけ、 このコリントの信徒への手紙一第13章の言葉は、結婚式の時によく読まれる御言葉とし て知られています。いわゆるキリスト教式と呼ばれる結婚式をあげる人は、この国でも多 いですから、その時に「愛の賛歌」が読まれることがあります。結婚式というこれ以上に ないおめでたい席ということもあってか、この聖書の言葉がより美しい音色で、新郎新婦 をはじめ、列席した人たちの心に響くということがあると思います。もちろん教会で挙げ る結婚式、キリスト者同士の結婚式においても、よくこの御言葉が読まれます。既に洗礼を受けている人もそうでない人も、この御言葉を聞きながら、どのような思いを抱くので しょうか。

 ある説教者が、「愛」というテーマで一冊の小さな書物を記しました(竹森満佐一『愛』)。 コリントの信徒への手紙一第13章の御言葉を1節ずつ丁寧に説き明かした書物です。そ の本のはじめにも、終わりにも、「愛について、語ることは非常に難しいことであります。」 と正直に記すのです。日本の教会を代表するような説教者であり、牧師を養成する神学校 でも教えておられた先生です。しかし、その先生をしても、愛について語ることは難しい し、本当のことを言うと、愛について語るだけでは空しいのだと言うのです。「愛の賛歌」 とありますが、愛をたたえるだけでは何もならないのです。だから、「愛について語ること はおそろしいことだ。」そのようにも言うのです。なぜなら、そこで自分自身が問われるか らです。自分に愛がないということについて悔い改めることなしには、愛を語ることはで きないのです。

 そういう意味で申しますと、結婚式という場所で、「愛することは難しいです」とか「愛 することは難しいことです」などとは中々言えないと思います。むしろ、様々な困難を乗 り越えて、結婚に至るということもあるでしょうから、そこには愛の実りがあり、それゆ えに愛をたたえるということが起こるのです。「愛することは非常に難しい」などと言って しまったならば、その先にあるのはいいことではなく、わるいことしか見えない。だから、 そんな縁起のわるいことを言わないで、「おめでとう」と言って、愛をたたえることが相応 しいのだと言うのです。しかし、「愛することは難しい」と言った説教者も、この手紙を記 したパウロも、愛することの難しさを心の深いところで受け止めながら、しかし、その先 には、暗い将来ではなく、明るい将来を見ていたに違いないと思います。では、いったい 何が私どもの歩みを照らし出すのでしょうか。

 先程、愛はたたえるだけでは意味がないと申しました。愛は言葉にするだけではなく、 実際にその愛を生きなければいけないからです。そうであるならば、私どもにとって愛を 生きる場所はどこでしょうか。家族と共に過ごす場所であったり、仕事仲間と過ごす職場 であったり、友達と共に過ごす学校であるかもしれません。何か線引きをして、ここでは 愛に生きるけれども、ここからはもう愛に生きることをやめるというのではありません。 ただそのように、色んな場所で生きる私どもですが、その中で、とっても大切な場所とい うものがあるのです。伝道者パウロは、明らかにそのことを意識してこの手紙を記してい ます。愛に生きる場所は、キリストの体である「教会」だということです。愛というもの は、たたえるだけで、実際にそこに生きていなければ意味がないのも事実ですが、愛とい うのはたたえることなしに、論じてみても空しいというのも事実です。愛することの難し さを知った人間が、悔い改めに導かれ、やがて愛をたたえ、感謝の生活を始めます。その 歩みが教会という場所から始まります。そして、礼拝において、愛をたたえることこそ、 一番相応しいことなのです。

 ところで、この第13章の御言葉は、急に出てきた言葉ではなく、前後の文脈の中で読み解くことが大切になってきます。第12章〜第14章で一つの大きなテーマを扱います。 それは、聖霊が教会に与える「賜物」についてです。聖霊によらなければ、私たちは「イ エスは主である」(12章3節)と信仰を告白することはできません。聖霊の導きによって、 信仰を言い表し、教会を形づくる者とされた教会員一人一人には「賜物」が与えられてい るのです。この「賜物」という言葉は、ギリシア語で「カリスマ」と呼ばれます。少し前 に、私たちの国でも「カリスマ」という言葉が流行ったことがありました。例えば、カリ スマ美容師とかカリスマ講師、カリスマ指導者というふうに、特別な才能が与えられた人 を指す言葉となりました。でも、聖書的に申しますと、カリスマというのはそのような意 味ではありません。聖霊の働きによって、「イエスは主である」と告白し教会に生きるすべ て者にカリスマ・賜物が与えられているのです。その賜物は人それぞれ異なるものです。 しかし、異なるからと言って、そこに優劣はありません。パウロはそのことを「体」の譬 えをもって語りました。体というのは多くの部分から成り立ちます。足があり、手があり、 耳があり、目があります。そのように多くの部分で、一つの体を形づくります。どの部分 も役割は異なりますが、教会を建て上げるうえで、どれもなくてはならないものです。ま た、互いに互いのことを配慮しながら歩んでいく共同体がキリストの教会です。「一つの部 分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共 に喜ぶのです。」(12章26節)

 そして、第12章の終わりで、「もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。そ こで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。」そう語った後、最高の道である「愛」 について語り始めるのです。パウロは繰り返し、「愛がなければ...」と語ります。「愛がな ければ」というのは、「愛を持っていなければ」「愛が与えられていなければ」ということ です。「愛とはこういうものだ」と言って、愛の素晴らしさを並べるのではなく、愛がなけ れば、私たちはどうなるのかを語ります。たいへん鋭い切り口で語り出すのです。愛がな ければ、私は無なのです。私が私として存在することができないのです。愛がなければ、 私に何の益もないのです。

 1節では、「愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」とたいへん 皮肉を込めた言い方しています。当時、ギリシアの神殿では、どらやシンバルが礼拝の際 に用いられていました。これは異教の神に対する礼拝です。もし、人が異言や天使の言葉 を語っても、愛がなければ騒がしいだけ、騒がしいどころか、それは礼拝でも何でもない と言うのです。異言も天使の言葉も似たような意味ですが、普通の人たちにとっては何を 言っているのかさっぱり分からない言葉です。他の人には語ることができない異言という 特別な賜物が自分には与えられている。そのことを誇って、異言ばかり礼拝の中で語り出 す時、当然、そこに混乱が生じるのです。異言を語る本人は、神の霊に満たされて喜んで いるのかもしれませんが、周りの人たちにとっては礼拝どころではありません。どらやシ ンバル自体は素晴らしい楽器です。用い方次第では、ものすごい輝きを放つ音を生み出し ます。異言自体も聖霊の賜物ですから、それ自体がわるいものではないのです。でもその 用い方を間違ってしまったとき、つまり、そこに愛がないならば、それはうるさいだけ。 神を礼拝しているつもりで、まったく礼拝になっていないと言うのです。

 次の2節の「預言」する賜物というのは、逆に、分かりやすい言葉です。今日の教会の 言葉に当てはめれば、「説教」ということになります。伝道者が一所懸命説教している。伝 道者・牧師に限らず、教会員一人一人が福音の言葉を伝えています。しかし、そこにも愛 がないと言うことが起こるのだと言います。さらに、「たとえ、山を動かすほどの完全な信 仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」と言いました。主イエスもまた、「か らし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じて も、そのとおりになる。」(マタイによる福音書17章20節)とおっしゃったことがあり ました。からし種の信仰というのは、ここでは、奇跡を起こすことのできる信仰を意味し ます。しかし、誰に見られても「完全な信仰」と言われるものであっても、そこに愛がな いということが起こり得るのです。

 さらに、3節では、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが 身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」とパウロは言いました。 全財産を貧しい者にささげるというのは、これ以上にない愛の行為とも言えるでしょう。 しかもここでは、愛とは何かを論じているのではなく、すべてを貧しい者のために献げ尽 くすという行為、生き方、態度そのものをもって示しているのです。でも、そこに愛がな いということがある。また、自分のいのちそのものを献げること、つまり、殉教の死を遂 げても、実際には神様への愛と信仰のゆえに死ぬのではなく、如何に自分は立派な人間で あるかを誇るためなのだと言うのです。

 パウロはこれらのことを教会生活、信仰生活という文脈の中で語ろうとしています。最 も愛について知っているであろう教会に生きる者たちに語り掛けるのです。言葉や知識だ けでなく、キリストに救われた者として、愛を生きるとはどういうことであるかを既に実 践している者たちに語り掛けます。しかも、パウロは決して他人事(ひとごと)のように、 語るのではなく、まず自分のこととして語るのです。手紙の中で、パウロはこれまで「わ たしたち」「あなたがた」というふうに、複数が主語になる言葉遣いをしていたパウロが、 第13章に入って、「わたしたち」から「わたし」という言葉を多く使うようになりました。 騒がしいどら、やかましいシンバルというのは、あの人たちのことだと言うのではなく、 この「わたし」のことでもある。もし、愛が無ければ、私がしていることも、私が存在し ていることも意味がなくなってしまうほどに、私のいのちを生かす愛を自分は持っている のだろうか。本当にその愛の中に生きていると言えるのだろうか。パウロ自身、自分のこ ととしてまず受け止めつつ、愛を語るのです。

 そして、4〜7節にかけて、愛について、その特性について言葉を重ねて語り始めます。 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、 自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべて を忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」ここでは、愛について、積極的 な言葉を七つ並べ、反対に消極的な言葉を八つ並べます。一つ一つの言葉について、丁寧 にお話する時間はありません。でも余計な説明を加えるまでもなく、ここに並べられている言葉に静かに耳を傾けているだけで、私どもの心に響いてくるものがあると思います。 だからこそ、多くの人に知られている御言葉になったのでしょう。しかし、愛とはこうい うことだと納得し、同時に心惹かれる思いに満たされる時、そこで聖書がいつも私どもに 問うていることは、あなた自身がこの愛の道を生きることがなければ意味がないというこ とです。いくら愛について論じ、愛をたたえてみたところで、もしそこで終わってしまう ならば、こんなに空しく、悲しいことはないというのです。

 例えば、愛について最初に述べるところで、「愛は忍耐強い」と語りました。一番最後に も、「すべてを忍び、...すべてを耐える」とあります。「忍ぶ」という字と「耐える」とい う字を合わせると、「忍耐」となりますから、同じことが繰り返されていると言えます。「忍 耐」というのは、「親切」とか「寛容」とも訳されますが、元の意味は「気を長く持つ」と いうことです。さらに掘り下げると、「下に居続ける」「下から支える」という意味がある そうです。そこから、我慢するとか、赦すという言葉で理解することもできるでしょう。 主イエスが重い十字架を背負いながら、救いの道を歩んでくださった姿を思い起こすこと ができるかもしれません。誰かの上に立って、その人を支配するようにして、「あなたは私 のものだ」と言うことが愛ではないということです。だから、「礼を失せず」という言葉も ありました。以前の翻訳では「無作法をしない」と訳されていました。元々は、「人の心に 働きかける」という意味です。良い意味で用いられると「魅了する」となりますが、人の 心に働きかけて、相手に嫌な思いをさせてしまうこともあるでしょう。これが「愛」なの だと言いながら、愛の名のもとに、相手の心にずかずかと土足で踏み込んでしまっている ということがあるかもしれません。そのように、パウロは多くの言葉を並べながら、私ど もの愛を吟味することを求めてくるのです。

 私が初めてこの第一コリント13章の御言葉を聞いたのは、小学生くらいの時だったと 思いますが、教会学校の分級の時間に、先生と一緒に第13章の御言葉を学びました。特 に4〜7節にある「愛とは何か」を語るところで、ここにある「愛」という言葉に、「自分 の名前」を当てはめて読んでみたらいいと、先生は言うのです。「藤井真は忍耐強い。藤井 真は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求め ず、いらだたず、恨みを抱かない。...」 その時、子ども心に、到底自分は、忍耐強いとか、 情け深いとか、ねたまない人間ではないということがすぐに分かったものです。あの時か ら時を経て、信仰告白をして、大人になり少しは人生経験を重ね、そして、牧師になった 今、改めて、自分の名前を入れる時、「私は忍耐強い。私は情け深い。ねたまない。愛は自 慢せず、高ぶらない。...」と胸を張って言えるかというと、決してそうではありません。 子どもの頃、初めてこの御言葉と出会った時、抱いた悲しみ、心の痛みというのを、歳を 重ねた今でも同じようにどこかに感じるものです。

 ある神学者が「いったい、この愛とは誰のことだろうか。」と面白いことを言っています。 この愛はどのような愛かとか、このような愛に生きることがどうしたら可能になるのだろ うかなどとは言わないのです。この愛は誰だろうと問うのです。「愛」という言葉に、「自 分」のことを当てはめても意味がありません。この愛は誰?と問いつつ、そこに「主の名」を当てはめてみたらいいではないかと言うのです。「主イエスは忍耐強い。主イエスは情け 不快。ねたまない。主イエスは自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、 いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、 すべてを望み、すべてに耐える。」これほどしっくりくる言葉はないだろうと思えるほどに、 主イエスそのものを表す言葉になっています。

 しかし、忘れてはいけないのは、私ども人間は、神の愛そのものである主イエスを十字 架につけて殺したということです。そこに人間の罪があります。人は、「愛」という美しい 言葉を並べながら、やはり自分の益になることしか考えることができないのだと思います。 役に立たないと思ったら、「もう必要ない」と言って、簡単に愛すること投げ捨ててしまい ます。いや、愛を殺してきたのです。しかし、私たちは知っています。それは、十字架で 死んだ主イエスを父なる神が甦らせてくださったということです。愛は死の力の中に沈み 込んでしまったのではありません。罪と死の力に打ち勝った愛が私どもをまことのいのち に生かしてくださいます。だから、この第13章は「愛の賛歌」であると同時に、主の復 活をたたえる「復活賛歌」と呼ばれることもあります。この第13章の御言葉は、不思議 なことに、「神」とか「イエス」とか「聖霊」という言葉は一切出て来ません。初めて読む 人にとっては、どこか「愛」という言葉だけが一人歩きしているように思われるかもしれ ません。でも、パウロは神様を抜きにした愛を語ろうとしているのでないことは明らかで す。愛をたたえることは、神様をたたえることです。「愛」という言葉の中に、私どもはい つも神様のお姿を見出すことが求められているのではないでしょうか。

 パウロは、私どもが愛を吟味することを求めつつ、私どもに愛がないこと知らしめ、絶 望させようとしているのではありません。あるいは、「愛」に相応しいお方、愛に生きるこ とができるお方は神様だけであり、あなたがたはまったく当てはまらないのだから、その ことをちゃんと弁えるように言っているのでもありません。この後の第14章1節で、「愛 を追い求めなさい」と呼び掛けていました。パウロが願っているのは、あなたがたも聖霊 が与える賜物によって、愛に生きてほしいということです。愛を追い求めるように。神を 求めるように。御子イエス・キリストを与えてくださったほどに、私どものことを愛して おられる神が、必ず御霊の賜物である愛を与えてくださるのだから。だから、愛を追い求 めなさい。

 この愛について、パウロは8節以下で「愛は決して滅びない」と言って、新しい言葉で 語り始めます。教会に生きる者がどのような視点を持って生きるのかを教えているところ でもあります。ここで言われているのは、「終わりの日」から今を見つめるということです。 あるいは、「永遠」という視点から今を見つめるということです。聖書は、今という現実が すべてではないということを語ります。いつか終わる時が必ず来るのです。私どもにとっ ては、それは救いの時です。地上での信仰の歩みを続けるために与えられている預言も異 言も知識もやがて廃れる時が来るのです。それらのものは聖霊の賜物ですから、尊いもの であることに変わりはないのですが、完全なもの、永遠のものではありません。あくまで も一部分であるということです。そのことについて、11節では幼子と成人の譬え。12節ではおぼろに映る鏡の譬えが 語られます。最初に出てくる「幼子」は、大人に比べて知識や物の考え方においては劣る 部分があります。それが、今の私どもの状態だと言うのです。しかし、来たるべき日には、 つまり大人になった時には、完全な知識が与えられ、この世の知識や賜物は役割を終える のです。次に出てくる「鏡」というのも、今日のように、はっきりと自分の顔を見ること ができるようなものではありませんでした。金属や青銅の表面を磨いただけで、本当にお ぼろにしか見ることができなかったのです。私どもの今の状態は、まさに昔の鏡のように はっきりと見えている部分がたくさんあるということです。でも、終わりの日には、すべ てが見えるようにされるのです。

 やがて、あなたがたの賜物は廃れていく。あなたがたは部分的に過ぎないのだから。ま だ、あなたがたは、おぼろに映ったものしか見ていない。そう言われますと、それはその とおりかもしれないけれども、どこかまだ自分のことが認められていない。十分に受け入 れられていない。そのような寂しい思いなるかもしれません。でも、終わりから今を見る ということは、今の私どもの現実を軽んじているのではなく、むしろ、今を生きることの 意味と希望を与えてくれるのだと思います。もし、今のあなたがたの生き方がすべてだと 言われたら、本当にそこで慰めを得ることができるでしょうか。救われたはずなのに、な お、古い自分が見えてきます。罪に苦しむことがあります。また、人間の心では到底受け 入れることができない大きな出来事に襲われ、ずっともやもやした思いを引きずりながら 歩まなければいけないこともあるでしょう。聖書のことも信仰のことも、分かっているつ もりで、実はよく分かっていないということもたくさんあります。もし、これがあなたが たのすべてだ。終わりの日に、主イエスが来ても、今と何ら変わらないと言われたら、や っぱり困ってしまうと思います。ますます、いい加減な生き方をしてしまうかもしれませ ん。

 でも、神様はそんな無責任なことはおっしゃらないのです。12節の後半にこうありま した。「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているよう にはっきり知ることになる。」私どもは、終わりの日にはっきり知るのです。何をはっきり 知るのでしょうか。神様のことでしょうか。聖書のここはこういう意味だったのかと分か ることができるのでしょうか。聖書にはまったく書いていない神様の新しいお姿を見出す ことができるのでしょうか。もちろん、そのような新しい発見もあるでしょう。しかし、 ここでパウロが強調していることは、私が「知る」ということではなく、誰かに「知られ ている」という事実です。この誰かというのは、神様のことです。そして、ここでも「わ たしたち」とか「あなたがた」という複数の主語ではなく、「わたし」という言い方がされ ています。他の誰でもない、「あなた」が神に知られているというのです。そして、神に知 られているということは、神に愛されているということです。終わりの日に、はっきりと 見えるのは、私の想像を遥かに越えた仕方で、神にこの私が愛されていたという事実です。

だから、今、地上を旅する私どもは、自分に与えられている愛に絶望する必要はありません。私どもは既にもう神に知られ、神に愛されているからです。私どもを支配している のは愛そのものです。8節に「愛は決して滅びない」とありました。そして、最後の13 節にこうあります。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その 中で最も大いなるものは、愛である。」私どもの信仰は、神様の愛を信じることです。神の 愛を信じて生きる時、そこに希望が生まれます。愛は滅びることなく、愛は信仰と希望を 生み出します。だから最も大いなるものは愛なのです。

 この後、共に聖餐の恵みにあずかります。救いが完成した時に開かれる祝宴の前味を、 礼拝の度に、聖餐の度に味わいながら、終わりの日に備えます。この食卓は、主イエスが 愛をもって、愛を一所懸命注いで用意をしてくださいました。その主イエスが今も生きて ここにおられます。愛である神をたたえ、愛に生きることができる場所がここにあるので す。お祈りをいたします。

愛の賜物が一人一人に与えられています。愛に生きることに絶望するのではなく、愛そ のものであられる神によって生かされていることを感謝し、神と教会に仕えることを喜び とすることができますように。主が備えてくださった聖餐にあずかります。神の大きな愛 によって、私どものすべてが包み込まれていることを見ることができるように、御霊を与 えてください。そして、私どものまことの主であられるお方がますますほめたたえること ができますように。主イエス・キリストの御名によって、感謝し祈り願います。アーメン。