2020年08月09日「私たちの誇り」

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6:11このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。
6:12肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。
6:13割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。
6:14しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。
6:15割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
6:16このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。
6:17これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。
6:18兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように、アーメン。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 6章11節~18節

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【序】

 世には常識では説明することが出来ないことが山ほどありますが、この世の人々にとって、キリスト者の存在というのも、常識では説明することが出来ないことの一つではないかと思います。というのは、キリスト者は、この世のある人々が見る時に、あまりにも消極的で、忍耐強いと映ることがありますが、ところが、また他のある人々が見る時に、あまりにも世話焼きで干渉好きで攻撃的であるように映ることがあるからです。また、世間一般の風潮が、手放しの楽観主義である時に、キリスト者はあまりにも深刻であり悲観的であろうとするところがありますが、ところが失意と重苦しい雰囲気が辺りを制圧している時に、キリスト者はあまりにも楽天的に見えるところがあるからです。キリスト者とこの世の人との間には明らかに、その根本にあるものが、つまり行動の指針となっているものが、違っているように見えるのであります。このような違いを説明するのに、聖書はキリスト者を、「神に国に召された人々」であり、「新しく創造された人々」であると言います。聖霊によって再創造された者たちは、神の子として、信仰の民としてその後の人生を歩んで行くために、世の人々とは、行動の指針がその根本において違ってくるので、表面的に現れてくる一つ一つのことも大変独特であり奇妙に映るのです。このような現象は、次のように説明することが出来ます。旧約時代において歴史上、神の民イスラエルが異邦人社会と同時進行していたように、同じように新約においても、神の国に召され、新しく創造され民が、この世の非再生者と歴史上、同時進行しているということです。神の国とはキリストが治める国であり、この世は罪が治める国であります。二つの国は互いに交わってはいますが、その国の統治形態と、秩序と、目的において根本から異なるのです。歴史の中で、まさに神の国とこの世が、新しく生まれ変わった者たちの歩みと、この世の人々の歩みが同時進行しているのであります。

【1】. ユダヤ主義者たちの正体

 パウロは、これまで口述筆記をしてもらっていましたが、いよいよガラテヤの人々への手紙を結ぶにあたり、直接思いを込めながら、自ら大きな文字によって強調しながら書き記しています。パウロはこれまで、ガラテヤの人々を惑わして、割礼を勧めながら、キリストの福音を覆そうとしてきたユダヤ主義者たちの主張を、ことごとく論駁してきたのですけれども、ここに至り、ユダヤ主義者たちの心の奥に潜んでいるものを暴露させています。12~13節を御覧ください。

“肉において人からよく思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架のゆえに迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。”

パウロは、ガラテヤの人々に対して「あなた方に強いて割礼を受けさせようとしているあの連中がどんな人間であり、連中が何を考え、何を追求しているかを、きちんと知ろうとは思わないのか」と語りかけ、批判すべき点を、二点挙げています。第一に、連中がそれほどに割礼にこだわっている理由とは、人から良く思われようとして割礼を主張しているということです。第二に、十字架の福音を宣べ伝える時に生じるユダヤ人からの迫害を避けるために割礼を主張しているということです。つまりガラテヤの人々のことを思って、善意から割礼を勧めているのではなく、自分たちの保身のため、自分たちの益のために勧めているということです。少し考えて見れば、当時、異邦人によって「多民族共同体」として形成されているキリスト教会に対し、ユダヤ教徒たちは、苦々しさと憎悪間を抱いていたのでは、と推測できます。なぜなら、キリスト者は律法をないがしろにし、ユダヤ人と異邦人の垣根をうやむやにしているように見えたからです。しかし、もし、ユダヤ人キリスト者が異邦人のキリスト教に改宗した者に対して、割礼も施したなら、ある意味、ユダヤ教徒を作り出していることを示すことができるのです。そして、その割礼を施した人数を同胞のユダヤ人に報告することができるなら、ユダヤ人を喜ばすことが出来るだけでなく、ユダヤ人からの迫害も避けることが出来たのであります。パウロはさらに突っ込みを入れます。「連中が、そのようにするのは、決して律法に対する熱心さから出たことではない」と言います。なぜなら彼らは律法を守っていなかったからです。彼らは、純粋に正直な動機から行動しているのではなく、ユダヤ人の好感を得ようとして、ガラテヤの人々をダシにしながら、自分たちの立場を高める事にのみ、関心を持っているに過ぎなかったということです。

【2】. 十字架の他に誇るものなし

 それでは、パウロが大きな文字によって強調しようとした点とは何でしょうか。それは、新しく生まれ変わった者と、そうではない者との生き方の違い、人生の目的の違い、考え方、価値観の違いについてであります。一言で言えば、新しく生まれ変わった者にとっては、十字架以外には決して誇るものはないということです。「十字架を誇る」という言葉ですが、パウロの他の書簡を見ると、「主を誇る(1コリ1:31、2コリ10:17)」、「キリスト・イエスを誇る(ピリ3:3)」、「イエス・キリストによって神を誇る(ロマ5:11)」という表現がありまして、どれも同じ意味であると思われます。ガラテヤ書6:14~15節を御覧ください。

“しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。”

イエス・キリストの十字架によって、救いの御業が全て成就されました。キリストの十字架とは律法の要求する従順の完成であり、律法の要求する神の審判と神の呪いでもありました。だからこそ使徒たちは、彼らの宣教においてキリストの人生そのものより、キリストの十字架の死をはるかに強調して伝えて来たのであります。例えばヨハネ福音書によれば、1~11章までがイエス様の三年半の公生涯が記述されています。新約聖書のp191を開いてみてください。12章の冒頭には「過越し祭の六日前に、」という言葉で始まっていますね。つまり12~21章までが十字架までの六日間と復活について記述されているのです。この記事の量の配分の仕方を見ましても、まさに十字架は福音の中心点であると言えるのです。十字架によって救いの御業が成就され、キリストが律法の席に入って来たために、私たちはもはや、割礼の有無にかかわらず、そして律法を守り行って義とされ、聖くされるのではなく、ただ、キリストの中にあって、律法を全うした者とされます。ただキリストの中にあって罪赦され、義とされて、ただキリストの中にあって子とされ、聖くされるのです。新しく創造された者にとって、「キリストが全て」に変えられるのです。ですから「キリストの十字架を誇る」という言葉を、14節後半でパウロは次のように言い換えています。

“この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされている”

世がわたしに対して十字架上に磔にされているというのはどういうことでしょうか。もはや、この世には何の未練もないということです。イエス様に出会う前は、パウロも世の人々に受け入れられるように行動していたかもしれませんが、イエス様に出会った後には、価値観が全く変えられてしまった。世の富も、地位も、名誉も、どのような成功も世の栄光も、それらのことを全て「塵あくた」と見なすようになりました。世のいかなるものも、キリストの所有とされた事実に比較するなら、何でもないことだと言うのです。パウロのキリストを見出した喜びとは、まさに宝が隠されている畑を買うことができた喜びなのです。続いて、パウロが世に対して磔にされているというのはどういうことでしょうか。パウロ自身が十字架上でキリストと共に、過去の古い自分に死んで、新しく聖霊によって生まれ変わったということです。神の子として、自由な身分として、神の作品として再創造されたのです。もはや自分自身が生きているのではなく、キリストが私の中に生きているという告白の通りです。続いて6:16節を御覧ください。

“このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。”

16節を丁寧に見ていきますと、「このような原理に」とありますが、「原理」という言葉は、ギリシャ語で「カノン」という言葉でありまして、「定規とか、規準、規律」という意味です。後に聖書66巻を表す「正典」という言葉として用いられるようになります。また「従って生きていく」という言葉は、5:25に出て来ました、霊の導きに従って「前進しましょう」の、「前進していく(ストイケオー)」と同じ言葉です(軍隊用語)。つまり「横に列を組んで、足並みをそろえる」という言葉です。パウロは新しく創造された者とは、聖霊の導きに従って歩ませていただき、福音の中心である十字架の規準、或いは御言葉の基準に従って歩ませていただく者であって、そのような者こそ神の民、真のイスラエルであると言っているのだと思います。新しく生まれ変わった者は、以前の考え方、価値観、生きる規準、人生の目的が完全に変えられて十字架のキリストに集約されて行くのです。2コリント5:15~17を御覧ください。

“その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。”

またコロサイ3:9~11を御覧ください。

“互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。”

新しく創造された者とは、頭なるキリストの中で、キリストと共に、キリストを目的として、キリストのために生きる者とし変えられていくのです。

【3】. キリストの焼き印

 6:17節において、パウロは最後に使徒としての権威から、“だれもわたしを煩わさないでほしい”、つまり「わたしの権威に疑問を抱かないように」と一言、付け加えています。パウロがいかなる理由によってこの権威を自分に帰しているのかを続いて明らかにしています。軍隊においては、上官になると肩に星のバッジがつけられていますね。この星が多ければ多いほど、位が高いということです。パウロは軍の最高司令官であるイエス様から直接そのようなバッジを頂いているとガラテヤの人々に明かしています。そのバッジとは、パウロが身体に受けた「焼き印」であると言うのです。ただし、キリストからいただいたものは、十字架の性質が感じられ、そのために、この世では屈辱的なものでもあります(パウロはキリストの故に福音の故に受けた傷なので誇っている)。つまり、「焼き印」とは何かと言いますと、奴隷や家畜に対し、誰が所有者なのかを示すために押される屈辱的な刺青ですとか、火傷の跡でありますが、パウロの焼き印とは、彼が福音宣教の中で迫害されて、負わせられた体の傷跡と考えられます。もちろんこの迫害はパウロ一人が担ってきたということではなく、兄弟たちの祈りに支えられたりして、キリストの教会が全体で受けた迫害でありますが、例えば、第2コリントの手紙(11:23~)によれば、時期については確定できませんが、鞭打ちされたことは数えきれず、40に一つ足りない鞭打ちを受けたことが五度、棒で打たれたことが三度、石で打たれたことが一度などと書かれています。そして、明らかにこの手紙が書かれる前である第一次伝道旅行の際にも、パウロはリストラにおいて石打ちに遭い、町の外にある、死者が捨てられる溝に引きずり出されました(使徒14:19)。パウロにとってこのような迫害者から受けた、一生残る、深い傷跡こそ、主イエスの所有とされ、主イエスの使徒とされた者の「焼き印」であると主張しているのです。パウロは十字架によって受ける迫害から逃げることをしませんでした。十字架だけを誇る歩み、キリストだけを誇る歩みがこの傷跡に示されているのです。

【結論】

 神の国に召され、神の国に入れられる時、人生の目的、考え方、価値観が変えられてイエス・キリストに集約されて行きます。パウロがガラテヤの兄弟たちに訴えているのは、まさにあなた方は既に、神によって召され、聖霊によって新しく生まれ変わり、罪赦され、義とされ、聖とされ、神の子としての律法からの自由を与えられたのであるから、この世に惑わされることなく、その新しい存在とされたように、まさにそのように生きなさいということです。既に新しい存在として変えられたのだから、そのような者として歩みなさいということです。ギリシャ語でこの書簡の終わりを見ると「…兄弟たち、アーメン」となっていまして、「兄弟たち」という言葉で締めくくられています。パウロの一貫した姿勢が見られますが、パウロはガラテヤの人々が新しく創造されたことを微塵も疑ってはいなかったのです。私たちもガラテヤの人々と同じように神に召され、聖霊によって新しく生まれ変わり、罪赦され、義とされ、聖とされ、神の子とされました。キリストを第一にすることによってそのことを証明していく歩みとさせていただきましょう。

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