2020年07月19日「聖霊によって生きる」

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13兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
14律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
15だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
16わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
18しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、
20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、
21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 5章13節~21節

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【序】

 本日の箇所はキリスト者の聖化について書かれています。この箇所は、解釈が少し難しいために、聖化について、誤解されている方が以外と多いのではないでしょうか。その誤解というのは、私たちは、イエス様を信じた時に、聖霊によって罪の赦しが与えられ、聖霊によって義と見做されますが、聖化に関しては、自分自身が良き業を成していかなければならない、というふうに考えている人が意外と多いのではないかということです。もしそれが事実なら、私たちは恵みに下に生きているのではなく、今なお、律法の下に生きていることになってしまうでしょう。義認が一方的な神の恵みであるのと同じように、聖化されて、そして、さらに栄化されることも、やはり、一方的な神の恵みとして聖霊を通して与えられるのです。ですから、キリスト者の聖化とは、キリストの義と同じように、聖化も全面的にキリストの中に置かれていて、信仰によってキリストの中からこの聖さを与えられ、しかも御子のかたちに似るように、聖霊の働きを通して内的に聖さが伝達されるプロセスであると定義することができるのです。イエス様は、私たちの心に完全な罪の赦しを宣言された後に、さらに完全な聖さと栄光が、私たち信者の所有となるまで決して休まれることのないお方なのです。このような訳で「義認」と「聖化」というのは名前の上では区別されますけれども、この二つは決して分離されることはないということです。例えば、あるキリスト者が神さまから義認は頂いたが、聖化は成就されなかったとか、或いは、罪の赦しは頂いたけれども、残念ながら子とされることと、栄化にまで至ることはなかったという現象は、決して起こらないということです。義認も、罪の赦しも、子とされることも、聖化も、栄化も、これらの有益は、全てキリストの中にあって、聖霊によってキリストご自身が私たちに与えられているように、キリストの全ての有益は分離されることなく、有機体のように与えられているのです。結局、私たちが信仰によって生きるということは、別の言い方をするなら、聖霊を通して私たちがキリストの中へ入れられ、キリストが私たちの中におられるということです。この新しく生まれ変わったキリスト者の命は、神の命としてその起源と本質において超自然的であり、奇跡的な命であるということが言えるのです。

【1】. 肉と霊の戦いにあって互いに愛し合う

 聖書においてこの奇跡的な命を持った神の民を描写する時、まるで誇張しているかのように、少し大げさではないかと思えるような言い回しがされています。例えば旧約聖書を見ますと、「宝の民」、「祭司の王国」、「聖なる国民」、「神の愛の対象」、「女王のような美しさ」と呼ばれています。新約聖書を見ましても、「地の塩」、「世の光」、「神の選ばれた種族」、「王のような祭司」、「罪を犯すことが出来ない者」と呼ばれています。しかしそれにも関わらず、私たちは、肉を持っている限り、言い換えるなら堕落して罪の本性を持っている限り、この世において完全な聖化に到達することは決してありません。パウロは、ローマ書7章で自分の内側に善なるものが留まっておらず、善をなそうという意志はあっても、自分の望む善は行わず、望まない悪を行っていると告白し、さらにフィリピ書では、自分がまだ、すでに得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもないと告白しています。つまり、キリスト者になった後に、それまでは感じることのなかった霊と肉の葛藤を体験するようになるのです。聖霊の光が当てられて、罪が明らかにされて、霊の望みと肉の望みの戦いが始まるのです。5:13~17節を御覧ください。

“兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。”

「肉」とは自然的誕生による人間の状態を現わして、「霊」とは、聖霊によって奇跡的に新しく生まれ変わったキリスト者の状態を現わしていると言えるでしょう。

このような霊と肉の戦いの中にあってパウロは、大変逆説的な勧めをします。何と言っているのかと言えば、5:13節において、「互いに仕えなさい」とありますが、語源を見ると「互いに奴隷になるように!」と書かれています。律法から解放され自由とされたガラテヤ人に5章1節では、二度と奴隷の軛につながれてはならないと命じつつも、13節において、むしろ愛によって互いに奴隷になりなさいと言っているのです。「なぜ?」と言いたくなりますが、これは、自由とされた者だけが、愛に生きることが出来るということを暗に示していると思われます。イエス様のご生涯を思い起こしていただければ、すぐに理解していただけると思いますが、まさにイエス様はご自身を否定され、人々に僕のように仕えられ、十字架を通してことごとく愛をお示しになられました。「自己を否定し、人に仕えること」、これこそ愛の本質的な意味でありまして、自由とされた者、信仰によって生きる者だけが、真に愛に生きることができるのです。愛はまさに教会のトレードマークと言えるでしょう。そしてパウロは、さらに14節において、律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって成就されると言っています。もう既に、皆さんもご存じのように、律法とは、キリスト者を罪に定め、死を宣告するためのものではありません。もちろん、行いによって救いに導くためのものでもありません。律法は神の聖さについて示されたものであり、「神への愛と隣人への愛」という言葉によって要約されます。ところで見えない神様への愛というのは、具体的に証明することが出来ませんね。しかし、隣人を愛することによって神への愛を表現することが出来るのです。ですから、隣人への愛とは、神への愛の大きさを計るリトマス紙だと考えてみてください。愛の業が、神の御前に自慢できる善行であると言っているのではありません。また、愛の業によって天に功労を積んで、報いを請求できるということではありません。愛の業が信仰からでているが故に、律法の要求を全うすると見做されて、神の気前良さの故に、そのような業を大きく取り立ててくださって、あたかも労働の報酬であるかのように、「よくやった、忠実な僕だ。主人と一緒に喜んでくれ」といいながら、恵みによって報いを与えてくださるのです。ローマ3:31には次のような御言葉がございます。週報に挟まれているチラシを御覧ください。

3:31“それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。”

キリスト者が信仰によって聖霊により頼むときに、自己を否定し、愛に生きることが許されて、律法の要求が全うされるのです。

【2】. パウロの警告の意味

 パウロは、霊に導かれるのではなく、肉に導かれる歩みを厳しく警告しています。5:19~21節を御覧ください。

“肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。”

このような警告を見る時に、私たちは一度救われた聖徒が、その後、背教することもあり得るかのように考えてしまいます。さらに聖書には堕落した様々な人物を言及しているかのようにも見えます。姦淫をしたダビデ(詩篇51章)、偶像礼拝をしたソロモン(箴言80:9)、第1テモテ1章に出てくるヒメナイとアレクサンドロ、第2テモテ4章に出てくるデマスなどです。一箇所確認してみましょう。第1テモテ1:19~20を御覧ください。

“ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。”

これらの聖句によって、果たして一度救われた聖徒の背教となり得るのかということですが、アウグスティヌスはその可能性を否定し「聖徒の堅忍」を主張しました。アウグスティヌスによれば、選ばれた者が途中で教会から離れたり、堕落してしまうことはあるかもしれないが、最後には必ず悔い改めに導かれて、恵みを喪失することは決してないと言います。アウグスティヌスの論点は、神が始められた恵みの働きを、当然、神ご自身がこれを守り、これを完成されるのであって、この働きが途中で罪の権勢によって全面的に破棄されるなどというのは考えられないということです。つまり「聖徒の堅忍」というのは、人にかかっている問題ではなく、神にかかっている問題であると言っているのです。人間中心的な考え方ではなく、神中心的な考え方であります。実際に、ガラテヤ書の5:21節などに出てくるパウロの厳しい警告も、それを持って聖徒の堅忍の教理を論駁するための、何の証拠にもならないでしょう。パウロはガラテヤ書以外でも、しばしば厳しい警告と勧めをしていますが、これはむしろ、神さまが信者に、ご自身の約束を確定させ、ご自身の計画を成就させる道であるというふうに解釈することもできるのです。厳しい警告とはガラテヤの人々をして、神のご計画を実現させる手段であったということです。例えば、次のように考えてみてください。イエス様が荒れ野において、サタンから試みを受けて戦ったという事実をもって、イエス様が罪を犯すこともあり得ると推論することが果たしてできるでしょうか?できませんね。サタンとの戦い自体が、イエス様が罪を犯すことの証拠にはならない訳です。また、例えば、パウロは使徒言行録27章において、地中海で船が難破した時、天使によって誰も命を失われないだろうということを知らされていましたが、それにも関わらず、この船頭たちが船に一緒にいなければ、あなた方は助からないだろうと警告しました。使徒27:22、30~31節を御覧ください。

“しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。”

“ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。”

この使徒言行録の聖句から、パウロは結果に対して確信をもっていましたが、その結果にいたる手段やプロセスを意味のないこととは見做さないで、そのプロセスをひっくるめて神の統治と関連付けていることを私たちは見て取ることが出来るのです。歴史をご支配される神さまは、目的と結果に至るまでのプロセスを決してないがしろにされることはありません。アダムが罪を犯した後に、すぐにメシアが遣わされたのではなく、イエス様が初臨されるために一定の時間とプロセスがございました。私たちの聖化と救いの完成においてもやはりプロセスを経るのであります。このプロセスの意味については私たちには理解できませんが、神の深い意図がそこに含まれているのです。従いましてガラテヤの兄弟たちに対するパウロの警告は、ガラテヤの兄弟たちにおいて、一時、確かに恵みが喪失されたかもしれませんが、その後、再び立ち直り悔い改めの道が必ず開かれるための警告であったと考えられるのです。それは一度だけではなく、何度も繰り返されたとしても七転び八起のように最後には必ず、悔い改めに導かれるのです。神の「ディアテーケー」は、即ち神の契約、神の相続は、一方的なものであって、人間が従順するかどうかによって左右されるものではありません。神の契約に神の名誉と、神の名前と、神の栄光がかかっているために、ご自身の民を捨てることはあり得ないからです。100歩譲ってキリスト教会において、仮に背教が起きたとしても、そのことが神のご計画の不変性や、神の約束の信実さについて、疑いを持つ理由にはなりません。なぜなら、イスラエルから生まれて来る全ての者たちが、神の民に属しているわけではなくて、そのことについては、使徒ヨハネも次のように言っています。1ヨハネ2:19を御覧ください。

“彼らは私たちから出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。仲間なら、私たちのもとにとどまっていたことでしょう。しかし出て行き、彼らが皆、私たちの仲間ではないことが明らかになりました。”

キリストは、神の恵みの契約に従って、選ばれた者たちに永遠の命を与え、彼らの内の一人も失われないようにしてくださり、誰もキリストの手から彼らを奪い去ることは出来ないのです。また、聖霊が彼らの内に永遠に内住され、贖いの日まで彼らに証印を押されるのです。従って、神の契約は確実で、神の誓いによって保証され、結婚のように、遺言のようにそれは決して破棄されることはないのです。

【結論】

 神の契約(ディアテーケー)の中で、私たちが罪赦され、義とされ、子とされ、聖められ、栄光を与えられ、天の嗣業に与る者とされました。これは、決して変わることのなく、揺らぐ事のないことでありますが、パウロの厳しい警告が意味していることは、その成就に至るまでに、私たちの信仰の歩みというプロセスを経なければならないということです。即ち互いに愛し合うプロセスを経なければならないということです。このプロセスがどれほど大切であるのかを教えてくれるのです。その信仰による歩みとは約束されたことを希望によって待ち望む、非常に忍耐を要するプロセスでございます。しかし、そのようなプロセスでさえ、聖徒の堅忍の中で、全てをひっくるめて神さまが、守り、統治され、導いてくださっていることに私たちは慰めを得るのです。そして、そのプロセスの意味とは私たちの理解を超えるところでありますが、恐らく私たちが天に挙げられた時に、最後にパズルのピースがはめ込まれて、その全貌が明らかにされるように、神さまの御心が明らかにされて、その意味を知ることが許されることになり、それ故に神さまを心から褒めたたえることになるのです。

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