2020年06月28日「パウロの当惑」

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4:8ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。
4:9しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。
4:10あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。
4:11あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。
4:12わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。
4:13知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。
4:14そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。
4:15あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。
4:16すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。
4:17あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。
4:18わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。
4:19わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。
4:20できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ガラテヤの信徒への手紙 4章8節~20節

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【序】

 前回、キリスト者が聖霊を受けて、子とされ、自由とされたということを見てきました。聖霊は信者に対し、信仰による自由を与えます。なぜならキリストの贖いの故に律法は、もはやキリスト者に対し、讒訴したり、罪に定めたり、死を宣告することなどできないからであります。コロサイの信徒への手紙2:12~14を御覧ください。

“あなたがたは、洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に葬られ、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。”

このように、キリストの十字架の死の中で、律法の告訴状が破棄されました。このことの意味は、確かに、律法が、アブラハムの真の子孫であり、キリストが来られる時迄の一時的な養育係としての働きは終えたということですが、しかし、キリスト者にとって律法が全く必要なくなってしまうというのではありません。イエス様の言葉を借りるなら、「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れなければならない」ということです。ファリサイ人やユダヤ主義者たちが主張するように、律法とは、義を与えるものではありませんが、律法は今なお、神の御心の啓示であって、神を愛し、隣人を愛する神の法として要約され、律法はイエス様にあって、完全に回復され、完成されました。神はキリスト者を律法の呪いから贖い出し、子とする霊、自由の霊を与えましたが、この信仰の自由は、律法を廃棄するのではなく、律法を確立し、聖霊によって生きる者たちの中で律法の要求が成就されるのです。聖霊は信者を新しくし、内なる人に従って、まさに山上の垂訓で教えられたキリストの律法を喜ぶようにさせて、神の聖なる御心が何であるのかを悟るようにさせるのです。ところがガラテヤの人々は再び奴隷になることを望み、逆戻りしてしまい、新しく生まれることにおいて難産のようになってしまいました。8~10節を御覧ください。

【1】. 神を知り、信仰の自由が与えられ

 “ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。あなたがたは、日や月や季節や年などを守っています。”

パウロによって異邦人であるガラテヤの人々に福音が語られ、ガラテヤの人々は確かに神を知る者とされたと断言しています。神を知るといった時に、この「知る」という動詞の意味は、ヘブライ語(ヤダ)であれ、ギリシャ語(ギノスコ)であれ、神との「交わり」ですとか、神との「人格的な関係に入れられた」ということを意味します。ガラテヤの人々は神との交わりに、教会との交わりに入れられました。ところで、パウロはこのように言った後に、すぐ“いや、むしろ神から知られているのに”と言い換えています。これは、神を知る知識が一体どこから来たのかをはっきりとさせるためであります。神を知るようになったことは、自分の中から得たのでもなく、自分の努力によって得たのでもない、ガラテヤの人々が神のことを一瞬たりとも考えなかった時分に、神がガラテヤの人々を顧みられ、慈しみと憐みによって、時が到り、聖霊が彼らに注がれたからであり、この聖霊こそ、ガラテヤの人々に自分が子とされたことを理解させ、親子関係にあることを確信させ、保証するものでありました。

ところが10節を見ますと、ガラテヤの人々は“いろいろな日、月、時節、年などを守っています。”と書かれています。これは、ユダヤ人の安息日、新月祭、安息年などの宗教儀式と暦を、ガラテヤの人々が守っているということです。彼らは割礼を受けて、ユダヤ人の暦を守り、神に受け入れられようとしていました。道路の交通標識を思い浮かべてください。春日部まで10キロと書かれて矢印があるとします。10キロ直進し春日部の中央部に到着したにもかかわらず相変わらず矢印の表示が出ていたとすると、これは春日部を無視していることになります。同じようにユダヤ人の宗教儀式や暦を守ることは、イエス様を拒否し、自分の行いによって神との正しい関係に立とうとすることであって、それはまさにガラテヤの人々が救われる以前の状態に、即ち偶像礼拝していた頃の、諸々の霊力の下に奴隷になっていた頃へと逆戻りすることであるとパウロは言っているのです。パウロは戸惑いながら、個人的な愛情を込めてガラテヤの人々に懇願します。4:12節を御覧ください。

【2】. 私のようになってください

 “わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。”

ここで、パウロが「私のようになってください」と言うのは、第一に律法の奴隷から解放され、自由の中を歩む者になってほしいということでありますが、何か傲慢のように聞こえてきます。なぜ、むしろ「キリストのようになってください」と言わなかったのかと私たちは思ってしまうかもしれません。これは自分の義を放棄し、自分の弱さのままで、病んでいる者として、何もできない幼子のように、ただキリストにより頼みなさいということだと思われます。なぜならパウロがガラテヤの人々に伝道できたのは、不思議なことにまさにパウロの弱さがきっかけであったからです。13~15節を御覧ください。

“知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。”

パウロがガラテヤの人々にとって明らかに試みとなるような、体の外的な弱さをもっていたのにも関わらず、ガラテヤの人々はパウロを見た目で判断することなく、パウロの語る福音に耳を傾け、イエス様を受け入れ、そして喜ばしい幸いへと導かれました。そして、パウロを天の御使いのように、イエス・キリストであるかのように尊敬してくれました。「目をえぐり出してわたしに与えようとした」というのは、恐らく当時の修辞的な表現であったとしても、それほど激しくパウロを愛してくれたということでしょう。いずれにしても、パウロとガラテヤの人々との関係は、パウロの弱さから始まったというのです。因みに、パウロの体の弱さというのが一体なんであったのかについて、神学者によってさまざまな説がございます。マラリア病、てんかん、目の病気、また、第二コリント12章の体のとげと関係あるのかどうか色々と推測がなされますが、決定的なことは分かりません。とにかく、神さまの方法はいつでもこのように、不思議であり、私たちの考えを遥かに超えているのです。だからこそ、弱さを持ちつつも、病んでいる者として、何もできない幼子として、ただキリストだけにより頼みながら、幸いな内を歩む者となってほしいとパウロは言っているのです。

【3】. キリストが形づくられるまで

 ところがいつの日か、彼らの内から笑顔がなくなり、幸いが消えてしまいました。それは、彼らが、信仰によって、恵みによって救われたのにも関わらず、それを自分の行いによって救いを確かなものにしようとしたからでしょう。パウロがガラテヤ地方から離れた後に、偽りの教師であるユダヤ主義者たちがこの地域に入ってくると、次第にガラテヤの人々は、あれほど慕っていたパウロを敵視するようになっていきました。16~19節を御覧ください。

“すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。”

17節の「引き離したい」という言葉は、「締め出そうとしている」とも訳すことができます。つまりユダヤ主義たちが熱心にしていることは、ガラテヤの人々を主にある交わりから、キリストの教会から仲違いさせて、締め出そうとしているのです。ユダヤ主義者たちは、恐らくガラテヤの人々に対して熱心に聞こえの良い教えを吹聴していたと思われます。しかしパウロは、ただ、熱心であることを非難しているのではありません。18節を見ると、善意でガラテヤの人々が熱心に慕われることはよいことだと言っているからです。パウロ自身もガラテヤの人々と共にいた時、彼らに大変熱心に仕え、福音のために彼らを慕いました。しかし、ユダヤ主義者たちの熱心とは、善意からではなく、神の御心に従うところにおいて熱心になっていたのでもなく、ガラテヤの人々を自分たちに追従者させて、彼らを主の弟子ではなく、自分たちの弟子にするために、自分たちの専有物とするために血眼になっていました。このような種類の熱心に対し、イエス様は厳しく断罪しています。マタイ23:15をお読みしますのでそのままおききください。

“律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。”

パウロの熱心と、ユダヤ主義たちの熱心とはその動機において異なりますが、パウロはどのような動機をもっていたかについて、4:19~20節に書かれています。御覧ください。

“わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、私は今、あなたがたのもとにいて、語調を変えて話せたらと思います。あなたがたのことで途方に暮れているからです。”

当時教師はたびたび「父」として見做されました。そして、普通ローマにおける父親像というのは、子どもに対し絶対的な権限を行使する支配的な父親像であるということをパウロは十分に承知していたことでしょう。パウロは、ガラテヤの人々に対し「わたしの子供たち」と呼びかけて、あえて、自分自身を彼らの母親のように例えています。つまり、母が産みの苦しみを通して子供を愛するように、ガラテヤの人々の内にキリストが形づくられるまで、忍耐し、心を注ぎながら、とりなしの祈りをしつつ、産みの苦しみをもって彼らを愛しているということを伝えているのです。ここにおいてユダヤ主義者とパウロの違いがはっきりと現れています。つまり、ユダヤ主義者たちはガラテヤの人々を自分自身の弟子にしようとして、彼らに自分自身を形作ろうとしましたが、パウロはガラテヤの人々を主に捧げ、彼らにキリストを形作るように努力しているのです。それでは、キリストが形作られるとは一体どういう意味でしょうか。テトス3:5には、洗礼を受けた時の変化について書かれています。ご覧いただけますでしょうか。

“神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。”

私たちが受けた洗礼という礼典は、彼らの人生の大きな方向転換を意味し、以前に生きてきたすべての行為との決別であり、キリストのための、そしてキリストを仕えるための全面的放棄とその意思表明でもありますが、神の側から見る時、彼らがキリストとの交わりの中へ入ってきて、キリストの内にあるすべての益を所有したということに対する捺印を押すということでもありました。つまり洗礼、新しく生まれ変わることにおいて、信者の側の理解と神の側の理解には大変大きな差が存在するということです。信者は、信仰が弱いためにまだ自覚はないかもしれませんが、ただ、聖霊によって新しく生まれ変わることによって、子とされ、自由にされるだけではなく、キリストとの交わりに入れられ、キリストと結合し、もはや古い自分が生きているのではなく、キリストがわたしたちの中に生きておられるのです。信者はキリストの服を着て、キリストのかたちを自分たちの中で成し、キリストの苦難と生命を自分たちの肉体の中で表わして、キリストの中で完全とされたのです。ですから霊的存在としてのキリスト者は、神の一つの作品として、世から出たものではなく、上から、神から生まれて来た者であり、この霊的な生命は世の人々に対する一つの奇跡であり、自分自身にたいする一つの奇跡と言えるでしょう。神の恵みがこれほどまでに大きいために、その恵みを斥けようとしているガラテヤの人々の愚かさはいよいよ大きなこととして、パウロの目に映り当惑しているのです。

【結論】

 私たちはパウロの当惑によって、洗礼を受けた時の恵みが、聖霊によって新しく生まれ変わった時の恵みが、どれほど大きいのかを知らされました。この時、私たちは、神を知り者とされ、神との人格的な交わりに入れられ、また一つの霊を持つ教会の交わりに入れられました。これは驚くべきことであり、言ってみるなら一つの奇跡であるということです。私たちの信仰が弱いために、キリスト者がイエス様を受け入れ、聖霊によって新しく生まれ変わった時に、何が起こったのか、十分に知ることは出来ませんが、聖書によるなら、ただ子とされ、自由とされただけではありません。キリストと結合され、神との交わりに入れられ、キリストの内にある全ての益を所有したということです。つまり、キリストを着る者とされ、キリストが形づくられ、キリストの苦難と生命を自分たちの肉体の中で表し、キリストの中で完全とされたのです。その素晴らしさを十分に理解することができるまで、私たちの信仰の目が開かれるようにお祈りしていきましょう。

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